(TOP)     (戻る)

「恐いのは人の心の闇でございます」

令和3年8月歌舞伎座:「真景累ヶ淵〜豊志賀の死」

二代目中村七之助(富本の師匠豊志賀)、二代目中村鶴松(弟子新吉)、六代目中村児太郎(羽生屋の娘お久)、三代目中村扇雀(新吉の叔父勘蔵)、六代目中村勘九郎(噺家さん蝶)他


1)「恐いのは人の心の闇でございます」

初代三遊亭円朝(天保10年・1839〜明治33年・1900)は、言わずと知れた江戸落語の大名跡。円朝は、お笑いの分野になる滑稽噺よりも、人情噺や怪談噺などどちらかと云えば講談に近い、笑いがないシリアスな噺芸の方で独自の地位を築きました。舞台化された作品は数多いですが、怪談噺では「牡丹灯籠」(明治17年出版・1884)・「怪談乳房榎」(明治21年出版・1888)・「真景累ヶ淵」(明治21年出版・1888)といったところです。(注:「真景累ヶ淵」を最初に口演したのは安政6年・1859・円朝21歳の時であったとのこと。)これらの作品がどれも明治10年〜20年頃の速記録出版というところがひとつのポイントで、この頃は文明開化の嵐が最も激しかった時期でした。長谷川如是閑はこう語っています。

『あの時代は天保人という言葉がありましたね。旧弊だということですが、そう言われることを極端に嫌った。今ではそういう考え方をすべて「反動」で片付けていますが、(中略)すべて生活者の意識、つまり一般人の革新の意識、というよりは実践の気組みが強かった。この文明開化を唱えた十年代の欧化政策に対して、二十年代の政治意識はやや極端でしたが、(中略)しかし、生活人としての運動でした。今はインテリの運動で、生活人は高みの見物です。歴史的に見ると、明治時代は社会人に時代の意識が強くて、だから専門家も社会人としての意識によって、時の歴史に協力したわけです。』(折口信夫との座談会:「日本文化の流れ」・昭和24年2月)

変革の機運が、生活者である民衆のレベルからも湧き上がっていたというところが大事になります。御存知の通り明治のキーワードは、文明開化・殖産興業ということでした。列強のアジア進出の脅威に対して一刻も早く国を整備することが、明治政府の急務でした。しかし、そう云うこととは関係なく、庶民のなかに自然と湧き上がった変革の機運があったのです。「天保人」とは江戸の残渣を引きずって新しいことを取り入れようとしない人間への蔑称でした。「お前は天保人だ」と言われることは、お前は時代遅れの役立たずだと言われるのと同じことでした。こうした明治初期の民衆の変革の気運は、明治初期の芸能全般を考える時にとても大事なことです。そんななかで九代目団十郎を駆り立てた歌舞伎の演劇改良運動も起こったのです。

円朝の「真景累ヶ淵」は江戸初期に流布した「累ヶ淵」説話を下敷きにした創作ですから、舞台となるのはもちろん江戸時代です。つまりチョンマゲの時代の噺です。累(るい・かさね)の物語は、歌舞伎の四世南北の「色彩間苅豆(かさね)」を始めとして、講談や読本でも数多く取り上げられました。(別稿「お化け芝居の明晰さ」をご参照ください。)そのような「累」物の集大成として円朝の「真景累ヶ淵」があるわけですが、大事なことは、もう既にチョンマゲも帯刀も消えてしまった明治時代に、円朝が纏(まと)めた怪談噺であると云うことです。ちなみに円朝は当初の演題を「累ヶ淵後日の怪談」とするつもりでした。これを「真景累ヶ淵」と改めたのは、明治の文明開花のなかで「幽霊なんかいない。あれは神経症の産物だ」という考え方が生まれて来て、「神経」と云うのが当時の流行語であったそうで、それで「しんけい」をもじって「真景」と付けたのだそうです。その心は、「幽霊なんかいない。罪を犯した者が、その罪悪感から神経を病んで、それであらぬもの(幽霊)を見てしまうのだ」と云う事です。

このような考え方を反映しているのが、演題名だけであるはずがありません。この考え方は、円朝の作品全体に反映しているのです。もちろん「牡丹灯籠」や「怪談乳房榎」でも同じことです。吉之助は無精で「真景累ヶ淵」全体は読んでませんが、歌舞伎の「豊志賀の死」に相当する原作(円朝全集・真景累ヶ淵・第15〜第20まで)だけでもざっと眺めればこれは明らかなことで、趣がだいぶ異なるにしても脚色された芝居を見ても、そのようなことは確かに感じられます。つまり円朝の作意は、「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに恐いのは人の心の闇でございます」と云うところにあるわけです。これが明治の、文明開化の時代の、つまり新しい時代の円朝の怪談噺でした。

以後は話を「豊志賀の死」のことに限定しますが、表向きは豊志賀が嫉妬と怨念で化けて新吉に祟るという怪談噺の体裁を取ってはいますが、大事なことは「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに恐いのは人の心の闇でございます」と云うことにあるわけなので、円朝の意図するところは、豊志賀の嫉妬と怨念はもちろん恐いが、新吉の心のなかの闇も恐いし、もしかしたらお久の心のなかの闇も恐いのです。そう云うものが相互に作用しながら、時に人の心は闇(ダーク・サイド)へ大きく振れ、時に良心の呵責から犯した罪に怯え、時にあらぬもの(幽霊)を目の当たりにして、終には自ら破滅してしまうということなのです。そのような人間のドラマを、円朝は冷静な観察眼で描こうとしたのです。このような考え方は、明治初期の文明開化の合理主義とか科学性の洗礼を受けたものですから、これが円朝の怪談噺のなかの「新しい要素」だと云うことです。

一方、「豊志賀の死」も江戸時代から綿々と続く「累(かさね)」の怪談噺の尾っぽ(系譜)を引きずっているわけですから、表向きの部分・豊志賀が嫉妬と怨念で化けて新吉に祟るという体裁は、つまり明治初期の文明開化の日本が斬り捨てようとして捨てきれなかった江戸(過去)の残渣、或いは捨てようとしても尚まとわり付こうとする江戸の柵(しがらみ)、或いは否定しようとしても尚未練が残る懐かしい江戸の思い出であるかも知れませんねえ。(この稿つづく)

(R3・9・15)


2)円朝の怪談噺の「明晰さ」

別稿「お化け芝居の明晰さ」において、南北の「東海道四谷怪談」や「色彩間苅豆(かさね)」のドラマに見えるものを、因果論の陰惨さ・おどろおどろしさという感覚で捉えるのではなく、むしろ明晰なカラッとした感覚で捉える方が本来ではないかと云うことを考えました。最初に原因があって、その次に結果がある、両者の間に一本の筋がはっきりと見える、「これがこうなるから・こういうことになったのか、そうか分かったぞ」という感覚があるのならば、それは何かしら科学的な感覚であると言えます。それは、パッと明るく・すべてが見通せたような明晰な感覚です。

「かさね」は舞台面からして暗い物語であるように思うかも知れませんが、捕り手に絡まれた与右衛門がそこで手紙を見付け、これを広げて月明りに透かして読もうとポーズを取る・その瞬間、背景の黒幕がバッと切り落とされます。舞台の背後に、まだ薄暗い下総の田園風景が出現します。それは現代人の目から見ればはなはだ頼りない「薄暗さ」ですが、薄暗い行燈の灯で生活していた当時の江戸の人々にとっては、これで十分な明るさだったということを忘れてはなりません。背景の黒幕がバッと切り落とされた瞬間、与右衛門の旧悪が明かされ、かさねの因果の物語へ向けて、発端からこれまでの、すべてが一本の糸につながって、観客に物語が次第に見えて行く。それは江戸の人々にとって十分過ぎるほどの「明晰さ」なのです。この「明晰さ」の感覚が分からないと、南北のお化け芝居も円朝の怪談噺も、ホントの面白さは決して理解出来ないことになってしまうのです。

ですから前章で、明治の円朝の怪談噺の、「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに恐いのは人の心の闇でございます」という感覚を、明治初期の文明開化の合理主義とか科学性で説明しましたけれど、これは実はもっと正確に云うならばそれはそのような時代の風潮のなかで「アアなるほど、幽霊は神経病の産物だったんだね」と云う形で、因果論が追認される形で現れたものに過ぎなかったのです。よくよく考えて見れば、その根っこはずっと古くて、江戸の庶民の感覚のなかに長くからあったものでした。南北の「四谷怪談」や「かさね」のなかに見える「明晰さ」が、それです。

因果論が明晰な感覚で読まれた時代(江戸の世)から、これを暗さ・陰惨さ・おどろおどろしさで読まれる時代へと次第に変って行くわけですが、その分岐点は、恐らく明治末期から大正期のことであろうと吉之助は睨んでいます。明治初期が変革の気運が最も高かった時代で・江戸の残渣(旧弊)を引きずって新しいことを取り入れようとしない態度が軽蔑されたことは前述しました。変革の時代が終わると、明治末期からその行き過ぎた風潮に対する揺り返しが強烈に来ました。つまり江戸の昔を懐かしむ回顧趣味が生まれて来るのです。

しかし、ここが大事な点ですが、一度激しい否定の洗礼を受けたものは、まったく同じ様相で生まれ変わることは決してないのです。それは明治初期の文明開化の日本が斬り捨てようとして捨てきれなかった江戸(過去)の残渣、或いは捨てようとしても尚まとわり付こうとする江戸の柵(しがらみ)、或いは否定しようとしても尚未練が残る懐かしい江戸の思い出です。そうしたものは、もはや昔のような「明晰さ」で見えることはなく、薄暗いなかで何やらボーッと見えることになります。もう行燈の時代ではなくて、電灯の時代です。チョンマゲ・帯刀に戻れるわけではない。そのようなものは否定すべき非合理なものとして、否定されるべき旧弊・否定されるべき江戸という感覚と複合的に重なり合い、暗さ・陰惨さ・おどろおどろしさと云う、或る種ネガティヴな感覚で捉えられて行きます。

明治末期には、先進の教育を受けた知識人の・こんな人がと思う人が大変なお化け好きであったりして、怪談会などに嬉々として参加していました。合理主義一辺倒な世の中であるからこそ非合理に憧れるという側面もありますが(不思議なことですが、同時期に西洋の知識階級の間でも心霊会のようなことが流行しました)、そこに明治末期という時代の精神の微妙なところが見えて来ます。明治末期という時代には、とても捻じれたところがあります。それは江戸と明治との亀裂から来るものです。だから明治33年(1900)に亡くなった初代円朝は、まさにその端境期のところに立つわけですね。(この稿つづく)

(R3・9・17)


3)お化け芝居の原点とは

ところで、いつ頃からか分かりませんが、今回(令和3年8月歌舞伎座)の「豊志賀の死」でもそうですが、お化け芝居で観客がよく笑うようになりましたねえ。もう五十年近く前のことになりますが、吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代でも、笑うお客が全然いないわけでもありませんでした。「四谷怪談・浪宅」で伊右衛門が蚊帳を質に入れようとすると・お岩が蚊帳にすがりついて引きずられる場面で、六代目歌右衛門の・あの哀れでかつ恐かったお岩でさえ笑うお客がいたのを思い出します。あんな哀れを誘う場面が笑えるところなんですかねえ・・。もっともあの頃は、今ほど笑いが多いことはありませんでした。今の観客は、お化け芝居で、まるで笑うきっかけを求めているかの如くに笑いますねえ。例えば新吉が後ろに誰かがいるような気がしてふと振り向く、その仕草をきっかけに「待ってました」みたいにお客が笑うのです。あれは一体どう云うことなのでしょうかね。

お化け芝居で笑うお客の心理をつらつら考察するに、これはちょっと寒気を感じさせそうな場面で、「アッここで役者が私を恐がらせに掛かっているぞ、ドッコイ私はその手には乗らないよ」と笑って見せることで余裕のポーズを見せていると云うことかな?余裕を見せているようだけど・内心は怖いと云うことかも知れないと思うのですが、昨今お化け芝居で笑いが急激に増えた原因はそれだけでもなさそうです。現代と云う時代が、お化け芝居の恐さに、リアリティを感じさせなくなっているのでしょう。そう云う情感にシンミリ浸るような時代では、もはやないのです。お客を恐がらせようとする意図が透けて見え見えなので、観客は笑いでそこから逃げようとするということだろうと推測します。それならばお化け芝居の恐さの表現の仕方を根本から変えねばならないと思います。

「芸で恐さを感じさせろ」と云うけれど、口で云うのは簡単ですが、一体どうやればよろしいのでしょうか。そこで大事になることは、お化け芝居の原点に立ち返ることです。つまり「恐いのは幽霊じゃアございません。ホントに恐いのは人の心の闇でございます」というところに立ち返ることです。お客を恐がらせようとしないことです。歌舞伎が描くべきは、人間ドラマです。お化け芝居の真の恐さとは、幽霊の存在をドラマの「装置」にして、登場人物の心の闇をリアルに描き出すことです。それが正しく描けておれば、ワーキャー悲鳴を上げなくても、背筋にジワジワ寒気が来るはずです。

そこで円朝の原作(円朝全集・春陽堂・真景累ヶ淵・第15〜第20まで)を見ると、淡々と抑えた語り口で、お客を恐がらせようとする気配はまるでありません。歌舞伎での「豊志賀の死」は大正11年(1922)5月市村座で二代目竹柴金作が脚色したのが最初のことで、これが現行台本とまったく同じかは分かりません(だいぶ後世の手が入った感がします)が、円朝の原作と現行歌舞伎との大きな相違は、原作には七軒町での豊志賀の死の描写がまったくないこと、原作では豊志賀の死を新吉に知らせに来るのは(芝居では噺家さん蝶となっていますが)長屋の善六という男で・その登場もごくあっさりしたものであることです。

原作に豊志賀が死ぬ場面がないことは大事な点で、鮓屋の二階で新吉とお久が一緒のところに豊志賀が現れるのも、大門町の伯父勘蔵の家に豊志賀が現れるのも、そこに現れたのは生きている豊志賀かも知れぬとお客が思うように書かれているわけです。後で豊志賀の死が知らされて、アアあれは幽霊だったかとお客も思い返してゾッとするわけです。事実、新吉も勘蔵も、豊志賀の死を善六から知らされてゾ〜ッとはしますが・驚き騒ぐわけでもなく、確かにこの目で豊志賀の姿を見たことの実感を捨て切れていません。原作での七軒町の豊志賀の家に向かう途中の二人の会話を見ます。(芝居では二人が大門町の家を出るところで終わります。)

新「伯父さん、師匠はまったく私を怨んで来たに違いございませんね。」
勘「怨んで出るとも、手前考えて見ろ、あれまでお前が世話になって、表向き亭主ではないが、大事にしてくれたから、どんな無理なことがあっても看病しなければならねえ。それをお前が置いて出りゃア、口惜しいと思って死んだから、その念が来たのだ。死んで念の来ることは昔から幾らも聞いている。」
新「伯父さん、私は師匠が死んだとは思いません。さっき逢った時は、やっぱりふだん着ている小紋の寝衣を着て、涙をぼろぼろこぼして、私が悪いのだから元のように綺麗さっぱりと赤の他人になって付き合います、また月々幾ら送りますから姉だと思ってくれと、師匠が膝へ手をついて云ったぜ。・・」

(三遊亭円朝・「真景累ヶ淵」・第20)

リアルな実感がある淡々とした会話で、自然主義演劇の幕切れになりそうな感じですが、自然主義演劇の勃興はまだ先のこと。歌舞伎ではこんなシンミリした調子で幕を閉めるわけに行かなかったでしょう。円朝の噺から「豊志賀の死」の件だけを抜き出して、怪談芝居として起承転結付けるのは、なるほど難儀なようです。芝居で豊志賀の死の場面の挿入と、新たな役として噺家さん蝶を登場させたところに、狂言作者の苦心が察せられます。

今回(令和3年8月歌舞伎座)の「豊志賀の死」ですが、抜擢の鶴松の新吉は素直な出来で、まあ細かいところで注文付けたいところは多少ありますが、的は外していません。これからも頑張ってもらいたいですね。七之助の豊志賀も初役だそうですが、お久に毒付く辺りがちょっと強過ぎる感じ(もう少し内にこもった感じでお願いしたい)ですが、全体としては抑えた感じで悪くない出来です。後半の大門町の勘蔵家の場も、途中までは淡々とした調子で、出来はそう悪くありません。ところが勘九郎のさん蝶が登場すると場の雰囲気が一変して、お笑いの滑稽噺の幕切れになってしまいましたねえ。この噺家さん蝶と云う役ですが、「豊志賀の死」をゾッとする気分で幕を閉めるために狂言作者は随分苦労してこの役を創ったと思います。ここは、「アアあれはやっぱり幽霊だったか」と観客がゾッと感じるように、さん蝶が豊志賀の死の惨状を抑えて淡々と抑えて語るべきところでしょう。ところが勘九郎が高調子でキャーキャー恐怖を煽りたてる、観客は「待ってました、サア笑えるきっかけが来ました」みたいに笑う、後味の悪い幕切れになってしまいました。

確かにあの場面の勘九郎は親父さん(十八代目勘三郎)を彷彿とさせました。しかし、あれが亡くなった親父さんの悪いところでした。何でも「芝居を楽しくする・笑える勘三郎」にしてしまいました。だから真面目な役で本人は神妙に勤めていても、ちょっとおこつくだけでお客が笑うようになってしまいました。それで晩年は随分損なことになったと思います。お客が笑うから本人も受けてると勘違いして・つい熱演しちゃうのだろうが、そう云うところが親父さんの芸の悪いところであったと、勘九郎ははっきり認識してもらいたいと思いますねえ。勘九郎の適役は、親父さんとはちょっと違うシリアスで熱く太い役どころであろうと思います。勘九郎が次のステージに行くために、親父さんのそう云う悪いところを振り捨てて行かねばなりません。さん蝶は真面目にシリアスに太いタッチでやってもらいたいのです。「ホントに恐いのは人の心の闇」であるのですから、豊志賀の心の闇をシリアスに語ってもらいたいのです。そうすれば自ずからお化け芝居の恐さが出たはずです。そこのところを狂言作者が苦心して書いたのですから。

(R3・9・19)



  (TOP)     (戻る)