ITテクノロジーと歌舞伎のコラボ
平成29年5月幕張メッセ・ニコニコ超会議:超歌舞伎「花街詞合鏡」
二代目中村獅童(八重垣紋三)、初音ミク(未来のちに初音太夫)
1)
平成29年5月末に幕張メッセのニコニコ超会議(ITの博覧会みたいなものか)に於いて、日本の伝統文化である歌舞伎と、IT最先端のテクノロジーがコラボした新しい歌舞伎が幕張メッセに降臨!という催しがありました。これを「超歌舞伎」と称するそうで、今回上演される本外題「花街詞合鏡」(くるわことばあわせかがみは、獅童が演じる八重垣紋三に、ボーカロイドの初音ミクが演じる初音太夫が共演するというご趣向です。ボーカロイドというのは、ITに疎い吉之助には不案内ですが、コンピュータが作り出したバーチャル・アイドルということだそうです。初音ミクさんは、マンガのキャラクターみたいに見えますが、普段は歌など歌ったりしてご活躍されているそうです。超歌舞伎がどんなものか興味がないわけではないですが、年寄りで好みが保守的な吉之助などは、怖気づいてしまってなかなか現地へ行くことが出来ません。しかし、有難いことに、NHKEテレ・「にっぽんの芸能」で、この時の模様を放送してくれたおかげで、今回、その映像を見たというわけです。
*詳しくは超歌舞伎・ニコニコ超会議2017公式サイトをご覧ください。
生身の人間とボーカロイドの共演というと、吉之助などは「アニメ―ションとの合体か?」と思ってしまいます。下記は米映画「錨をあげて」(1944年制作)のジーン・ケリーと、アニメ・キャラクターのジェリーの共演ですが、吉之助には、超歌舞伎は概念的にはこれとおなじように見えるのですがね。1970年大阪万博の時には、吉之助は、奇術師の引田天功 (初代)が「映画の画面のなかに飛び込んで立ち廻りを見せます」というショーを見た記憶があります。これも似たような趣向かと思うのですが、どんなものでしょうか。まあ吉之助の理解はその程度しか及びません(多くの場合、人間というものは自分の知っているものを手掛かりにしてしか新しいものを理解できないもののようで)が、超歌舞伎は大型施設でライヴ会場の雰囲気を取り入れているようですから、或いはもう少し違うものがあるのかも知れませんね。
1984年(昭和59年)10月歌舞伎座での「玉藻前雲居晴衣(たまものまえくもいのはれぎぬ)」に於いて、演出の武智鉄二が九尾の狐(菊五郎が演じました)の登場シーンでレーザー光線を使ったイリュージョン演出を見せたことがあ って、よく覚えています。武智は、「芝居のなかで当世のからくり技術を駆使した鶴屋南北が、もし現代に生きていたら、レーザー光線の技術を歌舞伎に取り入れないはずがない、だから今回この技術を取り入れてみた」というようなことを書いていました。当然そういう考え方もあるかと思います。今回の役者とボーカロイドとの共演も、現代に生きる歌舞伎の必然なのでありましょうか。 (この稿つづく)
(H29・7・16)
2)
吉之助は「花街詞合鏡」は歌舞伎か?なんてことを論じるつもりは別にないのですが、ここにカブキ的なものがないわけではないと思います。幕切れで獅童演じる紋三に「踊れ踊れ、 どうした、かかって来いよ」などと煽られて、ロックのリズムにペンライト振リ回して叫んでいる若者たちを見ると、まあなんて素直な若者たちだろうと思います。恐らく彼らにはコンピュタ・ゲームのファンタジーみたいに歌舞伎が映っているのだろうと思います。コンピュタ世代の若者たちは、獅童たち役者が二次元画面から飛び出て来たように見ているのかも知れませんねえ。創生期の出雲の阿国のかぶき踊りの時代にも、四条河原で 楽器のリズムに合わせて観客も浮かれて歌ったり踊ったりする光景があったでしょう。若者たちがそのような熱いものを感じ取ることが出来たのならば、これはこれでカブキ風味エンタテイメントとして素直に楽しめばよろしいことではないかと思います。
テクノロジーとの融合ということで云えば、コンピュータ映像は使いようによっては、新作ものに応用できる場面がありそうです。3D技術で描く花魁 の衣裳の質感が良く出ていたようですし、ドローンのように、吉原の街を上空から俯瞰して、そこから仲の町の通りへ、さらに遊廓の内部へと、連続して視点が移動していく辺りはなかなか興味深く見ました。場面転換の場面でこれを使えば時間が稼げるし、観客のイメージを補うことも出来て面白いだろうと云う気がしました。しかし、古典歌舞伎でこれを使うのは、吉之助はご勘弁願いたいですなあ、頭が硬くて申し訳ないですが。
まっそれは兎も角、吉之助は獅童たち若手がこのような新しい試みに挑戦することは、歌舞伎が現代との接点を持つうえでも大切なことだと思いますが、彼らはいつでも歌舞伎座の舞台に戻って古典歌舞伎を演じなければならぬわけですから、超歌舞伎であっても古典歌舞伎であっても、立ち位置にブレがあってはならぬと思うわけです。たとえ超歌舞伎の舞台であっても、テクノロジーやロックのリズムではなくて、古臭い伝承の技芸の方で「歌舞伎ってスゲエものだなあ・・」と若者たちをうならせてやりたいものです。
先日、別稿「様式感覚の不在」のなかで、南北と黙阿弥と新歌舞伎の様式の仕分けが付かない、何となく一様なKabuki様式が出来上がりつつあるということを書きました。つまり「こうやっていれば カブキらしいだろ・・」みたいな感覚なんですがね。残念ながら「花街詞合鏡」にも似たようなものを感じますねえ。超歌舞伎というのは、コンピュタ・ゲームのファンタジーみたいなものだから、ドラマのリアリティなど最初から期待していないのでしょうかねえ。最後の方で役者が隈取りして、ぶっ返って、見得して、ツケ打って、立ち廻りするのがカブキで(まああの立ち廻りはチャンバラまがいでしたが、いちおう立ち廻りと言っておきます)、その前の方にちょっと和風の筋立てらしきものを付けてみた風に思われます。人間ドラマとして見れば、あまり面白くない。そこに企画者の「カブキらしさ」のイメージが透けて見えます。隈取りとか・ぶっ返りとか・見得とか・ツケ打ちとか・立ち廻りとか、そういうものはもちろん歌舞伎の技法ですけれど、それは歌舞伎の表層的な要素なのであって、そればかり強調していると、歌舞伎は自らの領域を狭めると思いますがねえ。もっと豊かなものを歌舞伎は持っているのじゃないでしょうか。(この稿つづく)
(H29・7・21)
3)
「花街詞合鏡」の第3場・大文字屋格子先の場は、「御所五郎蔵」の序幕・仲の町出逢いの場の書き換えだと思います。「鞘当」の趣向を取り入れて様式的な感触に仕立てられていますが、明らかに世話場です。ところが八重垣紋三(獅童)も蔭山新右衛門(国矢)もまるで時代物の感触になっていて、重ったるいダラダラ調の七五の台詞廻しです。べったり 二拍子の形式に浸りきって、人間が描かれていない。ボーカロイドの留女・仲居重音が電子音声の抑揚がない棒読み七五調だったのには笑えましたが、対する役者の台詞もこれに抑揚が加わったくらいで、リズム的に大した違いが聞こえませんでした。吉之助がいつも書いていることですが、台詞を七五で割って調子を揃えて二拍子でダラダラしゃべるだけでは、黙阿弥の七五調にはならぬのです。七五のなかに緩急のリズムが微妙に付くのが、正しい黙阿弥の七五調です。これで彼らがもし歌舞伎座に戻って「御所五郎蔵」を演るのならば、思いやられます。
要するに吉之助は、たとえ超歌舞伎であっても、歌舞伎役者が伝承の技芸を見せる時にはそれなりにきっちりしたものを見たいのです。もう10年前のことですが、十八代目勘三郎がまだ元気な頃、別稿「勘三郎の法界坊」のなかで、「理屈抜きで楽しく面白い歌舞伎(平成中村座・野田歌舞伎)があって、真面目で神妙な古典歌舞伎が対極としてあり、この背反する要素を自分はどちらもきっちり描き分けられると思っていたらそのうち行き詰まります」と書きました。あの天才・勘三郎でさえ芸道二筋道を貫徹できずに心労で倒れたのですから、そこのところはよく考えてもらいたいものです。歌舞伎役者は、どんな時でも歌舞伎座に戻って古典歌舞伎を演じる時のことを念頭に置き、立ち位置にブレがあってはなりません。歌舞伎の面白さを教えて「あげる」となるところに落とし穴があるのではないかな。
吉之助は歌舞伎の将来を憂いて獅童ら若手が頑張っていることをそれなりに評価しているつもりですが、「歌舞伎らしくあること」についての考え方が表層的じゃないかと思いますねえ。形を採ることが様式的であることだと思っているのではないか。「俺たちはいつだってこういう風に してやってきた」みたいな感覚が、一番危ないのです。もっと内面的なアプローチに変えていかないと、演技は生きたものになりません。黙阿弥の七五調について云えば、台詞のなかの緩急の息を救い上げて、如何に写実に迫るかという課題を自らに課していく必要があります。この問題は獅童に限ったことではありません。別稿「様式感覚の不在」でも触れた通りです。歌舞伎のなかで正しい黙阿弥の七五調が途絶えた時、歌舞伎は歌舞伎でなくなるくらいの危機感を持ってもらいたいものです。歌舞伎はホントに危ない時期に差し掛かっているのです。
大詰めの立ち廻りで千鳥の合方が使われているのも、とても気になります。大正期の映画のチャンバラ・シーンで千鳥の合方(3倍くらい早いテンポ)が盛んに使われました。だから世間では千鳥の合方と云えばチャンバラ音楽ですが、こうなってしまったのは目玉の松ちゃん(尾上松之助)のせいなのか、その経緯を調べてもよく分かりませんでした。それは兎も角、古典歌舞伎では千鳥の合方でこういう使い方はせぬものです。吉之助には海辺の光景しか思い浮かびません 。獅童さんは千鳥の合方 で立ち廻りして居心地悪くないのですかねえ。まああの立ち廻りは確かにチャンバラまがいではありましたが。様式的な立ち廻りというものはあると思いますよ。
(H29・7・23)