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二代目七之助初役の政岡〜「伽羅先代萩」

令和元年8月歌舞伎座・ 「伽羅先代萩」

二代目中村七之助(乳人政岡)、十代目松本幸四郎(八汐、仁木弾正)、三代目中村扇雀(栄御前)、二代目坂東巳之助(荒獅子男之助)他


1)七之助の政岡

今回(令和元年8月歌舞伎座)の「先代萩」は、七之助が初役で政岡を勤めるのが話題です。政岡は七之助の母方の祖父・七代目芝翫が演じて成駒屋の大事な役ですし、父・十八代目勘三郎も「裏表先代萩」で一度だけ政岡を演じています。だから七之助にとって政岡は、いつか演じなければならない役だったに違いありません。今回の舞台を見ると、初役の硬いところは多少あったけれども・それは初々しさということであって、なかなか良い出来の政岡だと思いました。ところで七之助は玉三郎から指導を受けたとのことです。全体的な手順は玉三郎の教えるところを踏襲していますが、同じような手順を踏んではいても、当然そこに七之助なりの個性と云うか・芸風が反映して、それで玉三郎とはまた一味違った色合いに見えてきます。そこに歌舞伎の型の面白さを改めて感じたことでした。

まず玉三郎が演じた政岡のことですが、別稿「女形芸のリアリズム」で触れました。「玉三郎が女形芸のリアリズムを突き詰めればこうなる」と云うところを見せてくれた政岡でした。吉之助は「この政岡なら、もしかしたら女優にも出来そうな」と云うことを好意的な側面から書きましたが、「ずいぶんと丸本離れした感触だ」と云う批判もあり得た政岡であったかも知れません。まあ何事にも長所があれば短所もある、それが表裏一体であるということもあるわけです。だから現在政岡を指導できる役者と云えば・玉三郎しかいないのは明らかなのですが、若手女形が玉三郎の政岡を表面的に真似してしまうと、さっぱり歌舞伎離れした女優の政岡が出来かねないと云う心配もあり得ます。

吉之助としては、玉三郎の政岡をリアリズムの究極(玉三郎にだけ許されるもの)と位置付けて、今後の政岡を古典的・或いは様式的な感触へ(これは玉三郎の行き方とは逆の方向へと云うことなのですが)持って行ってもらいたいと思っています。政岡という役が背負うものをリアリズムだけで解釈することはやはり多少の無理があるかも知れません。このままだと「先代萩」は現代人に理解し難い芝居になりかねません。政岡のなかにあるのは「母の愛」・言葉にしてしまえば確かにそのようなものだろうけれど、その愛は政治的な様相で大きく歪められていて、見えてくるものは決して母の暖かい愛ではないのです。現代人はそこを直視する必要があると思います。

そこで今回の七之助の政岡を見ると、やることはもちろん玉三郎の教える通りにやっているわけですが、見えて来る政岡の印象が、玉三郎のそれとは微妙に異なって見えるのです。玉三郎がヨヨと泣き崩れそうなのをどうにか耐えていると見えるところで、七之助は強い態度を必死に取り繕おうとしている感じに見える、これはとても興味深いことです。もしかしたら七之助の政岡がちょっと冷たく見える・情が薄いように感じる方がいらっしゃるかも知れませんが、吉之助には、七之助の政岡は「千松が可哀そう」とか思うと泣き出してしまって自分が保てないので、そんな気持ちになりそうなところを必死に押し殺して「鬼」になろうとしているように見えるわけです。大事なところは、二人ともやっていること(型・手順)が同じなのに、印象が二様に違って見えて来ることです。印象の違いは、役者の個性あるいは芸風から来るのです。

今回(令和元年8月歌舞伎座)の「先代萩」を見てつくづく感じたことは、玉三郎は後輩に自分の解釈を押し付けることはしなかった、七之助の政岡を玉三郎のコピーにしなかったと云うことです。芸の正しい伝授をしてくれて、ほっとした気分になりました。(この稿つづく)

(R1・9・2)


2)伝統の因子

これまでの舞台でも七之助は、玉三郎に似た感じがよくしたものでした。特に南北物などは、声色から言い回しまで玉三郎にそっくりでした。別にこれは七之助に限ったことではありません。こういうことは芸事に関してはしばしば起こることです。後に続く者はその時代を代表する(その時代の空気を反映する)芸術家の芸風に何となく似て来てしまうものです。或いは似てないと観客が許さないと云うこともあります。そうやって右に寄ったり左に寄ったり振れながら、芸の系譜は続いていくものなのです。だから現代の若手女形が玉三郎に似て来るというのは当然のことですが、そうやって先輩の芸を模倣・吸収しつつ、そこから脱却して自分だけの芸を創り上げてくプロセスが大事になって来ます。

そこで七之助初役の政岡のことですが、女形の最難役でもあり、もしかしたら玉三郎の政岡のコピーになってしまうかなと心配をしましたが、結果はそうではなかったので安堵しました。やっていること(型・手順)は同じでも、受ける印象が微妙に異なって来ます。それが歌舞伎の政岡の芸の系譜から見た場合に、リアリズムの方向へ大きく傾いた玉三郎の政岡の感触を、伝統的な古風な女形の感触の方へいくらか引き戻したように感じられました。それが吉之助が安堵した理由です。これを七之助がどれくらい意識したものかは分かりません。多分、それは七之助のDNAのなかに潜む伝統の因子のなせる業かも知れません。そのことを七之助がはっきり意識するようになれば、七之助の芸は大きく変わって来るでしょう。吉之助はそこに期待をしたいと思います。

それでは七之助初役の政岡が玉三郎とどこが違っているかと云うことですが、それは実に些細なことから来ます。従来の役での七之助の台詞は玉三郎に似せて高調子の印象が強かったように思いますが、今回はそれほどでもありません。低調子と云うほどでもないが、決して高くはありません。これは七之助が声をそれだけ腹から出そうとしていたと云うことです。これが好結果を生んでいます。義太夫狂言での玉三郎の高調子は、これは玉三郎だから許してしまうけれども、若手女形がこれをそのまま真似ると水っぽくて聞いていられません。今回の七之助の政岡はそういう感じがありません。これはとても大事なことなのです。

もうひとつは、これは七之助が意識してそうしたかは分かりませんが、台詞の語調が玉三郎よりも若干強めに感じられることです。もともと七之助は声がよく通って台詞が明瞭な役者ですが、このため玉三郎の政岡よりも台詞の線がくっきり付いています。さらに台詞の語尾を強めに押す感じがあります。そんなに強いわけではないけれど、玉三郎と比べるとそこがちょっと違うところです。多分そこが七之助の個性なのです。これが政岡の強い印象を生んでいます。例えば

「エヽ何のお強いお殿様(鶴千代君)が(ご飯を)おせがみなされう、ソリヤ其方(千松)がせがむのぢゃ、サアせがまずば今の唄、声はり上げて歌ふてみや」

の台詞を見てみます。玉三郎の政岡であると、こんなに子供達にひもじい思いをさせて可哀そうだという気持ちが前提にあり、それでも千松にキツイ物言いをしなければならないのが辛くて堪らない、だから台詞の調子にも「それを言うのが辛い」という感情が思わず出てしまうという印象です。つまり政岡の「本音」の方に傾いた台詞廻しですが、もちろんこれも現代を代表する女形・玉三郎ならではの優れた演技に違いありません。

一方、七之助の政岡のこの台詞を聞くと、子供達が可哀そうだということを考えてしまうとその場にヨヨと伏して泣き出してしまいそうなので、努めてそのことを考えようとしない、「ああ千松よ、我慢してもうそんなことを言わないで、お母さんまで一緒に泣いてしまいそうだから」という感じです。今にも泣き出しそうな千松を制止しようとしているようなのです。それは政岡の悲鳴のように響きます。まあそこまで強い調子ではないけれど、そんな響きにも感じられるということです。つまり子供達が可哀そうだという感情(本音)がベースになっている点で玉三郎と同じですが、七之助の政岡には「忠義」の建前がもう少し濃厚に出て来る気配です。大事なことは、この印象の差は解釈の違いから来るものではなく、玉三郎と七之助の台詞廻しの個性・芸風のホントに微妙な差異から来るものだと云うことです。しかし、この印象の差が政岡の場合にはとても大事なのです。これが七之助の政岡を、伝統的かつ古風な女形の感触へ引っ張っているのです。(この稿つづく)

(R1・9・4)


3)政岡の心情

ところでNHK・Eテレ「日本の芸能」で玉三郎が芸の心を語ったシリーズ「伝心〜坂東玉三郎女方考」の三回目「伽羅先代萩・政岡」(初回放送は平成30年10月26日)のなかで、御殿・飯焚きでの、「宮仕えして忠義じゃと云わりょうものかと喰いしばり、胸もにえたつ風炉(ふろ)先の屏風にひしと身を寄せて奥をはばかる忍び泣き」の義太夫で政岡がすすり泣く場面について、玉三郎が

『(子供たちがひもじい思いをしているのを見て)自分が悲しいのではなく、この二人が置かれている(政治的に酷い)状況が悲しいということで泣いていかないと、今まで竹の間から我慢してきた政岡が(この場面で)自分のために泣いたのでは(ここまでずっと我慢してきた)意味がなくなってしまいますね。』(玉三郎)

と語っていました。これはまったく玉三郎の云う通りです。政岡はそのように演じるべきですが、批評家の立場からこの演技をラカン的に解釈すれば、これは政岡が「自分が悲しいのではない、私たちが置かれているこの状況(他者)が悲しい」という思考回路を取ることで、自分が悲しいと感じていることを「他者」のせいにして、政岡は自己と対峙することを意識的に避けていると云うことに他ならないのです。そうすることで政岡はどうにか自己を保っているのです。これは二人の子供達についても同じです。千松も鶴千代も、自分の立場において状況を思い遣り、自分がひもじいことを必死に考えないようにしています。

『イエ/\わしは食べたい事はなけれど、御前様がおひもじからうと思ふて』(千松)

『其方(政岡)や千松も食べぬうち、おれ一人せはしいと思ふなら、もう堪忍して泣いてくれな、其方たち二人が食べぬうちは、いつまでも堪へている。おれが食べても乳母が食べずに死にやつたら悪い、ナ、千松其方が死んでも悪いナア』(鶴千代)

つまり飯焚きの場と云うのは、歪んでいるのです。これは「状況(他者)」がそうさせるのです。ですから竹の間からずっと自己を抑え付けていた政岡が、パーンと弾けて自己と対峙せざるをえなくなる場面が、千松の死骸を前にしてのクドキと云うことになります。そのせいで政岡のクドキも、最初のうちは心情が歪んだ表れ方をします。

『コレ千松、よう死んでくれた、出かしたナ/\ 其方が命捨てた故、邪智深い栄御前、取替子と思ひ違へ、己が工みを打明しは親子の者が忠心を神や仏も哀れみて鶴喜代君の御武運を守らせ給ふか。ハヽヽヽ有難や/\。』

政岡が千松の死を喜んでいるはずがありませんが、これがそのように見えかねない外面になって来るのは、「状況(他者)」がそうさせるのです。我が子の犠牲行為が意味があることだ・誇らしいと思いたいのは、親として当然の感情です。しかし、政岡の心がほぐれて来ると、次第に自己と対峙する方向へ変化していきます。それに連れて政岡の言うことが変化して行きます。「・・とは言ふものの可愛やなア」からクドキの後半では、政岡の母親としての心情が正直に迸ります。

『三千世界に子を持つた親の心は皆一つ、子の可愛さに毒なもの食べなと云ふて呵るのに、毒と見へたら試みて死んでくれいと云ふ様な胴欲非道な母親が又と一人あるものか。武士の胤に生れたは果報か因果かいじらしや、死るを忠義と云ふ事は何時の世からの習はしぞ』

ですから、一般によく言われる政岡のクドキの前半は「建前」が前面に出た嘘・後半が「本音」だという見方ももちろん出来ますけれども、吉之助としては、どちらをも政岡の真実であると見たいのです。ただ政岡の心情の表れ方が異なるだけのことです。それは政岡と「他者」との関係性に拠って変化するのです。(この稿つづく)

(R1・9・7)


4)伝統の受け渡し

やっていること(型・手順)は同じであっても、役者の台詞廻しの個性・芸風の微妙な差異によって、受ける印象が変わってくるのです。七之助の台詞の輪郭線が玉三郎よりホンのちょっと強めになっただけで、「忠義」の建前が濃厚に出て来る印象です。これが七之助の政岡を伝統的かつ古風な女形の感覚へ引っ張っています。

こう書くと七之助の政岡の方が玉三郎より良いという感じに聞こえたかも知れませんが、そう聞こえたのならば吉之助の書き方が悪いので、玉三郎の芸質であるならばこれが正しいのです。政岡の母親としての真情から、息子にキツイ物言いをしてもそこに気持ちの揺れ(辛い・申し訳ないという気持ち)が出る、そこに玉三郎と云う役者の真実があるのです。玉三郎という女形の在り方からすると、この行き方が正解に違いありません。ただし女形のリアリズムを突き詰めたところの、究極の形であって、それは玉三郎であるから許される行き方だと云うことは言えます。これ以上行けば古典的な女形の枠組みから外れて女優になりかねないところにまで来ているのです。だから七之助の政岡を見ると、古典的な女形本来の感触にいくらか「戻された」という印象になって、このことが或る種の安心感を与えています。

しかし、もちろん七之助の政岡は、様式的な演技においてはまだ課題があります。栄御前が退出した後、我が子の死骸を前にしてのクドキは、まだちょっと硬い。例えばクドキの後半「三千世界に子を持つた親の心は皆一つ」などは「オ・ヤ・ノ・コ・コ・ロ・ハ・ミ・ナ・ヒ・ト・ツ」と言葉をトントンと立ち切る(息を切る)のではなく、息を詰めてリズムを腹に保つ・つまり床(義太夫)に対して引っ張る感じにした方がよろしい。これだけで緊張感が倍加すると思います。こう云うことはこれから繰り返し政岡を演じていくうちに会得されていくものでしょう。このクドキの場面の政岡には母親としての感情と忠義の論理の両極に引き裂かれた悲劇的な感覚があるわけですが、しかし、七之助の政岡のクドキにはまだ十分でないにしても、そのような倒錯した感覚が垣間見られたと思います。(一方、玉三郎の政岡であると、母親としての感情に傾斜してこの感覚が淡くなってしまいますが、まあそこは玉三郎ならではのことです。)吉之助は血統と云うことをあまり言いたくない方だけれども、そこに七之助の母方の祖父・七代目芝翫から受け継いだ古典的な女形の感覚があるのだろうと思います。この要素は、今後の七之助にとって貴重な財産となることでしょう。いずれにせよ、玉三郎は後輩の個性・芸風をよく見極めた芸の伝授をしてくれたと思います。

(R1・9・11)



 

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