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初代辰之助の吉三・二代目松緑の弁秀

昭和57年1月国立劇場:「吉様参由縁音信」

初代尾上辰之助(三代目尾上松緑)(湯灌場吉三)、二代目尾上松緑(斎坊主弁秀)、七代目中村芝翫(愛妾お光実は湯島のおかん)、十七代目市村羽左衛門(小堀弥平次)、八代目坂東彦三郎(初代坂東楽善)(小堀左門之助)、二代目市村萬次郎(召使お杉)、十代目岩井半四郎(洗濯婆おとら・八百屋久四郎)他


1)「八百屋お七」の系譜

本稿で紹介するのは、昭和57年(1982)1月国立劇場での、初代辰之助の湯灌場吉三・二代目松緑の弁秀による、珍しい半通し「吉様参由縁音信」(きちさままいるゆかりのおとずれ、通称「湯灌場吉三」または「小堀政談」)の映像です。黙阿弥の「吉様参」は明治2年(1869)7月東京中村座での初演。この時に吉三を演じたのは若き日の五代目菊五郎、弁秀は中村仲太郎。評判は悪くなかったようですが、この芝居が人気狂言となったのは、大正7年(1918)7月の二長町市村座で六代目菊五郎の吉三・初代吉右衛門の弁秀という組み合わせで評判になって以降のことで、以後「菊吉」コンビの世話物の代表作のひとつと云われています。

大歌舞伎で埋もれていた本作を菊吉に勧めたのは、名興行師と云われた田村成義でした。しかし、聞くところでは初代吉右衛門が「初演で中村仲太郎なんて全然知らない役者が演じた役なんてイヤだ」と散々ゴネたそうです。仲太郎とはあまり聞かない役者ですが、どうも初演の一座に適当な役者がおらず間に合わせの配役だったのではないかと云われています。当時の初代吉右衛門は九代目団十郎系統の時代物で売り出しの真っ最中であったので、二級の役者が演じた世話のチョイ役なんてやってられるかと云うことであったようです。ところが演じてみると、菊吉の息がピッタリ合って・軽妙なやり取りが大評判となったのです。このように初演では大した役でなかったものを後世の役者が大きくしたと云う例は、「忠臣蔵」の定九郎とか「天下茶屋」の元右衛門など、いろいろ挙げることが出来ます。

ところで「吉様参由縁音信」は明治2年(1869)7月東京中村座での初演と云うことは、明治維新の直前・慶応2年(1866)5月に四代目小団次が亡くなってから、まだそう年月も経っていません。この時、黙阿弥は54歳でした。河竹繁俊は、小団次との提携期後半(万延元年初演の「三人吉三」辺りから小団次の死までと考えて宜しいでしょう)を黙阿弥の「成熟期」と位置付け、新富座(開場は明治8年・1875のこと)時代以降を黙阿弥の「円熟期」と位置付けています。明治2年の時点の歌舞伎界は、小団次を失った黙阿弥の目からすると、九代目団十郎は30歳・五代目菊五郎は25歳で、二人とも才能豊かとは云え・まだ心もとない。黙阿弥が「ヨシこの二人に賭けてみよう」と心に決めるまでには、まだ多少の歳月が必要だったのかも知れません。そう云うわけで明治2年の「吉様参」は、黙阿弥の成熟期と円熟期を繋ぐ「過渡期」の作品と云うことです。それにしても、この時期の黙阿弥の手腕が悪かろうはずはないですが、或る意味に於いて本作は、小団次という後ろ盾を失った黙阿弥の失意の時期の作品とも言えるのではないでしょうかねえ。小団次が生きていれば・この時57歳、弁秀を演じたのは当然小団次であったでしょう。「もし小団次が生きていれば・・・」という黙阿弥の口惜しい気持ちは、明治6年(1873)6月・東京中村座初演の「梅雨小袖昔八丈」(髪結新三)でも察せられます。

ところで本作「吉様参」は、講釈タネで青山に住む小堀という旗本の御家騒動の筋に、「八百屋お七」の趣向を絡ませたものです。これは火事場で出会った恋しい男(吉三郎)に再び逢いたいがために火付けの罪を犯したお七と云う娘の(史実であったかどうかも定かではない)話を元にしています。江戸の民衆ならば誰でも知っている八百屋お七の話を「趣向」に取って、これを在来の「世界」に絡ませるところに江戸期の狂言作者のセンスが問われ、観客はそれを愉しんだということです。別稿「八百屋お七の史跡」をご参照ください。)

「八百屋お七」の趣向を借りた作品が、黙阿弥には三作あります。ひとつめは、「松竹梅雪曙」(通称「櫓のお七」、安政3年・1856・江戸市村座)です。これはお七の趣向をほぼ素直に取った印象ですが、ふたつ目の「三人吉三」(万延元年・1860・江戸市村座初演)になると、八百屋お七の成りをした泥棒(お嬢吉三)が登場する形へと変わります。大川端でおとせがお嬢に名前を聞くと、「八百屋のお七と申しますわいなあ」と答える場面は、江戸の観客がニンマリしたところなのです。筋自体は八百屋お七に付いてはいませんが、吉祥院の場でお嬢吉三が欄間に隠れる場面はお約束で、大詰で櫓の太鼓となるのもお約束です。三つ目が、明治2年東京中村座での「吉様参」で、これが江戸の狂言作者の手になる最後の「八百屋お七」物です。

本作では、明治の世ということが関係するだろうと思いますが、お七の趣向は実説(とされるもの)に沿ったものになっており、ここでの吉三はお七の恋人ではなく(お七が恋するのは小堀家の嫡子左門之介)、寺の名前も円城寺(実説通り)となっています。実説での吉三郎は寺の門前にうろつく無頼漢で、お七に火付けをそそのかす悪い男です。「吉様参」での吉三の湯灌場買いと云うのは、寺に葬る仏が身につけているものを払い下げてもらう商売で、賤しい商売とされていました。それだけ趣向がリアル(本説)の方に寄っており、形骸化し始めていると云うことです。お七が太鼓を打つお約束も、お七が八百屋の裏口で櫓を見上げて「やわか打たいでおこうかいのう」とほのめかすだけに止めています。欄間の件も、小石川の「天人香」の屋根の看板の前で吉三が横になってポーズを決めると、下から女泥棒おかんが「天人香の看板にお七気取りの吉三さん」と呼び掛ける形となっています。随分と形が変ってしまったものですが、趣向がここまで変奏されていくのはまことに興味深く、当時の観客は趣向を見付けて「アッここが八百屋お七だね」と喜んで手を叩いたのだろうと思います。(この稿つづく)

(R4・3・28)


2)初代辰之助の吉三・二代目松緑の弁秀

前述の通り「吉様参」は黙阿弥としては「過渡期」の作品で決して上作とは云えぬようですが、市井の風俗を細かく描いて、弁秀や洗濯婆おとらなど風変りなキャラクターが登場するので、そこが興味深いところです。ところで弁秀という役ですが、「中村仲太郎と云う名のない役者が勤めた役で元々軽い三枚目の役で大した役ではなかった」と解説本にはよく書かれていますけれど、仲太郎は初演では他にも小堀家の悪家来・代旗龍左衛門と八百屋久四郎(どちらも本筋に絡む役で小さくない役です)を勤めており、この事実を見ても、仲太郎はかなり腕が立つ重宝な役者であったに違いありません。芝居のなかの弁秀の台詞を見ても相当な分量で、出番も多い。黙阿弥が弁秀を軽い三枚目の端役のつもりで書いたとは、吉之助にはとても思えません。もし小団次が生きていたならば、小団次が弁秀を演じて当然のものだと思います。それで五代目菊五郎が演じる湯灌場吉三とちょうど釣り合いが取れると思います。(多分初演を見たのだと思いますが)田村成義はそこのところをちゃんと見抜いたのです。

忘れてはならないのは、幕末から明治初めの歌舞伎というのは、文化文政から天明期の隆盛期から見ると、或る種の「停滞期」だったと云うことです。大名題に良い役者が少ない時代でした。後に明治の歌舞伎をリードすることになる九代目団十郎・五代目菊五郎・四代目芝翫らはまだ若輩です。この時代は大名題がそんなお寒い状況でしたが、その一方、名題下の役者連中には腕利きがゴロゴロいました。例を挙げれば、「直侍」の按摩丈賀の初演を勤めたのは名人と謳われた四代目尾上松助で・今では大名題も喜んで勤める儲け役になっていますが、初演(明治14年・1881)当時の松助はまだ名題下の役者でありました。松助が名題に昇進するのは、その翌年のことでした。このことだけでも当時の歌舞伎の状況が分かると思います。

ですから黙阿弥の芝居などでも、名題下の役者が勤める脇役の台詞の方が写実(リアル)で面白く書かれており、主役級の台詞の方は、七五で割ってしゃべりたくなりそうな・つまりリズムに乗りさえすれば何とかなりそうな様式っぽい感じで書かれています。「吉様参」を見てもこのことは明白で、ここでは脇役を活かすように芝居が書かれてます。脇役が自分の持ち場で主役顔負けの芝居をして見せるから、芝居の細部がますます面白くなっていくのです。極端に云えば、本筋なんかどうでも良くなってくるのです。このことは「吉様参」を見ても察しが付くと思います。今の歌舞伎役者(劇評家もですけどね)は、そういうことが分かっているのでしょうかねえ。脇役が「どうせこの役は脇の役ですから・このくらいに演ってれば分相応でしょう」とやっていれば、芝居が面白くなるはずがないと思うのですがねえ。今回(昭和57年1月国立劇場)の「吉様参」の映像を直して、当時もそんなことを感じたことを思い出します。あれから40年の歳月が過ぎましたが、「吉様参」は一度も再演されていません。このことも寂しいですねえ。まあ決して名作とは云えないかも知れませんが、やってみないとその価値は分かりません。歌舞伎には掘り起こせば、まだまだいろんな宝物が埋まっていそうに思うのですが。

晩年の二代目松緑には、荒事や重厚な時代物を得意としたイメージがありました。同じ月にも歌舞伎十八番「象引」の箕田源二猛を演じていますから・線が太い剛毅な印象が強いせいもありますが、この弁秀は小回りが利かぬ重い印象で、軽妙さが足りない不満がかなりあります。台詞が重くて生世話になっていないと思います。生世話になっていないと云えば、初代辰之助の台詞も、キビキビしたリズムで歯切れは良いのだけれども、生世話とは言えません。辰之助の湯灌場吉三はサッパリして気風(きっぷ)が良くて・それだけ見ればいい感じなのだけれど、市井の最下層であがいている風にはとても見えません。台詞の二拍子の調子が強過ぎてパサパサした感触がします。しかし、持ち金を強請り取られてスゴスゴ帰る弁秀を呼び止めて「遠方ご苦労ッ」と声を掛けてやりこめる場面は、辰之助は声がよく通りますから、観客がドッと笑って、そこは良かったですね。ただし、あまり黙阿弥的とは云えませんが。「天人香」の屋根の看板の前で吉三が横になってポーズを決める場面は間合いに気取ったところを見せないと面白くなりませんが、辰之助は恥ずかしかったのかな、いまいち観客にアピールしていない感じがします。こう云う場面は、役者が照れちゃいけません。芝翫の愛妾お光(実は湯島のおかん)はちょっと幕末の草双紙の味わいがするので期待しましたが・ホンのちょっとで、もっと濃厚に突っ込んで演じてみても良かったのでは。

(R4・4・3)



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