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テネシー・ウィリアムズX三島由紀夫〜西洋能「男が死ぬ日」日本初演

令和元年9月すみだパークスタジオ倉:「男が死ぬ日」

本多章一(男性)、遠藤祐美(女性)、呉山賢治(東洋人)

ボビー中西演出


1)三島由紀夫との出会い

本稿は、米国の劇作家テネシー・ウィリアムズが三島由紀夫との交流のなかで触発されて書いた未発表の戯曲・西洋能「男が死ぬ日」の日本初演の舞台による観劇随想です。と書くと、「男が死ぬ日」と云うタイトルのおかげで、三島が割腹自殺したことに衝撃を受けたテネシーが書いた戯曲だろうと誰だって早合点すると思いますが、事実はそうではありません。西洋能「男が死ぬ日」(第1稿)は、1960年(昭和35年)に書かれました。三島の割腹自殺は、1970年(昭和45年)11月25日のことでした。だから西洋能「男が死ぬ日」は三島の自決と関係なく書かれたのです。しかし、結果的には全然無関係ではなかったのかも知れません。と云うのは、三島の自決以後・1972年に原稿の半分くらいを書き直し、新たに「男が死ぬ日」(第2稿)を完成させているからです。第2稿は、第1稿よりさらに観念的な色彩が強いものになっているそうです。恐らくこれは、三島の自決の報に接したテネシーが、あの時(1960年時点で)自分が漠然と感じていて・一旦はお蔵入りにさせた考え(それは三島本人から直截的に得たイメージなのか、日本或いは日本文学から得たイメージなのか分かりませんが、恐らくはそのどちらでもあるでしょう)に、もう一度向き合って整理してみる必要が彼のなかで生じたからでしょう。

しかし、西洋能「男が死ぬ日」は第1稿・第2稿共にそのまま封印されて発表されることがなく、存在を知られぬまま未発表原稿がカリフォルニア大学の図書館倉庫に塩漬けにされてきました。テネシー研究者アリアン・へイルに拠れば、作品は「なかったことにされてしまった」、それは自殺を肯定する内容だったので、宗教的に自殺を罪悪と見なす米国の大衆に受け入れられるものではないとテネシーが判断したからとされています。なお発掘された原稿による上演は、第2稿が2001年に米国で世界初演され、第1稿については2008年に米国で世界初演がされたそうです。今回の日本初演は、第1稿に拠るものです。そうなると第2稿での上演が見たくなりますが、脚本は出版されていないようです。第1稿については、本邦初演に合わせて邦訳がつい先頃出版されました。

ここでテネシー・ウィリアムズと三島由紀夫との交流を、時系列を揃えて振り返って置きます。

1957年(昭和32年)暮頃から翌年に掛けて数か月、三島の戯曲「近代能楽集」がニューヨーク・ブロードウェイで上演されると云う話が持ち上がり、喜んだ三島はニューヨークに長期滞在して・その可能性を探ったのですが、相手の話が煮え切らず・引き伸ばしにされた挙句に話が立ち消えとなってしまい、三島は失意のまま帰国することになりました。このニューヨーク滞在中にテネシーと三島がたまたま出会ったようです。三島がテネシーの仕事部屋を訪問したこともあったようです。

1959年(昭和34年)9月にテネシーが三島を訪ねて来日し、雑誌「芸術新潮」のための対談「劇作家の見たニッポン」記録が残っています。テネシーは滞在中能や歌舞伎に触れ、特に歌舞伎に大いに興味を持って歌舞伎座に連日通って何度も見たそうです。この時テネシーが何の演目を見たのか大いに興味がありますが、能については何を見たか記録が見えません。歌舞伎についてはこの年の9月歌舞伎座(五世歌右衛門廿年祭)の演目を調べてみると、

昼の部:「鳴神」(二代目猿之助・六代目歌右衛門)、「おちくぼ物語」(宇野信夫作)、舞踊「舞妓の花宴」(六代目歌右衛門)、「平家女護島」(八代目幸四郎)
夜の部:「沓手鳥孤城落月」(六代目歌右衛門)、口上、「吉野山」(二代目猿之助・六代目歌右衛門)、「ひとり狼」(村上元三作)

と分かります。これらの演目を見ると、「鳴神」・「俊寛」・「淀君」・「吉野山」と、初めて歌舞伎を見る外国人には適当なもので、バランスの良いプログラムであったのは、テネシーにとっては幸いでしたね。滞在中にテネシーは劇団「七曜会」の自作「欲望という名の電車」の舞台稽古を見たようですが、三島との対談では

『アメリカで上演された時の形式にとてもよく似ているのには驚いちゃったな。もう少しアメリカ的でなく、日本的に、むしろ歌舞伎的な様式で演出されると面白いと思ったんだけど・・・』(1959年9月:対談「劇作家の見たニッポン)

と云う感想を語って、そこで歌舞伎のアクションを真似てみせたそうです。(多分これは鳴神上人の荒れの仕草のつもりでしょうか。)もっともテネシーに自作を歌舞伎様式でこうやったら良いと云う具体的なイメージがあったとは思えません。多分外国人らしく見得や隈取と云った手法への興味を正直に述べたものと考えるべきです。西洋能「男が死ぬ日」でも、後見が登場したり・地謡(語り手)が登場することなど、能や歌舞伎の影響が多少見えないことはないですが、それは本作の本質的なところではないと思われます。

もうひとつ、この対談では、テネシーの発言の後、秘書のフランコ・マーロ(テネシーの長年の「恋人」でもあった)が、「日本の若い人たちがホントは歌舞伎が好きじゃないということをテネシーは知らないんじゃないかな。歌舞伎が解らないという人が多いのには驚きました」と横槍を入れているのが興味深い。(この発言にテネシーも三島も反応をしていませんが。)多分マーロにこの情報を吹き込んだのは、七曜会の若い俳優たちでしょう。昭和30年頃から日本人の生活のなかから歌舞伎が次第に遠いものになりつつあったことが、ここからも伺われます。

テネシーはその後二回来日しています。1969年(昭和44年)6月20日から7月6日まで文学座の招聘により来日、1970年(昭和45年)9月24日から28日まで来日し、いずれの時も三島と会っているようです。特に1970年の来日は三島の自決直前のことでもあり、テネシーの記憶に長く残ったことだろうと思います。(この稿つづく)

(R1・10・5)


2)三島の「近代能楽集」の影響

吉之助はテネシー・ウィりアムズの戯曲についての知識は僅かですが、本稿では、日本人の死に対する観念がテネシーの感性にどのような影響を与えたのかを、ちょっと考えてみたいのです。

今回の西洋能「男が死ぬ日」(第1稿)の日本初演の舞台を見ると、「西洋能」という角書に、テネシーの戯曲に能や歌舞伎の様式的な影響と云った、意味深なところは全然なかったように思われました。舞台に物を運んでくる役を「後見」と呼んで様式的な動きをさせたりしますが、これをホテルのメイドと設定しても、別にそれで意味が変るものとも思えません。これはまあオリエンタルな香り付けといった程度のものです。だから本作は、まあ普通の現代劇だと考えて一向差し支えありません。それではどうしてテネシーは「男が死ぬ日」にわざわざ「西洋能」という角書を付けたのかと云うことですが、吉之助はこれについては次のように考えます。

例えば三島の「近代能楽集」は、能原作の近代戯曲への本歌取りであるかの如くしばしば誤解されますが、それは「近代能」という語句の響きに惑わせられるからなので、三島の考えたことは、もっと単純なことだったと思います。能楽は、後世の目から見ると演劇としてまだ未分化なところがあります。能楽が持つドラマ的要素は、象徴性とか幽玄という霧で、曖昧にボカされています。それが能楽という芸能なのです。だから三島は、能からドラマ性を取り出して、これを材料に現代劇の手法で描いてみせたと云うことです。それは、世阿弥気取りになって「彼が現代に生まれていればこんな現代劇を書いたと思うよ」という遊び心です。テネシーは三島の「近代能楽集」を知っていました。これを読んで「ああこんな趣向なら、僕にも西洋能みたいなものが書けるかも知れないな」と考えたのでしょう。その辺は気楽に考えて良いと思いますが、テネシーにとって大事なことはドラマ、本作の場合、死に対する日本的な観念のことです。テネシーがこれを西洋能と角書した理由はそこにあるでしょう。

それにしても「男が死ぬ日」では、舞台に登場して日本人の死に対する観念を説明したり、登場人物の心理を考察したりする「東洋人」の存在が、吉之助にはとても気に掛かります。この役は、西洋現代演劇として、とてもユニークなものです。このテネシーの、東洋人役の発想が、一体どこから来たものでしょうか。シテに時に寄り添い、時に第三者的立場から、時に神の立場にもなりつつ、情景を物語る能楽の地謡(じうたい)にインスピレーションを得たものでしょうか。あるいは歌舞伎の義太夫狂言での竹本、ギリシア悲劇であればコロス(合唱)を考えても良いかも知れません。しかし、厳密に云えば、東洋人は単なる「語り手」ではないようです。語り手と云うより解説者のようです。

「男が死ぬ日」での東洋人は、能の地謡よりも、ずっと醒めた存在です。東洋人は、西洋人である登場人物(男と女)に寄り添うところがありません。彼らを客観的に眺めて分析し、「これは多分こういう意味だと思いますよ」と、余計な同情を交えず批評したりします。そして最後にひざまずいて祈りを捧げるだけです。この仕草は(外国人がイメージする通り)オリエンタルに神秘的ですが、本当の意味(彼がどうしてそうしたのか)は観客には解らぬままです。そもそもこの仕草で観客は救われるのか?それとも置いておかれるのでしょうか?こういうシーンだと我々日本人は「彼は救われた」と自分を納得させて・それで済ませてしまいそうです。

しかし、ここには何となく見る者がポツンと置いてけぼりにされた感じがないでしょうか?「男が死ぬ日」の観客が全員米国人だったと想定した場合、これでは心地良い雰囲気を想像しにくいです。西洋人は宗教上自殺は許されないものと考えるのが普通です。米国人の観客は舞台で起こる同胞の自殺に納得しかねる疑問・不快を感じるに違いありません。これは恐らくテネシー自身がそうなのです。テネシー自身が一番納得出来ていない。むしろ本作を通じて、テネシー自身が東洋人に必死に「説得されたがっている」感覚があります。そこを完結した形に出来なかったから、テネシーは本作を封印してしまったと云うことでしょうか。(この稿つづく)

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3)テネシーと日本の滅びの美学との親近性

1958年(昭和33年)春、ブロードウェイでの「近代能楽集」上演を断念し帰国を決意した三島がテネシーの秘書マーロに連絡を入れると、マーロはこんなことを言ったそうです。「テネシーに手紙を書いてやって欲しい、電話ではなく。文面は「ニューヨークを離れることになった。会えなくて残念だ。いつも君のことを心にかけている」・・これだけでいい。」

どうやらテネシーはとても傷付きやすい・寂しがり屋の作家であったようです。ところでテネシーが西洋能「男が死ぬ日」(第1稿)を書いた時期は概ね1959年から60年のことですが、ちょうどこの時期からテネシーの作風が変わり始めていたようです。テネシーはブロードウェイの売れっ子作家でしたが、1961年12月に初演された「イグアナの夜」が最後のヒット作だと云われています。(1959年来日中のテネシーが三島との対談のなかで本作を現在執筆中であるとの言及をしています。)この頃から、テネシーの作風は内面的なものを追う傾向がさらに強くなり、ブロードウェイの成功から意識的に背を向けるようになっていきます。

西洋能「男が死ぬ日」の主人公の芸術家の男(名前はない)は、かつては成功した画家のようですが、今は周囲からすっかり見放された存在で、ただカンヴァスに向かってスプレーガンで絵具を吹き付けて色彩を塗りたくるだけで、才能が枯渇してしまったかは分らぬが、どうやら創意が行き詰って方向が定まらないままイラついているようです。これが1959年当時のテネシーの状況の反映とは思いませんが(当時のテネシーは売れっ子劇作家でしたから)、しかし、ちょっと間違えれば簡単にこういう状況に陥りかねないと云う潜在的恐怖は、常にテネシーのなかにあったと思います。1959年来日での三島との対談でも、テネシーは「ブロードウェイにはもう興味がなくなった、これからはオフ・ブロードウェイのために仕事をしたい」と語っています。最後のヒット作「イグアナの夜」とちょうど同じ時期に書かれた西洋能「男が死ぬ日」には、テネシーの不安が予兆の形で現れているのかも知れません。

1959年来日での三島との対談のなかで、テネシーは、日本人の感性とアメリカ南部のそれとが不思議に似ているということを、形を変えて何度も語っています。そこにテネシーの戯曲と、日本との親近性を伺うことが出来ます。テネシーの発言を順不同に挙げますが、

『気が付いたことは、日本に来て、そのために僕がなんとなく故国へ帰ったような気がするのだけれども、それは日本人が非常に感受性が強いということだ。少なくとも東京の日本人はそうだね。彼らはアメリカの南部人の多くとおなじように感受性が強い。日本は、今まで僕が見た多くの国のなかで文化的に非常に興味深いと思った初めての国だ。』(1959年9月:対談「劇作家の見たニッポン」、テネシーの発言)

『三島君、僕はね、日本の文学は、アメリカ南部の文学と、どこか非常に似ているような気がするのだけれども、どうかな。読めば読むほど、そういう気がする。繊細過ぎる感受性、それによる生きづらい魂、そういう要素が共通なのじゃないかな。ただし、アメリカの場合は、日本のよりもっと直接的で、日本の方はより間接的だという違いはあるけれども。日本文学における現実の概念とか、悲劇の感覚というのも、アメリカの南部の文学のそれと、非常に近いのじゃないか。例えば太宰治の「人間失格」はカースン・マッカラーズの書いた小説を思わせる。』(同上、テネシーの発言)

『現代の若い作家たちは、いつも死という概念にとらわれているように思う。私たちはまた、人生そのものに望みを見出さない。望みはたまゆらの如きもので、人生の刹那刹那に見いだされる・・・。こういう点で、アメリカ南部の小説と、日本の文学とに共通点を見出すことができる。』(同上、テネシーの発言)

「現代日本の作家は死の概念に囚われている」と云うテネシーの印象は、多分、芥川龍之介や太宰治の自殺から来たものです。(ちなみにテネシーが実に多くの日本の作家の作品を読んでいることについては、この対談だけでも驚かされます。)特に太宰の死は昭和23年(1948)6月のことでしたから、1959年であると記憶にまだ新しい時期です。しかし、この時点においてテネシーが三島に死の兆候を感じ取っていたと云うことはあり得ないでしょう。むしろテネシーが自己の内面を振り返って、日本の滅びの美学との親近性を感じていたということだと思います。上記三番目のテネシーの発言に対しては、三島は次のようにと返しています。

『僕(三島)は滅びていくものは美しいと思うんです。つまりアメリカ南部のように、あるいは日本のある時代のように・・・。だけど、ただ滅びていくだけでは意味がないので、そこに復活がなくてはならない。そういう意味で僕は、あなたの芝居のテーマというものは、一度滅んでいくのだけれど、必ず生へ帰る、というものだと思う。一度犠牲にされた人間は、結局、何かの意味で、また生まれ変わって来る。それはあなた(テネシー)のテーマのなかで、一番大事なことだと思う。そういう点で、あなたが太宰を好きな理由はわかるけれども、また、僕が太宰がきらいで、あなたが好きだという理由でにもなると思いますね。彼は、ほんとうに滅ぶことしか考えない。彼はただロマンチストだ。テネシーのは、書かれている人物がロマンティックなんで、テネシー自身がロマンティックというわけではない。』(同上、三島の発言)

「テネシーの戯曲では書かれている人物がロマンティックなので、テネシー自身がロマンティックなのではない」と云う三島の発言は、「詩的リアリズム」と呼ばれたテネシーの戯曲の本質を言い当てています。テネシーが自作について、次のように語っているのも、興味深いところです。(ただし注意せねばならぬのは、三島は「そこに復活がなくてはならない」と言っていますが、ここでは三島は「復活」を輪廻転生的な意味で使っています。キリスト教的な復活を指しているのではありません。この点は、次項に関連しますから付け加えておきます。)

『まあ(自作の)共通のテーマといえば、決して必ずしもインテリジェントというのではないが、繊細な傷つきやすい感受性を持っている人、つまり極度にロマンチックな性格が、往々にして悲劇の主人公になるというところかしら・・・。(中略)青春の純真な魂が、非常に強力な力にぶつかった場合に、無慙に砕かれる、そこに悲劇があるわけだ。』(同上、テネシーの発言)

上記テネシーの発言は、誰の戯曲について語ったものか伏せれば、近松門左衛門や黙阿弥の世話物をイメージしてもそのまま通じるようにさえ思えるのです。(この稿つづく)

(R1・10・12)


4)テネシーのなかの日本的なもの

西洋能「男が死ぬ日」では、如何に日本人にとって死が身近か解説者のように語る「東洋人」の存在が印象的です。東京のホテルに居住まいする・かつては成功したらしい米国人画家が、今は世間からすっかり忘れられて、創意が行き詰って方向が定まらないまま自殺しようとしています。死に対する憧れとか・復活への希望のようなものは、男の台詞からほとんど感じられません。男は虚無と絶望のなかで自殺するように見えます。ご承知の通り、西洋人は宗教上の理由から自殺は許されないものと考えるのが普通です。米国人の観客の多くが舞台で起こる同胞の自殺に納得しかねる疑問や不快・不安を感じるに違いありません。これは恐らくテネシー自身もそのはずです。だから本作を通じてテネシー自身が一番東洋人に「説得されたがっている」ようです。東洋人の説明によって男の死を受け入れようと自分に言い聞かせているかのようです。

『最近では力強い新作を描こうとどんなにあがいても実りはなく、しまいにはいよいよ、最近では、絵筆を捨てて、スプレーガンをカンヴァスに向けるようになってしまった。男は突如、日本人に代わってしまいました。命を絶つ準備ができていたのです。やるでしょうきっと、少なくとも試してみるはずだ。』(テネシー・ウィりアムズ:西洋能「男が死ぬ日」・東洋人の台詞)

東洋人は画家の男に同情するわけではなく、むしろシニカルに突き放しています。「男は日本人に代わってしまった」という表現は奇異ですが、恐らくこれは「彼は死の衝動に憑りつかれてしまった」と言いたいのでしょう。当時の米国人には第2次世界大戦の神風特攻隊のイメージがまだ強く残っていました。だから死の問題をこういう形で提出されると、米国人観客は一体何が始まるのか・もしかしたらハラキリが始まるのかと一瞬たじろぐと思います。しかし、芝居のなかで起きる男の自殺は全然ドラマティックではありません。

『男が日本人になったと言ったのは間違いかも知れない。男の運命が、男の置かれた状況が、日本人のようだというべきだったのでしょう。我が国(日本)の自殺率は世界一高い。(いくつかの統計を持ち出す。)独創的な芸術家のあいだでは特に多く見られます。自殺にかけては天賦の才能が日本人にはあるようです。この男にその才能はありません。今日やることになるでしょうが、有終の美というわけにはいかない。そこに威厳はありません。』(テネシー・ウィりアムズ:西洋能「男が死ぬ日」・東洋人の台詞)

日本の自殺率は世界一かどうかは知りませんが、確かに現在でも高い部類だそうです。芥川龍之介や太宰治の自殺を挙げるまでもなく、芸術家の自殺は日本では少なくありません。しかし、この芝居でテネシーがやろうとしているのは、米国人の画家の自殺を威厳あるものにすることにすることではないようです。それではテネシーはどのように男を自殺させようというのでしょうか。

『わが国(日本)の歴史、わが国の文化は、われわれに深く植え付けてきました。精神的に打ちひしがれた者に対する軽蔑を。いくら敗戦国とはいえ、自殺率が世界一高いとはいえ、われわれが打ちひしがれていたのは外面上のことでした。わが国の芸術、文化は硬く屹立し、猛烈な残酷さを誇りとしています。おそらくこの芝居が描くのは、自己破壊の形が東洋と西洋でどう異なるかということです。われわれは自己破壊を威厳あるものと考えています。』(テネシー・ウィりアムズ:西洋能「男が死ぬ日」・東洋人の台詞)

ところで文化人類学者ルース・ベネディクトが著書「菊と刀」(1946年出版)のなかで日本人の「恥」の概念と云うことを言いました。(これが当時のアメリカ人の神風特攻隊の一般的理解でした。)この本は影響力が強くて、日本人でもこの視点で近松の心中物など読もうとする方が多いですが、「恥」の概念で心中を理解すると、「彼らは世間から死を強制される」と云う風に後ろ向きに読まれてしまいます。これでは正しい近松の理解にはなりません。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

興味深いことは、テネシーはここで「自己破壊を威厳あるものと考える」と言っており、日本人の自殺に関して前向きな評価を取っていることです。つまり「菊と刀」的な見方とは無縁なのです。前項で「日本の文学はアメリカ南部の文学と似ている気がする」とテネシーが発言したことに触れました。テネシーはアメリカ南部人の感性で以て素直に日本人の行動を理解したと思います。そこにテネシーの日本への親近性を感じます。

『われわれ(日本人)は死を知り尽くしています。死はいわば、Precialite de la patrie (祖国の名物)です。それでいて真剣に問うことができる・・生に死の入り込む余地はあるのか?(鋭く陽気さのない笑いを発して舞台奥へ行き、引き戸を開けると、様式化された葬儀の花輪の線描画が現れる。)大したことはない、でしょう?天地がひっくり返るほどのものじゃない。この程度です。しかし、またこう問うこともできるでしょう。死に生の入り込む余地はあるのか?んんん。どちらも互いに大きすぎて、大きさが足りず・・(顔をしかめ、声は何を言えばいいのかためらう)・・一方が他方を呑み込むことも・・一方が他方に呑み込まれることもありません・・・んんん。こんなことは東洋人が関心を持つ事柄、問題、概念ではありません、すくなくとも。こうした概念や問題は、東洋人があえて表現しようと思うものではない。死はそれほど身近なものなのです。』(テネシー・ウィりアムズ:西洋能「男が死ぬ日」・東洋人の台詞)

この辺は東洋人が米国人観客の目を意識して、わざと自らを茶化して振る舞っているようです。同時にテネシーが自問自答しているようにも感じられます。死は別に大したことではない、確かに重いものであるけれど・・・と自分に言い聞かせようとしているように感じれます。事実、西洋能「男が死ぬ日」での男の死はちっともドラマティックではありません。もちろん威厳などありません。しかし、テネシーはむしろドラマティックでないところに、日本的なものを見ようとしているようです。プラトン以来、西欧での悲劇は王侯貴族あるいは神話の人物が主人公であるべきものでした。浄瑠璃・歌舞伎においても、時代物においては同様です。しかし、例えば近松の心中物では、普通の町人が悲劇ならざる悲劇的状況に巻き込まれて行きます。つまり等身大の悲劇と云うことです。だから必ずしも威厳がある必要もありません。(別稿「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ」を参照ください。)恐らくそこを取っ掛かりにすれば「欲望という名の電車」など他のテネシーの戯曲も近松との共通項で読み解けるだろうと思いますが、残念ながらこれ以上は現在の吉之助には余裕がありません。(もし猿之助か菊之助がブランチをやる機会でもあれば、そういうこともしてみたいと思います。)

『(男の死の後、東洋人は口を開く。)実は不安に思っていました。何が不安だったのか?復活を表わすユリの花が現れるかと思ったのです。でもこれはまさに男が死ぬ日の空でしかない。神の御顔のように穏やか、人間の情欲には無関心、一枚の仮面、澄み渡る空、そこにたなびく一片の薄雲・・・荘厳、偉大、純潔。(中略)われわれはこのイメージのもとで生きて死にます。あたかも理解しているかのように。』(テネシー・ウィりアムズ:西洋能「男が死ぬ日」・東洋人の台詞)

この東洋人の台詞を読めば、テネシーが米国人画家の死にキリスト教的な「復活」を求めているのではないことは、明らかです。もちろん仏教的な救いを求めているのでもありません。テネシーはただ米国人画家の自殺を惨めなもの・罪なものとしたくないと云う、ただそれだけのように思われます。この男の死は威厳あるものには見えないけれど後ろ向きではない、少なくとも惨めではないと、そう自分を納得させたかったのですねえ。

*引用台本は、テネシー・ウィリアムズ:「西洋能 男が死ぬ日 (第1稿、広田敦郎訳、而立書房)からです。

(追記)ところで1970年(昭和45年)11月25日の三島の割腹自殺の件ですが、何よりもテネシーを驚かせたのは、三島が自らの死をドラマティックなものに(威厳あるものに)仕立てて見せたことだろうと思います。三島の死はテネシーの日本的なものの理解の範疇をはるかに超えたということではないでしょうか。(或いは三島のなかに非日本的な要素があるのかも。)このためテネシーは改めて親友・三島の死の意味と対峙せざるを得なくなって、西洋能「男が死ぬ日」・第2稿(1972年)を書いたのだろうと想像しますが、第2稿を見ていない現段階においては、これは吉之助の想像に過ぎませんが・・。

(R1・10・15)



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