「江戸城総攻」三部作一挙上演
昭和48年11月国立劇場・ 「江戸城総攻」三部作〜「江戸城総攻」・「慶喜命乞」・「将軍江戸を去る」
六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(勝麟太郎)、
片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(山岡鉄太郎)、六代目中村東蔵(益満休之助)他(以上「江戸城総攻」)三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(西郷吉之助)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(山岡鉄太郎)、六代目中村東蔵(益満休之助)他(以上「慶喜命乞」)
三代目市川猿之助(二代目市川猿翁)(西郷吉之助)、二代目中村吉右衛門(徳川慶喜)、六代目市川染五郎(二代目松本白鸚)(勝麟太郎)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(山岡鉄太郎)、二代目中村又五郎(高橋伊勢守)他(以上「将軍江戸を去る」)
1)「江戸城総攻」三部作一挙上演
本稿で紹介するのは、昭和48年(1973)11月国立劇場での、真山青果作「江戸城総攻」三部作一挙上演の映像です。ちなみに「江戸城総攻」三部作とは、「江戸城総攻」・「慶喜命乞」・「将軍江戸を去る」からなる連作戯曲で、江戸城明け渡しと云う、幕末から明治維新の最も大きな出来事を題材にしたものです。このうち「江戸城総攻」と「慶喜命乞」については、現在の歌舞伎ではあまり上演の機会がありません。「将軍江戸を去る」は比較的上演の機会が多いですが、実は現在上演される同作は、第1幕の江戸薩摩屋敷を全面カットして第2幕と第3幕のみ上演するやり方が通例化しており、同作の本来在るべき姿が想像出来ないものです。
三部作一挙上演と云う試みは戦前も行われたことがなく、戦後においてもこの時(昭和48年11月国立劇場)がただ一度切りのことになります。三部作の全容を目にすることが出来ることだけでもこれは貴重な映像と云えますが、もうひとつの目玉は、この上演が現代の歌舞伎を支える四人の名優(二代目白鸚・二代目猿翁・十五代目仁左衛門・二代目吉右衛門)の若かりし時代の競演と云うことです。考えてみれば令和の現在においては到底実現できない超豪華な組み合わせです。それでは三部作の初演年と配役が重要な情報になるので、これを列記しておきます。
第1部:「江戸城総攻」 初演・大正15年(=昭和元年・1926)11月歌舞伎座、二代目市川左団次(勝麟太郎)、二代目市川猿之助
(後の初代市川猿翁)(山岡鉄太郎)、六代目市川寿美蔵(後の三代目市川寿海)(益満休之助)第2部:「慶喜命乞」 初演・昭和8年(1933)11月東京劇場、二代目市川左団次(西郷吉之助)、二代目市川猿之助(山岡鉄太郎)、六代目市川寿美蔵(益満休之助)
第3部:「将軍江戸を去る」 初演・昭和9年(1934)1月東京劇場、二代目市川左団次(西郷吉之助/徳川慶喜二役)、二代目実川延若(勝麟太郎)、二代目市川猿之助(山岡鉄太郎)、六代目市川寿美蔵(高橋伊勢守)
上記の顔触れで分かる通り、これは左団次劇団のために書かれた戯曲です。二代目左団次が主役を演じることが前提になっているのです。ここで特に目を引くのは、「将軍江戸を去る」初演で左団次が西郷吉之助と徳川慶喜の二役を演じたことです。これはちょっと驚きの配役です。台詞の分量から見ても、左団次の負担(ウェイト)が異様に突出しています。イメージ的に見ても、西郷の四角くてゴツゴツした重い印象と将軍慶喜の丸く優美な印象では随分かけ離れています。この二役を兼ねることは、普通に考えればあり得ないことだと思います。しかし、左団次が欲張って二役を兼ねたわけではありません。初演で左団次がこの二役を兼ねたことが、演劇的に大きな暗喩を持っているのです。それはそれは「攻める側(西郷)」と「攻められる側(将軍慶喜)」の思いが或るところで合わせ鏡のようにぴったり合わさる(合わせ鏡ですから像は反転しています)ということです。これについては別稿「西郷と慶喜〜指導者の揺れる内面」で詳しく述べましたが、後で再び触れることになるでしょう。
ただし、三部一挙上演する場合、初演の通りに配役が出来ません。左団次は、第1作初演では勝を、第2作では西郷を演じました。第3作で西郷と慶喜の二役を兼ねるアイデアを通すとすれば、第1作の勝を別の役者に任せなければなりませんが、これはもともと左団次が主役を演じるのが前提の芝居ですから、そこがちょっと悩むところです。だから三部作一挙上演と云うことになれば、今回(昭和48年11月国立劇場)のように、西郷と慶喜を一人で兼ねるというアイデアは捨てて、主要な役を四人で分担するのがやはり正しいのでしょう。配役のバランスとしても、この方が収まります。多分これは仕方がないと思います。しかし、初演のコンセプト通りに西郷と慶喜は合わせ鏡のイメージだと思って「将軍江戸を去る」を見るべきであるし、この点は演者も心すべきことです。(この稿つづく)
(R1・9・11)
2)時代の空気に「奮い立つ」
まず「江戸城総攻」三部作の成立年代を考えてみたいのです。ちなみに第1次世界大戦が1914年7月から1918年11月にかけてのことです。世界恐慌は1929年10月のこと。満州事変が1931年9月、日中戦争勃発が1937年のことになります。真珠湾攻撃(日米開戦)は1941年12月のことです。つまりアジアの小国だった日本が否応なく世界の帝国主義の潮流に巻き込まれて、戦争の泥沼へ足を踏み入れて行こうとしている初期の時代に、「江戸城総攻」三部作が書かれたということなのです。国民の生活に次第に暗い翳が差し始めていました。しかし、この時期には国民の大部分は、不安を感じつつも、事態を深刻に受け止めていなかったかも知れません。まだ日本は全面戦争の状況ではなかったのです。しかし、作家・真山青果の感性は、戦乱の時代に移り行く不穏な空気を敏感に感じ取っていたと思います。「江戸城総攻」三部作を見れば、そのことが伺えます。
吉之助は、「江戸城総攻」三部作は昭和初めの青果の政情批判であると言いたいわけではないのです。しかし、文学でも音楽でも絵画でも芝居であっても、芸術作品と云うものは、それが成立した時代の空気と無関係であると云うことは決してないのです。と云うよりも、時代の空気を取り込んで「奮い立つ」ところのない作品は、結局のところ良いものになりません。かつて江戸の街が焦土と化して・何十万の民を戦禍に巻き込み・日本国内が朝廷方と幕府方と二手に分かれて内戦状態になる・さらに列強諸国が介入して日本が植民地にされてしまう、そのような瀬戸際まで行ったことがあったのです。それが江戸城明け渡しという出来事なのです。考えてみれば、実に危ういところでした。しかし、それは官軍の西郷と将軍慶喜の二人の、すんでのところでの決断で回避されました。そこに関係者のどれほどの深い苦悩・葛藤があったかと云うことを考えた時、青果は日本が戦争の不安がひたひたと迫って来るこの時代(昭和初期)の空気を重ね合わせたに違いありません。これはとても自然なことなのです。そして思わず身震いせざるを得なかったと思います。
明治維新については状況が複雑を極めます。歴史学的にもどこまで検証されたものでしょうか。評価についても議論が絶えません。立場によって見方が変わって来ます。そこに絶対の見方など存在しません。「江戸城総攻」三部作において青果が近代日本国家の成立という歴史の大問題に果敢に切り込んだとしても、所詮お芝居のことです、青果史観と云うものはあるかも知れませんが、そこには限界があります。観客は青果の明治維新の評価を聞きたいわけではなくて、登場人物の熱い心情に泣ければそれで良いわけです。もちろんそういうことが十分分かったうえで青果は芝居を書いているのです。
どうやら「真山青果は大石内蔵助や西郷隆盛や勝海舟や東郷平八郎など歴史上の偉人傑物ばかり描く史劇作家だ」と云うイメージが世間にあって、それが青果を偉い「先生」にしてしまっているようです。それでなくても青果の芝居は理屈っぽいですからねえ。もちろんプロットを堅固なものにするために青果は文献を綿密に調査したに違いありませんが、大事なことは登場人物の「心情」です。これがなければ良い芝居が出来るはずがありません。(この稿つづく)
(R1・9・12)
『(青果の歌舞伎を見て)退屈しなかったことは一度もない。幕末の武士がちょん髷の頭を下げ、激しい感情で声を震わせ、「先生、お願いします。どうか私を静岡へ使者へ出してください。」というようなセリフを聞くと、「またか」と思う他はない。現代人の嗜好に媚びるように、時代錯誤を冒すことも嫌いなので、「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」というような西郷吉之助の発言などが気に入らない。最も気に喰わないところは、不自然な武士の笑いである。「壮快じゃらうなア、ハハハ」というようなことを聞くと何か下らない時代劇映画を思い出さざるを得ない。真山青果が近代日本の演劇を作ったとすれば相当な責任があるように思われた。』(ドナルド・キーン:「日本文学を読む」 ・「波」1974年6月号)
上記キーン先生の文章が、前年11月に国立劇場での「江戸城総攻」三部作一挙上演を見ての感想であることは明らかです。まあキーン先生が言うことも分からぬわけでもありません。青果劇の登場人物は、周囲も憚(はばか)らず自分の心情を酔うが如く熱く語って、語り終わると大声で泣き始める、そういうパターンが多いわけです。何だか辟易した気分にさせられることがあります。しかし、そう感じてしまうのは、多分、長年の上演のなかでこれが青果劇の或る種の型みたいになってしまったからです。(これは真山美保演出の問題点だと思います。)型化した役者の演技に心情が十分裏打ちされていないのです。ワアワア泣きでも心情が裏打ちされていれば、観客が「・・またか」と感じることはないと思います。
確かに青果劇の登場人物は議論好きです。しかもとても理屈っぽい。しかし、よく見るとそれは議論と云うよりも、自己の心情の吐露の応酬のように聞こえて来ないでしょうか。相手を理屈で説き伏せようと云うものではなく、近代劇であるからイデオロギーの衣を纏ってはいるけれども、大事なことは理屈ではなくて、どれだけ「俺が命を賭けて真剣に思っているか」なのです。「俺の心情の熱さで、相手の心を変えてみせる」と云うのが、青果劇の議論です。「こんなに本気で語っているのに、俺のこの気持ちがどうして貴公には分からぬのか」とじれったさと切迫感を内に込めて相手をひたすらに押そうとする、これが果たせるならばこの命を捨てても惜しくないという感じです。そこに理屈と云うものはありません。これが青果劇の「心情」です。しかし、自分の「心情」を言葉で十分に言い尽くせていると思えないので、そのもどかしさで彼は泣くわけです。決して自分に酔って泣いているのではありません。
ところで吉之助は本サイトで「かぶき的心情」を提唱しています。江戸初期のかぶき者には、世間・社会は個人と対立するなんて観念がまだありませんでした。だから彼らはひたすら「俺が・・・俺が・・」と、自己の気持ちの主張ばかりします。ちょっと幼稚な感じですが、かぶき的心情とは江戸期の庶民の社会的意識の発露なのです。典型的なのは「曽根崎心中」で、「証拠なければ理も立たず、この上は、徳さまも死なねばならぬ。いつまでも生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」とお初が叫んで、徳兵衛と共に心中に走る心情です。見事に死んでみせることが強烈な自己主張(それゆえ最高に生きること)であり、「死んでしまえばそれで終わりじゃないか」とは微塵も考えません。
これは彼らが「一分(いちぶん)が立つ」とか「男か立つ」ということを自分の命より大切に思うと云うことに違いありませんが、もう少し見方を変えれば、それは男の一分がアイデンティティと一体化していると云うことなのです。「俺にこの思いがあるからこそ、俺は俺なのだ」と云うことです。そして「その思いを裏切ってしまったら、俺はもう俺ではない」のです。江戸初期のかぶき者は、世間・社会は個人と対立するなんて観念を持っていませんから、彼が対峙する対象(彼を抑圧する相手)はまだ明確になっておらず、彼は「俺が・・・俺が・・」と喚き立てるしかありません。しかし、彼が対峙している相手が組織だ・或いは世間だと明確に見定められるようになって来れば、ドラマの色合いが次第に変わって来るでしょう。新歌舞伎とは、それです。
明治以降に「国家・社会と個人は対立する概念である」と云う考え方が西洋から入ってきて、日本でも社会のなかでの個人の在り方が深く問われるようになりました。(文学においては夏目漱石や森鴎外がこの問題に深く関わったことは、ご存じの通りです。)大正から昭和初期に生まれた青果劇の主人公も、自分たちを押さえつけるものが社会の構造・規制・道徳だとはっきり見定めており、しかし、そのなかで人は生きて行かねばならないことも、彼らはよく分かっているのです。そこに彼らの悲劇があるのです。歴史的にみれば江戸時代の人々にそのような感じ方はないわけですが、つまり青果劇とは、江戸のかぶき的心情を、近代的観念から読み直した「新釈歌舞伎」なのです。青果劇が疑いもなく「歌舞伎」であるのは、江戸のかぶき的心情をしっかり保持している故に違いありません。
別稿「芝居におけるドラマティック〜三谷歌舞伎の大黒屋光太夫」で触れましたが、「心情」さえあればその芝居を歌舞伎に出来ると書いたのは、そこのところです。青果劇には、隈取りもなく・見得もない、様式的な動きはなく、台詞は現代語で・七五調でもなく、動きもまったくリアルです。これのどこが歌舞伎なの?これでも歌舞伎なの?と仰る方もいるでしょうが、これこそ現代の歌舞伎の形です。それは青果劇では「かぶき的心情」が裏打ちされているからです。これから歌舞伎執筆を志そうと思う方は、まず青果の作品をじっくり研究してもらいたいと思います。(この稿つづく)
(R1・9・15)
「江戸城総攻」三部作は読み切りの形を取っていますが、別個に構想されたものではなく、執筆当初から青果は三つの戯曲を合わせて江戸城明け渡しと云う歴史的事件の経過と全貌を明らかにすることを考えていました。ただし、初演年度を見れば分かる通り、三部作は一機に書き上げられたのではなく、執筆は難航しました。当初の第3部は薩摩屋敷における西郷と勝安房との有名な会見を中心に、攻める者と守る者の心理的駆け引きを描く予定であったようです。しかし、青果はさらに構想を深めて、第3部後半に将軍慶喜を登場させて・最後の場面に慶喜の江戸退出の場面を配して、これを「将軍江戸を去る」として完成させました。このため三部作中の第3部の比重が異様に突出した様相となり、これが第1部・第2部の影を薄くしてしまう要因になっているかも知れません。ただし第3部の出来の素晴らしさ、特に幕切れの感動は比類のないものです。将軍慶喜が千住大橋を渡って江戸を離れる場面が悲劇的に暗いものとならず、むしろ明るい未来を予見させて・爽やかさを感じさせるほどです。
「江戸城総攻」三部作の統一主題は、「西郷の眼差し」と言っても良いと思います。第1部は山岡鉄太郎が勝安房の許しを受けて静岡へ向かう経緯を描き、第2部では静岡総督府での山岡の西郷との談判を描いています。江戸城明け渡しという結論から見ると途中経過に過ぎないので、読み切りとしての完結度合いが乏しいように感じるかも知れませんが、「西郷の眼差し」を全体に一貫させて、三つの戯曲を見事に緊密なものとしています。第1部で勝は山岡に次のように言っています。
『違う、違う。西郷は動かない。西郷の恐ろしいところはそこにある。(中略)彼は慶喜公を殺さなければ更生一新の大革新はならないと固く信じている。彼が、夢にも寝言にも望み願っているのは上様の御首だ。恐らく彼は、彼自身の生命を棄てても、この願望を投げ打つとは云うまい。おれはいま西郷のその大きな目を見ている。彼の全身の欲望は新しい日本の誕生だ。江戸の屠(ほふ)り、徳川家を倒し、上様の御首を木に掛けて、そこに初めて日本国が新設されると確信している。条理や議論に動く男でない。恐ろしいやつだ。実に身が震うほど恐ろしい男なのだ。』(「江戸城総攻」〜勝安房の台詞)
西郷は官軍の実質トップであり、朝廷の意向を体現しています、だから西郷=官軍なのです。勝だけでなく、徳川方すべての人間が、西郷と云う見えない存在に怯えています。西郷の眼差しが、慶喜の首を望み、この目的のためには江戸の街を焦土にして、何十万の民を戦禍に巻き込んでも構わないと嘲笑っているかのように、彼らの目には見えているのです。第3部では、将軍慶喜が薩長の横暴を非難します。この時慶喜の脳裏に見えているのも西郷の眼差しです。上野の大慈院に謹慎しながら、西郷の眼差しに怯えてワナワナ震えています。
『余(慶喜)は水戸家の出身、もとより皇室に対し奉りて、異心(いしん)などある筈なし。異心なしと承知しながら、薩摩に攻められ、長州に苦しめられ、それも不臣、これも異勅と・・・座れば畳に鼻をこすられ、立てば高しと脛(はぎ)を討たれ、散々無念を・・・重ねて来たのだ。』(第3部「将軍江戸を去る」〜徳川慶喜の台詞)
勝にも慶喜にも、西郷が抗しきれない・圧倒的な存在に見えています。西郷の眼差しが、慶喜の首を欲し、江戸の街を焼き払う、徳川家を根絶やしにすると語っています。しかし、実際のところは、西郷が本当にそう思っているかどうかは全然関係なくて、勝や慶喜の目には、西郷の眼差しがそのように見えているというだけのことです。つまりこれは「虚像」なのです。ラカン流に云えば、西郷の声は、自分のなかで響く内部の声(他者の声)です。それを他者(西郷)が語っているかように、私が受け取っているだけです。しかし、私はそこから逃れることが出来ません。(注:第3部を見れば分かることですが、西郷の方も、慶喜の眼差しに怯えてきます。これについては後述します。)
「江戸城総攻」三部作全体が、西郷の重苦しく厳しい眼差しに覆われています。第1部は、西郷の眼差しに怯えつつ、江戸に居る二人の男(勝・山岡)が決死の思いで動き出すドラマを描いています。彼らの考えることは方法論においてはバラバラで、決して一つの考えに結集しているわけではありませんが、「心情」においては合致しています。その心情とは「慶喜を救うことが江戸の街を救うこと・江戸の民を救うこと・つまりは日本国を救うことだ、そのために俺たちはこの命を賭ける」と云うことです。
例えば山岡は、どちらかと云えば「腹を割って話せば活路が開けないものでもない、当たって砕けろだ」と云う感じです。理屈はあまりなくて、相手の心情に訴えようと云う人なのです。しかし、第2部・静岡の大総督府では、頑なな態度を取る西郷に向かって山岡が不躾(ぶしつけ)に、
『兎に角、あんた(西郷)が私(山岡)の身になって薩摩侯がその場面に置かれたとしてご覧なさい。殺せるか、殺せないか、云うまでもないことじゃないか』(第2部:「慶喜命乞」〜山岡の台詞)
と言ったことで、思いがけなく活路が開けます。この場面はまったくさりげなく描かれています。青果はこの台詞が西郷を変えるきっかけであることを隠したいかのようです(言った山岡もそのことに気が付いていない)が、実に綿密に伏線が敷かれています。相手の「心情」に訴えようとした山岡の発言がきっかけで、西郷の態度がほんの少しだけ変化します。西郷が「実はこちらにも弱みがあって、引き受けたいところかも知れません。しかし、勤王の大精神としてそれはなりません」と言い始めるのです。西郷は江戸城総攻撃の意志を依然として崩していませんが、「あんたが私の身になってご覧なさい」という言葉が、西郷の心のどこかに引っ掛かったのです。(注:西郷と慶喜の立場は、合わせ鏡のように重ねるとぴったり合うからです。この西郷の気付きはすぐには効果を現しませんが、第3部・薩摩屋敷での西郷の述懐を聞けば、このことが分かります。本稿次章をお読みください。)
山岡が理屈よりは直情の人であるならば、勝の方は理屈と考察ばかり先走って・すぐには動かない人です。しかし、その勝が考えたことは、恐ろしい事でした。第1部では問われても勝は「云わん、それは云わん」と言って・山岡になかなか打ち明けようとしません。しかし、山岡が静岡へ出立しようとするところで、勝はこれを明かします。
『俺は単身横浜に乗り込んで、英国公使館に飛び込んで、幕府嫌いのパークス公使に(慶喜公の保護を)説いた。頼んだ。(中略)敵意ある英国公使に(上様を)托する方が、却って上様のお身が安全だろうと・・」」(第1部「江戸城総攻」〜勝の台詞)
勝が考えたことは、西郷がどうしても上様を殺すと云うならば、上様を英国に托して・国際法を盾に上様を守る、しかし、このことは列強諸国が日本に介入する口実を作ることになるぞ、日本は植民地にされるかも知れぬぞ、西郷はそれでも上様を殺すか、どうだこれでもやるかと云うことです。それがどれほど危険な掛けであるか勝はよく分かっています。これが勝が西郷の喉元に突き付けた匕首なのです。(上述の西郷の発言で「こちらにも弱みがある」と山岡に云ったのは、このことです。)そこでは勝は、冷静に理屈を考えているつもりでも・それはもう理屈ではなくなっており、ただ「心情」だけで動いています。
ですから山岡は山岡、勝は勝のやり方でそれぞれ動いていますが、二人の行動はすべて同じ「心情」から発しているのです。かぶき的心情とは、「俺は・・・俺は・・」と云う気持ちですが私情ではなく、そこには理屈とか損得勘定がまったくなくて、それゆえひたすら無私でピュアな感情なのです。無私でピュアな心情に裏打ちされた行動だからこそ活路が開ける、そのようなドラマのことを「歌舞伎」と呼ぶのです。(この稿つづく)
(R1・9・18)
西郷と慶喜の立場が合わせ鏡の如くぴったり重なると云うことは、別稿
「西郷と慶喜〜指導者の揺れる内面」に詳しく述べたので、そちらをお読みください。要するにこれは、西郷の方も慶喜の幻影に怯え、江戸城を総攻撃し慶喜の首を取らねばならぬ強迫観念に襲われていたということです。このことに気が付いた時、自分は何と恐ろしいことを考えていたのかと、西郷は身が震える思いがしたのです。西郷が「行け」と云えば、江戸の街は焦土と化し、何十万と云う無辜の民を戦禍に巻き込むことになる、そういう恐ろしい判断を自分はしようとしていたのです。官軍が進むも止まるも、すべて自分一人の判断に委ねられている、その判断のあまりの重さに西郷はたじろかざるを得ません。『わしが目的通り、明日進軍ラッパを吹かせたら、この鰯売のように、明日の戦争も知らず、政治も知らず、国家の大勢現状も知らず、ただ五十文の損得と妻子自分等の生活のことを知る以外に何もない無辜(むこ)の良民何十萬何百萬と・・殺さなければなりません。先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア・・。』(第3部:「将軍江戸を去る」〜西郷の台詞)
よく誤解されることですが、西郷のこの「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」という台詞は、甘っちょろいセンチメンタルな感情から出たものではありません。芝居を見ると、西郷のこの発言は、薩摩藩邸前での鰯売が「半値では売られない」という喧嘩騒ぎから引き出されたものに見えるかも知れません。お傍の中村半次郎さえ「西郷先生、おまんさア全体、馬鹿でごわすか」と呆れるくらいです。まあ確かに「将軍江戸を去る」だけ見るならば、そのように見えても仕方がない。詰まらぬ鰯売の喧嘩から、「戦争ほど残酷なものはない」という壮大な歴史的反省が引き出せるとは思えないから、結論が薄っぺらに見えて来るのです。
ところが「江戸城総攻」三部作を通してみると、西郷のこの発言は、第2部・静岡の大総督府で西郷が山岡に云われた「あんたが私の身になってご覧なさい」という台詞の気付きから発したものだと分かるのです。これは三部一挙上演の効用と云うべきです。実は西郷は山岡の台詞を、山岡本人が言ったのとはちょっと違ったニュアンスで受け取っています。「山岡の身になって」ではなくて、「俺(西郷)が慶喜公の身になって考えてみれば・・」なのです。裏を返して見れば、俺と慶喜公の立場は合わせ鏡のようにぴったりと重なるではないか、俺が慶喜公の幻影に苦しんでいるのと同様、慶喜公も俺の幻影に怯え悩み苦しんでいるのだ、西郷のこの気付きからすべてが動き始めるのです。
第2部では、この気付きは決定的なものとはまだ見えず、さりげなくほのめかされるのみです。静岡から江戸への路を行く途中も、西郷はずっとこの疑問を考え続けています。しかし、西郷のなかでまだ結論が出ません。江戸の薩摩屋敷に入っても、まだ疑問は西郷のなかでくすぶったままです。ところが鰯売の喧嘩を見て、突然パッと閃いたのです。西郷の思考回路と云うのは、そういう風に出来ているのです。鐘をちょっと叩いだだけなのに、その振動が反響を繰り返しながら大きくなって、長い時間が掛かって、次第にうねるような轟音となっていくのです。だからこの「先生、実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」と云う西郷の台詞に万感の重みが出て来るのです。この台詞は高らかに歌うように発せられると、まったく薄っぺらにしか響きません。ボソッと低く絞り出すように云われてこそ、初めて実感が出る台詞なのです。
ところで、今回(昭和48年11月国立劇場)の三部一挙上演では当然原作通りですが、現行歌舞伎における「将軍江戸を去る」の上演では、第1幕・江戸薩摩屋敷が全面カットされ、第2幕と第3幕のみを3場仕立てで上演するやり方が定型となっており、ここに由々しい改変が見られます。それは「実に戦争ほど残酷なものはごわせんなァ」という西郷の台詞が、第2幕・大慈院奥の間で山岡が慶喜を諫める台詞として使用されていることです。現行上演での山岡の台詞は、
『西郷吉之助は申しました。この江戸中が火の海と化すとき、
政治も知らぬ、また国家の現状も知らぬ無辜(むこ)の良民何十萬何百萬を殺さなければならないのです。上さま、実に戦争ほど残酷なものはござりません。』(現行脚本による「将軍江戸を去る」〜山岡の台詞)と云うものですが、これは原作にない入れ事です。恐らくこれは戦後の上演(
第2幕と第3幕のみ)での改訂で、為政者に戦争批判を物申す台詞を入れておけば、終戦後間もない観客に大いに受けるという意図で挿入されたものに違いありません。(吉之助は昭和32年に戦後初めて「将軍江戸を去る」が3場仕立てで上演された時に監修の巌谷真一がこの改訂を行ったと睨んでいますが、現在のところこれは吉之助の推定に過ぎません。)実際、この台詞では観客の拍手が湧くことが多い。ただし、山岡が上様にこれを申し上げると説教臭くなります。せっかくそこまで冷静に理屈を説いていたのに、山岡がこれを言い始めると、キーン先生でなくても「またか・・」と言いたくなります。それに大抵の場合、山岡役者がワンワン泣きながら「実に戦争ほど残酷なものはござりません」と叫ぶことが多いので、山岡が何とも青臭く見える。こういう場合、山岡は言いたいことを簡潔に言い放ってサッと後ろに退いた方が、潔くてよろしいのです。「将軍江戸を去る」について「慶喜は主戦論に傾いていたが、山岡の熱い説得で自分の間違いに気が付いて、江戸を去ることを決意した」という誤解釈が巷間出回る原因がここにあります。そろそろこの場面は、原作通りに戻した方が良いと思いますがねえ。(この稿つづく)(R1・9・19)
もうひとつ
今回(昭和48年11月国立劇場)の「江戸城総攻」一挙上演で興味深いことは、現代の歌舞伎を支える四人の名優(二代目白鸚・二代目猿翁・十五代目仁左衛門・二代目吉右衛門)の若かりし時代の競演だと云うことです。令和の現在では実現できない超豪華な競演です。ちなみに当時の彼らの年齢を記すると、三代目猿之助・34歳、六代目染五郎・30歳、孝夫・29歳、二代目吉右衛門・29歳です。年齢から見ると青年歌舞伎の雰囲気で、多分当時の観客は「国立劇場の本公演がこの顔触れで大丈夫なのかなあ」と不安に思ったに違いありません。しかし、この映像で見る舞台は、現在の歌舞伎の水準と比べると驚嘆するほどの高レベルです。当時の歌舞伎の全体水準が如何に高かったか、そのことが分かって愕然としてしまいます。左団次劇の様式である「二拍子を基調にした畳み掛けるリズム」が、一座のどの役者もしっかり取れています。このことが台詞だけでなく、所作においても、芝居全般に適度な緊張感を与えています。芝居が引き締まっているのです。これは昭和48年当時には、左団次劇団による新歌舞伎の舞台を実際にこの眼で見た世代がまだ多く存命であったことにも拠ります。(左団次劇団の副将格であった初代猿翁は昭和38年、三代目寿海は昭和46年まで存命。)四人の主役のなかでは、猿之助(西郷)と染五郎(勝)の出来が突出しています。現在では技芸で互いに引けを取らぬ四人ではありますが、当時の舞台経験では歳の甲でやはり猿之助と染五郎が抜きん出ていました。ここではその差が若干出ているかなと思います。まず猿之助(西郷)がとても素晴らしい。意図してもっさりした大きさを作っていますが、これが西郷の雰囲気をよく表しています。特に目付き、視線の置き方が、上手いですねえ。勝が「おれはいま西郷のその大きな目を見ている。恐ろしいやつだ。実に身が震うほど恐ろしい男なのだ」と怖れる、西郷のあの目、これこそ「江戸城総攻」全体を貫く主題です。猿之助の西郷は、決して声を荒らげません。
別稿「西郷と慶喜〜指導者の揺れる内面」でも触れましたが、例えば第3部で、西郷が中村を叱責する件、勝に江戸城引き渡しの3か条の受諾を確認する件、「実に戦争ほど残酷なものはごわせんなア」と述懐する件などは、普通の役者ならば、ここを声高に張り上げてみたくなるものです。しかし、それでは西郷どんの大きさが出せません。大きいものにも・小さいものにも同じように対して・それに相応しい反応を見せる、愚鈍なほどに愚直なほどにそこに分け隔てがないのが、西郷どんの人間の大きさなのです。台詞のどんな場面においても、愚鈍なほどに同じリズムと音量を通す、そこに差を付けるとすれば、それはホンの少しの語調の変化と、台詞の末尾の押さえ方のみです。そのことを猿之助はしっかりと理解しています。これは祖父・初代猿翁から受け継いだセンスに違いありません。こうして祖父から受け継いだ・この新歌舞伎のセンスが、当時既に始まっていた猿之助歌舞伎の根本に確かにあったと云うことなのです。対する染五郎(勝)もまた素晴らしい。まあ当時から染五郎の素質の良さは際立っていましたし、数々の舞台で評判を取っていました(吉之助はこの前年8月に染五郎が主演した「ハムレット」の舞台を見ましたが、素晴らしい出来でした)から、この位は出来て当然だと思います。発声の明確さ、台詞の流れが醸し出すリズム感が心地良く、それがきっぷの良い江戸っ子・勝安房の個性にも通じます。西郷の台詞がもっさりして二拍子のリズムが際立たないので(しかし西郷は西郷なりのペースに於いて急いているわけで、西郷なりの二拍子なのです)、本作で青果劇の台詞様式が味わえるのは、やはり勝の台詞だということになるでしょう。おかげで西郷と勝が対決する第3部・江戸薩摩屋敷が、とても見事な場面になりました。
ところで「江戸城総攻」を三部通して見ると、西郷は第1部には出ないし・勝は第2部には出ない、この点で三部作通して登場する山岡が思わぬ儲け役となって、三部を貫くトリック・スターとしてとても大事な役になって来ます。これは今回の一挙上演の発見でもありますね。山岡が一人熱くなって跳ね上がった行動をしているように見えるけれども、結局、山岡の差し出た行動が、西郷と慶喜が動くきっかけになったと云うことです。これが青果の仕掛けなのです。(山岡にこういう役割を当てていることで青果の二代目猿之助に対する評価が如何に高かったかが分かります。)孝夫が演じる山岡はよく頑張っており、素質の良さを見せています。ただこの時代の孝夫はまだ苦節雌伏の時代(上方歌舞伎が消滅の危機に瀕していました)で、舞台機会が少なかった。歌舞伎界随一の台詞術を持つ現・仁左衛門もこの当時であると肩に余分な力が入っており、若干喚く感じがあって、台詞の洗練度にまだ改善の余地があることは否めません。ただしそこが山岡の熱い心情にも通じるところもあって、この舞台を見て孝夫の可能性に着目した観客は多かっただろうと思います。
吉右衛門の慶喜は、当時の吉右衛門の体格が痩せて細かったせいもありますが、ちょっと陰鬱に見えますねえ。憤懣やるかたないと云う感じで、何やら経文を引き千切る寸前の鳴神上人のようにも見えます。まあそう云う解釈もあるでしょう(これは真山美保の演出のせいかも知れません)が、しかし、第3部の山岡の慶喜に対する台詞を見ると、これは明らかに慶喜の理性に訴えようとする台詞です。元より山岡は西郷に対しても「俺には議論も意見もない」(第2部)と自分で言っているくらいだから、心情の人です。そんな山岡が分に似合わぬ理屈を慶喜に訴えるのは、慶喜が理の人であるからです。慶喜は決して感情で怒っているのではなく、官軍の自分に対するやり様(これを慶喜は西郷のイメージで考えている)があまりに理不尽に思えて、江戸城退去の決断に踏み切れないでいるのです。だから山岡は慶喜のアイデンティティに対し理によって(理を借りはいるが、山岡なりの「心情」で以て)働きかけようとしています。その慶喜のアイデンティティとは、慶喜自身の台詞にある通り、
『水戸の御家は、他家(尾張・紀州)とは異なるぞ。万一、京都と江戸との間に御確執あらば、水戸家は第一に皇室に馳せ参じ、宗家たりとも本家たりとも、江戸将軍家を踏み潰さねばならぬ任務がある。これが当家代々極秘の間に伝へられた家憲であるぞと・・』(第3部「将軍江戸を去る」〜慶喜の台詞)
と云うことです。山岡は理を以て慶喜の心底にある彼のアイデンティティに働きかけようとしているのです。ですから慶喜を正しく理の人に見せてもらいたいわけです。かぶき的心情
とは、江戸初期における個(アイデンティティ)の発露であることは先に触れました。そう考えると将軍慶喜は江戸の最後のかぶき者であったかも知れませんねえ。とは云え、吉右衛門の慶喜も台詞のリズムはしっかり取れており、最後の千住大橋での江戸退去の場面は感動的になりました。吉右衛門がここから成長して、現在の名優にまで成長したことも、感慨深いものがあります。それにしても当時三十前後の若手が現在ではみんなこんなに立派な役者になったということ、今回(昭和48年11月国立劇場)の「江戸城総攻」一挙上演を見て、現代の歌舞伎を支える四人の名優の現在から過去を振り返り、四十数年の流れのなかに、何かしら納得できるものを確認出来たこと、これも過去映像を改めて見直すことの功徳だなあと思いますねえ。
(R1・9・18)