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六代目歌右衛門の最後の政岡

昭和63年12月国立劇場:「伽羅先代萩〜花水橋・御殿〜床下」

六代目中村歌右衛門(乳人政岡)、三代目河原崎権十郎(八汐)、七代目中村芝翫(栄御前・足利頼兼)、五代目中村松江(沖の井)、六代目中村東蔵(松島)、九代目市川団蔵(荒獅子男之助)、二代目中村吉右衛門(仁木弾正)他

*比較映像:昭和58年5月歌舞伎座:「伽羅先代萩」


1)歌右衛門のレガート

本稿で紹介するのは、昭和63年(1988)12月国立劇場での「伽羅先代萩」の舞台映像です。歌右衛門は、この時71歳でした。結果的に、この時が六代目歌右衛門の最後の政岡になってしまいました。云うまでもないことですが、政岡は、歌右衛門の・恐らく五指に入るであろう代名詞的な当たり役であり、演じた回数もまた多かったのです。

昭和62年9月歌舞伎座での「九代目坂東三津五郎襲名披露興行」の千秋楽に「喜撰」のお梶を踊った歌右衛門が転倒し手首を骨折した事件については別稿で触れました。歌右衛門は、その後すぐに復帰しましたが、吉之助の記憶では、この事件を境に、その後の歌右衛門は目に見えて体力が落ちてきて、はっきり最晩年期に入ったことが明らかとなりました。転倒事件から約1年が経過した・この昭和63年12月国立劇場の「先代萩」の政岡の舞台も、吉之助は生(なま)で見ましたが、今回映像で見直しても、弱々しい感じが見えます。ただし、それは決して出来が悪いということではありません。確かにピーンと張り詰めた緊張感は弱まったけれども、代わりに滲み出てきた暖かいものがありました。そこに最晩年に入った歌右衛門の新境地を見る思いがします。

歌右衛門の政岡を論じるのであれば、手元にある昭和58年(1983)5月歌舞伎座の「先代萩」映像(歌右衛門66歳)の方が体力・気力共に充実しており、こちらを材料に論じた方が良いには違いありません。舞台詳細については別の機会に譲ることとしますが、本稿で考えたいことは、人間誰でもいつかは体力・気力が下り坂になる時期が来る、そのような事態に直面した時、役者は如何にして・芸の最後の実りを見せるべく努めるかと云うことです。恐らくそれは役者の「生き様」ということに深く関連します。昭和63年12月国立劇場の「先代萩」映像には、昭和58年の歌右衛門とはまったく異なる新しい政岡像が見えます。

現代は、老いというものをネガティヴな感覚で捉えることが多いようですねえ。世間的にその傾向がますます強まっています。容色が次第に衰える・身体がだんだん動かなくなってくる、そういうネガティヴな感覚で役者の老いを捉える風潮がますます強くなっています。逆に「歳を取っても変わらぬ美しさ・いつまでも若々しい」というのが、役者の芸の最高の褒め言葉のように使われます。まあ確かにそのように若々しく見える方も現実いらっしゃいますから・その方を貶めるつもりは毛頭ないですが、66歳ならば・66歳の時なりのベストの政岡を、71歳ならば・71歳の時なりのベストの政岡を見せるのが、「芸」というものだと思います。もし71歳の政岡が、66歳の政岡とホントに全然変わってないならば、それは「進歩がない」と云うことです。だから「全然変わらぬ美しさです」なんて云う言葉をもし言われたならば、言われたご本人(歌右衛門)はガッカリすると思います。それはお客が71歳現在の自分の「芸」を見てくれていないと云うことだからです。

幸い吉之助は歌右衛門の芸が完成し晩年に至る時期をほぼ生(なま)で見ることが出来ました。記憶を呼び起こしながら、歌右衛門の最後の政岡を考えてみたいと思います。吉之助が記憶する昭和50年代の歌右衛門は、どんな役においても・自分がやるからには・この役が持つ情念をとことん描き出さずに置くべきかと云う感じでありましたね。そう云う舞台に辟易なさる方は当時も少なくなかったと思います。しかし、吉之助にはそのような歌右衛門の芸の緊迫感が心地良かったですねえ。例えば歌右衛門の政岡の飯焚きの手付き、それが茶道の作法に則っているとか何とか・そんなことはどうでも良いのだが、歌右衛門の手付きの・ひとつひとつが何やら重い意味を持っているように思えて、その手のひとつでも見逃してはならぬ気がして、息を詰めてその演技を見詰めたものでした。昭和58年の「先代萩」の映像を見直しても、吉之助の脳裏に歌右衛門の政岡の手先の、ヒラヒラした感覚が蘇って来ます。同時に、その時の歌舞伎座の客席の雰囲気までもありありと思い出されるのです。

昭和58年の歌右衛門の政岡の映像を見ると、息を詰めて自分のなかのイメージをきっちり形に彫刻していこうとする強い意識を感じます。仮に名人の描いた絵の描線を薄くコピーした画用紙が目の前にあったとして、「名人の線を体験するために・その線を鉛筆でなぞって(トレースして)みてください」と言われたとします。鉛筆で名人の線を慎重になぞりながら、どのような呼吸をするでしょうか。ちょっと気を抜けば、鉛筆は名人の線からそれてしまいます。名人の線をたどることに全神経を集中すると、息を深く保った状態を続けなければなりません。それは呼吸をしないということではなく、横隔膜を下げて息を腹に溜めた状態で、車のエンジンをアイドリングするように、細かく横隔膜を上下させながら・微小な呼吸を続ける状態を保つのです。これが「息を詰める」ということです。。

『長い射程をもってテンポをあげていき、同時にクレッシェンドして頂点に到達しようとする、そんな箇所の失敗がどれほどあったことだろう。クレッシェンドの始まりが遅くて、頂点には到達できなかった。あるいは早過ぎると、すべてのエネルギーは空費され、頂点に達する余力が残らない、など。これらが何年もいっしょに味わってきた体験である。さてプローべとなると、まずこの体験について話し合って、最初は技術的な側面から手直しを試みなければならない。指揮者から即されずともオーケストラは自発的にクレッシェンドを始めなければならない。(中略)しかし、その前に年々と積み重ねた作業が要るのだ。ひとつの作品を一回こっきりのプローべで仕上げるのは不可能だ。オーケストラの側だけに責任があるのではない。何十年もの間の努力と作業と愛情によって、内的な緊張を保ちながら進んでいくことが可能になる。魂の基本的なありようを表現すること、そしてそれを人々に伝えることが常に肝心なのである。』(ヘルベルト・フォン・カラヤン:「プローべ」・書かれなかった本からの二章〜フランツ・エンドラー:「カラヤンの生涯」に所収)

カラヤンが指揮の秘密について書き・結局生前には出版されることのなかった原稿からの引用です。「長い射程をもってテンポをあげていき、同時にクレッシェンドして頂点に到達しようとする」、そのような旋律があるとします。それがどのような線を描きながらテンポを上げていくか・クレッシェンドはどのような線を描きながら高まっていくか、実はそのようなことを楽譜は曖昧にしか指示していません。それは指揮者の頭のなかのイメージにあります。プローべ(リハーサル)では、指揮者は自分のイメージをオーケストラに伝え、根気良くそれを具現化していかねばなりません。それは指揮者の頭のなかにある旋律線のイメージを注意深くなぞる(トレースする)作業なのです。カラヤンとベルリン・フィルのレガートの美しさは空前絶後と言われたものでした。そのために指揮者とオーケストラとの間にどれほどの「息を詰めた」 旋律線のトレースの作業の積み重ねがあったかは想像を絶するものがあります。こうしてあのカラヤンの奇蹟のレガートが生み出されたのです。歌右衛門の政岡のクドキの、あのヒラヒラした手先の動きも、これとまったく同じものです。(この稿つづく)

*上の写真は、昭和34年(1959)11月歌舞伎座・「桜姫東文章」終演後に楽屋を訪れて六代目歌右衛門に挨拶するカラヤン夫妻。

(R3・11・25)


2)芝居の方へ寄ったクドキ

音楽でも芝居でもそうですが、長くそれを見続けていれば、それが自分の人生の時間と必然的に重なって来ることになるので、芸術家の芸の変化の有り様がひときわ味わい深いものに見えて来る、つまり「あはれ」に見えて来る、そう云う瞬間があるものです。ちなみに・ここで云う「あはれ」とは、喜び・笑い・悲しみ・苦しみ・妬み・恨みなど、すべての人間感情を包括したところで、心が大きく動かされることを指します。「あはれ」というのは、あらゆる事物のなかにあって「Ah(アー)」に響きを作り出すもののことです。(別稿「憤る心」をご参照ください。)これは芝居の内容に感動するのとは、(当然オーバーラップしてくるわけですが)またちょっと次元が異なるものです。

今回(昭和63年12月国立劇場)の「伽羅先代萩」映像を見直しても、そんなことを感じますねえ。まず感じることは、昭和58年・歌右衛門66歳の政岡では緊張が内へ凝縮するような感覚であったものが、昭和63年・歌右衛門71歳の政岡では、その縛りがいくらか弱くなったように感じることです。その代わり内面の感情が外に滲み出る感覚へと変化したようです。

例えば八汐が千松を刺して「コレ政岡殿、現在の其方の子、悲しうもないかいの、・・・・これでも此方は何ともないかや、これでもかこれでもか」となぶり殺しにする件で、千松がアーッと苦しみの叫びをあげる度に、歌右衛門71歳の政岡は、苦しげに表情をキュッと歪めるのです。政岡の内面の苦しさをキュッ・キュッという感じではっきり表に出しました。この場面で政岡の内面の葛藤をあからさまに見せることは、これまでの歌右衛門にはなかったものです。これまでだと、政岡は表情を硬く引き絞り・内からこぼれ出る感情を必死に押さえ込もうとする演技になったところであろうと思います。

但し書きを付けると、吉之助は歌右衛門66歳の政岡と・71歳の政岡とどちらが良いとか・悪いとかの話をしているわけではなく、歌右衛門はそれぞれの時点に於いて「これ以外にあり得ない」という演技をしているのですから、一人の役者の芸の変遷を素直に味わいたいと思うのです。引き較べれば、66歳の政岡では、彼女を取り巻く忠義と滅私奉公の封建論理の縛りの強烈さをはっきりと見せました。一方、71歳の政岡では、そのような非情な世界に生きねばならなかった親子の哀しみが縛りの隙間から漏れ出て見えると云うことなのです。そこには、もちろん歌右衛門の体力的な問題が背後に微妙に絡んでいるに違いありませんが、とりあえずそれは政岡の質感の変化となって表れています。

同時にそこに時代的感性みたいなものも複合的に絡んでいるようにも思います。これは個人的に吉之助が感じていることですが、ほぼ同時期にカラヤンも似たような芸風の変容を示しています。ちなみにカラヤンは1908年生まれで・歌右衛門よりも9歳年上であり、1989年に81歳で亡くなりました。1960〜70年代の緊張感あるフォルムの縛りが強い芸風から、大体1985年頃から若干テンポが遅めになり、フォルムの縛りが緩くなって・内面から温かいものが滲み出る感じへと、晩年の芸風が大きく変化しました。前章で吉之助のカラヤンのレガードのことを長々書いたのには、実はそのような背景があったわけです。或る意味で・世界的な時代的感性を踏まえたところで、カラヤンと歌右衛門の芸風がシンクロしたような印象を吉之助は持っています。片やクラシック楽壇の帝王・片や歌舞伎界の女帝ということで、その歴史的役割も似たようなところがあったわけですが、両者ともに晩年に至って・似たような芸風の変化を見せたところを、吉之助は実に興味深く思っています。

そのような歌右衛門の芸風の変化は、例えば「コレ千松、よう死んでくれた・・」のクドキの場面にも見られました。歌右衛門66歳の政岡には、千松の死を悲しむ気持ちと同じくらいに我が子の死を誇らしいとする気持ちが強くて・その矛盾した感情のなかで引き裂かれる状況が「屹立する」光景がはっきりと見えました。それは完璧に制御されたもので、踊りであるのか芝居なのか・まったく区別が付かないところで、或る種異様な緊張感のなかに立っていたものでした。しかし、そういう意味では、歌右衛門71歳の政岡のクドキは、踊りから芝居の方へ、つまり様式から写実の方へいくらか寄っていたかも知れませんねえ。それがどこか温かい感触を生み出しているのです。「よう死んでくれた・・」のクドキ前半も、どこか温かく感じられます。それは母親の生(なま)な感情に裏打ちされているからです。所作の細部まで神経が行き届いた緊張が後退して、フォルムの縛りが緩んだところから、母親としての熱い感情が漏れ出したということです。そう云うところを躊躇(ためら)わず出すようになったところが、晩年の歌右衛門の芸であったなあと思うのです。

(R3・12・24)




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