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二代目吉右衛門追善の「連獅子」

令和5年9月歌舞伎座:「連獅子」

五代目尾上菊之助(親獅子の精)、七代目尾上丑之助(子獅子の精)

(二代目吉右衛門三回忌追善)


この数年「連獅子」がよく出ますねえ。あちらの家が出すならウチの子も・・となってるみたいですが、それぞれの組み合わせの背後にそれぞれのストーリーがあって、どれも興味深いことではあります。今回(令和5年9月歌舞伎座)は、二代目吉右衛門三回忌追善ということで孫の丑之助が父・菊之助と共に「連獅子」を踊ります。

丑之助に感心するのは、「雰囲気を持っている」と云うことです。上手いとか一生懸命とか云うのを超えて、作品が持つ何ものかに感応するセンスを持つと云うことです。これは教えて得られるものではなく、かけがえのない資質です。昨年(令和4年・2022)10月国立劇場での「千本桜・大物浦」での安徳帝は、帝と臣下である知盛との関係を正しく見せて、ホント感心しました。今回(令和5年9月歌舞伎座)の子獅子を見ても、「連獅子」のなかの或る種ストイックなものを雰囲気に漂わせています。舞台を見ながら「丑之助のこの踊りを吉右衛門に見せたかったなあ」ということをフト考えてしまいますね。いつもよりも子獅子の方に目が行くことが多かった気がします。

そのせいか、こんなことも感じました。菊之助の親獅子は立派なものです。勇壮な形容であるし・動きも申し分ないし、ケチ付けるところは無さそうだけれども、敢えてひとつだけ注文を付けましょうか。この丑之助の子獅子に対する親獅子としては、もう少し「雰囲気」が欲しい気がします。完璧過ぎてちょっと冷たい印象がしますね。熱さと云いますかね、完璧さを破綻させる何ものかが欲しい。千尋の谷に突き落とされた子を気遣う親の気持ち、生還した子を見つけた時の喜び、そこに何らかの感情の破綻が欲しいのです。要するに「取り乱して欲しい」と云うことです。(付け加えれば、昨年(令和4年)2月歌舞伎座での「鼠小僧」観劇随想のなかで三吉(丑之助)の台詞に対し幸蔵(菊之助)はもっとはっきり生(なま)な反応をして欲しいと書きましたが、これと同じことですね。)理知的で制御の効いた音羽屋の芸に菊之助が何か付け加える必要を感じていたとすれば、菊之助が岳父・吉右衛門の芸に見出した憧れと云うものはそう云うものだろうと思いますが、如何でしょうかね。

(R5・9・27)


 

 


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