六代目勘九郎の長吉・与五郎二役
令和2年10月歌舞伎座:「双蝶々曲輪日記・角力場」
二代目松本白鸚(濡髪長五郎)、六代目中村勘九郎(放駒長吉・山崎屋与五郎二役)
1)コロナ仕様の脚本演出の問題
先月(9月)の「引窓」でも感じたことですが、近頃丸本世話物の生活臭がどんどん消えて無色無臭になっている感じがしますねえ。「六段目」や「鮓屋」などは頻繁に上演されて・こちらも感覚が慣れていますし、時代物のなかの世話場ですから・まあこれでも我慢できるところがありますが、純世話物になるともういけません。しかし、考えてみると丸本純世話物で比較的上演されるのは「引窓」か「夏祭」・「封印切」くらいのもので、最近は「野崎村」さえあまり出ません。「堀川」や「帯屋」は久しく見たことがない。昔はまあまあ出たものですが、近松の世話物も最近はあまり出ません。これで歌舞伎は良いのだろうか。ツマラン新作をやるくらいならば、こちらをやって欲しいと思うのですがね。
丸本世話物の生活臭が消えて行くというのは、吉之助が関西出身だからイントネーションが気になるということはもちろんありますが、東京の役者がやるのだから・そこは目を瞑(つぶ)ることにします。百歩譲って江戸世話物みたいになっても良いから、生きた人間の息吹きを感じさせてもらいたいのです。何だか演技が硬くぎこちない感じがしますね。これは先月の菊之助もそうでしたが、今月の勘九郎もそんな感じです。これは普段丸本世話物をやりつけていないせいですが、脚本や芝居全体が醸し出す雰囲気作りも大きく影響しています。
例えば今回の「角力場」は、コロナ下の特殊事情で、上演時間を1時間内に収める・出勤人数は制限・身を寄せ合っての演技を回避という自主ルールがあることは承知していますが、冒頭部がカットされているから角力場前の雰囲気がまるで無し、「長吉勝った、長吉勝った」で相撲見物が小屋からずらずら飛び出す場面もカット、与五郎と茶屋主人との花道上のじゃれ合いもカットになるなど、これだけ脚本をぶった切って、これで上演時間45分というのでは、もう「角力場」の魅力は半減と言っても良いです。「角力場」の魅力は、「場」が持つ雰囲気です。これではいくら主役級が頑張っても、どうしようもありません。コロナ仕様の脚本の問題は、歌舞伎座が8月に再開して以後の他の演目にも多かれ少なかれあることですが、今回の「角力場」ではちょっと目に余ります。観客は正直なもので、このやり方じゃあ料金に見合わずコスパが悪いということで、客足も良くありません。
コロナ下でこの方法でしか上演が出来ないと云うのならば、いっそのこと「角力場」は取り上げない方が良いです。過去の、例えば戦時中や占領下の検閲で脚本がカット修正されて、それ以後脚本がそのまま踏襲されている事例は、細かいところで沢山あるそうです。これが当たり前だの感覚になって歌舞伎の感触がだんだん変ってしまいます。今回の「角力場」も、これで通用したから以後もこの脚本で行くなんてことにならないようにお願いしたいと思いますね。(この稿つづく)
(R2・10・24)
2)勘九郎の長吉・与五郎二役
「角力場」の上演で放駒長吉と山崎屋与五郎を二役分けて演じるのと・二役を兼ねるのは、上演記録を調べると、だいたい半々くらいの頻度のようです。二役を兼ねるのが如何なる経緯で始まったかよく分かりませんが、この仁(ニン)がかけ離れた二役を演じ分けるのは、結構難しいと思いますねえ。体つきもちょっと太目でふくよかな方が二役を演じやすいと思いますが、これを最初に試みた役者はなかなかの名手であったでしょう。しかし、二役を兼ねられる役者は相当限られると思います。個人的には長吉と与五郎は役者を分けて演じるのが、正しいやり方であろうと思います。
今回の勘九郎の二役挑戦はどんなものかと期待しましたが、前述の通り脚本の関係で角力場前のワクワクした気分がまるでないままで・いきなり登場ということになるので、長吉に関してはずいぶん損なことになりました。そのせいも大きいですが、勘九郎の長吉は愛嬌がちょっと勝ち過ぎているようです。確かに濡髪長五郎と比べれば長吉は格下の小者に違いないですが、そんなところばかりを強調している印象があります。これは誰がやってもそんなところがありますが、それだと長吉の人物が小さく見えてしまいます。しかし、長吉は後に濡髪に見込まれて義兄弟の契りを交わすことになる男です。当時の相撲取りは誰でも侠客みたいな気分を持っており、曲がったことは大嫌いで、嫌だと思えば梃でも動かず、思い込んだら命懸け。長吉はそんな気風が良く・直情的な熱さを持つ男なのです。そこに濡髪も惚れ込む長吉の男の魅力があるわけです。そういう要素は勘九郎の仁(ニン)にあるものだと思いますがねえ。勘九郎は、もっとそこを生かすべきではないでしょうか。
仁からすれば勘九郎のものと思える長吉に関してはいささか期待外れな出来でしたが、今回は与五郎の方が意外と良いと感じました。もちろん上方和事にはなっていない(これは致し方ない)けれども、意外と身体の柔らかさが出ていて、これならば木更津海岸の羽織落としの与三郎ならば出来そうな感じではありました。しかし、茶屋主人とのやり取りで・台詞を言って自分でエヘッと今にも吹き出しそうなのはイケマセンねえ。これでは串田歌舞伎のノリです。上方和事では、滑稽とシリアスは裏表一体です。客を笑わせるために滑稽があるのではありません。そこに与五郎の真摯さ・一途さが表出されなければなりません。(十八代目は一度しかやらなかったようですが、十七代目勘三郎が得意にした)「廓文章」の伊左衛門を、もし勘九郎がやる機会があるならば、そこのところは必須なのですから心して欲しいと思います。(別稿「和事芸の起源」を参照ください。)
白鸚の濡髪は出て来た姿は立派で申し分ありませんが、おそらく相撲取りの柄の大きさを出そうとする意図でしょうが、台詞廻しがもっさりし過ぎていて・発声が明瞭でなく聞き取りにくい。このため濡髪の大きさが空虚なものになっていました。そこに改善の余地があります。そういうわけで、今回の「角力場」は、脚本演出も含めて、総体として満足というレベルにいまひとつ到らなかったのは、残念なことでした。
(R2・11・3)