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荒川の佐吉の「くやしさ」について

令和4年4月歌舞伎座:「江戸絵両国八景〜荒川の佐吉」

十代目松本幸四郎(荒川の佐吉)、二代目松本白鸚(相模屋政五郎)、二代目中村魁春(丸総女房お新)、四代目中村梅玉(成川郷右衛門)、初代片岡孝太郎(お八重)、二代目尾上右近(大工辰五郎)、三代目松本錦吾(鍾馗の仁兵衛)他


1)佐吉の「くやしさ」

真山青果の「江戸絵両国八景〜荒川の佐吉」は、昭和7年(1932)4月に東京歌舞伎座で十五代目羽左衛門の佐吉によって初演されたものです。同じ月に大阪中座でも新国劇が「天晴(あっぱれ)子守やくざ」という題で島田正吾の佐吉で初演して、東西同時初演と云うことで話題となったそうです。青果と云うと二代目左団次との提携関係が強いわけで、青果が羽左衛門のために書いたというのは意外の感がしなくもないですが(実際は左団次のためばかりに書いたわけでないけれど)、青果が「荒川の佐吉」を書いたきっかけは、青果宅をぶらりと訪れた羽左衛門がとりとめもない世間話をした帰り際に、「最初はみすぼらしく哀れで、最後に桜の花がパッと咲くような男の芝居を書いて欲しい」と言ったからだそうです。青果はこれをおもしろく思い、たまたま新国劇が募集したプロットの入選作が手元にあったので・これを下地に青果が書いた芝居が、「荒川の佐吉」であったのです。本作が新国劇との同時上演になったのは・そのような経緯ですが、なるほど骨太な歴史劇を得意とした青果にしては毛色がちょっと異なる人情世話物であることも、これで納得が行きます。

初演の羽左衛門の佐吉は概ね好評でしたが、「羽左衛門を生かす芝居ではない」という批評も一部出たとのことです。そのような批評が出るのは、恐らく評者に青果=左団次の論理劇の思い込みが強いことから来るのに違いないですが、一理がないわけでもないと思います。そこはやはり青果は青果のことであるから、いくら羽左衛門のために書いたものであっても、論理劇の色彩は強くなって来ます。そこが羽左衛門の個性と微妙に似合わぬと云うところはあるかも知れないとは思います。青果のことだから、やはりただの人情物では終わらないのです。そこを踏まえて「荒川の佐吉」をどう読むかと云うことかと思います。演劇評論家尾崎宏次は次のように書いています。

『青果のセリフ術が論理的であるということに入っていかねばならないが、結論をさきにいってしまうと、その論理性のでてくる源は、「くやしさ」ということである。くやしい、ということは、容(い)れられるはずのことが容れられないからくやしいのである。くやしいという感情は、そういう状態をひき起こす事物や制約をきわめて即物的にならべたてることのできるものである。したがって、青果の戯曲にそなわっている論理性というのは、論理的に証明するためのものであって、論理的な発展のためのものではない。そう断言してしまうと例外がでてくるけれども、しかし、秀作のほとんどはそうである。そして、くやしさから出て来る論理性が、まさに青果の生きた時代の大衆にとって、魅力のある芝居になりえたのだ。かれは時や人を証明する芝居をかいた。時がくずれ、人が変る芝居ではなかった。』(尾崎宏次:「青果のセリフ術」〜真山青果全集・別巻1・真山青果研究)

というわけで、青果劇においては「くやしさ」が重要なキーワードなのです。そこでちょっと青果の「荒川の佐吉」を「くやしさ」の視点から読んでみたいと思います。(この稿つづく)

(R4・5・4)


2)佐吉の「くやしさ」・続き

佐吉が目の見えない赤ん坊の卯之助を育て続けてこれたのは、何故でしょうか。そして、卯之助を返してくれと難題を振りかけられて佐吉が烈火の如く怒るのは何故でしょうか。卯之助が可愛いから・大事だから別れたくないと云う気持ちは、もちろんあります。そのように解釈しても「荒川の佐吉」は芝居として十分成り立ちますが、それだけでは青果劇にならないのです。それだけでは、青果劇の本質である・佐吉の「くやしさ」が、そこに見えて来ません。

佐吉が卯之助を育て続けた第一の理由は、佐吉が仁兵衛親分に卯之助の面倒を頼まれたからです。これは親分から請け負った責務なのです。が、実は散々な苦労をしつつも・佐吉が卯之助を手放さなかったのは、二番目の理由の方が大きいはずです。それは佐吉には、所場を失って死んだ仁兵衛親分の「くやしさ」が、よく分かっているからです。佐吉は親分のくやしさを自分のくやしさにして、卯之助を育て続けてきたと云うことです。仁兵衛は成川という浪人に肩先を斬られ縄張りを奪われて、寂しい暮らしをしていました。子分たちはみな仁兵衛を早々に見限って、成川へ鞍替えしてしまいました。そんななかで佐吉だけが仁兵衛を親分として立て続けていました。その仁兵衛に頼まれた以上、佐吉には卯之助を見放すわけにはいきません。長く育てていれば卯之助に対する愛情みたいなものも、自然に湧いて来ます。しかし、それだけでは子育ては続きません。慣れない男手で目の見えない赤ん坊を育てるのは大変なことです。そうすると卯之助を捨てた薄情な母親(仁兵衛の長女お新)や養育を断ったお八重(仁兵衛の次女)に対しても、また「くやしさ」が湧いてくる。そのような「くやしさ」もバネにしながら、佐吉は卯之助を守って来たのです。

前章で尾崎宏次が述べた通り、「くやしい」とは、容(い)れられるはずのことが容れられないからくやしいのです。ここで云う佐吉の「くやしさ」は、もちろん佐吉が個人的に思うところの・恨みつらみから発してします。しかし、佐吉はその「くやしさ」が個人的なものだと、ちっとも思っていません。佐吉は、それが「人の道」として立たないから「くやしい」と言うのです。これは、「世間と云うのは薄情なものですねえ」と云うのと同じことです。世の中を見回せば、そんなことばかりじゃないか。だったら自分の力で卯之助を守るしかない。第四幕で佐吉がお新に対して言う恨みの言葉、「金持ちというのは無理と云うより、酷いものですねえ・・」と云う長台詞に、佐吉の「くやしさ」が溢れています。その「くやしさ」が公腹(おおやけばら=公憤)であるから、青果の生きた時代の大衆の「くやしさ」とも自然と重なって来るわけです。青果劇というのは、そのような構造になっているのです。

ですから佐吉の「くやしさ」を公腹であると認めるとすると、佐吉が(自分ではまだ気が付いていないようですが)「くやしさ」のなかに紛れ込ませてしまった個人的な感情がちょっと不純なものに見えて来るかも知れませんねえ。政五郎親分は、そこのところをさりげなく指摘してみせます。(この場面の白鸚の政五郎は実に巧い。さすがの貫禄と云うべきです。)

 「俺が育てたから、俺が可愛いからと云うのは、子を持たねえ隠居が犬猫飼って可愛がるのと同じだ。卯之助さんは人の子だよ、人間だ。今はまだ幼ねえが、あの子の一生の幸せってものを考えてやらなきゃ、お前、そりゃア嘘と云うもんだぜ。」

という台詞が、それです。吉之助が感じるところでは、「隠居が犬猫飼って可愛がるのと同じ」と云われた時に、佐吉は一瞬色をなしたかも知れません。しかし、政五郎親分の手前それを面に出すわけにはいかぬ。そこを踏みとどまって冷静に考えてみるに、「確かに親分の仰る通り俺の感情が出過ぎたかも知れぬ」と云う思い入れしばしあって、佐吉は卯之助に親元へ返すことを承知するのです。佐吉が訴える・この「くやしさ」を親分が然りと受け受け取ってくれるならば、それならば佐吉は「立つ」と云うことです。それならば泉下の仁兵衛親分も許してくれであろう。だから佐吉と政五郎の間ではきちんとした論理(ロジック)の応酬が出来ており、そこに涙が入り込む余地はまったくないわけです。そこが青果らしいところです。長谷川伸ならば、ここで泣きになるでしょうねえ。(この稿つづく)

(R4・5・5)


3)佐吉の初一念

話しが前後しますが、第三幕で丸総(実家)が卯之助を力ずくで取り返そうとしたことから激しい争いとなり・初めて人を殺めてしまった佐吉が仁兵衛親分から所場を奪った成川を討つ決心をするところで、「人間・捨て身になれば怖いものなんかない」と言っています。この佐吉の言を取ってこの芝居はこの6年親分の仇討ちに踏み切れなかった佐吉の成長物語だとする見方もあるようですが、そういう読み方もあるものですかねえ。この危急の場面に於いては佐吉は卯之助を連れてどこかへ逃げる、その方が賢明であるように思います。どうしてあの場面で佐吉の脳裏に突然「成川」が出て来るのか?ちょっと普通でないと思いませんか?そう云うことを考えてみなければなりません。そこは佐吉の「くやしさ」を考えないと分からないと思います。

結局6年前に佐吉が卯之助が引き取り育てることになった経緯・たった今卯之助を返す返さないで刃傷沙汰にまで至った顛末を思い返してみるに、すべての発端は浪人成川が仁兵衛親分を斬って所場を奪ったことに発しているということです。仁兵衛親分の「くやしさ」の原因がそこにあるからです。佐吉は親分のくやしさを自分のくやしさにして、卯之助を育て続けて来ました。だからこの絶体絶命の場面で、突然「成川」のことが頭に浮かぶのです。「そんなこんなになったのも、ぜんぶ「成川」のせいだ、コンチクショウ」となっているのです。しかも大事なことは、それが佐吉が自暴自棄になって出た激情ではなく、佐吉が6年間培ってきた論理的な結論として出たものだと云うことです。実はこの「くやしさ」こそ、佐吉の「初一念」です。ちなみに青果の「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」初演は昭和9年(1934)2月東京劇場ですから、「荒川の佐吉」初演の2年後のことになります。佐吉と大石内蔵助は、まったく同じ論理の下で動いているということが分かると思います。

もうひとつ付け加えなければならない大事なことがあります。佐吉は成川があの時の浪人だと知りませんでした。しかし、佐吉が成川に向かって行った時、成川は佐吉のことを覚えていました。成川は、「あの時(六年前)お前(佐吉)が俺に「勝つ奴が強いんだ」と言ったから・なるほどと思って・俺は仁兵衛を斬ることにしたのだ」と言い放ちました。これは佐吉には相当なショックであったと思います。これはつまり、「そんなこんなになったのも、ぜんぶ「成川」のせいだ」と佐吉が思っていたことが根底から崩れたということです。元をただせば、全部あの時の自分の軽々しい一言から発していたと云うことです。と云うことは、「勝つ奴が強いんだ」と云うテーゼはそもそも正しかったのであろうか?勝つ奴が正しい奴とは限らない。そうすると「容(い)れられるはずのことが容れられない」やくざの世界はどうなる?そこに佐吉の思いが至らないはずはないと思うのですね。まあしかし、そう云う面倒なことを考えるのは、とりあえず仁兵衛親分の仇(成川)を討ってからの話しではある。青果の戯曲では、その後の佐吉の心境にまったく触れていませんねえ。これは新国劇の募集プロットがそうなっていたのかも知れないし、恐らく戯曲の流れが錯綜するからマズいと云うことで青果が書かなかったのだろうけれど、ここにもうひとつ大きな心理的ドラマがあるはずです。第四幕で卯之助を丸総(実家)に返した後・佐吉が所場を捨てて「一介の三下奴として旅をしながら生きていきたい」と結論を出したところに、多分それが通じているのではないでしょうか。「荒川の佐吉」が佐吉の成長物語だと読むのならば、そこのところだろうと吉之助は思いますね。(この稿つづく)

(R4・5・6)


4)新歌舞伎の表現

今回(令和4年4月歌舞伎座)の「荒川の佐吉」の舞台は配役バランスも良く、みんな生き生き演技して・なかなか良い出来に仕上がりましたが、気が付いたことをちょっとだけ記しておきます。幸四郎の佐吉は今回が二回目だそうですが、幕切れに桜の花がパッと咲いて散る・爽やかなところを見せてくれて、後味がなかなか良かったと思います。

本作の前半と後半に約6年の歳月があるわけです。その6年の間の佐吉の印象の変化・人間としての成長具合をどう描き分けて見せるかが役者の工夫の仕どころだとなるのは、まあ分かる気がします。初演の羽左衛門も「最初はみすぼらしく哀れで、最後に桜の花がパッと咲くような男の芝居」がしたいと言っていたくらいですから、考えるところは同じだったと思います。後半(第四・五幕)の幸四郎の佐吉は、腹が据わった感じでなかなか良いです。そうなると、前半(第一・二幕)の佐吉をもう少し軽い・と云うか弱々しい印象に仕立てたくなる、そうなることも十分理解は出来ます。しかし、宇野信夫の「ぢいさんばあさん」ではないのですから、そこまで歳月の差を意識する必要はないと思いますがね。そういう見掛けの「らしさ」というものは、表層的なものです。もともと歌舞伎の役作りはどうしても表層的な「らしさ」(パターン思考)に固執してしまい勝ちなものですけれど、新歌舞伎はもうちょっと違うところを目指していると思います。そこが新歌舞伎の近代的演劇の要素なのです。むしろ佐吉が生来変わらず持っているもの、佐吉の正義感や一本気な性格・自然と出て来る人間としての度量の大きさとでも云うか、そう云うものが見えてくるならば、それで十分だと思います。それが佐吉に、6年もの歳月、「くやしさ」という初一念を維持させたものです。

前章で引用した尾崎宏次の言にある通り、「青果は時や人を証明する芝居を書いた。時がくずれ、人が変る芝居ではなかった」と云うことなのです。そう考えるならば、幸四郎の前半の佐吉は、ちょっと柔過ぎたのではないでしょうか。もう少し声を低めにして、口調を工夫する必要がありそうに思います。しかし、幕切れの江戸に別れを告げる佐吉は良く出来ました。

白鸚の親分政五郎が素晴らしいことは先に触れましたが、第四幕では魁春の丸総女房お新も上手い。如何にも伝統の女形らしい様式的な感覚を保ちながら、それが新歌舞伎の額縁のなかにぴったり収まっています。上手いと云えば、普段の梅玉のイメージにない役柄であるけれども、梅玉の成川も世を拗ねた感覚を表現して、これもよく出来ました。

(R4・5・7)



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