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いわゆる義太夫味について

平成31年2月歌舞伎座:「義経千本桜〜鮓屋」

四代目尾上松緑(いがみの権太)、五代目尾上菊之助(弥助実は維盛)、四代目中村梅枝(六代目中村時蔵)(娘お里)、九代目市川団蔵(弥左衛門)、市村橘太郎(女房おくら)、九代目中村芝翫(梶原景時)


1)義太夫味の不足

松緑の権太は初役、菊之助は弥助が初役(お里は2回演じています)、梅枝はお里が3回目と云うことです。まあ一応の出来であるとは思いますが、顔ぶれを考えれば、もう少し仕出かして欲しいのが本音です。出汁が効いていない吸い物の如しで、義太夫狂言のコクが乏しいと感じます。これは近年若手が演じる義太夫狂言に共通して感じることですが、義太夫味の不足が今後の歌舞伎の大きな問題(危機)になると思うので、本稿では今回(平成31年2月歌舞伎座)の舞台を材料にそこら辺をちょっと考えてみたいと思います。

まず「鮓屋」は時代狂言のなかの世話場ですから、世話を基調として置くべきことです。義太夫狂言の世話場と云うのは、なかなか難しいです。義太夫狂言であるから竹本(義太夫)が作り出す音楽的流れからまったく離れてしまっては、もちろんいけません。しかし、役者は人形ではなく人間ですから、どこかで生身の人間である感触を主張せねばなりません。そうでないと人形浄瑠璃作品をせっかく役者が演じる意味がないわけです。大事なのは、表現ベクトルを写実(世話)へ向けることです。しかし、同時にそれは竹本から意識して離れることを意味します。つまり義太夫狂言では竹本に付きながら同時に離れるという相反した演技を役者は要求されることになるのです。時に表現が写実の方に大きく振れても、決まりのところでは竹本の流れにスッと落として決める(つまり時代の方向へいくらか戻すという感覚になりますが)、そのような活け殺しの呼吸が義太夫狂言ではとても大事です。以上のことは時代物でも共通ですが、世話場の方が全体的な表現基調が写実の方へ寄っており、振れの度合いがやや大きいと考えれば良いです。その分世話場の方がちょっと難しいことになります。

今回の舞台を見ると、主役三人共に竹本が作り出す音楽的流れに付こう付こうとしていると感じます。例えば三味線がリズムを取ってシャンと決まる、そう云う箇所で動きをカクカクさせてタイミングを合わせる、そう云うところばかり意識して、そうすることが義太夫狂言だと思っているように感じます。だから人物表現が人形に近い印象に見えてきます。これは褒めているのではありません。人物が生硬に感じられると言っているのです。決まるということは反写実の表現ですからそこを程よく抑えて決める、つまり真正直に時代に決めるのではなく(リズムの角に決めを当てるのではなく)どこか世話に崩すのです。それで世話の表現になるのです。役者は人形ではなく人間なのですから、そこに人間が感じられないのであれば、歌舞伎であることの意味がありません。

例えば弥助の「たちまち変わる御装い・・」の場面がそうです。タイミングと形はきっちり決めていますが、菊之助の弥助は肚が薄いと感じます。 これは菊之助の怜悧な芸質に拠るところもあります。弥助(実は維盛)は平家のなかでは情け深い人物として有名な小松重盛の長男であり、史実では熊野沖で入水する人物です。だからこの世の無常に感応出来る資質を持つ人物です。そのような形からはみ出た部分をどう表現するかに役者の腕が掛るのです。

或いは幕切れの権太のモドリの述懐の台詞のリズムもそうです。松緑の権太は台詞を言うのに急いてリズムに付こうとして、却って権太の人間味を損なっています。リズムが前面に出過ぎる為、時代っぽい印象になるのです。ここはもっと台詞に緩急を大きく付けた方が良いです。権太一家の犠牲は、現実にあり得ない特異なシチュエーションです。この歪(いびつ)な 状況の権太の述懐に真実を持たせようとして感情を込めれば、当然リズムは破綻するし、破綻させねばならないのです。破綻を恐れるならば、権太の述懐に真実味が出ません。破綻すると見せながら最後を見ればきっちり枠に収まっている、
義太夫味とはそう云うものなのです。「然り、しかし これで良いのだろうか・・」という感情を呼び起こすドラマこそ歌舞伎です。そんなこんなで今回の舞台も、全体的に時代っぽい生硬な印象が強くなっています。

世話場としての「鮓屋」の佇まいを正しく表現出来ていないもうひとつの要因は、台詞の調子(キー)の問題です。先ほど役者が「竹本が作り出す音楽的流れに付こう付こうとしている」と書きましたが、実は竹本に完全に合わせているわけでは ありません。確かに三味線が弾くツツツツ・トンというリズムには合わせていますが、台詞の音程が全然合っていない。要するに、決まりの箇所でリズムを合わせているだけで、肝心の台詞の音程(トーン)が竹本の基調から外れているのです。「竹本は竹本・役者は役者だよ、役者は自分のやりたいように台詞を言うだけさ」みたいな感じです。これでは「竹本に合わせた」とは言えません。

近年の義太夫狂言に感じる最も大きな不満は、役者の台詞の調子(キー)が高過ぎることです。正確には「高い方へ外れ過ぎ」と云うことです。義太夫というのは、太夫は三味線の指す音程を避けて語る約束があるので、外れるのは別に構わないのですが、基調の音域があまりに三味線から外れるならば、これは問題です。竹本を注意深く聴くならば、あの高調子で台詞を切り出して平気でいられるはずがないと思いますがねえ。これでは音曲の体を成さないのです。このため吉之助はこのところ舞台を見て、何だか頭が痛くなることが多い。(吉之助の観劇随想をご覧になると義太夫狂言で「もっと台詞の調子を低く」と書いていることが多いことにお気付きかと思います。)今回の舞台も例外ではなく、主役三人共に高調子です。これは一音ほど調子(キー)を落とせば印象が全然変わって来ると思います。最近の女形は誰もが声を高く作り過ぎの傾向がありますが、梅枝のお里も台詞がキンキンして聞き辛い。このため却ってお里の真実 味が損なわれています。

竹本の
音程に耳を澄ませれば、台詞の調子をどこに合わせるべきかは自ずと分かることです。例えば橘太郎の女房おくらは女形が本役でないから声が男っぽいと感じる方がいるかも知れませんが、結局こちらの方が調子が低い分竹本の音楽的基調にしっくり来るのです。義太夫狂言での竹本は、オペラでいえば伴奏オケです。オペラでオケが指し示す調性に合わせないで勝手なキーで歌手が歌うなんてことは決してあり得ません。義太夫節は語り物ですが立派な音曲なのですから、義太夫狂言にも音楽的な縛りが当然あるのです。(この稿つづく)

(H31・2・7)


2)世話と時代の相克

そういう訳で今回(平成31年2月歌舞伎座)の「鮓屋」は、全体に時代っぽい感触で世話味が乏しいところに不満があります。後半首実検に入ってからは芝居の基調が時代の方へ大きく傾くので生硬な印象がさほど目立たなくなりますが、もしかしたら後半の方により問題があるかも知れません。「鮓屋」は権太(世話)が梶原(時代)に命を賭けた大博打を打つのが筋ですから、世話と時代の相克こそ「鮓屋」の核心です。世話をきっちり描いてくれないと、「鮓屋」が一応の様相しか見せてないことになります。

「千本桜」全体が、過ぎ去ってしまった過去(歴史)を変えることが出来るかという大きな主題を持っています。「鮓屋」の主題も、(権太本人は意識 していませんが)大序において提示された「維盛の首は偽首である」という問題に一庶民(権太)が棹差すことが出来るかというところにあります。このため「俺が梶原をたばかってみせる」ということなのです。もちろんこの点はどの役者も心得ていることですが、これは時代の主題です。しかし、実は「鮓屋」はもうひとつ、権太が自身の過去を変えられるかと云うプライヴェートな問題を抱えています。「いがみの権太」という暗い過去(権太の自分史)を清算し、息子権太郎として実家に再び受け入れてもらえるかと云うことです。こちらが「鮓屋」の世話の主題です。ここで権太と父弥左衛門との関係が問われることになります。世話の主題においては家長が家の律を体現するからです。

結果的に「梶原はすべてお見通し」となって、「思へばこれまで衒(かた)つたも、後は命を衒(かた)らるゝ種と知らざる、浅まし」と権太が嘆くことになるので、権太は時代に命を絡め取られて「無駄死に」となったと書いている解説本が少なくありませんが、決してそうではありません。「鮓屋」の時代と世話のふたつの主題は表裏一体のもので、これを分けることが出来ないからです。ここは権太が命を差し出したからこそ、歴史の律は権太を実家に再び受け入れてもらうことを許すと解釈した方が良いです。だから「鮓屋」後半で世話と時代の相克をしっかり実感させて欲しいと思います。

松緑はどちらかと云えば芸質が硬めであるので、権太の感触が時代の方に傾くのは致し方ないことですが、それならそれでどのように演技に世話の切れ込みを入れて行くかなのです。型としては祖父・二代目松緑の手順をよく写してしますが、祖父の映像を見て学ぶべきところはそこだと思います。対する芝翫の梶原は「歌舞伎らしさ」に自分だけどっぷり浸ったような印象で、いまひとつの出来です。これが 首実検では松緑の権太のストレートな行き方と噛み合っていない。もっと描線をシャープに取ってもらいたいですねえ。台詞を明瞭にしゃべらないと時代の手強さは出ません。龍達で持ち直したかなと思いましたが、本領とすべき時代の役どころでこれではちょっと困ります。菊之助の維盛(弥助)は前述した通りどこか怜悧な印象が邪魔になります。上品さと云うよりは、ふっくらした量感が欲しい。維盛はもちろん権太に感謝しているわけですが、形としては権太の死を絡め取って去るのは維盛なのですから、権太一家の悲劇を目の当たりにしてこの世の無常を悟り「平家物語」の世界へ戻って行く、それを感じさせる度量の大きさが維盛には必要になるでしょう。これも七代目梅幸の維盛の良い映像が残っていますから、参考にして欲しいものです。

(H31・2・10)



 

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