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「源氏物語」と歌舞伎〜十一代目海老蔵の実験的「源氏物語」

平成30年7月歌舞伎座:「源氏物語」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(光源氏・龍王二役)、五代目中村雀右衛門(六条御息所)、二代目中村魁春(弘徽殿女御)、三代目市川右団次(右大臣)、堀越勸玄(八代目市川新之助)(春宮)、ザッカリー・ワイルダー(光の精霊)、アンソニー・ロス・コンスタンツォ(闇の精霊)、片山九郎右衛門他(能楽出演者)


1)「源氏物語」と歌舞伎

昨年秋のことですが、吉之助は「源氏物語と歌舞伎」というテーマでお話をさせていただく機会がありました。実は吉之助は元々「源氏」について詳しいわけではありませんでした。と云うのも、「源氏」ほど日本人の心に大きな影響を与え続けてきた古典文学はないと断言して良いくらいなのに、歌舞伎では「源氏」から直接的に取材した芝居と言えば、戦後の作家・舟橋聖一の脚色による、いわゆる「舟橋源氏」(昭和26年 3月歌舞伎座初演、九代目海老蔵による光源氏)以後の一連の「源氏」新作物しかないからです。

江戸時代の歌舞伎の「源氏」は、「源氏」は「源氏」でも翻案になる、幕末の柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)」の劇化くらいのものだったのです。(初期の近松門左衛門に「今源氏六十帖」などの作品がないわけではないが、これらも主筋としては御家騒動物で、あくまで文献上残っているというのみ。)しかも、これも上演機会が極端に少ない。吉之助も「田舎源氏露東雲(いなかげんじつゆのしののめ)」(通称「古寺」)を一度見た切りです。いずれにせよ古典歌舞伎に「源氏」物と呼べるようなジャンルは存在しないも同然でした。だから吉之助もこれまで「源氏」を勉強する必要性があまりなかったのです。

しかし、「源氏物語と歌舞伎」と云うテーマを戴いて「源氏」と正面から向き合ってみると、古典歌舞伎に「源氏」物と云うジャンルが存在しないことが、改めて不思議なことに思われるのです。江戸時代になって、それまで貴族や上流階級の教養であった「源氏」が庶民階級に下りて来て、世間に広まっていきます。実に多くの「源氏」解釈本が、江戸時代に書かれました。そのなかで最も有名なものが、「もののあはれ」論で有名な、本居宣長の「紫文要領」・「源氏物語玉の御櫛」であることは言うまでもないですが、その宣長も伊勢松阪の町人出身の学者でした。江戸期の庶民にとって「源氏」は決して縁遠いものではなかったのです。それなのに歌舞伎はどうして「源氏」を取り上げることがなかったのか。或いは取り上げることを阻害する要素が何かあったのか。その理由を突き詰めて行けば、それは歌舞伎の本質を考えることにもなり、「源氏」の本質を考えることにもなるであろう。そのような目論見を立てて吉之助はお話をしたつもりですが、当日は面白く聞いていただけたのであれば幸いです。ここで本稿で改めてそのアウトラインをなぞってみることにします。(この稿つづく)

(H30・7・15)


2)「源氏」の難しさ

歌舞伎には「世界」という概念があります。作劇の根本にある枠組みが、世界によって決まります。いろんな区分の仕方がありますが、江戸期の戯作者が「源氏」を歌舞伎にしようとすれば、多分これは「王代物」ということになると思います。しかし、王代物と云うのは時代の幅がとても広いものです。大雑把なもので、「昔むかしその昔」と云うものはみんな王代物になってしまうようです。大化の改新の大和時代も王代物になるし(例えば「妹背山婦女庭訓」)、平安時代も王代物に含まれて来ます。(例えば「競伊勢物語」) 朝廷の事件・右大臣菅原道真失脚を史劇として真正面から描けず、三つ子の兄弟の物語に仕立てて描かなければならなかった「菅原伝授手習鑑」のことを思い起こせば、歌舞伎のドラマ化の発想が分かると思います。だから「源氏」も王代物ということになりますが、 江戸期の民衆にとってそれはあまりに時代がかけ離れ過ぎていて、お公家さんの生活というものを真正面から想像することが難しかったのです。昭和26年の「舟橋源氏」初演に際して、折口信夫はこんなことを書いています。

『歌舞伎芝居において、今度初めて行われる源氏物語の芝居なんか、どの世界にも入らない。入らなくても、それは仕方がない。分類の土台になる知識のなかになかったのですから。(中略)それならば、今までの役者はどうしておったか。例えば六代目菊五郎のような直観力の鋭敏であった人でも、どう説明したところで、王朝--源氏物語が書かれ、その小説のモデルになった人々に生きておった、そういう時代をば、思い浮かべることが出来なかったのです。つまり教養がなかったからでもありますが、教養があったって分からない。我々は初等教育から大学・大学院教育にいたるまで、長い間、歴史を教わってきましたけれど、打ち明けた話が、本道のことは頭に入っていない。(中略)だから我々だって、あなた方だって、本道の歴史教育を受けて来たにもかかわらず、果たして源氏の世界が分かっているかということになると、問題です。我々の先輩、我々の同輩の書かれました、色々な源氏の研究を見ましても、例えば光源氏の性格は、我々が今まで自由に考えて来たようなものであったかどうか疑わしい。だから我々が本気になってかかってみたって、本道の源氏の姿をば出せるかどうか疑わしい。(中略)だけども歌舞伎役者には特殊の「勘」というものがある。直感力というものがありまして、教えられていないことを悟る。(中略)それでもやっぱり平安朝のものは駄目だった。それを「勘」で引き出すことは役者にも出来なかった。(中略)だから、私は今度の芝居をまだ見ておりませんが、我々の知識で総合して持っている考え方と、大変合わないところが出て来るのではないかと思っているのです。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月・吉之助が文章の流れを若干整えました。 )

折口の言わんとすることが分かりにくいかも知れないので、吉之助が補足しますと、我々の歴史観というのは、或る種の「型」にはまったもの(何らかのイデオロギーと云う色眼鏡を通して見るということ)で、光源氏という人物像を、正しく描き出しているかどうか分からない。しかし、書物で読んで光源氏を解釈するのと、役者が舞台で光源氏を演じるということとは、筋道が全然違います。だから、たとえ平安の知識を持ち合わせていなくても、役者が、(例えば六代目菊五郎のような)鋭敏な「勘」を持ち合わせた役者が、知識を飛び越えて直感で、そのことを舞台上で具現化することを期待したいところである。しかし、やっぱりそれも難しいことなのだろうと、折口は云うのです。大きな要因としては、歌舞伎が「源氏物語」を理解するための方法論、それにふさわしい「源氏物語」の世界観を持ちあわせなかったからです。

そこで吉之助が改めて感じるのは、「源氏」で紫式部が描いた光源氏という人物は、絶世の美男子・モテ男・色男という一通りのイメージで括れる単純な人物ではないと云うことです。光源氏は、捉えがたい人物の大きさ、奥行きの深さを持っているのです。その捉えがたいものを、本居宣長は「もののあはれ」と呼び、折口信夫は「色好み」と呼びました。それでも光源氏 をまだまだ十分捉え切れていないと折口は感じています。舞台上に輝かしい「光の君」のイメージを現出させることは、なかなか難しいことなのです。逆に云えば光源氏がそのように掴み難い人物であるからこそ、江戸の歌舞伎は源氏の「世界」を作り出すことが出来なかったということでもあります。 (この稿つづく)

(H30・7・18)


3)色好みについて

光源氏が持つ、捉えがたい人物の大きさとか奥行きの深さ、徳の高さのようなもの、こういうものは、一様のイメージで言い表すことが難しいものです。いろいろな人物が自分の言葉でそれを表現しようと 試みましたが、例えば折口はこれを「色好み」と呼びました。色好みと云うと、漢語の「好色」と混同されて、近代人はこれを道徳的に良くないことのように考えてしまいがちですが、昔の人は決してそうは考えなかったと折口は言っています。

色好みというのはいけないことだと、近代の我々は考えておりますけれど、源氏を見ますと、人間の一番立派な美しい徳は色好みである、ということになっております。少なくとも、当代第一、当時の世の中でどんなことをしても人から認められる位置にいる人にのみ認められることなのです。そうでない人がすると、色好みに対しては、「すき心」とか「すきもの」とか云うような語を使いました。(中略)光源氏という人は、昔の天子に対して日本人の我々の祖先が考えておった一種の想像の花ですね。夢の華と申しましょうか。その幸福な幻影を平安朝のあの時分になって、光源氏という人にかこつけて表現したわけであります。(中略)色好みということは、国を富まし、神の心に叶う、人を豊かに、美しく華やかにする、そう云う神の教え遺したことだと考えておった。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月)

吉之助が思うには、色好みと云うことを男女の性愛に限定して考えるべきではなく、この世の森羅万象が引き起こす「もののはあはれ」の感情、それは嬉しいこともあり悲しいこともあるわけですが、それらのものに感応する 柔らかな心を持っていることが色好みと云うことです。源氏はそのような徳を持つ人物なのです。しかし、源氏も生身の人間ですから至らないところはあります。時には間違いも起こします。また宮中で起る、醜い政治の争いやドロドロした人間関係のいざこざに巻き込まれて苦しまねばなりません。このような数々の苦しみを経て、源氏は生来持ち合わせた徳を磨いて行きます。別の見方をすれば、源氏は神に近づいていく為に、それに見合った数々の試練を与えられると考えることが出来ます。折口はこのようにも言っています。

『人によっては、光源氏を非常に不道徳な人間だと言うけれども、それは間違いである。人は常に神に近づこうとして、様々な修行の過程を積んでいるのであって、そのためにはその過程々々が省みる毎に、過ちと見られるのである。始めから完全な人間ならば、その生活に向上のきざみはないが、普通の人間は、過ちを犯した事に対して厳しく反省して、次第に立派な人格を築いて来るのである。光源氏にはいろんな失策があるけれども、常に神に近づこうとする心は失っていない。この事はよく考えてみるがよい。(中略)源氏物語は、男女の恋愛ばかりを扱っているように思われているだろうけれど、我々はこの物語から、人間が大きな苦しみに耐え通してゆく姿と、人間として向上してゆく過程を学ばねばならぬ。源氏物語は日本の中世に於ける、日本人の最も深い反省を書いた、反省の書だと言うことが出来るのである。』(折口信夫:「反省の文学源氏物語」・昭和25年7月)

恐らくこう書きながら、折口はもどかしさを若干感じたかも知れません。折口も近代人ですから、「反省」というような言葉を使わざるを得ないからです。もし反省と云う行為が何かの倫理基準に基づいて行われるならば、その時点でそれは何か不純なものを孕むのです。一方、「色好み」というのは、ただ感じ取るだけです。何が美しいか・何が美しくないかを感じる取るところから、反省が生まれます。美しいならば、それが正しいことなのです。ですから折口が云う「反省」と云う行為も、感じ取ることです。折口が言いたかったことは、そういうことです。(この稿つづく)

(H30・7・20)


4)天子のイメージ

輝かしい「光の君」のイメージを舞台上に現出させることはなかなか難しいことなのです。これは歌舞伎だけのことではありません。先行芸能である能には「葵上」とか「夕顔」とか「源氏物」と云える作品がありますけれど、「葵上」でも「夕顔」でも源氏は舞台に出て来ません。シテの語りで投影されるイメージのなかに源氏は描かれます。歌舞伎は能よりも具象性・写実性の方に寄った芸能ですから難しいと思いますが、もし能に「人間・光源氏」を突っ込んで描いた作品があったとすれば、或いはそれを取っ掛かりにして歌舞伎にも源氏を描いたものが出たかも知れません。しかし、結局、それは出なかったのです。歌舞伎のそれは草双紙的な「偐紫田舎源氏」の足利光氏(みつうじ)の類型的な色男のイメージに留まりました。色男とか和事とか、そのような定型のパターンに当てはめただけでは、光源氏の表現は十分でないのです。

歌舞伎にとって「源氏」の最初の直截的な劇化である「舟橋源氏」の初演は昭和26年(1951)3月歌舞伎座のことで、光源氏を勤めたのは九代目海老蔵(後の十一代目団十郎)でした。これは戦後歌舞伎の最大のスター・「花の海老さま」人気を決定付けたものでした。「舟橋源氏」初演に際し折口はこのように書いています。

『源氏というのは天子の御子であって、臣下に降った人だということになっておりますけれども、信仰と物語風に見れば、天子と同格者なんです。源氏という人は、その時代の理想的な生活を、理想的に書き写したものなんですから、これの型は天子より他にありません。(中略)ですから源氏には、昔の人が持っておった天子の姿というものが具体的に現れているわけです。今度の芝居が、市川海老蔵君が完全に源氏を行おう、演じようと思ったら、市川海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない。もし話す機会があったら、注意して上げて下さるように、戸板康二君に依頼しておいたのですが、海老蔵君には届きましたでしょうか。役者というものは敏感ですから、恐らくそういうことを感じているかも知れません。また感じてくれなければ、源氏の生活・性格は正確には出ません。こういう歴史的な意義のあるものなのです。』(折口信夫:「源氏物語における男女両主人公」・昭和26年9月)

天皇人間宣言が出されたのは、昭和21年(1946)1月1日のことでした。これ以前は「天皇が現人神である」とされた時代でした。この流れは平安の時代から変わらず、ずっと続いて来たものです。民衆には「天皇=現人神」の感覚が依然強く残っていました。「舟橋源氏」初演(昭和26年)時点での観客は(もちろん折口も九代目海老蔵も含めて)すべて戦前の生まれです。戦前には「源氏」は古典文学の最高峰として重く見る動きがある一方で、「源氏」は皇室をスキャンダラスに描いたもので不敬であるとする見方もあって、このため演劇分野では「源氏」の劇化が出来ませんでした。事実、警察の介入で「源氏」上演が差し止めを喰った事件なども起きました。ですから「舟橋源氏」初演(昭和26年)も、天皇人間宣言がなければ到底実現できなかったものです。舞台上に「人間・光源氏」が登場したことに、当時の観客はそこに戦後の新しい皇室の新鮮なイメージを重ねたに違いありません。「舟橋源氏」以後、宝塚でも映画でも「源氏物」が続々制作されて行きます。「舟橋源氏」の成功は、戦後日本の復興が始まる昭和26年という時代と切り離せないものです。

「海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」と折口が言った意味を改めて考えたいのですが、これは天皇人間宣言のことを考えて初めて理解が出来ます。これまでの歌舞伎は、光源氏という人物を具体的なイメージとして舞台上に描き出すことが出来ませんでした。歌舞伎は「源氏」を劇化する手法をこれまで持 たなかったのです。もし劇化の手掛かりとなるとすれば、それは平安の時代からこれまで民衆の心のなかに綿々と育まれてきた「天皇」のイメージだけです。戦前の「天皇」は現人神でありましたけれども、精神的な意味においては民衆に近しい存在でもあったと思います。このイメージを研ぎ澄まして形象化して、舞台上に「人間・光源氏」を表現するしか方法はありません。人間宣言によって歌舞伎にようやくその機会が巡ってきたのであるから、九代目海老蔵(=十一代目団十郎)は自らの直感においてそれを行わねばならぬ、もしかしたら九代目海老蔵は畏れ多いこととそれを躊躇するかも知れないが、それしか方法はないと折口は言うのです。

ここで本稿はやっと本題に入るわけですが、昭和26年と平成30年と時代は違えども、祖父(九代目海老蔵)と同じような課題が、孫である当代(十一代目)海老蔵にも課せられて来ると、吉之助は思うわけです。(この稿つづく)

(H30・7・22)


5)源氏を演じることのもどかしさ

海老蔵が光源氏を初めて演じたのは、平成12年(2000)5月歌舞伎座での「源氏」(瀬戸内寂聴訳、当時は七代目新之助)のことでした。これは同年1月新橋演舞場での「助六」と共に、その後の新之助(海老蔵)人気を決定付けたものです。ただし海老蔵自身は 光源氏を演じながら、どこかに居心地の悪さと云うか、もどかしさを強く感じていたようです。後年、海老蔵はこんなことを回想しています。

『(当時)右も左も分からない若い役者が、何も考えずに言われるがまま、ただ伏し目がちに立っているだけの自分がいました。・・・美しい光の君、それだけ。でもそうしていることに意味があるということをお客様は感じてくれたのかも知れず、結果的には大成功でした。』(市川海老蔵:平成26年4月京都南座・「源氏物語」公演プログラム)

海老蔵は感性がとても真っ直ぐな役者だなあと思います。海老蔵が光源氏を演じてもどかしさを感じる気持ちが、吉之助にはよく分かります。「光の君」のイメージを舞台上に現出させることはなかなか難しいことなのです。海老蔵のもどかしさは、そこから来ます。人間・ 光源氏」は漠然として掴み難い。これを具体的なものにしようと思えば思うほど、逆に演技は情緒的な方向へ陥ってしまう、手元から 光源氏がスルリと抜け落ちてしまう気がする、そこが 光源氏を演じることの難しさです。

もちろんこれは役者の問題だけではなく、「源氏」を脚本にすることの難しさでもあります。もうひとつ皇室と庶民の精神的関係も、祖父が初演した昭和26年と平成の時代のそれとは微妙に異なります。だから当然観客の「源氏」の受け止め方も変わって来るでしょう。光源氏は祖父・父と三代続く成田屋の大事な役ですから、海老蔵は光源氏という役と真剣に向き合わざるを得ません。普通ならば満員御礼・結果オーライで何となくスルーしてしまいそうなところを海老蔵はいい加減に出来ないのでしょう

この光源氏を演じることのもどかしさを何とか解決したいと、海老蔵は真剣に考えたと思います。海老蔵は平成12年から17年まで瀬戸内寂聴訳などで従来型の「源氏」を数回ほど演じ、数年の空白があった後、海老蔵は平成26年(2014)4月京都南座においてカウンターテナーのオペラ歌手と共演すると云う、新しいスタイルの「源氏」を世に問いました。今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」もそのコンセプトの延長線上にあるものです。今回はオペラ歌手だけでなく能楽師も招いて、異ジャンルの芸能とのコラボレーションをさらに強調した「源氏」となっています。これを可能にした海老蔵の企画力・実行力は大したものです。

今回の「源氏」を現時点での海老蔵の結論と考えますが、吉之助は「源氏」を舞台化することの難しさを改めて痛感させられました。満員の客席はよく反応して、拍手も盛大なものでした。「舞台がとにかく綺麗!もう一度見たい」と感激していた観客が多かったと思います。ただし吉之助は批評家でありますから、いろんな芸能をてんこ盛りした舞台に圧倒されつつも、或る種醒めた目で舞台を見ざるを得ないので、少しその辺を書きますが、ここには人間・光源氏」は見えなかったと思います。光の君の印象はあるけれども、具体的な人間ドラマは見えて来ない。と云うよりも海老蔵は「人間・光源氏」を表現し尽くすことは到底無理なことだとして、まったく別の方向から印象として表現することで光源氏に迫ろうとしたということかなと思います。そのために徹底的に利用されたのが、オペラや謡(うたい)さらに長唄・義太夫などの音楽的要素です。海老蔵がこうせざるを得なかったのが吉之助にも何となく理解できる気がします 。(この稿つづく)

(H30・7・22)


6)海老蔵の実験的「源氏」

今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」 では、謡いやバロック・オペラなど異ジャンルの芸能 のコラボで音楽的要素を強調し、さらに最新のプロジェクション・マッピング技術で役者の動きに連動させた映像演出によって舞台面に動的な要素が加えられて、舞台面は華やかで美しく、映像ショウとしてなかなかのものに仕上がりました。それはそうとしても、いろんな要素をてんこ盛りにした結果、肝心の歌舞伎が奥に引っ込んじゃった気がしますねえ。春宮を見詰める光源氏(海老蔵)は憂いを帯びた表情で「哀しそうに」台詞を言うけれども演技は形骸化しており、「哀しみ」の表出はほとんど音楽に任された感があります。もっともこれは海老蔵は最初から承知の上だったようです。平成26年4月京都南座の「源氏」の時にも海老蔵はこんなことを語っています。

『世界最古のラブストーリー(「源氏」)が日本にあり、それを歌舞伎や能楽という日本の古典芸能の人間がやり、情緒を外国語で説明するというわけです。(注:カウンターテナーによる歌唱のことを指している。)オペラの力を借りて、光源氏や女性たちの進境をオペラ歌手に外国語で語ってもらい、我々(歌舞伎役者)は人形になる・・・。簡単に言うと歌舞伎方式文楽ということかな。今、僕は、歌舞伎役者がやる文楽方式を狙って、これを企画しているわけです。人間浄瑠璃だね。(笑)』(市川海老蔵:平成26年4月京都南座・「源氏物語」公演プログラム)

「人間浄瑠璃」とは言い得て妙で、海老蔵らしい自虐的表現ですね。つまり歌舞伎役者は敢えて木偶に徹し、情感や主題は音楽(謡いやバロック・オペラ、義太夫・長唄など)から感じ取っていただきましょうと云うことなのです。意地悪く見れば、 海老蔵が人間・光源氏を描くことを放棄して情緒的な表現へ逃げたと批判されかねないところです。しかし、海老蔵はこれを当然ポジティヴに捉えているはずです。吉之助がこれを「理解できる気がする」とする理由は、これは詰まるところ、舞台上に人間・光源氏を具体的な形で表現することの難しさから来るものであるからです。どんなに試みても、「光の君」の輝き・大きさ・深さは捉えがたい。無理にそれをしようとすれば、それはどうしても情緒的なものに傾いて、あやふやなものになってしまう。何かを取り落としたような、中途半端なもどかしさを感じてしまう。ならばいっそのこと情感を説明することは音楽に任せてしまえばどうか。海老蔵は初めて光源氏を演じて以来、こんなことをずっと考え続けていたのでしょう。その難しさに思い悩んだ末に、海老蔵がひねり出した解決策がこれ(人間浄瑠璃)です。当たっているかどうかは別にして、これもひとつの解答ではあるのです。吉之助はそこに役者・海老蔵の真正直さを感じてしまうのです。

「これは歌舞伎なのか?」という問いが出て来るかも知れませんが、その問いはとりあえず保留にしておきます。海老蔵はもっと遠くを見ているようです。吉之助が今回の舞台を見た印象では、海老蔵が考えているのは歌舞伎だけのことではなく、恐らく彼が思い描いているイメージは「総合伝統芸能」みたいなものでしょう。それはいろんなジャンルの芸能、芸術的要素を統合して、ひとつの舞台にまとめあげることです。その意味では、なかなかよく混じっていたと思います。しかし、まだ混沌の状態に留まっている印象で、吉之助にはその先にある「歌舞伎の未来」がよく見えて来ません。しかし、まあこういうことは何度か試みてみなければ事の成否は云えぬものです。(この稿つづく)

(H30・8・4)


7)源氏の「実」について

「源氏を完全に行おうとするならば、海老蔵君(=十一代目団十郎)が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」という折口のアドバイスは、民衆の心のなかの皇室への「近しさ」があったからこそ成立したものでした。「舟橋源氏」初演の昭和26年当時の民衆にはまだ天皇=現人神の感覚が依然として強くあったわけですが、天皇が戦後の人間宣言によって近いところに降りてくださったという「近しさ」があったのです。これが源氏を演じる時の取っ掛かりとなるものです。「舟橋源氏」での十一代目団十郎の光源氏の成功は、もちろん団十郎のいい男振りということもありますが、脚本家・役者・観客のなかに共有された皇室への精神的な近しさがなければ実現出来なかったものです。それから約70年の歳月が経ちました。今回の「源氏」の平成30年とは民衆と皇室との精神的な関係つまり「近しさ」の感覚が微妙に変わって来ているでしょう。当然脚本家・役者・観客の「源氏」への受け止めも変わって来ざるを得ません。

十一代目団十郎の源氏はどんなものであったかを改めて想像してみる必要があります。残念なことにあれほど話題になった舞台であるのに「舟橋源氏」での団十郎の映像は遺されていないようです。断片でも良いから、見てみたいものですが。仕方がないので、同時期の舞台で「竹取物語」からインスピレーションを得た加藤道夫の「なよたけ」映像を参考にしたいのですが、手元にあるのは昭和31年3月歌舞伎座の舞台映像です。(ちなみに「なよたけ抄」初演は「舟橋源氏」初演の3ヶ月後になる昭和26年6月新橋演舞場。)この映像から類推するに、当時の「舟橋源氏」については時代絵巻を見るようだとの証言が多いようだけれども・生(なま)の舞台を見た方の印象としてそれはそれとして、団十郎の源氏は決して情緒的なところに堕したものではなく、しっかり人間・光源氏の「実」を描こうと努めたものであったと吉之助は想像したいのです。(これは大事な点だと思いますが、団十郎のいい男振りは例えば切られ与三郎でも甘さよりは強さが目に付いたものでした。)

この点、今回(平成30年7月歌舞伎座)での海老蔵の源氏は、確かに姿形は祖父に似ているけれども(海老蔵も似てる似てると云われることにそろそろ辟易しているであろうが)、印象は祖父とかなり違うものではないかと思います。海老蔵の源氏は伏し目がちでもの憂げに台詞を語って甘ったるく、ほとんど人間・光源氏の「実」を描いてはいません。むしろ開き直って源氏を情緒的に描くことに徹している印象を受けます。感情の襞を説明するところは音楽に任せているのです。なにしろ「人間浄瑠璃」ですから。しかし、祖父とは「違う」ということを、吉之助は海老蔵が駄目だという意味で言うのではありません。その「違い」に、約70年の歳月を経た、脚本家・役者・観客の「源氏」の受け止め方の変化を見るわけです。これについてはいろんな議論が出来るところだと思います。

吉之助の印象をちょっと記しておきますが、歌舞伎というものは本質的に「現世の芸能」であって、表現は写実的・具象的な方向を志向するものだと吉之助は考えます。具象的な方向とは、それまで神への奉げ物の性格を強く残していた「芸能」が民衆の元へ降りていくということを意味します。海老蔵が今回の舞台に「総合伝統芸能」の実現を考えているのならば、日本の伝統芸能のなかでの歌舞伎の位置付け(役割)を明確にしておく必要があります。能狂言でも文楽でもない、歌舞伎の役割がそこにあるからです。写実化・具象化が歌舞伎の役割です。つまり「源氏」を民衆の「実」で描くことが歌舞伎の役割となるべきです。芝居の本筋を担うべき源氏を音楽に任せて情緒的に描き(本稿で長々書いた通り、そうならざるを得ない難しさを吉之助は痛いほど理解していますが)、この世 あらざる存在である龍王を「これこそカブキの見せ場だ」と云わんばかりに車輪に演じれば演じるほど、吉之助は舞台から肝心の歌舞伎が奥に引っ込んでしまった気がします。龍王がまるで源氏の生霊の如くに見えてしまいます。それはドラマが現世の視点・民衆の視点に根ざしていないからです。これでは能にお株を取られてしまっても仕方がないところです。

元禄の初代団十郎の荒事はそれが庶民の立場に根ざしているから歌舞伎なのです。隈取りしてるから、見得があるから歌舞伎になるのではない。そこの論理(ロジック)が錯綜していると思いますがねえ。 歌舞伎の役割をそこに見ますか?これは今回の「源氏」だけに限ったことではなく、「ワンピース」など最近の新作歌舞伎についても同様なことが云えると思いますね。
この稿つづく)

(H30・8・8)


8)引き裂かれた源氏

平安の時代から「源氏」は民衆に愛好されて来ましたが、一方で僧侶などお堅い方面では「男女の色恋や不倫関係を描いて、道徳的に見てまことに怪しからん物語である」という声が根強くあったわけです。江戸期には「色好み」に漢語の「好色」が当てられて、儒学者は源氏のことを好色で不道徳な人物だと非難しました。本居宣長は「物語とは、人の情のありのままを書き記し、読む人に人の情とはこういうものだと分からせるもので、それが「もののあはれ」ということだ」と反論しましたけれど、当時は「源氏」を「色好み=好色」の構図で割り切る読み方の方がはるかに多かったのです。まあ一般にはその方が源氏の理解がしやすかっただろうと思います。

このように、モラル(道徳)とインモラル(不道徳)の狭間で引き裂かれる、抑えても抑さえきれない思いに流されてしまうと云う風に、「源氏」を二元構図で読むのは、或る意味でとても江戸的な感性だと云えます。同時にこれはかぶき的な感性でもあります。歌舞伎のドラマは、どれも最大限に生きようとして死す、或いは義理と人情の柵でもがき苦しむと云う引き裂かれた感情のドラマばかりなのです。

例えば幕末の柳亭種彦の合巻「偐紫田舎源氏」は、「源氏」を室町時代の「東山の世界」に仮託した御家騒動物です。将軍足利義政の妾腹の子・光氏(みつうじ)は、将軍の地位を狙う山名宗全を抑さえるために、好色遍歴を装いながら、政争で紛失してしまった足利家の重宝の行方を探し求めます。だから光氏の女性遍歴は生来の好色な性格に拠るのではなく、お家再興という目的があるからやむにやまれずやっていることです。「好色」のインモラル(不道徳)な要素がそこに強く意識されています。「不道徳であることは分かっているが、やりたくてやっているわけじゃない、正義のためにやっていることなんだ」という申し訳の下で、光氏はモラルとインモラルとの間に引き裂かれているのです。だから余計に淫靡なお愉しみが増すということでもあります。 だから光氏の女性遍歴は、あまりに江戸的な、そしてあまりに歌舞伎的な「源氏」の受容であるのです。この読み方では源氏の本質的なところを取りこぼしてしまうと云うことは前述した通りですが、江戸期の歌舞伎が「源氏」を描こうとすれば、結局、この方法しか手はなかったと云うことです。

余談になりますが、宣長の「もののあはれ」論も、「源氏」の物語をありのままに虚心に読むべきだということを繰り返し主張しているわけですが、裏返せば背後にインモラル(不道徳)な要素が強く意識されているからなので、これを雑念として排除しようとストイックに努めていると云うことなのです。だから 方法論は異なるけれども、宣長の「もののあはれ」論も、まったく江戸的な感性の所産だということです。

ところで「源氏」と云うと、観客はどうしても絵面の色模様を期待してしまうものです。しかし、今回(平成30年7月歌舞伎座)の海老蔵による「源氏」のことですが、舞台に源氏の色模様がほとんど見えません。例えば「葵の上」の場面ならば、それは六条御息所の怨念の背景にあるもので「源氏」を承知している観客ならば説明しなくても分かるものです。源氏の色模様のイメージは観客の脳裏のなかで想像してもらえばそれて良いということなのです。ここでは源氏の好色の、インモラル(不道徳)な要素はサラッと触れるだけでほとんど見えません。色模様を描くことを敢えて拒否したとも言えそうです。これは海老蔵が「源氏」をあれこれ試行錯誤した末に見出した「見識」であると言っておきましょう。海老蔵がこうしたかった気持ちは分かる気がします。しかし、その結果、ドラマは歌舞伎よりも能の方に強く寄った感触になってしまいました。この辺はまだ工夫の余地がありそうです。

一方、今回の「源氏」では別の角度から二元構図の活路を見出そうとしているようです。それは源氏が光と闇のなかに生きているという解釈です。源氏は幼くして母(桐壷の更衣)と死別し、父(桐壷帝)から遠ざけられて育ちました。そこに源氏の心の闇があり、人々から「光」と讃えられていても、その光は人々の心のなかに闇を生み、その闇に自分もまた苛まれて闇に堕ちていく、そのような物語として「源氏」を描こうと云うわけです。源氏は光と闇の二元構図に引き裂かれているということです。「抑えようとしても内面から湧き出る感情のままに動かされる」という気分が、ここにもあります。これはこれとしてひとつの歌舞伎的な「源氏」の視点であることは確かです。歌舞伎の場合はやっぱりこうならざるを得ないかなあと云うことも思いますね。

ここで今回の舞台が「光」と「闇」 の二元構図にどれだけ象徴的な重さを与えることが出来たかということが問題になると思います。残念ながら、それは十分ではなかったと思います。白の衣装の光の精霊(ザッカリー・ワイルダー)と、黒の衣装の闇の精霊(アンソニー・ロス・コンタンツォ)と云う、二人のバロック・オペラ歌手が登場しました。歌唱はなかなかのものでしたが、対立する二つのテーゼを観客に印象付けるには至りませんでした。しかし、これは歌手のせいではありません。周囲で「字幕がないから外国語の歌詞が分からない」とお客がぶつくさ言う声が聞こえました。何だか雅びな感覚だけはあるが、白と黒の精霊の歌唱にどういう意味が持たされているのか判然としない。歌唱だけが浮き上がって、ドラマに絡んで来ない。海老蔵の源氏は哀し気な表情で佇んでいるだけでドラマがよく見えて来ない。だから観客は解釈の手掛かりをオペラの歌詞に求めたくなるのです。これでは本末転倒です。海老蔵の源氏が自分の心象風景を独白(もちろん日本語で良い)で語り、これに情感描写の形でオペラ歌手が掛け合う(もちろんイタリア語で結構)形にでもした方が良いかも知れません。源氏の方から積極的にオペラに絡んで行って、その実、源氏の台詞でオペラの歌詞を説明してしまうようにするとか、作劇技法に更なる工夫が必要なのです。歌舞伎にオペラを絡めたところは確かに海老蔵らしい飛んだ発想ではあるのだけれど、どうせやるのならばそこまでやらないと、ただ材料を並べて見せただけでは化学反応はなかなか起きないものです。この稿つづく)

(H30・8・16)


9)再び源氏の「実」について

本稿冒頭で触れた通り、戦後昭和に至るまで歌舞伎は「源氏」とは疎遠でした。その理由のひとつは、歌舞伎の表現では源氏の色好みの性格を十分に描けなかったことにあると思います。源氏を具体的な形で舞台に現出しようとすると、どうしても何かとりこぼしてしまう。江戸の戯作者或いは役者は彼らの鋭い「勘」でこのことに気付いて意識的に「源氏」という題材を避けたように思われるのです。歌舞伎が源氏を描こうとすると、田舎源氏の光氏のように、二元構図で「引き裂かれた」性格の源氏になってしまいます。それは歌舞伎がバロック的な性格を持つ演劇であるからです。(バロックの概念については別稿「かぶき的心情とバロック」をご覧ください。)

今回(平成30年7月歌舞伎座)の「源氏」での、「源氏が光と闇のなかに生きている」という解釈は、歌舞伎らしい解釈で興味深いものがあります。しかし、言葉尻りを捕えるようで申し訳ないですが、「闇」と云うと邪悪な(evil)・悪魔的な(demonic)な語感がしますねえ。これはバロック・オペラが挿入されて、カトリック的な、天使と悪魔の二元構図の倫理感覚が入り込んでいるせいがあると思います。しかし、「闇」では源氏の性格にマッチしないと思います。源氏に本来そのような邪悪な性格はないのです。光と闇のせめぎ合いのなかで闇に堕ちていくなんてことはありません。また舞台で海老蔵の源氏が描こうとしているものも、そのようなものではないと思います。二元構図は望ましくないですが、それを云うならば、ここは「陰」と呼ぶべきでしょう。その方が語感がいくらかしっくり来ます。

源氏の性格は、本来ニュートラルなものです。源氏は自分が放つ光について関与しません。自分が放った光がどこかに陰を作り出すなんてことは、夢にも考えていない。光が反射する明るい部分、或いは光が作り出した陰の暗い部分に感応して、源氏はユラユラ揺れます。光の君であっても、人間世界のなかではいろんな卑俗なものに振り回されます。そんななかで源氏は人に疎まれたり、惑わされたり、間違いを犯したり して、絶えず揺れていますが、そのような源氏の揺れる有り様が「あはれ」を現出するというのが、宣長の「もののあはれ」論です。このような宣長の見方は、反バロック的なものだと云えると思います。(言い換えるならば新古典的なのです。)歌舞伎のバロックとは方向が正反対になりますが、これも江戸的な感性の両極を見せているものです。

ですから「源氏が光と陰の揺らぎのなかに生きている」と云うのならば吉之助はまあ納得しないものでもないですが、それでも歌舞伎のなかで源氏を描こうとすると何かを取りこぼすと云うパラドックスのなかに、再び入り込んでしまうかも知れません。このパラドックスは 源氏にどうしてもつきまとうものだと思いますが、歌舞伎が志向するものは具象性なのですから、歌舞伎で「源氏」を取り上げる意義は、やはり人間・源氏の「実」を描くことでなければならないと思います。

ここで折口が十一代目団十郎に言った「海老蔵君が持っている天子に対する想像をば、舞台の上で彫刻する他ない」というアドバイスをもう一度思い返してみたいのです。昭和26年の十一代目団十郎の「舟橋源氏」の成功は、人間宣言によって天皇が庶民の近くに下りて来て、これでやっと源氏の「実」が描ける時が来たという確信が(興行側にも世間にも)あったからこそ成ったのです。ホントに源氏の「実」が正しく描けたかどうかは分かりません。多分それはなかなか難しかったと思いますが、当時の雰囲気としては「それが出来る時が来た」という確信と云うか期待があった。だからこそ、松竹も役者もこの思い切ったプロジェクトに乗れたということです。十一代目団十郎が描こうと努めたものは、そのような人間・源氏であったと思います。このことを現・十一代目海老蔵もちょっと頭に入れておいて欲しいと思います。

世の中も変わって、天皇と庶民との関係も変わって来た平成30年の現在において、我々は同じような確信が持てるでしょうか。これはなかなか難しい問いだと思いますが、海老蔵も海老蔵なりの勘で以て平成の天子の「実」を彫刻してもらわねばなりません。そのためには、源氏のニュートラルな性格、ユラユラ揺れるけれども決して堕ちることがな く、神に近づこうと常に向上を目指す、確固とした芯を持った性格、そのような人間・源氏の「実」を描き出すしかないのです。今回の「源氏」では、海老蔵は人間・源氏を描くことは音楽に任せようと云う考え方だったと思います。こうならざるを得ない事情を吉之助を理解はしますが、総合伝統芸能ショーならばこれでも良いでしょう。しかし、歌舞伎が主体的に芯を取って「源氏」を芝居にしようと云うのであれば、やはり源氏の「実」を描くことに努力してもらわねばならぬと思います。

(H30・8・18)



 

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