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二代目白鸚襲名の「寺子屋」

平成30年歌舞伎座:「菅原伝授手習鑑・寺子屋」

二代目松本白鸚(九代目幸四郎改め)(松王丸)、四代目中村梅玉(武部源蔵)、二代目中村魁春(千代)、五代目中村雀右衛門(戸浪)

(二代目松本白鸚襲名披露)


ここ2・3年の二代目白鸚(九代目幸四郎)は、演技の余分な力が抜けて、演技のリアルさがさらに増した感がします。このことは、世話物の役どころに好結果をもたらしているようです。例えばいがみの権太(平成28年歌舞伎座)は、感情の綾が細やかに描き込まれて等身大の人間の悲劇になっていましたし、駒形茂兵衛(平成29年6月歌舞伎座)も リアルな印象がとても良かったと思います。

一方、時代物に関しては、演技のリアルさが増した分、描線が淡くなったようにも感じられます。「淡い」というのは吉之助は良い意味で使っているつもりですが、もともと白鸚は細やかな心理表出に長けた役者ですから、白鸚の特質がより強く 表れて来たということでしょう。そこに白鸚という役者が持つ現代性があるわけです。ただしこれには一長一短があるようで、演技に真実味が増したということも云えますが、人によっては これを「描線が弱い」とネガティヴに感じる方がいらっしゃるかも知れません。歌舞伎の演技というのは浮世絵と同じようなところがあって、輪郭をくっきり描くのが本来であるからです。 演技がリアルになると感情表現が細やかになる分、役の大きさが犠牲にされる場合があります。この点では熊谷直実(平成29年4月歌舞伎座)は立派な形容とリアルな感情表出のバランスに苦慮するところがあったように思われます。

特に台詞については、最近の白鸚の台詞を「聞き取りにくい」と仰る方が吉之助の周囲にもいらっしゃいます。吉之助は白鸚の舞台をずっと見続けて台詞廻しの癖は飲み込んでいるつもりなので、それほどとは感じていなかったのですが、改めてそう云われてみれば、台詞を芝居っぽく張り上げなくなったようで、言葉の粒立ちが弱くなってきたようでした。だから芝居臭さが消えてリアルな印象になるということですが、反面、台詞の細かいところが聞き取り難くなっています。昨年11月歌舞伎座での「大石最後の一日」の内蔵助(これが九代目幸四郎としての最後の舞台となりました)でも、芝居の最中だから静かにして欲しかったのだけど、吉之助の後ろの席のお 爺さんが「台詞がよく聞こえない」とブツブツ言っておりました。リアルな台詞廻しには違いないけれど、確かに台詞の描線が弱いようでした。新歌舞伎の台詞としては、もう少し二拍子のリズムを強く出して言葉の粒を立てた方が良いのです。真実味がある内蔵助ではありましたが、芝居のカタルシスにはちょっと欠けるところがあったかも知れません。ということで今後の白鸚が時代物の役柄でその辺の課題をどのように乗り越えていくかということを、吉之助はこれから注目して見ていきたいと思っています。

そこで二代目白鸚襲名の「寺子屋」の松王について、松王は時代物の代表的な役ですから、演技のリアルさと云う観点から考えてみたいのです。演技のリアルさという要素は、明治以降の歌舞伎が直面してきた近代リアリズムという課題と密接に絡み合ったものです。昔の松王はモドリの役どころとして前半は単純に悪役で通せばそれで良かったものでした。昨今はそれだけだとなかなか評価されないでしょう。どこそこに自分の子供を身替りにする苦悩を表現して見せるかというのが役者としての工夫の見せ所ということになるのです。そう云うことになれば、白鸚が持つリアルな側面が断然生きて来ます。もちろん役の大きさとの兼ね合いは出て来ますが、前半の松王はもともと病気療養中のところを首実検に駆り出されたということになっているので(実は内心の気持ちの揺れを玄蕃に気取られないための仮病であるわけです が)、白鸚の演技の描線の淡いところが陰鬱で弱々しい病態にも似合います。戸浪に突き当たって「無礼者め」と叫ぶ大見得は、ここは派手にたっぷり決めて欲しいと思う御見物もいらっしゃることでしょう。そこをサッと崩して見得のための見得にしないところが芸の方向性としてリアルであり、白鸚らしいところなのです。ただこのリアルな松王だと、源蔵に小太郎を斬らせるための、押しが弱い感じが若干するのは、仕方ないところがありますねえ。「でかした」を首になった小太郎へ言い、「源蔵、よく討った」を源蔵に向けて言って紛らせる呼吸の良さは、白鸚ならでは。しかし、何と云っても素晴らしくリアルな演技だと感じるのは、首実検を終えた直後の松王が脱力したように右手を首桶に置いて顔を伏せたまましばし動かないところです。これは他の松王役者はあまりやりませんが、我が子を失った松王の気持ちが思いやられて、底を割ると云われようが、或いは敢えて底を割るからと云うべきかも知れませんが、とても印象的です。後半のモドリになってからの松王は、子供を亡くした親の悲嘆をストレートに出して良いわけですから、リアルな演技が悪かろうはずはありません。大落としを派手にやらないのも、白鸚らしいところです。

ところで、この松王の大落としの箇所では、吉之助は最晩年の初代吉右衛門(白鸚の祖父に当たる)が松王を演じた「寺子屋」の記録映画(昭和25年5月御園座)を思い出しました。吉右衛門の松王は「源蔵殿、お許し下され・・」を静かに言って懐紙をちょっと眼頭に当てるくらいのさりげない演技でした。まったく当てるところがない自然体の演技、しかも、それがしんみりと情感深くて実に良かったのです。これはリアルという側面において、或る意味、現在の白鸚より先を行っていると言えるのではないでしょうかね。イヤ吉之助は別に白鸚にお祖父さんのやり方を踏襲して欲しいと言うわけではありません。演技のリアルさと云うのは、実はかつて祖父も追求してきた課題であるということを言いたいのです。これが父・初代白鸚を介して、当代に流れ込んでいるものだということです。(誤解してもらいたくないのですが、吉之助は血脈とかDNAやらのことを言いたいのではなく、形而上学的な芸の理念の継承のことを言いたいのです。)先ほど今後の白鸚が時代物の役柄で形容とリアルさの兼ね合いをどう取るかという課題を書きましたが、ヒントは案外近くに在りそうな気がするのですねえ。今後の白鸚の時代物に期待したいと思います。

源蔵に「何としても主人菅秀才を守らねばならぬ」という性根は大事ですが、白鸚のリアルな松王に対しては、もし若君大事に凝り固まっていきり立つ源蔵を当てるならば、ドラマが噛み合わないことになるでしょう。松王の心情に反応できる感性を持つ源蔵が必要です。源蔵とは、結局、松王が自分に出来ないことを代わりにやってくれるパートナーなのです。モドリが本心を告白する相手とは、主人公が最も信頼している相手、自らの真実を一番分かって欲しい相手です。この点で梅玉は、白鸚の松王にふさわしい源蔵でしたね。

(H30・1・14)




  
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