綱豊卿の真意とは〜十五代目仁左衛門の綱豊卿
令和6年3月歌舞伎座:「元禄忠臣蔵〜御浜御殿綱豊卿」
十五代目片岡仁左衛門(徳川綱豊)、十代目松本幸四郎(富森助右衛門)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(お喜世)、初代片岡孝太郎(御祐筆江島)、五代目中村歌六(新井勘解由)他
1)何故綱豊は遊興三昧の日々を送るのか
「御浜御殿」での仁左衛門(綱豊)と幸四郎(助右衛門)との組み合わせは、平成28年(2016)11月歌舞伎座以来のことかと思います。あれから約8年が経ちました。歳月が経っただけのものが舞台に確かに見えますが、そのことに触れるのはちょっと後回しにして、本稿ではまず「御浜御殿」でよく起こりがちの疑問から作品を考えることにします。
元禄15年(1703)3月半ば頃、大石内蔵助は伏見の遊郭で遊興三昧の日々を送っていました。果たして内蔵助は仇討ちの意志を捨ててしまったのか。しかし、世間には「あれは吉良方の目を欺くための計略だ」と見る向きが少なくありません。一方、まったく同じ時期に、甲府宰相・徳川綱豊もまた江戸の甲府藩下屋敷(いわゆる浜御殿)で遊興三昧の日々を送っていました。世間はこれもまた次期将軍候補である綱豊が現将軍綱吉からの猜疑心を避けるためにわざと遊興三昧をしていると噂しています。
ここまでが「御浜御殿」の前提ですが、サテここからが疑問です。御座所で助右衛門が「あなた様には、六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、作り阿呆の真似をあそばすのでござりまするか」と叫んだ時、綱豊は「何いっ!」と激高して懐剣に手を掛けました。どうして綱豊は助右衛門の言に怒るのか?という疑問です。もし綱豊が将軍綱吉の目を晦ますための遊興三昧するのが真(まこと)であるならば、助右衛門は図星を指したことになります。だから綱豊は痛いところを突かれて・それで怒ったと云うことでしょうか。
イヤそうではありません。綱豊が怒るのは、助右衛門の言が「心外」であったからです。綱豊の遊興三昧は将軍綱吉の目を欺くためではなかった。「心外」だから怒ったのです。このことは、能舞台背面で綱豊が助右衛門を押さえ付けて言う台詞を聞けば明白です。綱豊は次のように言っています。
『そこはさすがに内蔵助だ。彼が今日(こんにち)島原伏見の遊里に浮かれ歩くのは、そちらの目から見れば、或いは吉良を油断させようための計略などと思おうが・・俺の目にはそうは見ない。彼は今、時の拍子に願い出た、浅野大学再興に・・その心を苦しめながら、誤って手から離した征矢(そや)の行方を、寂しくジッと眺めているのだ。この内蔵助の悲しい心を・・寂しい心を・・そちたち不学者には察し得られることではないのだ。』(「御浜御殿」・綱豊)
綱豊が言うには、内蔵助がツイ思い付きで提出してしまった浅野大学再興の願いが、京都朝廷や江戸幕府内で取り上げられ・思いがけなく動き始めてしまったために、内蔵助はどうにも動きが取れなくなってしまった。その悲しい心を・・寂しい心を・・紛らせるために内蔵助は苦しい酒を飲まざるを得ない、それがあの伏見の遊郭で遊興三昧の日々だと綱豊は言うのです。どうしてそんなことが綱豊に分かるのでしょうか。それはもちろん御浜御殿での綱豊の遊興三昧の日々も、将軍綱吉からの猜疑心を避けるためのものではなかったからです。この俺の悲しい心が・・寂しい心が分かるかと云うことです。
それではここで翻って、今度は何故綱豊は御浜御殿で遊興三昧の日々を送るのかを考えることにします。このことを考えるためには、内蔵助の行動をまず検討せねばなりません。別稿「二代目吉右衛門・奮闘の「元禄忠臣蔵」に於いて、真山青果は「伏見撞木町」の内蔵助と「御浜御殿」の綱豊を合わせ鏡の関係にして芝居を書いたことを論じました。これら二作が読み切りの芝居としてそれぞれ別個に書かれたもので、たまたま二作の主役を二代目左団次が演じただけのことと考えてはいけないと云うことです。「伏見撞木町」の内蔵助を見れば綱豊が見えて来る、「御浜御殿」の綱豊を見れば内蔵助が見えて来る、そのように青果が芝居を書いているのです。「伏見撞木町」で内蔵助は息子(主税)に次のように語ります。
『去年三月十四日、江戸御刃傷のしらせを聞くと同時に、即刻即座、父(内蔵助)のこころに起こった決心は、怨敵(おんてき)吉良上野介さまを討ち取って、故(こ)殿さま最後の御無念を晴らしたいことであった。それよりこのかた丁度一年、朝にも夕にも願うところは、ただその念願ひとつであった。(中略)なれども、眼前路頭にまよう三百何十人の家中のことを思えば・・・、みなそれぞれに妻子もあり絆を持つ身の上ゆえ、うかつに覚悟も明かされぬ。また血気の連中は、城を枕に討死の、やれ追腹のと、あせり立つ故、萎(しお)れる者には当座なりとも希望(のぞみ)をもたせ、あせる者には鎮撫(ちんぶ)のため、ただ一時の方便として、父はひと言、御城受け取りに上られし御上使の前に出て、御舎弟大学頭さまを以て、浅野家再興のことを願い出たのじゃ。・・・』(「伏見撞木町」・内蔵助)
この台詞には内蔵助の内心を知るための重要な情報がいくつか含まれます。まずひとつは、「江戸御刃傷のしらせを聞くと同時に、即刻即座、父(内蔵助)のこころに起こった決心は、怨敵吉良上野介さまを討ち取って、故殿さま最後の御無念を晴らしたいことであった」という箇所で、ここで内蔵助が「初一念」を吐露することです。「主人の仇を討つ」、これが内蔵助の初一念です。
青果の「元禄忠臣蔵」のなかで「初一念」がどれほど大事な概念であるか、このことは今更言うまでもありません。(詳しくお知りになりたければ、別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。)青果は「元禄忠臣蔵」第1作「大石最後の一日」(つまり討ち入りが終わった後の内蔵助の心境を描くもの)に於いて、「初一念」の概念を提示しました。その後の後続作では時系列を遡る形で、仇討ちまでの過程に於いて内蔵助が初一念を貫くために、ああでもない・こうでもないと・如何に悩み苦しみ・考え抜いてきたか、その仔細を描いています。「伏見撞木町」も「御浜御殿」もその一時(ひととき)の場面に過ぎませんが、これらをそれぞれ読み切りの芝居だと思って読むことは出来ないのです。これらは討ち入りまでの一連の流れの上で読まねばなりません。
「大石最後の一日」では、細川家の嫡男・内記が、内蔵助に生涯の宝ともなるべき言葉の「はなむけ」が欲しいと言います。内蔵助は次のように答えます。
『当座のこと、用意もなく申し上げます。人はただ初一念を忘れるなと・・申し上げとうございます。とっさに浮かぶ初一念には、決して善悪の誤りはなきものと考えまする。損得の欲に迷うは、多く思い多く考え、初発の一念を忘るるためかと存じまする』(「大石最後の一日」・内蔵助)
「大石最後の一日」では内蔵助の初一念が何であったかは語られません。それは事が果たされた今・分かり切っているから触れないだけのことですが、「伏見撞木町」では、「江戸御刃傷のしらせを聞くと同時に、即刻即座、父(内蔵助)のこころに起こった決心は、怨敵吉良上野介さまを討ち取って、故殿さま最後の御無念を晴らしたいことであった」と内蔵助の言葉としてはっきりと語られます。「元禄忠臣蔵」全編のなかで内蔵助が初一念を明確に語る箇所はここにしかありません。まずこのことを頭に入れておいてください。
もうひとつ検討せねばならないことは、内蔵助が赤穂城受取の上使に願い出た浅野大学再興嘆願の件です。上記引用の台詞では、内蔵助は続けて、大学さま再興など取り上げられるはずがないと軽く考えていたが、その後世間の風向きが変わって浅野贔屓の声が高くなると、京都朝廷も江戸幕府も世論を無視出来なくなった、このため浅野家再興が取り上げられそうな雰囲気になってきた、池に投げ入れた小石が思わぬ波紋を作り、次から次へとうねりを呼んで、とどまることがない、これは内蔵助にとって一生の不覚であった、今は水際のうねりが消えるのを待つしかないと寂しく語るのです。
ここで綱豊が言う「彼は今、時の拍子に願い出た、浅野大学再興に・・その心を苦しめながら、誤って手から離した征矢の行方を、寂しくジッと眺めているのだ」という言葉と、内蔵助の苦しい状況がここでぴったり重なります。つまり綱豊の推測が当たっていたわけです。
それでは、ここで浮かぶ疑問ですが、内蔵助の伏見の遊郭での遊興三昧の日々は、あれは浅野大学再興の行方を憂いて・苦しむのを酒色に紛らわせていたと云うことなのでしょうかね?まあそれもあるでしょう。確かにかなりの理由ではあるでしょう。しかし、それだけが理由だと考えるのでは、まだ読みが浅い。さらに続きをお読みください。
元禄15年(1703)3月半ばの時点では、同志は百二十名ほどいたと推察されます。同年2月15日から数日間、山科会議が行われました。この時は「今すぐ討ち入りを」という意見は少数で、「しばらく様子を見よう」という結論となったようです。その背景に浅野家再興の件が深く関わっています(と真山青果は読んだのです)。しかし、同志各人それぞれに事情があり、また信条も違う。内蔵助は「みなそれぞれに妻子もあり絆を持つ身の上ゆえ、うかつに覚悟も明かされぬ。また血気の連中は、城を枕に討死の、やれ追腹のと、あせり立つ故、萎れる者には当座なりとも希望をもたせ、あせる者には鎮撫のため・・」と言います。それでは、浅野大学再興のアイデアは、仲間のなかのどういう人たちに対処するための策なのでしょうか。それはもちろん内蔵助が「萎れる者には当座なりとも希望をもたせ、あせる者には鎮撫のため・・」と言っている仲間のためです。御家再興の提案は、確かに萎れる者・将来に不安を覚える者たちには大いに役に立つでしょう。
しかし、一刻も早く討ち入りをと騒ぎ立つ・正義感の強い血気はやる連中には、御家再興のアイデアは全然役に立たないのです。彼らにとってそれは邪魔である。むしろ障害でさえある。彼らからは、内蔵助は御家再興に綿々と拘って・仇討ちの決定をズルズル引き延ばしにしているとしか見えません。だからリーダー内蔵助に対する不満が募ることになる。そのように見る急進派が少なからずいたのです。
もし浅野家再興が幕府内で取り上げられ・まもなく裁断がなされること必至と云う状況になったら、急進派はどんなことを考えるでしょうか。急進派は取り乱し、「こうなったなら御家再興の決定が下る前に、例え俺一人であっても、吉良の首を取って殿の御無念を晴らす、これしか残された選択はないのダア」となるに違いありません。「御浜御殿」・能舞台背面で助右衛門が単独で吉良だと思って討ちかかった(実はそれが綱豊であった)のは、そう云うことなのです。つまり助右衛門は御座所での対話で綱豊の気持ちをまるで分っていなかったと云うことになりますね。
御家再興の提案のおかげで落ち着く者もあれば、逆にこれに反発していきり立つ者もいるのです。そんななかで内蔵助は仲間たちをひとつに取りまとめ・仇討ちの方向へ持っていかねばなりません。目指すのはただひとつ、それは「怨敵吉良上野介を討ち取って殿さま最後の御無念を晴らす」と云う初一念を貫き通すことでした。このために、こんなことで良いのか・あんなことで良いのか・もっと良い方策はないのか、俺のやっていることは指導者(リーダー)として正しいのか、内蔵助はつねに立ち止まり・自らに問い直すのです。このように深く思い悩んでいれば、つい酒に手を出したくもなるだろう、これが伏見での内蔵助の遊興三昧なのです。ですから御家再興の件は確かに内蔵助の憂鬱のひとつではありますが、すべてではないのです。内蔵助の憂鬱は、指導者の在り方として・これで良いのかと云うところにあります。
それならば綱豊が「彼は今、時の拍子に願い出た、浅野大学再興に・・その心を苦しめながら、誤って手から離した征矢(そや)の行方を、寂しくジッと眺めているのだ」と言ったのはあれは間違いではなかったのか?という質問が出るかも知れませんねえ。それはあの時点に於ける綱豊と内蔵助との唯一の接点がまさに浅野家再興の件であったからです。つまり綱豊がこの後の内蔵助と赤穂義士たちの未来を左右するキャスティングボードを握る立場にあるから、あのような発言になったと云うことです。
「伏見撞木町」には伯父新藤八郎衛門に「御身は仇討の念願を捨てたのか」と言われて、内蔵助が次のようにおどける場面があります。
『イヤ捨てませぬぞよ。討たるるものなら何時でも討つ。仇討ちの一念を捨てたなどと・・・、そんなこというては、明日から内蔵助、世上の侍付き合いがなりませぬ。ええ年甲斐もないことをいうお人じゃ。ううい。』(「伏見撞木町」・内蔵助)
冗談めかしていますが、ここに内蔵助の本音が混じっています。世間からあれは見せ掛けだけの放埓だと見られているおかげで、内蔵助は助かっているのです。この内蔵助の台詞は、助右衛門の言うことに激高した綱豊が気を取り直した後・カラカラと笑って言う台詞と照応するものです。
『なるほどな、そのはずのことじゃ。綱豊の放埓なども、世間からは、そちのいうように見られているので、助かっているのだ。ハハハ。』(「御浜御殿」・綱豊)
ここで改めて、何故綱豊は御浜御殿で遊興三昧の日々を送るのかという疑問に立ち返ることになります。「伏見撞木町」の内蔵助を見れば綱豊が見えて来る、「御浜御殿」の綱豊を見れば内蔵助が見えて来ると云うことならば、重なるところは、ひとつしかありません。それは、日本はこんなことで良いのか・ああならば良いのか、日本を正しい国に導くためにもっと良い方策はないのか、指導者(リーダー)の在り方として俺はこれで正しいのかということです。今は五代将軍綱吉の治世であるから俺が政治に口出しすることは叶わない。しかし、いつか表舞台に出なければならぬ時のために、俺はトコトン学び・悩むと云うことです。このように深く思い悩んでいれば、つい酒に手を出したくもなるだろう。これが御浜御殿での綱豊の遊興三昧なのです。つまり内蔵助とまったく同じなのです。
それを「六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、作り阿呆の真似をあそばすのでござりまするか」と図星を指したつもりで居られては、綱豊だって黙っていられません。「俺はそんな小っちゃいことで悩んでるのではないよ、日本国のために悩んでるのだ、内蔵助だって討ち入りすることで日本の武士の何たるか・その規範を示すことになる、だからトコトン苦しんでいるのだろう、そりゃあ酒に溺れずばいられまい、飲みたくて飲んでいる酒ではない、俺は内蔵助のことをそう見るのだがね」と云うことですね。(別稿「指導者の孤独」をご参照ください。)(この稿つづく)
(R6・3・30)
2)「正しいプロセスを踏むならば必ず正しい結果が出るはずだ」
「御浜御殿」には、もうひとつ考えておかねばならないことがあります。能舞台背面で助右衛門を押さえ付けて、綱豊がこのように言いまます。
『助右衛門、吉良は寿命のうえ、らくらくと畳の上で死んでも、汝ら一同が思慮と判断の限りを尽くして、大義、条理のうえにあやまちさえなくば、何アにあんな・・ゴマ塩まじりの汚い白髪首など、斬ったところで何になる、そなえたところで何になる。まこと義人の復讐とは、吉良の身に迫るまでに、汝らの本分を尽くし、至誠を致すことが、真に立派なる復讐といい得るのだ。』(「御浜御殿」・綱豊)
「伏見撞木町」を見れば、これに照応する内蔵助の台詞はすぐ見付かります。それは、
『我ら、討ち入りを遂げぬ前に、年のうえにて上野介に万一のことあれば、その時は我ら一味の五十何人、よくよく武運に尽き果てたと申そうものじゃ。その時こそは潔く、泉岳寺に走せ集まり、殿様の石塔をとり囲んで、みなみな潔く追腹切れば、われわれの誠も立ち、天の命にも順(したが)うというものじゃ。至誠は第一、敵討は第二じゃ。復讐を最後の目的としてはならぬ。故主に対する至誠をつらぬくのが本来の第一義なのじゃ!』(「伏見撞木町」・内蔵助)
という台詞です。綱豊も内蔵助も「至誠を致す・至誠をつらぬく」ことが大事だと言います。それではここで生じる疑問ですが、ここで彼らが言いたいことは、「結果が問題なのではない、プロセスこそが大事だ」と云うことなのでしょうか。
そうではありません。綱豊・内蔵助が言いたいことは、「正しいプロセスを踏むならば必ず事は成るはずだ。必ず初一念が叶うはずだ。そのことを信じて、俺は最後まで我らのプロセスを研ぎ澄ませ続けるぞ」と云うことなのです。この確信は、近世江戸の・すなわちプレ近代としての江戸の、努めて理性的な感覚から発せられています。これは科学的な論理なのです。
ここで「科学的」という語句が出るとビックリするかも知れませんが、ここで発明王エジソンの逸話を紹介しましょう。晩年のエジソンが或る大学で名誉学位を授与された式典でのことです。学長がエジソンをこんな感じで紹介したそうです。「エジソンは努力の人である。彼は数えきれないほどの実験を繰り返し、失敗を繰り返して・それでも諦めることなく、幾多の失敗の果てに・ついに望んだ結果を手に入れる」。この紹介の後エジソンが登場して・こう言ったのです。「先ほど学長が言った話は間違いだ、私は一度も失敗などしたことはない」。と言ってからエジソンは笑って・こう続けました。「その実験で望んだ結果が得られなかったのは、つまりそういう方法でやったらダメだというデータが得られたと云うことだから、これも成功の内なのだ」。
このエジソンの態度は、「正しいプロセスを踏むならば必ず正しい結果が出るはずだ」という確信から発しています。これこそ科学的な態度なのです。綱豊・内蔵助が言うことは、これとまったく同じです。このことを考えるためには、「元禄忠臣蔵」第1作「大石最後の一日」まで立ち戻り、「初一念」のことを思わねばなりません。(別稿「内蔵助の初一念とは何か」をご参照ください。)
『当座のこと、用意もなく申し上げます。人はただ初一念を忘れるなと・・申し上げとうございます。とっさに浮かぶ初一念には、決して善悪の誤りはなきものと考えまする。損得の欲に迷うは、多く思い多く考え、初発の一念を忘るるためかと存じまする』(「大石最後の一日」・内蔵助)
しかし、切腹に向かう直前、同志に向かって内蔵助は次のような心情を吐露します。世間は我々を義人の義士のと言っておるようだが、もし我々が上野介を討ち漏らして引き上げたとすれば、世間の評判はいかがであったろうか。あの夜にもし上野介が屋敷にいなければ・もし炭部屋に隠れている上野介を見つけることができなかったら、我々は末代までも慌て者・腑甲斐なし者と笑われたであろう。その境はまことに危うい一線で・今考えても背筋が冷やりとする。恐ろしい危ないことをよくも考えたものだと身体がわななく思いである。こう考えると、すべては天祐(てんゆう)であったのだと内蔵助は言うのです。
『神仏の冥加によって運良くも仕遂げたと思う外はござりません。たとえ初一念がいかに強く鋭くとも、この冥加なくては所詮本望は遂げ得られませぬ。われわれが今日義士となり義人となるも、決してわれわれ自身の働きのみとは存知られませぬ。ひと口に言えば仕合わせよく、運が良かった、それが天祐でござります。武士冥利でござります。』(「大石最後の一日」・内蔵助)
内蔵助はあくまでも謙虚なのです。しかし、この態度は「正しいプロセスを踏むならば必ず正しい結果が出るはずだ」という信念と全然矛盾しません。むしろそうであるからこそ、内蔵助のなかに、こんなことで良いのか・あんなことで良いのか・もっと良い方策はないのか、俺のやっていることは指導者(リーダー)として正しいのかという想念が渦巻くのです。もし自分が正しいプロセスを踏めていないのであれば、正しい結果が出るはずがないからです。だから初一念を貫くために、自分はこれで良いのか・これで正しいのか・もっと良いプロセスはないか、最後までトコトン模索し続ける。あとは天祐に委ねる。「伏見撞木町」・「御浜御殿」とはそのようなドラマなのです。
ここで大事なことは、大石内蔵助以下四十七士の吉良邸討ち入り(いわゆる元禄赤穂事件)は、御主人大事の封建道徳、あるいは仇討ちという前近代的な感情で動いているかに表面的には見えますが、そのような「初一念」から発しながらも、自分は人間として・或いは武士としてどのように生きるべきか、「正しいプロセスを踏むならば必ず正しい結果が出るはずだ」という確信によって彼らは動いているのです。そこに近世江戸の・すなわちプレ近代としての江戸の、努めて理性的なドラマがあり、それゆえ「元禄忠臣蔵」は現代の我々にとっても考えさせられるドラマになっていると云うことです。(この稿つづく)
(R6・4・1)
以上の考察から分かる通り、「御浜御殿」での綱豊の真意とは、
・俺の遊興三昧は将軍綱吉の目を欺くためではない。俺は、日本はこれで良いのか・ああならば良いか、日本を正しい国に導くためにもっと良い方策はないか、指導者(リーダー)として俺はこれで正しいかと云うことで悩む。今は俺が政治に口出しすることは叶わないが、いつか表舞台に出なければならぬ時のために悩む。だからツイツイ酒に手を伸ばしてしまう。これが御浜御殿での俺の遊興三昧だ。
・正しいプロセスを踏むならば必ず正しい結果が出るはずだ。だから初一念を貫くために、自分はこれで良いのか・これで正しいのか・もっと良いプロセスはないか、俺は最後までトコトン模索し続けるぞ。そこまで行ったら、あとは天祐に委ねるまでだ。
と云う2点なのです。このことは「御浜御殿」だけでも十分掴めることですが、対の形で成立する「伏見撞木町」の内蔵助と重ね合わせた時、このことは一層はっきり立体的に浮かび上がって来ます。なぜならば綱豊は近衛関白家から浅野家再興について強い要請を受けており、この後の内蔵助と赤穂義士たちの未来を左右するキャスティングボードを握る立場に綱豊はある、したがって綱豊は自ずと内蔵助の身になって彼の心中を推し量ることになるからです。
御座所での助右衛門との対話で、最初は余裕を以て対していた綱豊は、助右衛門の頑なな態度に熱くなって行きます。助右衛門はこう言います。
「箍(たが)がありゃこそ桶でござります。その一本の大事に箍が切れれば、みなバラバラに分かれて一枚一枚の板切れでござりまする。一枚の板ぎれに水を汲めとおっしゃっても、そりゃ無理な相談でござりましょう。(とセセラ笑って横を向く)』
ここにリーダー内蔵助への助右衛門の憤懣・失望がありありと表れます。助右衛門は「仇討ちするかしないかを決めるのは部下の私じゃないですからね、指導者のあなたが・内蔵助さまが決めることなんだよ、いつまでたっても決めないあなたの問題なんですよ」という態度を崩そうとしません。これに対する綱豊の返答は、
「さようか・・。が、わしはどうも・・・そうは思われぬ。(中略)わしは一時の戯れ心からそちに訊ねているのではないぞ。少しく義理に迷うところもあり、是非ともそちたちの思案のそこを極めたいと思ったのだ。(中略)わしは今、そちたちには頭を下げても頼んでも、その企てありと聞きたいのだ。(中略)綱豊のために、行くべき道を示せと言うのだ。助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼を見よ。俺は、あっぱれわが国の義士として、そちたちを信じたいのだ。」
この綱豊の台詞は、「指導者と言えども・ひとりの人間であり・悩みもすれば迷いもする・部下としてではなく仲間として俺に教えてくれ・俺はこの集団をどこに導けばよいのだ」という弱音とも・哀願とも言える響きを呈しています。この台詞での綱豊の気持ちは完全に内蔵助と重なっている。助右衛門の目にも、綱豊が内蔵助のように見えて来る、そう云う場面なのです。
ここで綱豊は、「助右衛門、まだ分からぬか、俺を見よ。俺の眼を見よ」と言います。この場面では助右衛門はしっかりと綱豊の目を見なければなりません。殿様が言うからその目を見るのではありません。内蔵助が言うからその目を見るのです。憤懣とも・困惑ともつかぬ目付きで反抗的に見返すのです。そして遂に助右衛門は喚き出します。この場面を青果のト書き付きでお読みください。
助右衛門、一語一語に迫り来る綱豊の言葉に、次第に頭さがり、遂にその真情に打ち負けんとする自分を、押さえて強いて反抗的に頭を上げる。
「恐れながら殿さまには、大石めがいま放蕩に身を持ち崩すゆえ・仇討ちの企てがあるに相違ないと仰せあるのでござりまするか。それなれば私も申し上げたいことがござります。あなた様には、六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて作り阿呆の真似をあそばすのでございまするか。」吉之助も「御浜御殿」の舞台をいろいろ見ましたが、「俺を見よ。俺の眼を見よ」と綱豊が言う時に、ほとんどの助右衛門役者は青果のト書きを無視して綱豊の台詞をそっぽを向いて聞いていますねえ。残念ながら、今回(令和6年3月歌舞伎座)の幸四郎の助右衛門も例外ではありません。吉之助の記憶では、この場面でト書き通りに綱豊に正対した助右衛門役者は唯一人、それは昭和55年(1980)12月歌舞伎座での前進座創立五十周年記念公演での中村梅之助が演じる助右衛門だけでしたね。(ちなみにこの時が仁左衛門(当時は孝夫)初役の綱豊でありました。)
綱豊役者の身になって考えるに、「俺を見よ。俺の眼を見よ」と真剣に言っている時に相手がそっぽ向いて聞くのは気分が悪い(と云うか失礼ですよね)と思うのですが、仁左衛門さんからそう云うご指摘が出ないのは、吉之助には摩訶不思議に思いますねえ。この場面で助右衛門が綱豊に正対し・その言葉を真剣に聞く、そしてそれを振り払うように反抗的に頭を上げて喚き出す、このことはこの場面の核心と云うべきことです。ここで助右衛門が喚きたいけれど言えない気持ちは、
「内蔵助さまはまだ俺たち部下の気持ちが分からぬのか。遊興三昧ばかりして・まだ仇討ちの決断をしないのか、いい加減にしろ」
と云うことです。助右衛門には綱豊がまったく内蔵助に見えているのです。(この稿つづく)
(R6・4・16)
今回(令和6年3月歌舞伎座)の幸四郎の助右衛門は、前回(平成28年11月歌舞伎座)と比べると意固地なところを強調して、大分役を掴んで来たことが認められます。(他方、前述の通り「俺を見よ。俺の眼を見よ」で綱豊に正対しないところの不満は相変わらずありますが。)芝居の助右衛門の赤穂の田舎侍みたいな印象に仕立てられることが少なくありませんが、史実の助右衛門は江戸生まれの江戸育ちで・俳句も嗜む教養人でした。幸四郎の助右衛門はそんなことを思わせるところがあるのは興味深いですね。
仁左衛門の綱豊は数ある当たり役のひとつであり、吉之助も昭和55年12月歌舞伎座での初役以来、何度となく拝見しています。このところの仁左衛門は、(これが仁左衛門の魅力のひとつとされたところの)台詞を朗々と張り上げて・優美に歌わせ勝ちであったところを極力抑えて、言葉のリズムをひとつひとつしっかり踏む傾向に変化してきたと思います。今回の綱豊にはそう云う変化がはっきり表われています。そのおかげで綱豊の実(じつ)の要素が浮かび上がります。末尾を長く引き伸ばさない。例えば「そちたちを信じたいのだ」を「シンジターイーノーダーアー」と引き延ばさない。「シンジ/タイ/ノダ」と二拍子のリズムが前面に出る。「新歌舞伎の台詞は歌うもの」と思い込んでいる方にはご不満かも知れませんが、新歌舞伎の台詞はリズムをしっかり踏んでこそ生きるのです。幕切れの助右衛門を押さえ付けていう綱豊の長台詞が、いつになく説得力あるものになったと思いますね。
(R6・4・20)