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十五代目仁左衛門の与三郎・五代目玉三郎のお富

令和5年4月歌舞伎座:「与話情浮名横櫛」〜木更津海岸・赤間別荘・源氏店

十五代目片岡仁左衛門(与三郎)、五代目坂東玉三郎(お富)、六代目片岡市蔵(蝙蝠安)、四代目片岡松之助(番頭藤八)、四代目片岡亀蔵(赤間源左衛門)、三代目坂東亀蔵(鳶頭金五郎)、四代目河原崎権十郎(伊豆屋多左衛門)


1)仁左衛門の与三郎

与三郎役者と云うと、吉之助も現役ではやはり仁左衛門の名前がまず最初に思い浮かびます。そう言えば仁左衛門の与三郎を久しく見てないなあと思って調べてみると、東京・歌舞伎座での上演は、平成17年(2005)4月歌舞伎座(十八代目勘三郎襲名興行)以来のことなので、何と18年ぶりとのことでした。つまり玉三郎のお富との共演も18年ぶりです。

今回(令和5年4月歌舞伎座)の舞台にも感じることですが、仁左衛門の与三郎の良いところは、柔らかく色気のある身のこなしに、大店の若旦那としての育ちの良さ・人柄の良さがごく自然に立ち現れることです。例えば序幕・木更津海岸でのお富との出会い、ふと顔を見て立ち止まり・慌てて目を逸らすが・見ずにはいられない・そして内心の動悸を抑えつつ平静を装って会釈する、この辺りの呼吸は玉三郎のお富の上手さも相乗して、言葉は使わずとも、仕草だけでドラマを語る面白さです。源氏店で蝙蝠安に「生(なま)言うねえ」と怒鳴られて「そんなに言わなくってもいいじゃあないか」と言う若旦那らしい・甘えた口振りは、時とするとそこまでのお富に対する恨みつらみの口調からすると・わざとらしい変化に聞こえるきらいがあるものです。しかし、仁左衛門だとその変化がまったく違和感なく・ホントに自然に感じられるのは、与三郎の性根のなかの・大店の若旦那としての育ちの良さ、そこがしっかり保持されているからです。木更津海岸で若旦那としての与三郎を観客にしっかり見せていることも寄与していると思います。

ここに与三郎という役のひとつの典型が示されていますが、仁左衛門の与三郎の上手さに感嘆しつつも・吉之助がやや不満を覚えるところは、与三郎の横影に差す暗い翳のようなものをあまり感じないことです。与三郎を初演した八代目団十郎は、美男役者として人気絶頂で・御曹司としての育ちの良さは他人が羨むほどでしたが、30歳の若さで謎の自死を遂げることになります。悩みか苦しみか、そのような暗い感情を肚のどこかに隠し持っていたのでしょう。そこがまたファンから見れば堪らない魅力となるわけです。だから八代目団十郎が演じる与三郎は、どこかに暗さを湛えていたと想像します。そのような与三郎の暗さは、後述しますが、脚本からも伺えるところです。一方、仁左衛門の与三郎は、何となく底が明るい印象がしますねえ。まあそう云う与三郎は、今回の幕切れのように、多左衛門がお富の実の兄だと判明して・与三郎が「生涯お前を離さねえよ」と言ってお富を抱き締めるハッピーエンドの落ちにはとても似合ます。(注:多左衛門が木戸を閉めたところで柝の頭となるのが普通のやり方です。)しかし、何となく芝居が上方の「廓文章」の伊左衛門を、江戸へ裏返したみたいにも感じますね。つまり上方和事の風味がする与三郎なのですが、そこに上方役者たる仁左衛門独自の工夫があると見るべきでしょうね。(この稿つづく)

(R5・4・4)


2)ヒリヒリした感覚

序幕・木更津海岸の場を見ると、与三郎は確かに大店(伊豆屋)の若旦那には違いありませんが、鳶頭金五郎に拠ると、与三郎の遊び好きにはどうやら深い理由がありそうです。実は与三郎は養子で、与三郎が養子に入った後・主人与左衛門に実子与五郎が生まれたのに・養父が義理を立てて与五郎を別家としたことから、養父の気持ちを案じた与三郎が俄かの放埓・現在は親類にお預けの身であることが、金五郎の口から語られます。このことからすると、与三郎は別に楽しくって遊蕩三昧していたのではないことが察せられます。しかし、そんな与三郎が木更津で飛ぶ鳥を落とす勢いの赤間の親分の妾に本気の恋をしてしまう、普通ならば親分の妾に手を出すなんて危なくって出来ないことなのだが、本気の恋だから与三郎はどうにも気持ちを抑えきれません。その背後にどこか捨て鉢な与三郎の精神状況があると云うことなのです。

「ファム・ファタール」(宿命の女)と云う言葉があります。例えばカルメンとかマノンのような女のことを指します。とても浪漫的な・19世紀的な感性の産物です。(これが幕末期の江戸の感性と時期が照応することは、実に不思議なことではありませんか?)一般によく誤解されるのは、ファム・ファタールが性的魅力で男をたらしこみ堕落・破滅へと導く悪女・妖女だという見方です。これが正しくないのは、彼女に魅惑された男の側からの視点が欠如しているからです。ファム・ファタールの正しい定義は、男から見て「この女と一緒ならば、例え地獄に落ちようとも、俺は構わない」とまで思わせる魅惑的な女と云うことです。そして男はその予感通り破滅するのですが、それでも彼は彼女を恨むことはない。それがファム・ファタールなのです。歌舞伎にも、「籠釣瓶」の八つ橋とか、そう云う女がいると思います。「与話情」のお富も、与三郎にとってそう云う女だったのでしょうね。

一方、お富にとっても、与三郎は「宿命の男」です。親分の妾であるお富にとっても、これは命を賭けた危険な恋なのです。現行歌舞伎で見るお富は終始受動的な印象で、与三郎に恋を仕掛けられたらなびき・多左衛門に囲われれば床の間の生け花みたいにそこに居るみたいな感じに見えますが、多分お富も内心に鬱々したものを抱えながら生きており、その沈滞した気分が与三郎に出会って一気に弾けたということなのです。如皐の原作を見ると、源氏店で与三郎が例の有名な啖呵を切った後、お富が「エエ静かにおしな。マア私の云うこともとっくり聞いたその上で、どうなとしたが良いわいなあ」と言い返しているのでちょっと驚きます。この後長台詞があって・お富が「そりゃ聞こえぬ、胴慾じゃわいなあ」と泣くところは現行と変わりないのですが、「エエ静かにおしな」と言い返すところにお富の気持ちの強さが感じられて、この台詞があるのと・ないのとでは、随分お富の印象が異なるのではないでしょうかね。与三郎は三年越しの恨みつらみを云うけれど、それを云うなら私だってずっと同じ気持ちだったんだから・・と云うのが、お富が言いたいことです。

現行歌舞伎の「与話情」の舞台からでも、察するならば、そのような「ヒリヒリした感覚」が全然見えないわけでもないのですが、長年繰り返して演じられて・段取りが洗練され過ぎたせいか、そこのところが見え難い。だから今回(令和5年4月歌舞伎座)のように、与三郎が「生涯お前を離さねえよ」と言ってお富を抱き締めるハッピーエンドは、確かにこれはこれで落ちは付きます。しかし、「これは何だかちょっと違うんじゃないの」という気分にはなりますねえ。事実如皐の原作を見ると、与三郎とお富の運命はまだこれからも波乱万丈なのですから。脚本に手を入れたい気がするでしょうが、あの宇野信夫も補綴に手を焼いたことだし、そこはあまりいじらない方が良いのかも知れません。(この稿つづく)

(R5・4・5)


3)役者の味でする芝居

このように考えると、与三郎もお富も、決して恋の喜びにどっぷり浸っているわけではなく、それは背後に破滅が予感されているなかでの恋なのです。背後に迫った危険をも顧みず・今この恋にのめり込みたいという気持ちがふたりを一層熱くします。前章で「ヒリヒリした感覚」と書いたのは、そこのところです。フロイト流に云えば、そこに破滅への欲動が潜んでいるのです。これが幕末期の鬱屈した気分から来るものであることは明らかです。

仁左衛門(与三郎)・玉三郎(お富)のコンビがそこのところを描いていないかと云うと、決してそんなことはありません。今回は、源氏店の前に木更津海岸と赤間別荘の二場を付けたことでも、その意図は明らかです。しかし、この黄金コンビが演じると、優美さ・甘さの印象が先に立ってしまうのは仕方がないところで、与三郎とお富の数奇な運命のラブ・ストーリーの味付けに見えて来ます。歌舞伎は役者の味でするものだと云うけれど、もちろんそれはそれで事実に違いありませんが、それならば源氏店の見取りだけで十分じゃないかなと云う気がして来るのです。これはそれだけ源氏店の与三郎とお富の再会の場面が「役者の味でする芝居」として良く出来ていると云うことなのです。これは当時の若き日の黙阿弥が如皐に嫉妬して「自分にはこんな台詞は書けない」と死にたくなった気持ちが分かるくらいに良く出来ています。極端に云えば、源氏店前半の・藤八の件を除いて出しても・ドラマが立つほど良く出来ています。そうすると先立つ二場があってもなくても・別にどっちでも良いような感じに見えてくるのですね。そう云う感じに思えて来るのは、皮肉なことですが、仁左衛門と玉三郎のコンビが「役者の味でする芝居」の感触にどんぴしゃりに嵌まっているからです。

何だか褒めているのか・貶しているのかと思われそうですが、「役者の味でする芝居」と云うことならば、今回(令和5年4月歌舞伎座)の仁左衛門の与三郎は、なかなか興味深いものです。仁左衛門の与三郎は、与三郎の横影に差す暗い翳のようなものをあまり感じさせないようです。むしろポジティブな感触に思われるのです。このことは仁左衛門が当代随一の伊左衛門役者・上方和事の名手であることから類推すれば、スンナリ理解が出来るかも知れません。上方和事の「やつし」の本質は「今の私は本当の私ではない。今私がしていることは、私が本当にしたいことではない」という気分にあるわけです。これは決してぴったりは来ないのだが、与三郎の「ヒリヒリした感覚」にどこか重なるところがあるのかも知れませんね。仁左衛門の与三郎の役作りは、多分そこら辺を取っ掛かりにしているのでしょう。しかし仁左衛門の与三郎だと優美さが勝ってしまうのは仕方ないところで、だから上方和事の味がする与三郎であると言いたいのです。またこの行き方が長年繰り返して演じられて・段取りが洗練され尽くした「源氏店」の古典的な感触に妙に似合うのですねえ。仁左衛門の与三郎は、与三郎という役のひとつの典型であるとすることに吉之助は異存ありません。そう云う与三郎もありだと思います。

ただし仁左衛門の与三郎は、他の役者に容易に真似が出来るものでなく、仁左衛門だけのものと云う気がします。むしろこれから与三郎を演じる若手役者には、与三郎のなかに潜むヒリヒリした感覚・破滅への欲動をもっと強く意識してもらいたいですね。そうすれば、与三郎が甘い美男役者だけの役でなくなる可能性も出てくると思いますけどねえ。

(R5・4・7)

(追記)仁左衛門の体調不良(コロナではない)のため・4月5〜7日の公演が休止となって、心配しましたが、8日公演から無事に舞台復帰をしました。



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