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五代目菊之助の政岡・七代目丑之助の千松

令和6年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩〜御殿・床下」

五代目尾上菊之助(乳人政岡)、五代目中村歌六(八汐)、五代目中村雀右衛門(栄御前)、五代目中村米吉(沖の井)、五代目中村種太郎(鶴千代)、七代目尾上丑之助(一子千松)、十三代目市川団十郎(仁木弾正)、三代目市川右団次(荒獅子男之助)他


1)菊之助の政岡・丑之助の千松

本稿は令和6年5月歌舞伎座での、菊之助の政岡による「伽羅先代萩〜御殿・床下」の観劇随想です。菊之助が政岡を勤めるのは、平成29年(2017)5月歌舞伎座以来の7年ぶりのことで、これが3回目となります。このところ立役への傾斜を強めている菊之助ですが・まあそれは仕方ないこととしても、菊之助にはもう少し女形芸を極めておいて欲しい気がしています。前回の政岡も手堅い出来であったと思いますが、今回の政岡は表現の細部の彫り込みがさらに入念になった印象です。元より性根の把握に如才があろうはずもなく、正攻法の政岡としてまずは申し分のない出来栄えを示しています。このことを認めたうえで、菊之助の政岡の現状と今後の期待について書きたいと思います。

菊之助の政岡は、玉三郎の行き方を踏襲したものです。玉三郎の政岡が写実を極めて・繊細な・或る意味で「女優の政岡の可能性」さえ想像させるものであったのに対し、菊之助の政岡はこれを本来的な女形芸の感触へ引き戻したと云えると思います。これは玉三郎と菊之助の芸質の違いから来ます。菊之助が声質を意識的に低めに取って・演技が実(じつ)に根差していることが成功要因ですが、これが現在46歳の菊之助の時分の美しさとの間に絶妙のマッチングを示しています。最初は若干重めな感じがしましたが・途中から持ち直して、飯焚きで・鶴千代君や千松にひもじい思いを強いねばならない厳しい状況に政岡が思わず泣き崩れる場面など、政岡の心情が切々と伝わってきました。栄御前が去った後・千松の遺骸に取りすがってのクドキも上手い。閉塞した時代空間のなかでの、乳人政岡と千松の悲劇になっており、描くべきものはしっかり描き込まれています。良く制御(コントロール)された理知的な印象です。現時点の菊之助の政岡としてベストのところを見せていると思います。

舞台を見て・取り立てて大きな不満を感じるところはありませんけれど、菊之助が岳父・故吉右衛門に私淑し・その芸を吸収しようとしているところを見込んで書くのですが、(音羽屋の理知的な芸には見られないところの)播磨屋の芸の或る種の「熱さ」・あるいは「クサさ」とでも云いましょうかね、今後の課題としては、女形の役どころに於いても、そう云う方向を目指してもらいたいと思います。吉右衛門は女形ではなかったけれど、ヒントは六代目歌右衛門の政岡に見えると思います。(歌右衛門が初代吉右衛門学校の生徒であったことはご承知の通り。)それは、余りに過酷な状況のなかで、「このような辛い状況が続くならば、もういっそのこと・どうなってしまってもいい」とさえ思ってしまいそうな倒錯した感情のことです。これが母親の絶体絶命のピンチに千松が飛び出して不審な菓子を食べ散らかして八汐に殺される、さらに母親は我が子が惨殺されるのを見て身じろぎもせぬ、母子のすべてはこの瞬間のために在ったのですから、もう一段階上の政岡のために・そこを目指してみたら如何かと思います。別稿「引き裂かれた状況」をご参照ください。)

その兆しが今回の舞台に全然見えなかったわけでもないのです。ひとつには、それは丑之助の千松に見えます。但し書きをつけますが、丑之助は現在10歳半で・現行歌舞伎の「御殿」がイメージする子役としては既に「大き過ぎる」と云うことになるかと思います。現行歌舞伎が千松に期待するのはいわゆる定形の子役の演技で、何も考えず・言われた通り棒でやってくれればいい・後の細かい芝居は大人がやるからと云うものです。これは子役の演技を均質化するための歌舞伎の様式上の知恵でした。そう云うところからすると、丑之助の千松の感触は歌舞伎の子役として若干逸脱しているかも知れません。感情が表に出ています。ただし「出過ぎている」印象はしませんが。そこは抑えられて子役の演技の範疇にどうやら収まっていますが、それでも感情が滲み出ていることは隠せない。しかし、そんな丑之助の千松を吉之助は積極的に評価したいと思います。これは現時点の丑之助にしか出来ない千松だと思います。

現行歌舞伎の子役の千松であると、母親に「忠義の家来はかくあるべし」みたいなことを日頃から言い含められ・これを無批判的に信じ込まされて・母親の指示通りに千松は「その行為」に動くと云う風に解されます。それはそれとして宜しいものですが、一方、丑之助の千松を見ると、この千松はちゃんと考えて「ここが忠義の為所(しどころ)だ」と自ら判断して・そのうえで「その行為」に至っていると思います。

「コレ母様、侍の子といふものは、ひもじい目をするが忠義ぢや、また食べる時には毒でも何とも思はず、お主のためには喰ふものぢやと言はしやつた故に、わしや何とも云はずに待つている。その代り、忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや。それまでは明日までもいつまでも、かうきつと座つて、お膝に手をついて待つてをります。お腹がすいても、ひもじうない、何ともない。」

ここで大事なことは、「忠義をしてしまふたら」もう千松の命はないと云うことです。このことに思いが付かぬほど、今この時の状況が過酷であると云うことです。「ここが忠義の為所だ」と云う時は、いつ果てるとも知れなかった苦しみから母子が開放される瞬間、やっと母子が普通の関係に戻れる瞬間です。(もちろんその時には千松の命はないわけですが、このことはあえて無視されています。イヤ正確に言えば「そういうことは考えたくない」のです。)丑之助の千松のおかげで、これまでの「御殿」とは微妙に異なる感触が垣間見えたと思いますね。(この稿つづく)

(R6・5・9)


2)菊之助の政岡

菊之助の政岡は、玉三郎の行き方を踏襲しつつも、声のトーンを玉三郎より低調子に置いたことで政岡の感触を女形の実(じつ)のところにしっかり繋ぎ止めています。菊之助の場合、女形のエグ味を感じさせるまでには至っていませんが、それでも声を低調子に置いたことで、菊之助の政岡の印象は柔(やわ)いものにならず、どこか強さを秘めた印象になりました。つまり如何にも歌舞伎の女形らしい(男が演じる女役の)政岡の感触になっているのです。最前「絶妙のマッチング」と書いたのはそこのところで、菊之助の政岡を高く評価したいのは、この点です。だから忠義のために我が子を犠牲にした母親の悲しみがしっかり描かれて、古典悲劇として十分納得できる印象を生み出しています。

したがって舞台を見て・取り立てて大きな不満を感じるところはないのだけれど、さらに菊之助がもう一段階(ランク)上の政岡を目指すために、思い付いたことなどちょっと書いておきます。千松が飛び出して不審な菓子を食べ散らかして八汐に殺される「忠義の瞬間」、それはいつ果てるとも知れなかった苦しみから母子が開放される瞬間、やっと母子が普通の関係に戻れる瞬間だと云うことです。この瞬間のために母子は生きてきたわけなのです。だから千松が八汐に殺される瞬間こそ、実は母子が最高に生きている瞬間であると云う、まことに倒錯した状況がここに現出します。

大抵の政岡役者はこの場面を凍った如く身を固くして無表情で通そうとします。敵方に我が子を殺される悲しみ・悔しさ・怒りを感付かれてはならぬわけで、「お上へ対して慮外せし千松、御成敗はお家の為」と冷然と言い切る、そこが政岡役者の為所とされます。ここは菊之助の政岡も同様であろうと思います。もちろんその解釈もよく分かります。しかし、それであると傍で政岡の様子を観察していた栄御前があまりに早合点だったということになってしまいます。栄御前が「其方の顔色変らぬは取替子に相違はない」と判断するためには、栄御前をそのように誤認させてしまう積極的な根拠が政岡の反応のなかに必要ではないかと思います。

別稿「引き裂かれた状況」に於いて、吉之助はこの瞬間に政岡は苦痛とも歓喜ともつかない倒錯した表情を見せたのではないかと推理しました。そのような政岡は、女形のエグ味を以てしか表現出来ないと思うのですね。これは理知的な音羽屋の芸にはない要素で、そこに播磨屋の芸が持つ或る種の「クサさ」に通じるものがあると云うことです。次の段階として、菊之助はそこに挑戦してみれば如何かと思うのです。

そうすると幾つかの箇所の政岡のデッサンも自ずと変わって来ると思います。それは例えばクドキの、「出かしやつた、出かしやつた、其方の命は出羽奥州五十四郡の一家中、所存の臍を固めさす誠に国の礎ぞや」の箇所です。この場面の菊之助の政岡は、この台詞を政岡の本心からのものではないとして、(万歳をするかのように)両手を高く掲げることはしない(出来ない)という解釈であろうと思います(これは玉三郎の解釈でもあるわけです)。しかし、エグ味を強調した政岡であると、「出かしやつた、出かしやつた」と、「死ぬるを忠義と云うことは何時の世からの習わしぞ」の、そのどちらもが政岡の本心だと云うことになるのです。矛盾する感情が入り混じったところに政岡はある。それが政岡のクドキなのです。(この稿つづく)

(R6・5・14)


3)「先代萩」のバロック的要素

菊之助は「然り、しかしそれで良いのか」という古典的悲劇の構図を提示して、政岡の悲しみをくっきり描きました。そこに別段不満を申し上げる必要はないわけで、だから吉之助は多分ここで「ないものねだり」をしているのです。菊之助がもう一段階(ランク)上の政岡を目指すために何が必要かを考えています。ここで考えたいのは、「先代萩」に古典的悲劇の構図を突き抜けて・更にバロック的な展開を見せる可能性はないかと云うことです。

「然り、しかしそれで良いのか」と云う構図は、神(他者)に対して犠牲を捧げて・万感の思いを噛み締めつつ・黙って上(神の方)を向くと云うものです。「神よ、これで良かったのですよね」と問うかのように涙を堪えてキッと上を向く、これが古典的な悲劇の様相であり、歌舞伎も概ねそのような演劇ではあるのです。しかし、中世の演劇である能狂言と比べると、近世の演劇である歌舞伎の場合、バロック的な様相が少々強くなって来ます。「万感の思いを噛み締めつつも」どこか歯軋(はぎし)りの度合いが強くなって行くのです。これがもっと時代が下って現代演劇になると、神(他者)に犠牲を捧げることに明確に異議申し立てすることになります。歌舞伎ではまだそこまでに至りませんが、獏とした疑問は感じているのです。それはまだ明確な形を成すことはありませんが、これを濃縮蒸留すれば、それははっきり懐疑にまで至るものです。

我が子を失った政岡の悲しみを描けば、悲劇として一応のカタルシスは得られます。しかし、それだけであると、ああ千松カワイソウ・政岡カワイソウで、ドラマはそれで丸く収束しちゃうのです。「先代萩」のドラマをここで収束させてしまうのではなく、更にドラマとしてエッジが立った・バロック的な感触に仕立てるためには、この「宿命の母子」が何と対峙していたのかを突き詰めなければなりません。千松は自分に与えられた役割を全(まっと)うすべく死んだのでしょうねえ。その役割が自らのアイデンティティと同一化しているから死ねるのでしょう。そうでなければ、どうして僕はそんなことのために死ななきゃならないの?と疑問に思ってしまうから死ねないでしょう。そういう疑問が生じないから、自分の役割のために果敢に死ねるのでしょう。これは物凄いことだと思うのですね。現代の我々はそのような命懸けるものを何か持っているのでしょうか。また命を懸けようと思わせる価値あるものが果たして現代にあるのでしょうか。まあそんなようなことを考えているうちに、千松が何かの被害者・犠牲者ではなくて、立派に戦って死んだ戦士に見えてくるわけだな。この時、千松の生き様にツーンと来ることになります。そのような人生もかつてはあったのだ・・と云うことを受け入れることによって、古典は現代に相対化されると思うのですねえ。(この稿つづく)

(R6・5・16)


4)菊之助の政岡への期待

今回(令和6年5月歌舞伎座)の「先代萩」は政岡の悲しみをくっきり描けており、その点においては申し分ありません。そのような古典的悲劇の感触は、芝居の淡々とした足取りに示されています。「足取り」というのはまあテンポと申し上げても良いですが、芝居のなかの感覚的・相対的な速度とでも云いましょうか。例えば緊迫した場面・高揚した場面においては速度は自ずと変化します。それは早くなることもあれば、逆に遅くなることもある。ドラマの局面の変化に応じて芝居の足取りを意識的に「揺らす」、これがバロック的な表現のために大事なことになります。

例えば飯焚きでは政岡が千松に毒見をさせる箇所が二か所あります。最初は飯焚きに使う水を飲ませる、次に焚き上がったご飯を食べさせる、いずれの場面でも政岡は千松の様子を注意深く観察します。顔色、特に眼の色・瞳孔の開き具合などに変化が見えるか・見えないかは大事な情報です。毒見は日常のお務めですが、これは最高に緊張する箇所でもあります。今回の毒見の二か所ですが、政岡が千松の顎に手をやって・顔色を覗き込む、そこで三味線がテーンと鳴りますが、その間合いが早いと感じます。早いと云うか定間(インテンポ)でやっているから、吉之助には間が早いと感じられるのです。ここはもっと間合いを引っ張ってもらいたいと思います。それから音も無神経に強いと感じますね。バシッみたいな強い音に聞こえます。ここは息を詰めて千松の様子をじっと観察している場面なのですよ。もっと繊細に、繊細に弾かねばなりません。

こう云う事は三味線弾きのセンスの問題じゃないかと思うかも知れませんが、実はこれは半分か・もしくはそれ以上に役者の問題に帰せられます。つまりこの場面での菊之助の政岡の演技が定間に入っていることが問題なのです。もちろん定間でも一定の成果は上がります。しかし、これだとまあルーティンの毒見という感じですかね。けれど、ここで間合いをちょっと引っ張るだけで飯焚きの緊迫度合いはグーンと高くなるのです。これだけで飯焚きは見違えるほどバロック的な感触になって来ます。毒見の場面で政岡・千松母子は何かを期待しているのでしょうか、母子は何かを待っているのでしょうか。「忠義をしてしまふたら早う飯を喰はしてや」という千松の台詞を思い出してください。飯焚きの場面では結局何も起こらないのだけど、もうすぐ後に母子の覚悟がホンモノであるか試される場面が来る。つまりここでの毒見の場面はその前哨戦とでも云うべきものなのですから、決して疎かに出来ません。

肝心なことは、ここぞと云う時に演技のテンポを意識的に揺らしに掛かる、役者の方から義太夫の息を押したり・引いたりを仕掛ける、そのような役者と床(竹本)との駆け引きをすることです。菊之助の政岡は、芝居の淡々とした定間の足取りで「先代萩」の古典的構図を描き出して余念がありません。現段階においてはこれで十分結構な政岡であると云えますが、菊之助の次の期待は、演技のテンポを意識的に揺らしに掛かること、それを心情の裏付けに於いて行なうことですかねえ。

ところでこの2年くらいで歌舞伎座のお客のマナーが急に悪くなった気がしますねえ。特に困るのは、芝居中の携帯着信音のことです。役者さんのSNSでもお嘆きの書き込みがよく見られます。吉之助が見た日(7日)は、団十郎の仁木弾正が花道スッポンからせり上がる絶妙のタイミングで、まるで計った如くに「草競馬」の着信音が鳴り響きました。目の前の光景とのギャップが何ともシュールでありましたね。当たり前のことですが団十郎は動じることなく、むしろいつもより気合いを入れてタップリと揚幕への引っ込みを見せてくれた気がしましたが、こういう役での団十郎は押しが効いて・やはり良いですね。

(R6・5・18)


 


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