正面への意識〜幸四郎親子共演の「連獅子」
令和元年11月歌舞伎座:「連獅子」
十代目松本幸四郎(狂言師右近後に親獅子の精)、八代目市川染五郎(狂言師左近後に子獅子の精)
「連獅子」には試練のために親獅子が子獅子を谷底へ蹴落とす件がありますから、実の親子が演じるとそれが芸の継承の様と重なって思い入れが効きます。吉之助にとっては十七代目・十八代目勘三郎父子の共演が何と言っても懐かしいものです。令和元年11月歌舞伎座の「連獅子」は幸四郎・染五郎親子共演ということで、期待して見ました。染五郎はちょっと見ないうちに随分背が伸びたようですね。後シテの獅子の狂いの毛の振りは威勢よくて、吉之助が見た日が千秋楽であったからか「どこまで毛の振りが続くのか」と呆れるほどの大サービス。勇壮極まりないと云いたいところですが、昨今の獅子物はどうもこればかりが主眼になっているようで、役者も観客も後シテになると「さあお楽しみはこれからだ」と云う雰囲気になるので、これがチト困ります。本来の獅子物は、極端なことを云えば、前シテがメインであるべきで・後シテは添え物だろうと思います。後シテの狂いはどれも獅子物の定型に則ったものだからです。個々の作品の特色は前シテにあるのです。だから吉之助は前シテを重点に置いて見たいと思います。
以下に書くことは、幸四郎親子に限ったことではなく・近年の舞踊ではどの踊り手にも共通して見られる不満であるので、そのようにお読みください。日本舞踊では稽古の時に大鏡の前で自分の姿を映して形を確認するということをあまりしないかも知れませんが(西洋バレエでは当たり前のことなのですが)、舞台正面に見た時の自分の姿かたちを最大に大きく・しっかりと取るという意識をもう少し強く持ってもらいたいと思います。具体的に云えば、両肩を舞台正面にしっかり向けると云うことです。これが自分の姿かたちを最も大きく見せる基本形です。普通の身体の動きだと、例えば右手を前に差し出すと右肩が心持ち前に出てしまって、形が崩れてしまい勝ちです。これを右肩を意識して後ろに引き戻して、両肩が舞台正面に正対した形を保つのです。これで所作はかつきりして安定した印象になります。踊りでは正面に対した時の形の意識を持つことがとても大事なのです。近年の舞踊では、これが不十分な踊り手がとても多いです。所作の形を取った時に身体が斜めになって、形が流れてしまう。正しい形が決まらないから、踊りがかつきりとした印象になりません。正面への意識が足らないからです。残念ながら幸四郎親子の踊りも例外ではありません。
舞台正面に見た時の自分の姿かたちをしっかりと取るのが舞踊の基本であることは、六代目菊五郎の「春興鏡獅子」の映像(昭和10年歌舞伎座)の前シテ・お小姓弥生の踊りを見れば、一目瞭然で分かります。この映画の試写会の時、菊五郎は途中で退出してしまいました。菊五郎は後ろの席に座っていた十七代目羽左衛門に「俺はあんなに(踊りが)下手か」と言い捨てて立ち去ったそうです。このため映像は許可が下りず菊五郎が亡くなるまで映像が公開されることはなかったのです。こんな素晴らしい踊りのどこが不満だったのかと不思議に思いまずが、羽左衛門に拠れば、監督の小津安二郎が「自分の踊りを正面からでなく、斜めから撮ったショットを多く使ったのが不満だったのだろう」と云うことです。踊り手と言うものは、常に舞台の正面に意識を置いて形を決めるものです。斜めから撮られるとそこに隙(すき)が見える場合がどうしても出て来る、それが気に入らなかったのだろうと云うのです。真相はそんなところのようです。劇場で踊る場合にはもちろん斜め方向の席から見るお客さんも大勢いるわけで、現実には誰に対しても正面を見せると云うわけには行きませんが、踊り手は常に正面に意識を置いて最善の形を決めると云うことです。これが大事なのです。実際、菊五郎の小姓弥生の映像を見れば、正面からのショットはもう「完璧」と云う言葉しか出ないものです。身体がしっかり正対して、両肩が揺れることがない。地に根が生えたような安定感で、動きがかつきりしています。これは体幹がしっかりしていることに拠ると思います。
もうひとつ付け加えておくと、これは女形舞踊であっても同じことです。「女形が舞台に立つ時は身体を正面に置かずに(そうすると男が見えてしまうので)斜めに置く、そうすると形がたおやかに優美に見える」ということを言う方がいらっしゃいますが、それはあまり良いことではありません。六代目歌右衛門の踊りはクネクネした印象に見えたかも知れませんが、それは首の振り方(歌右衛門の場合はちょっと特徴的でしたが)と手の振りの印象でそんな感じに見えただけです。歌右衛門の踊りは身体の軸がしっかりして肩が揺れないものでした。歌右衛門がしっかり正面を意識していたことは疑いありません。上述の六代目菊五郎は真女形でなく・小姓弥生は加役だから・踊りがかつきりした感じに見えると考えるのは大きな間違いで、これが本来の女形舞踊の感触なのです。女形芸は本来そんなにナヨナヨしたものではないのです。女形舞踊も正面に意識を置いて形を決めるものだと云うことをこの「鏡獅子」の映像から学んで欲しいと思います。立役の踊りならば尚更のことです。
幸四郎親子は腰高の踊りですが、動きとしてはそんなに悪いわけでもありません。どこがどうのと具体的なことを指摘しにくいです。印象論みたいになりますが、別稿「舞踊の振りの本質」でも触れたように、例えば「右手を横に振る」という振りがあったとして、右手を横に差し出していく動作が振りなのではありません。振りにおいては・右手を出し切って・指先を伸ばして決める・その形をしっかり取ることが重要なのでして、 じつは動作はその過程に過ぎないとさえ言えます。その瞬間の形を観客にしっかりと印象つけて、その形から瞬間に抜け出る、そして次の振りに向かうという繰り返しが踊りだと云うことです。幸四郎親子の前シテの踊りは、そのホンの一瞬の形が決められていない。身体が斜めになってしまって、形が流れて印象に残らない。なよっと崩れた踊りに見えるのは、そのせいです。常に舞台の正面に意識を置いて形を決める、これだけのことで踊りの印象が全然違ってくるはずです。そうすると自然と腰を据えるようになるから、腰高の踊りの印象も和らぐと思います。(付け加えておけば、これは古典歌舞伎、特に時代物においても大事なポイントだと思います。)
(R1・12・8)