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「重の井子別れ」を人情で読む初代萬寿襲名の重の井

令和6年7月大阪松竹座:「恋女房染分手綱〜重の井子別れ」

初代中村萬寿(五代目中村時蔵改め)(乳人重の井)、五代目中村梅枝(初舞台)(自然薯の三吉)、五代目中村歌六(本田弥三左衛門)、六代目上村吉弥(局雲の井)、三代目中村扇雀(侍女若菜)、四代目中村歌昇(近習文吾左)、初代中村隼人(近習源吾左)他

(初代中村萬寿襲名披露・五代目中村梅枝初舞台)


1)世話物としての「重の井子別れ」

本稿は、令和6年7月大阪松竹座での「重の井子別れ」の観劇随想です。五代目時蔵改め初代萬寿が乳人重の井を、孫の五代目梅枝が自然薯の三吉を初舞台で勤めます。萬寿の重の井は、平成4年・1994・4月こんぴら歌舞伎金丸座で初役を勤めて・今回が3度目となるそうです。吉之助は巡り合わせが悪くて、萬寿の重の井を拝見するのは今回が初めてです。

萬寿の重の井は、さすがに片はずし役の重さを大事にして、風格ある演技を見せてくれました。梅枝は芝居好きらしく、先月(6月)歌舞伎座での「山姥」の怪童丸も感心しましたけれど・今回の三吉もなかなか大したもので、おかげで良い出来の「子別れ」になったと思います。以下はそのことを認めたうえで、作品考察を踏まえ・乳人重の井に更なる改良の余地があるものかを考えてみたいと思います。但し書きを付けますが、萬寿の重の井の情が薄いと聞えたかも知れませんが・そう云うことではなく、萬寿は「子別れ」として手堅い成果を示してはいるが、もしかしたら更に情が深い重の井に出来るだろう、更なる工夫の余地があるのではないか、そう云うことを考えてみたいと思うのです。

まず「恋女房染分手綱」は、吉田冠子・三好松洛合作による人形浄瑠璃で、宝暦元年(1751)2月大坂竹本座での初演。時代物。全十三段。このうち十段目が「重の井子別れ」として有名。ということは誰でもご存知のことです。舞台は大名である由留木家の奥座敷。女形の役のなかでも重の井の片はずしは重い役どころ。この場は歌舞伎では大抵見取り狂言として出ますが、そう云うわけで「重の井子別れ」は時代物の感触に仕立てられることが多いようです。確かにそれには一理あります。「恋女房」全体が時代物であるわけですし、重の井が三吉に親子の名乗りが出来ないのは、馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる、そのような封建社会・身分社会の厳しい論理が親子の素直な感情発露を許さない、そこが「重の井子別れ」を時代物の感触に仕向けると解釈することが出来ます。

今回(令和6年7月大阪松竹座)の「重の井子別れ」もその線で、萬寿の重の井はそこのところをしっかり押さえており、何の不満もありません。ドラマは一定の成果を挙げています。それならば何故吉之助は、「もしかしたら更に情が深い重の井に出来る、更なる工夫の余地があるのではないか」と言うのか。その理由を以下に申し上げます。吉之助は「重の井子別れ」をもっと世話物の感触で読めないものかと考えているのです。

「恋女房」のベースとなるものは、近松門左衛門の世話物浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」(たんばのよさくまつよのこむろぶし・宝暦4年・1707・大阪竹本座初演・上中下の三段構成)です。近松の世話物浄瑠璃は25編がありますが、本作もそのなかのひとつ。上中下の三段構成となっており、このうち上の巻がほぼそのまま「恋女房」・十段目に取り入れられて、「重の井子別れ」となっています。ちなみに「恋女房」・十一段目もほぼ近松原作(中の巻)通り。「恋女房」・十二段目については全体のお家物の筋立てに合わせるため近松原作(下の巻)を書き替えています。つまり通し狂言「恋女房染分手綱」とは、近松の原作(「丹波与作」)を核にしており、「子別れ」(近松原作では滋野井)に至るまでの経緯、すなわち丹波与作の前身や・重の井の父がどうして自害して・重の井がなぜ現在乳人となっているかなど、経緯の仔細が近松の原作のなかで語られていないので、この足りない部分を、竹本座の後進たちが芝居に仕立てて筋の補填を図ったのが、すなわち改作「恋女房」であると云うことなのです。

今回の大阪松竹座公演で本作が取り上げられたのは、萬寿と梅枝の・祖父孫で共演出来るということが第一でしょうが、多分今年(令和6年・2024)が近松門左衛門没後三百年という節目の年であることも理由のひとつであろうと吉之助は思っていました。しかし、今回の筋書のどこを探しても「子別れ」に関連して「近松」の字が出て来ないので・どうもそう云う理由ではなかったようですが、まっそれは兎も角、「子別れ」を見取り狂言で見るならば、本作は二つの読み方が可能であろうと思うのです。まずこれを通し狂言「恋女房染分手綱」のなかの一幕とするならば、お家物の筋立ての流れからして「時代物」。もうひとつ、近松門左衛門の「丹波与作待夜の小室節」の上の巻として見るならば、「世話物」と見ることが出来ます。「子別れ」の重の井の悲しみのなかに、「世話物」の視点を加えることで、もっと情が深い重の井に出来る、もっと人情の出汁(ダシ)が効いた重の井に出来る余地があると考えます。(この稿つづく)

(R6・7・6)


2)「子別れ」の世話の要素

問題を整理しますと、重の井が三吉を追い返そうとしたのは、馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる、そのような封建社会・身分社会の厳しい論理が親子の素直な感情発露を許さないと云うことでした。確かにこれは重の井にとって辛いことです。これだけでも「子別れ」を泣ける芝居に出来ます。しかし、厳しい「時代」の論理であまり強く読み過ぎてしまうと、意地悪い見方をするならば、重の井がそれを封建論理のせいにして、母子の真実と正対することを避けているかのような印象になりかねません。

世話物悲劇として「子別れ」を読むためには、正規の親子の名乗りがしてやれないこと・三吉を追い返そうとしたことに、重の井がどれほど辛い苦しみを感じているかを、十分検討せねばなりません。このことが重の井の悲しみに必ずや陰影・深みをもたらすはずです。実はこれが「世話」の要素なのです。

かつて由留木家の奥勤めであった重の井は、家老の息子(丹波与作)と恋仲となり・密かに子供(三吉)を産み落としますが、これが世間の知るところとなり、不義の罪により与作は追放されました。重の井も手討ちとなるところでしたが・重の井の父が切腹して助命を嘆願して、殿の計らいで重の井は調姫の乳人として現在に至る・・と云う経緯は、とりあえず、今はすべて忘れることにしましょう。これらは「時代」の論理に深く関わる事情ですが、捨てられた三吉にまったく関係がないことです。どんなやむを得ない理由があったにせよ、両親の罪科によって幼い三吉は放り出された。三吉は散々な苦労をしながらここまで生きてきた。三吉にまったく罪はない。これらのことだけが大事なのです。つまり重の井はここまでずっと三吉に対し随分と罪作りなことをして来たわけですね。彼女はそんな自身の罪深さをよく分かっています。

そして今ここで三吉は重の井に正規の親子の名乗りをして・一緒に暮らしてくれと嘆願しますが、よんどころない事情(上述)によって、重の井はこれを拒否して・三吉を追い返さねばなりません。このことはつまり、重の井は三吉に対して散々罪作りなことをして来たあげく、やっと息子と再会出来たこの瞬間にあっても、またしても重の井は三吉に罪作りな行為を繰り返さねばならないと云うことです。このことが重の井にとって・どれほど辛く苦しいことであるかは想像を絶します。

ここで読み取れる重の井の深い悲しみ、「私は息子に対してどれほど罪作りなことをして来たことか、そして私は今また息子に対し罪を重ねようとしている、何と私は罪深いことか」・・・これこそ「子別れ」の世話の要素なのです。これは重の井の身に絡みついた「時代」の論理を除き取って、母親としての重の井の感情をピュアに抽出したものです。浄瑠璃の世界では、そのようなものを「人情」と呼びます。場所が大名家の奥座敷であっても・主人公が片はずし役であっても、外見上は時代物のようであっても、その場面を「世話物」の感触にするものが「人情」です。重の井は三吉に幾ばくかの銭を持たせ・追い返そうとしますが、これに対する三吉の台詞は痛烈です。三吉はこのように叫びます。

「母でも子でもないならば、病まうと死なうといらぬお構ひ。その一歩も入らぬ。馬方こそすれ、伊達の与作が惣領ぢゃ。母様でもない他人に金貰ふ筈がない。エヽ胴慾な。母様覚えてゐさしゃれ」

この台詞を、馬方であっても俺は一人の人間だと重の井が属する封建社会の論理の身勝手さを糾弾する・頑是ない子供からの無心の抗議だと読むことはもちろん可能です。しかし、それでは時代物の観点で三吉の台詞を読んでいることになりますね。これを世話物の「人情」の観点から読むならば、三吉の台詞は次のように響くでしょう。

「かれこれの事情で正規の親子の名乗りがしてやれぬなどと主家の事情ばかり言っておらず、お前(重の井)と俺(三吉)が確かに母子であるという「真実」と真摯に向かい合ってくれ。そうでないならば、もはや母でもない、息子でもない。俺が他人に施しを受ける謂われなどない。」

これは息子から母への最後通牒に等しい響きです。ここで三吉は、母が心の内に秘めながら・厳しい事情によって表に出すことが出来ない「人情」に直接訴えようとしています。これを聞いた重の井は身を引き裂かれる思いであったに違いありませんが、この悲しみはすべて我が身の罪深さから来たものであることを、重の井が一番よく分かっているのです。(この稿つづく)

(R6・7・7)


3)「重の井子別れ」を人情で読む

そこで「重の井子別れ」を人情の観点で読むことをしたいのですが、三吉が我が子だと知れてからの重の井については・どの役者であろうが悲しみ・辛さを表現することに余念がないわけで、むしろ差が付くのはそれ以前のところ、道中双六の場面であろうと思いますね。双六でお姫様を慰めるために、由留木家奥座敷に三吉が通されます。ここで重の井が三吉に声を掛けます。もちろんこの時点の重の井は三吉が我が子であるなど知ろうはずがありませんが、例えばその第一声です。

『見ればいたいげな馬方の子。船頭、馬方、お乳の人、こちもそちらと同じこと。して年はいくつ、名はなんと言やる。』

字面だけ見れば、何と云う事もない、下々の子に儀礼的に声を掛ける感じの台詞です。しかし、重の井はお姫様のご機嫌を取るために、藁にも縋る思いで三吉を呼び寄せたはずです。三吉の協力無しでは事は進まぬわけですから、重の井の口調は自然と優しくなるはずです。見れば利発そうな可愛い子供である。子供の目線に合わせて「さてもそなたは良い児じゃの。サアサお姫様のご機嫌直しを宜しく頼みますね」という心持ちが口調に現れることになると思います。

このように重の井のなかに現れる三吉に対する好感は、三吉が可愛い子供だからとしか重の井は未だ意識していないでしょうが、もしかしたらそれだけではなかったかも知れません。それは何となく虫が知らせるという形で、重の井は我が子との縁(えにし)みたいなものを無意識のうちに感知したかも知れません。そんなことを観客に想像させてしまうように、重の井は三吉に優しい母親の口調で語り掛けなくてはなりません。これが三吉が我が子だと知ってからの重の井の悲しみに深い陰影を与えることになるのです。

初めて重の井の声を聞くことになる三吉の側からも考えてみます。三吉が由留木家玄関先で遊んでいたのは、偶然のことではありません。亡くなった乳母から「そなたの母は由留木家のお乳の人・重の井さまじゃ」と聞かされていたから、三吉は母親に会いたいと思って玄関先をウロウロしていたのです。とすれば、奥座敷に通された三吉が何を考えるでしょうか。このことは台本からはまったく見えませんけれども、多分、サテどの御方が自分の母親・乳人重の井さまであろうとキョロキョロすることになるでしょうね。お姫様のお傍近くにいる女性がそうかも知れぬと察しは付くけれども、確証は持てません。しかし、この女性の声を初めて聞いた時、三吉が何を感じるかは、とても大事なことだと思います。だからこそ三吉に語りかける重の井の口調は、優しくなければならないのです。その声は、三吉にとって、この女性こそボクのお母さんではないかという感じで聞こえているはずです。

吉之助が見た六代目歌右衛門の重の井(昭和58年・1983・4月歌舞伎座)は、そのような優しい母親の口調であったと記憶しています。ちなみに吉之助の手元に四代目雀右衛門の重の井(平成9年・1997・5月歌舞伎座)の映像がありますが、これを見ると雀右衛門は下々の子に儀礼的に声を掛ける感じでしゃべっていますね。確かに字面だけ読めばその通りに違いありませんが、それだと時代物の冷たい響きになってしまいます。それであると「人情を感じさせる芝居」になりません。

そこで今回(令和6年7月大阪松竹座)の萬寿の重の井ですが、萬寿はもともと母性を感じさせる女形であるから、上記・雀右衛門ほど冷たい響きにはなっていない・そこは良い点ですけれど、情を感じさせる・情を予感させる響きにはまだなっていない印象ですねえ。これであるとやはり重の井と三吉との間に垣根を感じてしまう、まだまだ時代物の感触に留まっていると思います。そこのところに更なる工夫を加えていけば、良い重の井になると思いますね。(この稿つづく)

(R6・7・10)


4)「重の井子別れ」を人情で読む・続き

重の井が三吉とのやり取りのどの辺りで・この子は自分が生んだ子であると確信したかについても検討しておきたいと思います。三吉の道中双六のおかげでお姫様のご機嫌が直ったので、その御礼にと重の井がお菓子を持って現れました。三吉は「お乳の人の重の井様とはお前か。そんならおれが母様」とすがりつきますが、驚いた重の井は三吉を跳ね除けます。三吉はなおも「わしが親はお前の昔の連合ひ、この御家中にて番頭、伊達の与作。その子は私こな様の腹から出た、与之助はわしぢゃわいな」と言い、両親と別れて以後・自分がどのように苦労して育ってきたか長々と語ります。三吉の述懐の後の詞章には、

『お乳ははっと気も乱れ、見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり、飛びついて懐に抱き入れたく気は急けども、アッア大事の御奉公養ひ君のお名の疵、偽って叱らうかイヤ可愛げにさうもなるまい。マアちょっと抱きたい。アヽどうせう」と、百色千色の憂き涙。

とあります。この詞章を読むと、「信じられないことではあるが・顔を見れば確かに我が子・守り袋にも覚えがある、動かぬ証拠がある」と云うことで、この時点で初めて重の井は三吉が自分が生んだ子だと認めたかのように読めなくもありませんが、そうではないのです。重の井は三吉が「わしが親は、伊達の与作。こな様の腹から出た、与之助はわしぢゃわいな」と叫んだところ・つまり三吉とのやり取りの最初のところで、三吉が自分が生んだ子であると認めたのです。何故ならば重の井は身に覚えがあったからです。道中双六の場面では可愛い子供だとしか思っていなかったが、そこまで自分が感じていた三吉に対する好感は根拠がないものでなかったことを、重の井はこの時点で悟るのです。

このように考えなければ、この後で三吉が、両親と別れて後・自分がどのように苦労して育ってきたか・どうして馬方の子となったかを長々と語るのを、重の井がじっと聞くということは有り得ないのです。重の井が「この子が言っていることは本当のことか?」と疑いながら三吉の話を聞くことは有り得ません。三吉が語ることは全部「事実」だと重の井には分かっているのです。ここで重の井が聞くことは、罪もない我が子に・どれほど酷い苦労をさせて来たか、それを我が子に強いて来たのは母親であるこの私だ・・・という重い「事実」です。重の井はどこかで我が子(与之助)は幸せにスクスクと成長しているはずだと何となく信じていたのでしょうねえ。重の井のなかのそんな甘っちょろい虚像がここでガラガラと崩れます。目の前にいる馬方姿の三吉こそ現実なのです、このことを重の井は思い知ります。「見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり」の詞章は、重の井はその現実を追認する材料でしかありません。

ですから三吉の述懐をどのような性根で以て重の井が聞くかと云うことは、「重の井子別れ」を世話物浄瑠璃「丹波与作待夜の小室節」・上の巻として見た場合の、核心であると思いますね。三吉の述懐を重の井が身を入れて聞くことは、とても大事なことです。この場面の重の井の演技を工夫することで、「子別れ」の人情はますます深く陰影があるものに出来るはずです。

しかし、今回(令和6年7月大阪松竹座)の萬寿の重の井を見ると、やはり萬寿も「お乳ははっと気も乱れ、見れば見るほどわが子の与之助。守り袋も覚えあり」の箇所で重の井が三吉を我が子と初めて認めたと云う解釈であろうと感じました。そこに現行歌舞伎の「重の井子別れ」の型の問題点があるかも知れませんねえ。そうなると、やはり「馬方の子とお姫様(調姫)が乳兄弟ということになれば姫の縁組みに差し障りが生じて・主家に多大な迷惑が掛かる」と云う論理が重くなって来て、芝居の感触は「時代」の方へと傾いてしまいます。

別稿「葛の葉子別れを考える」で、播磨少掾が弟子の順四軒に「浄瑠璃は人情が第一」と教えた逸話を引用しましたけれど、この逸話から学ぶべきポイントは、愛する子供を置いたまま去らねばならない「私」(葛の葉)の悲しみを描くのはもちろん大事なことであるけれど、この私がいなくなってしまったら、この子(童子丸)はどんなに嘆き悲しむであろうか、どれほど寂しがるだろうか、ちゃんと良い子に育ってくれるだろうか、親なし子じゃ狐の子じゃと苛められはしまいか等々、そんなこんなを思うと我が子が不憫で・可哀そうでならぬと云う、「子供の悲しみ・辛さを思いやる情」、そこを細やかに語ってこそ・初めて「人情第一」となると云うことなのです。「重の井子別れ」もまた同様に「私は息子に対してどれほど罪作りなことをして来たことか、そして私は今また息子に対し罪を重ねようとしている、何と私は罪深いことか」、このように考えてこそ「人情第一」となるのではないでしょうか。

ですから場所が大名家の奥座敷であっても・主人公が片はずし役であっても、外見上は時代物のようであっても、「重の井子別れ」は世話物として、「人情が第一」で読んで欲しいと思いますね。

(R6・7・12)


 

 


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