(TOP)          (戻る)

舞踊の振りの本質


1)コア・イメージで考える

NHK教育テレビの「新感覚・キーワードで英会話」がなかなか面白くて、吉之助が中学生の頃にこういう番組があれば良かったのになあと思いました。英語教育も昔とは違って・ だいぶ進歩していますね。この番組は「英語を日本語にいちいち訳さないで、コア・イメージで一気に感じてしまおう」と言うのがコンセプトです。

第1回は「take」がテーマでありました。Takeというと、普通は日本語では「何かを取る」というイメージかと思います。「何かを取る」であると、Let's take a picture.(写真を撮りましょう。)とかTake me to the ball game.(野球に連れてって。)、I take a train to work.(仕事に行くのに電車に乗る)くらいは何とか感覚で理解できますが、I can't take it anymore.(もう我慢できない)はちょっとイメージが出来ません。It takes three hours to get there. (そこに着くのに3時間掛かる)とか、I take a walk. (散歩する)も、時間や歩くをどうしてtakeするのかは「何かを取る」でイメージするとよく分かりません。

これは指導の田中茂範先生に拠ると・takeとは「何かを自分のところに取り込む」というのがイメージなのだそうです。そうするとtake an apple はリンゴを移動させて自分のところへ持ってくるという意味です。take a pictureは、風景をカメラで取り込んで自分のものにするというイメージです。Take me to the ball gameは、私の手を取って(取り込んで)野球場へ持っていくという意味です。take a walkは、歩くという行為を自分のなかに取り込む・つまり経験する=散歩するということになります。takes three hours to get thereとは、「そこに行くto get there」ために3時間を取り込む必要がある=時間が掛かるということです。一番理解に苦しむI can't take it anymoreは、そのような事柄・あるいは状況をこれ以上自分は取り込むことができない=我慢が出来ないというイメージなのです。

なるほど、Takeとは「何かを自分のところに取り込む」というのがその共通したコア・イメージなのですね。なるほど・そう考えてみると、I can't take it anymoreは日本語でも「私はもうもちません」という表現があるわけです。takes three hours to get thereでも「三時間を要す」という言い方もできるわけです。つまり、何のことはない。語法が違うだけで・そういう発想自体は日本語でもあるわけです。

ですから、takeという単語を日本語に当てはめてピッタリくるものがないと考えるのではなく、takeのコア・イメージを考えてみれば・そこから英語でも日本語でも共通した概念 (イメージ)を見出すことができるということです。これは「英会話をやるなら英語で・外国人の発想で考えよう」というのとはちょっと違った教え方でして・非常に新鮮でありました。

ところで吉之助は「歌舞伎素人講釈」において西洋文化・特にオペラと歌舞伎との比較を意識的に続けてきました。これは吉之助が日本文化や歌舞伎を汎人類的・普遍的な価値のなかに位置づけたいと考えるからです。この国際化の波に否応なく 翻弄されている時代に、日本文化や歌舞伎の特殊性・特異性などに吉之助はあまり興味ありません。しかし、この田中茂範先生の教授法は吉之助にあるヒントを与えてくれました。これからは歌舞伎もコア・イメージで考えたい・そう思いますね。


2)バレエ・舞踊の楽しみ

NHK教育テレビの「スーパーバレエ・レッスン」(平成18年12月より3月まで放送)を毎回面白く見ています。講師はパリ・オペラ座バレエ団のエトワールのマニュエル・ルグリです。バレエはもちろん日本舞踊とはずいぶん趣は異なります。日本舞踊にはバレエに見られるような反動をつけた跳躍がありませんし、遠心力をつけた回転・旋回といった動きも見られません。これらは すべて騎馬民族の動きでして、農耕民族の生産的動きから生まれた伝統芸能である日本舞踊にはこうした動きがないわけです。(この辺は我が師である武智鉄二の「舞踊の芸」(東京書籍)が参考になります。)

しかし、日本舞踊もバレエも同じく舞踊に違いないのですから・その本質はもちろん同じなのです。もう二十年ほど前の話ですが・MET(ニューヨークのメトロポリタン歌劇場)でバレエ・ガラが行われて・世界の名だたるバレエ・ダンサーたちが得意のパ・ドゥ・ドゥを披露した時に・そのトリを玉三郎の「鷺娘」が勤めたことがありました。その時のテレビ放送を思い返すと、それまでのプログラムのバレエの華やかな舞台と玉三郎の日本舞踊がまったく違和感がなく感じられて、「ああ、これはまさしくジャパニーズ・バレエだな」と素直に感じたことを思い出します。言葉を使わなくても・洋の東西を問わず確実にイメージが伝わっていく肉体表現というものがあるのだということを思いました。

別稿で「コア・イメージで考える」ということを申し上げましたが、バレエの番組を見ていても・舞踊のコア・イメージさえ分かっていれば、 これが日本舞踊を考える材料にもなるわけです。まあ、何でも歌舞伎に結び付けようとして見ているわけではないですが、「おっ、これは使える」と思うヒントはしばしばあるものです。 だから、まず最初に日本舞踊はバレエと動きが違うんだなんてことはしばし忘れることにしましょう。そういうのは語法・文法の違いみたいなものにすぎませんので、日本語でもフランス語でも言語に変わりないのと同じことですね。

バレエもクラシックとモダンでは動きは若干違いますが、クラシック・バレエは特に日本舞踊(歌舞伎舞踊)との類似を感じます。バレエは飛んだり・跳ねたり・随分と日本舞踊と違う動きがありますが、大事なことは・流れのなかで形をピシッと決めるということです。その決まった形は次の動きに移ってしまうので・すぐ に崩されるわけですが、しかし、上手な人がやるとその決まった形が印象に強く残るのです。その決まった形というのは常に安定した形です。基本的には身体の軸がぶれない・肩の線がぶれない形です。だから常に安定した形で・そういう点は日本舞踊と何ら変わることはないのです。それが分かってくれば、回転している時でも・旋回している時でもバレエ・ダンサーは常に一定の軸を意識していることがはっきり見えてきます。

つまり、舞踊の本質のコア・イメージは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)と・その流れだと言うことです。そのことが分かれば、バレエも日本舞踊も同じように楽しむことができます。「スーパーバレエ・レッスン」、是非ご覧ください。


3)舞踊の本質

舞踊の本質のコア・イメージは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)と・その流れであるということ、このことをもう少し考えてみたいと思います。

本年(平成19年)1月2日の歌舞伎座の初芝居での勘三郎の「春興鏡獅子」の舞台はテレビ中継もされましたから・ご覧になった方も多いと思います。吉之助の感想としては以前書きました平成14年1月の舞台随想と あまり大差ないので、新たに付け加えることはありません。勘三郎の「鏡獅子」は今日見られる歌舞伎を代表する水準の舞台として間違いないですが、芸にはまだまだ上があるということは知っておく必要はあるでしょう。六代目菊五郎の遺された「鏡獅子」の映画(昭和10年製作)と比べれば・それは歴然としてきます。その差は実に些細なことですが・同時に決定的な差でもあります。

勘三郎の踊りでは形が印象に強く残らない感じです。これは恐らくコンマ一秒以下の瞬間の形を溜めきれていないことの差です。これが勘三郎の踊りが勢いはあっても・粗いという印象に させています。特に後シテの動きでそれが目立ちます。(注釈つけますが・これは勘三郎の踊りが駄目と言っているのではなく・六代目菊五郎と比較した高レベルの比較ですので・誤解をしないでください。)しかし、踊りが流れではなく・形の決めだということが分かってくれば、勘三郎の踊りもまだまだ変わってくると思います。舞踊とは形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返し(リズム)であると単純に考えてみたいと思います。このコア・イメージにバレエや日本舞踊の違いはないのです。

舞踊には「振り」というものがあります。ところで「振り」と言うものは動作でしょうか・あるいは形でしょうか。例えば「右手を横に振る」という振りがあったとして、右手を横に差し出していく動作が振りなのでしょうか。そうではありません。振りにおいては・右手を出し切って・指先を伸ばして決 める・その形をしっかり取ることが重要なのでして、 じつは動作はその過程に過ぎないとさえ言えます。その瞬間の形を観客にしっかりと印象つけて、その形から瞬間に抜け出る・そして次の振りに向かうという繰り返しが踊りであると考えてみたいと思います。このことは心理学的にも分析できます。ジャック・ラカンは次のように言っています。

『眼差しそれ自体が動きを終結させるだけでなく・凍結させます。眼差しが身振りを完成させます。しかし、大事なことは、それは終わりではなく・同時に始まりでもある ということです。舞踊では、つねに俳優が固定した姿勢のままとまる一連の停止した時間によって区切られています。運動のこの停止、この時間の中断は何でしょうか。邪視から眼差しを奪い、厄払いをするという意味で、それは魅惑する効果にほかなりません。邪視とは「魅惑・まじない」であり、それは文字通り生命を殺す効果を持つものです。主体が身振りを中断して止まる時、彼は死体と化しているのです。』(ジャック・ラカン:1964年3月11日のセミネール・「絵とは何か」・精神分析の四基本概念・岩波書店・なお引用にあたり文章の一部を吉之助が整理しました。)

ラカン用語の「眼差し」など気にせずに・ラカンが言わんとするところを感覚でイメージして見てください。つまり、舞踊の形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムにほかならないのです。


4)「やすらへ、花や」

芝居とか舞踊あるいは音楽などの時間芸術(再現芸術)は、その芸がつねに時間というものに縛られており、その場に現れた瞬間に・すぐ消えていくという宿命にさらされています。その芸は観客の脳裏にイメージと して残るだけです。最近はビデオなどという便利なものが出来て・その在り方も微妙に変わってきていますが、この宿命は変わることはないでしょう。

ところで、世阿弥が「花伝書」で「花」ということを言っています 。世阿弥の「花」は独特な理念で・これだけで日本文化を論じる一冊本になってしまいますが、とりあえずここで舞台での芸の「花」のことをちょっと考えてみます。一般的に芸の「花」と言うと・華やかで輝かしい生命の頂点のようなイメージがあるかと思います。「華」の字で書かれることもあるくらいです。しかし、花と言うのは咲いたらいずれは萎(しぼ)んでしまうものです。だから「花」と言う時には、そこに儚(はかなさ)・移ろいもイメージされているということです。つまり、「花」と隣り合わせにつねに死があるのです。ともあれ現代において舞台の「花」・芸の「花」ということを言う時には、儚さよりは華やかさの方をイメージして使われることが多いようです ね。

しかし、芸の「花」を考える時にはむしろ「儚さ」の方を強く意識した方が良いのです。折口信夫は 「花物語」(昭和9年)において、散る花が惜しいというのは・いわば習慣であって・我々は文学を通じて・そうした鑑賞法を学んだのであると言っています。 つまり、散る花を惜しむという感覚は・我々が習慣として知らぬうちに教わって定着したもので、もともとはそうではなかったと言うのです。その昔は花(つまり桜のことですが)は鑑賞するものではなく・人々の生活にとって大事なものでした。花はもともと 田植えの前兆を知らせるものでした。人々は花の咲き方・散り方で、その一年の生活を占ったのです。平安時代には鎮花祭(はなしずめ)をやすらひ祭とも言いました。その時に歌うお囃子の文句に「やすらへ。花や、やすらへ。花や」と言った のです。「やすらう」は躊躇するの意味で、休息することを「やすらう」と言うのは・その転化であるそうです。つまり、このお囃子は「そのままでをれ。花よ」、「じっとして居よ、花よ」と呼びかけたものなのです。

だから芸の「花」を考える時にも、「そのままでをれ」・「じっとして居よ」という気持ちがどこかに必要なのです。それは逆に言えば、そう言う気持ちは・芸というものは移ろうものであり・儚ないものであり、やがて消え去るものだという宿命から逃れることはできないという諦観から来るものです。ゲーテの「ファウスト」の有名な台詞 ・「時よ、止まれ、君は美しい」も、まったく同じ発想から生まれています。

舞踊の振りにも「そのままでをれ」・「じっとして居よ」という気持ちがあるのです。振りの形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めると言う繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムにほかならないということを申し上げました。 踊りの振りの形は一瞬に崩されて・それは次の動きに移っていって・消え去ってしまう儚いものではありますが、その形は出来る限り・許容できる限界まで「そのままで居」らなければな りません。そのままであって欲しいと思う観客の期待に可能な限り応えなくてはならないということです。だから、その振りの形を観客に強く意識させねばなりません。それは観客に死を意識させることであり、それ こそが舞踊の本義であるのです。踊りの振りにおいて「形を決める」ということは、そういう意味があるわけです。

しかし、ここは大事な点なのでご注意いただきたいですが、「振りの形を決める」ということは「踊りの動きを瞬間的に止める」ということではないということです。その形は振りの終わりであると同時に・次の振りの始まりでもあるからです。 踊りの流れは止めてはなりません。それでは移ろいの表情がなくなってしまいます。大事なことは、動きの流れの中で・その形をどう観客に印象つけるかということです。

蛇足ながら・このことに関連して・歌舞伎の見得のことにも触れておきます。踊りの振りにおいては「形を決める」ということが常にその移ろい・儚さの本質を意識することであるわけですが、それならばツケを打ってバッタンで動作をはっきり止めて決めてみせてしまう歌舞伎の見得はまさに野暮の典型ということになるでしょうね。 移ろいへの意識がほんのりとあるから風情があるのであって、そうでなければ・それは京のお公家さんから「あら、いやですねえ」と言われそうな野暮ということになるのです。だから、そうした嫌がられる・野暮なことをわざとしてみせることが「傾き(かぶき)」に通じているということです。 だから、日本舞踊でも三味線のチントンシャンではっきり決まることも、ある意味ではじつは野暮なことなのです。そういう感覚が分かると・日本舞踊もちょっと違う視点で見えてくるかも知れませんね。


5)「桜の樹の下には」

『桜の樹の下には屍体が埋まっている!これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。』(梶井基次郎:「桜の樹の下には」・昭和3年)

梶井基次郎のこの文章は桜のことを語るときによく引き合いに出されます。 このように満開の桜の花が時に不気味さを感じさせるのは、開花がまさに生命たる植物活動の頂点であるにもかかわらず・その見た目の佇(たたず)まいがあまりに静的そのものであると言う・その感覚のギャップにあります。つまり、凍結した時間のなかに死が隣り合わせにあることが意識されているからに他なりません。鎮花祭のお囃子で「やすらへ。花や、やすらへ。花や」(そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。)と歌い掛けるというのも、散るのを惜しんでいると言うよりは・花が動き始めることを 内心恐れているわけです。一旦動き出したら花は確実に散り始めることを知っているからです。

舞踊の形を決める・その形から抜け出て・次の形を決めるということの繰り返しとは、生と死の繰り返し・再生のリズムであると書きました。このような生と死のサイクルは日常生活のなかにも見られます。例えば睡眠と覚醒のリズムがそうですし、呼吸のリズムもまたそうです。息を吸う時には人間の意識は覚醒の方へ引っ張られ、息を吐く時には睡眠の方へ引かれます。 睡眠とはある意味において擬似的な死なのです。つまり、人間は呼吸のサイクルのなかで小さな生と死のサイクルを体験していることになるのだとシュタイナーは言っています。

従って、振りにおいては・その形を決めようとする方向に向かう時、つまり、右手を横に振って決まるという振りならば・右手を差し出 してまさに形を決めようとするまでの過程の動作が非常に重要になります。それは呼吸で言うならば息を吸う動作になります。つまり、振りを決めようとする時は踊り手の意識は覚醒に向かうのです。決めた形を抜け出る時はその逆になるわけです。

このことが分かれば、舞踊の振りには生と死(エロス・タナトス)のリズムがあることが理解できるでしょう。桜の花の場合とは違って・舞踊の振りの決めは凍結した静止の時間を持ちません。その振りの形は決まると同時に・一瞬のうちに崩され て・次の振りに流れていくのです。だからこそ、「そのままでをれ、花よ。じっとして居よ、花よ。」という気持ちも一層強くなるのだろうと思います。

(H19・1・21)


 

 (TOP)           (戻る)