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神事を民衆の手に

平成29年4月5日・世田谷パブリックシアター:「MANSAI ボレロ」

野村萬斎


1)「ベジャールのボレロ」人気のダーク・サイド

舞踊の世界ではラヴェルの「ボレロ」と云うより、「ベジャールのボレロ」が、相変わらず人気演目のようです。 昨年(2016)秋はシルビー・ギエムが引退公演で東京バレエ団と一緒にやったし、今年(2017)秋にはモーリス・ベジャール・バレエ団が来日して「ベジャールのボレロ」をやる予定です。古典という以上に、もう「型もの」の域に入った感がありますね。

ところで別稿「芝居と踊りと」で取り挙げましたが、日本舞踊の世界でも「ボレロ」は人気らしくて、
吉之助が知っているのでは、「日本舞踊Xオーケストラ」 (東京文化会館)での3回の「ボレロ」(その第一回は野村萬斎によるものでした)、その他に井上八千代の「ボレロ」(京都泉湧寺音舞台)がありました。「日本舞踊Xオーケストラ」の第2回開催の記者会見で、花柳寿輔が玉三郎さんから『これからの「日本舞踊Xオーケストラ」の企画の時には必ずプログラムの最後に「ボレロ」を入れるようにしたら良い』とアドバイスを受けたと語っていました。なるほどねえ、プログラムの最後を「ボレロ」にすれば必ず大盛り上がりで、公演は成功疑いありません。しかし、それはそうかも知れないけど、これほど「ボレロ」ばかりだと、吉之助などはへそ曲がりなもので、「・・またボレロ?」と言いたくなります。

気になるのが、これらのどれも「ベジャールのボレロ」のコンセプトを踏襲した舞台だということです。確かにベジャールの「ボレロ」の振り付けは素晴らしいです。吉之助もその昔(もう40年近く前だな)、ジョルジュ・ドンやショナ・ミルクで見ました。この革命的な振り付けの呪縛から脱することは後世の振付師にとってなかなか難しいことは、吉之助もお察しします。しかし、
日本舞踊でやるのだから、もっとベジャールの呪縛から自由な発想をして良さそうに思いますがねえ。

問題となるのは、別稿「吉之助の音楽ノート・ボレロ」でも触れた通り、「ボレロ」の音楽構造が歪んでいるということです。機械的・人為的に人を揺さぶり 、「さあお前たち、興奮せよ、さあ楽しめ」と煽って、否応なく興奮状態に追い込む非人間的な要素があるのです。その効果は合法的な麻薬みたいなものです。昨今の世界レベルでの「ボレロ」人気には、現代という時代の、ちょっと危ない雰囲気が背景にあると感じられます。観客は興奮させられたがっている。操られたがっている。そういう観客を「ボレロ」で乗せるなんてことは、実に簡単です。特に「ベジャールのボレロ」には、そういう効果が強い。それだけ完成度が高い振り付けだということです。「ベジャールのボレロ」発想の原点となる神事は、芸能の起源であるわけですが、別の観点で云えば、それは催眠・洗脳でもあります。と云うわけで、吉之助は近年の「ベジャールのボレロ」人気のダーク・サイドが気になり始めています。吉之助などは素直ではないので、そのような演じる側の思惑にそう簡単に乗せられてなるものかという気分になってきます。このことはベジャールの振り付けのせいではなく、この時代との関連から来ます。2007年にベジャールが亡くなってもう12年にもなるのですから、そろそろ「ベジャールのボレロ」のアンチテーゼが生まれて然るべきだと思います。(この稿つづく)

(H29・7・30)


2)神事を民衆の手に

さて本稿で取り上げる「MANSAI ボレロ」は、本年(平成29年)4月5日に世田谷パブリックシアター開場20周年記念公演として行われたものです。(言うまでもないですが、野村萬斎が世田谷パブリックシアター芸術監督です。)「MANSAI ボレロ」は、ラヴェルの「ボレロ」と,「三番叟」を軸とする狂言の発想と技法とが結晶化して生まれた独舞(ひとりまい)という触れ書きです。

ところで吉之助は、萬斎が舞う「三番叟」は見ておくべきもののひとつと思っています。技術的にしっかりしているだけでなく、動きに無駄がなく、かつきりした印象です。これは萬斎の天才ということもありますが、狂言の技芸というのは凄いものだなあとつくづく思います。それで「MANSAI ボレロ」もかなり期待をしたのですが、そのことは後で書くとして、今回の「MANSAI ボレロ」でも、旋回の足さばき(8分40秒辺り・10分30秒辺り)、反動を付けない跳躍(14分10秒辺り)などは、お手本としてよく見てもらいたいと思います。この映像をご覧ください。得るところは大きいと思います。

歌舞伎批評をやる者としては悔しいことだけれども、歌舞伎でこれほどかつきりした舞いを見ることは、もはや滅多にありません。歌舞伎では旋回する時に片足踵を軸に反動つけて回る役者が多い。確かにその方が素早く綺麗にターンは出来ますがね。跳躍も反動を付けて跳んでます。確かにその方がもっと高く跳べます。だけどそういうのは農耕民族の動きではないのです。そういう雑多な(騎馬民族的な)本来的でない動きが、歌舞伎役者の動きにたくさん混入しています。武智鉄二が云う農耕民族の動きというのはこういうものなのねということは、現代の歌舞伎舞踊を見ているとあまりピンと来ません。そういうことを知りたければ、能や狂言の舞台を見た方が良いです。

と云うわけで今回の「MANSAI ボレロ」でも萬斎の舞いには目が離せませんけれど、話を本題に戻しますが、吉之助が気になったことは、全体の印象がやけに重々しいことですねえ。良く云えば気合いが入っているということでしょうか。「三番叟」のイメージを入れるということならば、吉之助としては、もっと軽やかな印象が欲しいところですが、これは陰陽師の舞いみたいな感じがします。このような印象になるのは衣裳のせいが大きいと思いますが、萬斎のキャラのせいもあるでしょう。しかし、萬斎の「三番叟」があれだけ素晴らしいのだから、今回の「MANSAI ボレロ」では、衣裳を含めた振り付けコンセプトにやっぱり問題があると考えた方が良いでしょう。

別稿「芝居と踊りと」で書いたことですが、日本の舞踊は、振りの意味を研ぎ澄ます為に、一度思い切って芝居から離れてみる必要があると思います。それは日本の舞踊が伴奏音楽の歌詞に縛られているからです。これはもちろん狂言舞踊でもそうです。今回の「MANSAI ボレロ」のように声楽を伴わない純器楽を使うならば絶好の機会なのだから、それを試みないのは実に惜しいと思います。

「MANSAI ボレロ」もまた「ベジャールのボレロ」のコンセプトを踏襲するものであることは、見れば明らかです。「ベジャールのボレロ」は神事あるいは芸能の始原ということをイメージしています。或る者がゆっくりと動き始めます。始めは単純なたとたどしい動きをしていますが、次第に動きの自由度・雄弁さが増して行きます。やがてそれが他の者にも波及して、熱狂と陶酔が全体を巻き込んで行きます。ベジャールは「自伝」のなかで、ショナ・ミルクの「ボレロ」は敬虔な祈りの力で周囲の人々を導く巫女、ジョルジュ・ドンの「ボレロ」はその魔力で人々をひれ伏させてしまう邪教の神と云うようなことを書いています。印象の差異は素材としての踊り手の身体から来ますが、そのストーリー性(筋)は明らかです。

ところで日本の神事を折口信夫の考え方に沿って説明すると、神(まれびと)と精霊との対立があって、神と精霊の「そしり」と「もどき」の応酬がある。これが日本古代の神事演芸の基本形となります。神がシテ方となり、精霊がワキ方となり、後にワキ方が分裂して狂言となって行きます。精霊というのは神の言葉を「もどく」ものですから、もどき役から狂言が出たという云い方も出来ます。「もどく」とは、反対する・逆に出る・非難するという意味を持ちますが、芸能史では、物まねする・代わって説明するというような意味が加わり、そこから次第におどけた滑稽な芸へ転化していきます。ですから能「翁」で狂言方が勤める三番叟とは、実はシテ方である翁のもどき役であるのです。翁が言うことを、三番叟が代わって軽妙に言い立てて繰り返す、分かりやすく、時に面白く説明するということです。神の言葉の拒否と受容の揺れを繰り返しつつ、最終的に神の言葉を下の方(民衆へ)落とすのが、三番叟の役割です。猿楽能では三番叟の役割は舞が主体となって、言い立ての要素が薄れて行きますが、三番叟は民衆の側に立つと云うことだろうと思います。だから軽妙さがとても大事な要素になるのです。(歌舞伎で云えば、シリアスな要素を世話にいなす、そのために滑稽さが必要になるということです。)

神事のコンセプトを採るならば、今回の「MANSAI ボレロ」では、三番叟の役割が本来のものとちょっと異なるのじゃないかと思いますねえ。「ベジャールのボレロ」が負っている筋はシテ方の翁のものであって、ワキ方の三番叟のものでないと思います。これならばいっそ陰陽師・安倍晴明の踊りとでもした方が、萬斎のキャラにも合うし、スンナリ行くでしょう。もどきの三番叟の軽妙さが失われて、妙に肩に力が入った仰々しいものに見えるのは、多分、そのせいです。何と云うか、もっと平らかなものが欲しいですねえ。それが日本の神事であると思います。

全体をワキ方の「もどき」のコンセプトによって再構築すれば、「MANSAI ボレロ」は正しく三番叟のためのものになると云う気がします。ラヴェルの曲のように単純にクレッシェンドする構造では、この踊りが平らかなものに出来るとはとても思えません。曲の進行に合わせれば動きはよりコミカルに、より激しいものになって行くでしょう。これだと踊りが大変なものにならざるを得ませんが、逆に思い切ってベジャールのストーリーから離れて、ラヴェルの曲のクレッシェンドを「いなして」、例えば最初のうちは三番叟はコミカルに動くけれども、音楽が激しくクレッシェンドするにつれて、逆に三番叟の動きをシンプルに持っていく。これを沈静の方向に持って行けるならば、「MANSAI ボレロ」は見事なもどきの芸に出来るかなと想像しますが、如何なものでしょうかね。

(H29・8・1)




  
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