実盛の負い目〜十五代目仁左衛門の実盛
平成31年4月歌舞伎座:「源平布引滝」〜実盛物語
十五代目片岡仁左衛門(斎藤実盛)、五代目中村歌六(瀬尾十郎)
1)実盛の負い目
平治元年の平治の乱で源義朝が平清盛に敗れ、もともと源氏方に付いていた関東の多くの有力武士たちは「いとま給わり」・つまり契約解除される形となって所領に戻り、その後長く平家の勢力下で禄を食まざるを得ませんでした。しかし、21年後の治承元年、義朝の遺児・長男である頼朝が平家討伐に決起しました。この時、関東武士のなかでは源氏方に付く者が続出しました。当時の武士には江戸期のように主従関係に絶対的な重きを置く考え方はまだ強くなかったので、勢いが強い方に付くのは当たり前のことでした。
「平家物語・巻7・篠原合戦」に拠れば、木曾義仲(源義仲)との合戦の直前、斎藤別当実盛は仲間を呼び集めました。彼らはすべてかつて平治の乱では源氏方に付いて今は平家の禄を食む仲間同士でした。実盛は仲間と酒を酌み交わしながら、こんなことを言い出します。「このところの情勢を見れば、源氏の勢いはますます盛んで、平家は敗色濃厚だ、ここは源氏である木曽殿に付こうではないか。」 実はこれは実盛が仲間の覚悟を試す為のものでした。翌日、俣野五郎景久が実盛にこう返事をしました。『さすがわれわれは、東国では人に知られて、名ある者でこそあれ、吉について、彼方(あたな)へ参り此方(こなた)へ参らんことは見苦しかるべき。(中略)景久に於いては、今度平家の御方で、討ち死せんと思ひ切って候ぞ』
これを聞いて実盛も本心を打ち明け、実は自分も同じ覚悟であると伝えました。この場に居合わせた二十数名は後の加賀国・篠原の戦いで全員討ち死にすることになります。「今度北国にて一所に死にけること無慙(むざん)なれ」と「平家物語」は伝えています。ちなみに上記逸話の俣野五郎景久は、歌舞伎の「石切梶原」に登場するあの俣野です。芝居での俣野は梶原平三をあざ笑って思慮が足りない粗忽者のように描かれていますが、史実の俣野はそうではなくて、「名を惜しむ」ことを知る立派な武士なのです。この頃から「名を惜しむ」ことが武士の理想の振る舞いだという気風が生まれています。
篠原合戦で戦死した武士たちの気持ちのなかに、源氏に恩義がありながらも・その後心ならずも平家の禄を食まざるを得なかったことの不本意さと云うか負い目が感じられます。ただし本来はこれをあまり強く読むべきではないと思いますが、江戸期の「実盛物語」を読む場合にはこの視点が絶対に必要になります。さらに実盛にはもうひとつ個人的な事情がありました。実は義仲の父義賢が同じ源氏の甥義平(頼朝の兄)に殺された時(久寿2年)に、まだ2歳であった幼い義仲をかくまって、木曾の中原兼遠(義仲の養父となる)に送り届けたのが実盛であったのです。だから実盛の場合、源氏に心を寄せる気持ちが人一倍強いわけです。しかし、現在の実盛は理由はどうあれ平家の家来ですから、その場その場の風向き次第で強い方に付くような見苦しい様は名のある武士として見せられません。そこに実盛の引き裂かれた状況がありました。(別稿「実盛の運命」を参照ください。)
このように江戸期の「源平布引滝」の主人公斎藤実盛には、現在の自分は本来在るべき自分(アイデンティティ)を裏切っていると云う負い目の気持ちが非常に強いわけです。実盛の心は源氏方にありました が、平家に従属せざるを得なかったのは、生き抜くために仕方がないことでした。だからここでの実盛の心情は、「今現在の自分は本来の在るべき自分を裏切っている、今の自分がやっていることは本当に自分が望んでいることではない」と云うことになります。これは「鬼一法眼三略巻」の一條大蔵卿も同様です。(別稿「二代目吉右衛門の大蔵卿」を参照ください。)とてもかぶき的な心情なのです。(この稿つづく)
(R1・5・1)
2)「またしても・・・」
現在の自分は本来在るべき自分を裏切っていると云う実盛の負い目が、「源平布引滝」でどのような形で現れるでしょうか。それは有名な実盛の「物語」で現れます。(別稿「実盛物語における反復の構造」を参照ください。)これについてはジャック・ラカンがセミネールで語っていることも参考になります。ラカンの難しい用語なんて無視して、次の文章を詩のようにお読みください。ラカンは詩のように読むのが一番良いのです。
『・・時とともに、わたしはそのことについてもう少し語れることが分かりました。そして、私の歩みを運んでいたものが、わたしはそのことについて何も知りたくない(je n'en vuex rien savoir)の類いのことだと知りました。それは恐らく、時とともに、またしても(encore)わたしをここにいさせ、あなた方をもまた、ここにいさせているものです。わたしはいつもそれに驚かされます・・・またしても(encore)。』(ジャック・ラカン:「アンコール」・1972年11月21日のセミネール)
ジャック・ラカン:アンコール (講談社選書メチエ)
実盛の「物語」の反復構造、それは実盛が向き合いたくなかったもの(負い目)を思い起こさせる、またしても・・ということです。琵琶湖船上での実盛は、小万の腕を切りたくて切ったわけではありません。源氏の白旗を平家に奪われまいための、やむを得ない仕儀でした。しかし、実盛は心ならずも同じことを繰り返したことになります、またしても。「物語」に先立ち実盛は、このことを明確に吐露しています。この台詞はとても重いものです。
『某(それがし)もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い、清盛の禄を食むと言えども、旧恩は忘れず、今日の役目乞い請けたも、危うきを救わんため』
その負い目が時が移っても、またしても実盛をこの場にいさせ「物語」を語らさせ、舞台上の葵御前・九郎助一家をも(そして芝居を見る観客をも)、ここにいさせているものです。しかも、反復はこのままでは終わりません。後半、葵御前が赤子(後の木曽義仲)を産み、太郎吉のために瀬尾が死ぬと云う・意外な展開を見せて、ヤレこれで目出度く芝居が終わるかと思ったところで、太郎吉が「サアこれからおれは侍。侍なれば母様の敵、実盛やらぬ」と詰め寄ります。それはまたしても実盛を追い駆けて来るのです。
もしこの場で実盛が何も言わずに立ち去り、この28年後・寿永2年、加賀国・篠原の地で手塚太郎(後の太郎吉)に討たれるのであれば、ここで実盛は「またしても」自分が見たくなかった負い目の恐ろしさを否が応でも思い知ることになるでしょう。しかし、実盛はそうはさせなかったのです。
『ホホあっぱれ。さりながら四十に近き某が、稚き汝に討たれなば情と知れて手柄になるまい。若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん。まづそれまではさらばさらば。』
この台詞によって実盛は自分の意志で28年後の死を指定します。もう因果や負い目に追い回されて死ぬのではない。実盛は主体的に自らの死を選び取るのです。だからこれはもはや「またしても」ではない。それを吹き飛ばしたのは実盛自身です。幕切れの実盛の晴れやかさ・爽やかさは、そこから来ます。(この稿つづく)
(R1・5・3)
3)実盛物語の難しさ
杉山其日庵の「浄瑠璃素人講釈」にある挿話ですが、三代目越路太夫が「実盛物語」(文楽では「九郎助住家の段」と云います)を勤めることになり、師匠に聞いてもらおうと摂津大掾の元を訪ねたところ、大掾が怒ってこう言ったというのです。「なぜもっと早く来ぬのじゃ。この段は今云うて、今語れるような(易しい)ものじゃないわい。今はそのまま遣っときなはれ。役が済んだら、何時でも聞くわい。」 このため越路太夫はこの段を大掾に教えてもらう機会を逃がしてしまい、「私はえらい不調法をいたしました」と其日庵に嘆息するのです。
杉山其日庵:浄瑠璃素人講釈〈上〉 (岩波文庫)
それではこの段のどこが難しいのかということです。実盛を爽やかに面白く語るのであれば、それほど難しくはないでしょう。しかし、実盛の晴れやかさのなかに潜む負い目、彼が向き合いたくなかった「またしても」と云うものを描き出そうとすれば、それは決して生易しいものではないのです。人は生きている限り、なにがしかの柵(しがらみ)に縛られ、そこから決して逃れることは出来ません。(これは現代においても、そうです。)そのような柵のなかでも、人は潔く覚悟を決めることができる。実盛が教えてくれるものは、そういうことです。後世の武士たちが「あの実盛のように死にたいものだ」とした理想の死に潜む、もののあはれを描き出さねばなりません。
そこで今回(平成31年4月歌舞伎座)での仁左衛門の実盛のことですが、颯爽とした生締めの風情において、仁左衛門の右に出る役者はいません。そのことを認めた上で憎まれ口を書きますが、葵御前が「げにその時にこの若が、恩を思ふて討たすまい」と言いますが、28年後にホントにそうなっちゃいそうな実盛なのです。こんな良い人は討っちゃイカンんよと観客が思う実盛なのです。実盛は晴れやかな恰好良さを見せる生締めだから、役者の華を見せればそれで良いんだと云う感じに見える実盛なのです。吉之助にはそこが引っ掛かりますねえ。ちょっとスマート過ぎるのじゃないの。
前月(3月)の「盛綱陣屋」では、仁左衛門は盛綱の論理にこだわり過ぎて演技が説明的に陥っていました。心情において行き詰まった論理を一気に捨て去り「褒めてやれ」でパッと扇を掲げるならば、すべて帳消しに出来ます。歌舞伎では良い意味において役者の華がすべてを許すという場合が確かにあるでしょう。しかし、ここでまったく逆のことを書くように聞こえるかも知れませんが、「実盛物語」の場合には、実盛の晴れやかさは もちろん必要ですが、それだけではまだまだ不足なのです。幕切れの花道の馬上でパッと扇を掲げれば、それで良いわけではないのです。なぜならば「実盛物語」は、実盛の葛藤(負い目)を匂わせるだけで、はっきり描いておらぬからです。そこが本作の弱いところかも知れませんが、それは当時の民衆が「平家物語・篠原合戦」の挿話を承知していることを前提に芝居が作られているからです。観客がこのことを知っていれば、「若君ともろともに信濃の国諏訪へ立越え、成人して義兵を挙げよ。その時実盛討手を乞受け、故郷へ帰る錦の袖ひるがへして討死せん」という実盛の台詞で、「ああなるほどそういうことか」と「実盛物語」の論理構造がピーンと通るのです。だから舞台前半において、作者が匂わせるだけに済ませた箇所を、現代の上演ではしっかり描き出さねばそこは通じません。有名な実盛の「物語」は、そのような大事の場面なのです。(この稿つづく)
(R1・5・6)
4)十五代目仁左衛門の実盛
有名な「物語」に先立つ「某もとは源氏の家臣なれど、ゆえあって平家に随い・・・」は、実盛の負い目を示すものですから、この台詞は低く抑えて、しかし暗過ぎないように、気品を以て言わねばなりません。「さてはその方達が娘よな、不憫なことをいたしたり」も同様で、そこに「済まないことをしてしまった・・」と云う実盛の悔恨と負い目から来る苦渋(それはあの場面では仕方がなかったのだ)が漂わねばならぬわけで、これも低く抑えて出るべき台詞です。
実盛が琵琶湖船上で小万の腕を切り落とした経緯を回想する物語も、丸本には「涙交じりの物語」とあります。それは実盛の「物語」を陰惨に暗く語れば良いと云うことではありません。時代物として華やかさは必要です。しかし、決して華やかさ一方ではないのです。床の三味線が作り出す派手なリズムは、軽快で心地良く聞こえるかも知れませんが、それはここでは強制された心地良さです。
これは本作の大事な点ですが、実盛が「あの腕は俺が切り落としたものだ」と気が付いても、知らぬ振りしてひた隠しにしていれば、実盛は28年後に太郎吉に殺されなくて済むわけです。ならば黙っていればよいのに、誰に指摘されたわけでもないのに、どうして実盛は真相をすべて物語ってしまうのでしょうか。結局、それは内面から強制されたように実盛の口から出てしまうのです。それは実盛の負い目が為せるものです。それは「またしても」実盛にそのことを思い出させます。だから実盛の「物語」の見掛けの華やかさと、彼がそこで語ることの陰惨さとの間には、大きなギャップ(乖離)がある。そこを気が付かせて欲しいわけです。
仁左衛門の実盛は、これらを高調子で歌うように語っています。確かに華やかかつ爽やかですが、そこに実盛の負い目を暗示するものが聞こえて来ません。贅沢な不満のようですけれど、仁左衛門の「物語」の高調子、滑らかさ・スマートさが、このギャップ(乖離)を感じ取り難くさせています。義太夫のトーンとしては高調子に過ぎるのです。巷間あまり指摘されないようですが、これは仁左衛門の丸本時代物の役々に共通する弱点だと思いますねえ。この為に、例えば仁左衛門の一條大蔵卿は、カッコ良過ぎて「お前たちには分からないだろうが、実は俺には考えがあるのだよ」という感じに見えて、作り阿呆を装って平家横暴の世に背を向けることの悲哀が見えて来ない。大蔵卿の負い目を気付かせてくれない不満があります。これは実盛の不満とまったく同じです。仁左衛門の「物語」は、台詞を低調子に出し言葉を噛み砕いて出すことを心掛ければ、これで印象がずいぶん変わって来ると思います。ホンのちょっとの違いです。でもホンのちょっと変えただけで素晴らしい実盛に出来るのです。
他の役に触れませんでしたが、歌六の瀬尾は最初登場した時には重量感に不足するように感じましたが、全体としては台詞に手強さがあって手堅い出来でした。再登場して娘小万の遺骸を蹴飛ばす場面では台詞に涙を含ませ過ぎでここは抑えた方が良いけれども、それにしてもこのところの歌六は丸本物で得難い位置を担っていますね。結局、瀬尾にも負い目があったわけです。
(R1・5・8)