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吉之助の雑談30(平成28年7月〜12月)


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その3

ということで10日のリサイタルについては、テンポが速くなって流れが付いてきたことをポゴレリッチの「回復」だと単純に喜べない気がして、吉之助は釈然としないものが 若干残ったのです(その答えは何年か先に出るでしょう)が、アンコールで弾かれたシベリウスの「悲しいワルツ」はなかなか良い演奏でした。これは2010年のリサイタルで弾いた時とはだいぶ趣が異なっていました。10年の時はピアニッシモが近くの席でも聞き取りにくいくらいの弱音で、ホントに虚空へ消え 去ってしまうかという寂寥感がありました。これも素晴らしかったけれども、今回(16年)の演奏では生きようという願いと云うか、仄かな陽光が差し込んでくる瞬間がありました。やはりポゴレリッチ の精神は確実に健康な方向へ向かっていることは間違いないようです。

しかし、13日の読売日本交響楽団(オレグ・カエターニ指揮)とのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では、ひとつひとつの音がそれぞれの意味を主張する・これはポゴレリッチらしいところを見せてくれました。魅力的な両端楽章に挟まれた第2楽章は息を持たせるのが難しいところがあるようで・どのピアニストも苦しむものですが、ポゴレリッチはこの第2楽章が息が深くて素晴らしい。じっくりとしたテンポでも音楽がまったく弛緩しない ところが、さすがポゴレリッチです。アンコールにこの第2楽章を繰り返したのも、当然だったかも知れませんね。アンコールでは本番よりも流れがさらに良くなったようでした。オケ はちょっと音は大きいかなというところはありましたが、音を引っ張るポゴレリッチに息を合わせて付いていくのは大変なことですから、オケが歌う場面では伸び伸びしたくなるのはまあ分からないこともありませんね。

(H28・12・29)


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その2

2010年頃のポゴレリッチは精神的に不安的な状況があり(理由は愛妻の死とか祖国の政情不安とかいろいろ考えられます)、「音楽的に壊れた」という言われ方をされていました。その頃の演奏は極端にテンポが遅く(と言っても早くなる場面もあるのだが、全体的には非常に遅く)音楽に推進力が乏しいとも評されました。ただし、吉之助はひとつひとつの音の連関性・つまり繋ぎ止める力の強さが尋常でないと感じていたので、これを音楽の破壊と捉えたことは一度もありません。むしろたどたどしい歩みのなかから音楽が生まれてくる瞬間を聴く思いがして、これは聴いていてとても疲れる体験でしたが、貴重な体験でした。

ポゴレリッチはリサイタルが始まる直前まで普段着のままピアノの前に座って(これをリハーサルというのか分からないが)ポローンポローンと弾くので、その音を聴くのがお楽しみです。以前はほとんど単音でただポローンと鳴らすだけだったのが、2013年来日時はそれが二音くらいになり、2014年来日時には3音くらいになって、今度(2016)は和音やら少し旋律らしい形が聞こえるようになってきました。こういうものに精神回復の過程を聞くような気がするのは吉之助の深読みなのかも知れませんが、ポゴレリッチのなかで少しずつ「流れ」みたいなものが湧き始めているのだろうと思います。

今回の来日公演の評判をインターネットでさらうと結構評判が良いようで、音楽に推進力が出てきたとポゴレリッチの回復を素直に喜ぶ声が多いようです。吉之助もそれを認めないわけではないですが、吉之助はポゴレリッチの特質が音色の透明感と粒立ちの良さにある(これは彼のデビュー以来変わらぬものと思っている)ので、今回のように混濁した響きのポゴレリッチを聴いてしまうと、これを単純に「回復」と呼んでいいものかどうか躊躇するところがあります。推進力の代わりに、大事なものが置き去りにされた感をちょっとだけ持ちますねえ。響きの彫りの深さが犠牲になっているようです。内面から湧き出してくる ものがあまりに多過ぎて、これらをポゴレリッチがまだ十分整理できていないように思われる。それが響きの過剰・あるいは威圧感になって現れている。特に前半プロのショパン・シューマンに関しては、吉之助にはそのようなことを感じました。

吉之助は12月10日東京のリサイタルに釈然としなかったので、これは何としても17日水戸でのリサイタルを聴かねばならぬと思ったのですが、残念ながら切符が取れませんでした。聞くところでは東京の時よりもかなりテンポが速かった(例えば正確でないかも知れませんが、ラフマニノフのソナタでは32分 くらい(東京)だったのが26分くらい(水戸)であった)そうですが、短期間のふたつのリサイタルでこれほどテンポが異なるということに、吉之助はポゴレリッチの精神的不安定を感じないわけに行きません。テンポは演奏者の年齢・体調やホールの響き具合の状況によって微妙に変わっていくものです。そんなことは50年音楽を聴いている吉之助にとって 承知のことですが、短期間でこれほどテンポが変化するというのは、身体に入っている基調のテンポ感覚・つまり作品に対するイメージが固まっていないということだと断言せざるを得ません。まだまだポゴレリッチは 「回復」途上にあるということかと思いますね。(この稿つづく)

(H28・12・25)


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その1

クロアチアのピアニスト・イーヴォ・ポゴレリッチは、この数年、吉之助のなかで最も気になる芸術家のひとりです。正直言うと吉之助は 今回(2016年)の来日公演の成果について未だ釈然とせず、考えが整理されていないのです。しかし、恐らく結論が付くのは何年か先のことでしょうから、備忘録としてここに記しておきたいと思います。ポゴレリッチの素晴らしいところは、技巧に裏打ちされた音色の透明感と粒立ちの良さにあると吉之助は考えています。今回、吉之助が聴いたのは12月10日サントリー・ホールでのリサイタルですが、この点において若干物足りないところがあったと感じています。

ピアニストの指遣いは精密機械のようなものですから、ちょっとした精神の乱れでも音色の微妙な狂いとして現れます。 しかし、誰でも身体や気分の好不調の波はあるものです。ホロヴィッツは、1983年に来日した時は医師から処方された薬のせいでコンディションが最悪だったことは有名ですが、吉之助はNHKホールでのリサイタルを 生で聴きましたけれど、確かにミスタッチは多かったけれど、音色の方は相変わらず澄み切って美しかったと思います。ただ、ホロヴィッツの場合でもライヴ録音を数多く聴いていると、音色の微妙な乱れが聞こえるもの がないわけではなく、例えば1967年10月22日ニューヨーク市立大学ホールでのライヴ録音 (60年代は絶頂期と云って良いわけですが)では、響きにどこか普通ではない刺々しい ものが聴こえます。(理由は分かりませんが)恐らくホロヴィッツが神経的にカリカリすることが何かあったのかなと感じます。

吉之助が今回のポゴレリッチに聴くのも同じようなことですが、今回の場合は、内面から湧き出してくる ものがあまりに多過ぎて、これをポゴレリッチが自分のなかで十分受け止め切れていないと感じるのです。ポゴレリッチの最大の美点である音色の透明感と粒立ちの良さは、指先の完璧な制御によって成り立っています。その制御が完璧にできていないと感じるのです。前半プロのショパンもそうですが、特に不満を感じたのがシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」でした。これは当日のプログラムのなかで吉之助が最も楽しみにしていた曲でした。ここ数年のポゴレリッチはテンポが極端に遅いというイメージがありま すが、今回は 予想に反して高排気量の大型車が轟音を立てて突っ走る印象で、確かに迫力あったことは認めますが、威圧的で、聴いていて熱苦しい演奏でした。何よりも低音が被って音の粒立ちがまったくクリアでなく、吉之助はこんな混濁した響きのポゴレリッチを初めて聴いて唖然としたというのが正直な感想です。もっとも後半プロ(モーツアルトとラフマニノフ)ではやや調子を持ち直したかなと思います。(この稿つづく)

(H28・12・23)


○平成28年12月歌舞伎座:「あらしのよるに」・その2

三島由紀夫の「鰯売恋曳網」は昭和29年11月歌舞伎座の初演です。十七代目勘三郎の猿源氏と六代目歌右衛門の傾城蛍火の舞台は好評でしたが、後年、三島は座談会でこんなことを言っています。

「ばかなところがないな。ばかになりたくない一心なんだね、逆に。(笑)僕がつくづく思うのは、ぼくらはすっかり近代人的生活をしてるから、僕がいくら擬古典主義的なことをやっても、新しいところが出て来る。最大限度の努力を払ってもそれがどうしても出てくる。それで、そいつを隠してくれるのが役者だと思っていたんですよ。ところが向こうは逆に考えているんですね。いやになっちゃう。(笑)ここは隠してほしいというところが逆に彼らにとっての手掛かりになるんだな。」 (雑誌「演劇界」での座談会での三島の発言:「三島由紀夫の実験歌舞伎」・昭和32年5月号)

三島が言っているのは役者(ここでは十七代目勘三郎)の演技についてですけれど、同じことは現代の新作(復活物も含む)の脚本にも言えます。絵本「あらしのよるに」シリーズに話を戻しますが、原作にヤギのメイが幼い時にお母さんを失ったという話が出てきます。オオカミに襲われたお母さんは、オオカミの耳を喰いちぎって抵抗しましたが、結局、食べられてしまうのですが、お母さんのおかげでメイは逃げることができました。この時に耳を喰いちぎられたオオカミが、群れのボスであるギロでした。

作者のきむら氏はこのエピソードを、お母さんはその身を以て「必死で生き抜け・何としても生き抜け」というメッセージをメイに授けたというつもりで書いたと思います。しかし、耳を喰いちぎられたオオカミがギロだったという設定が、原作ではその後のストーリー展開に効いていないように思われます。そもそもこの設定は読者に余計なことを考えさせます。ヤギに耳を喰いちぎられたギロはずっと恥辱を抱いて生きてきたのではないか、ヤギに憎しみを感じて生きてきたのではないか・・というようなことです。そこからその先のストーリーを何となく想像してしまう、そういう取っ掛かりを読者に与えてしまうのです。原作を読むと、ギロに恥辱とか恨みとか・そういうものがあったかどうかは、結局、見えてきません。そういうものが全体のガブとメイのストーリーのなかで重要な意味を持っていると到底思えません。それは主筋からすると、それは余計なことです。もしかしたら当初はきむら氏は別の展開を考えていたのかも知れませんねえ。いずれにせよここはきむら氏に迷いがあったと感じる箇所です。こういう箇所は、本当は作者が一番隠して欲しいところなのです。ところが、こういう原作の隠してほしいという箇所が、歌舞伎にとっての手掛かりになるのですなあ。歌舞伎版「あらしのよるに」では、そこのところが拡大されて、全体がギロに絡まるオオカミの跡目争いの御家騒動か仇討だかの因果話仕立てに されてしまいました。「この芝居のどこが歌舞伎なんだ」と言われたくない一心で、このため返って最も陳腐なパターンに落ちてしまった感じがあります。これだから歌舞伎はなあ・・という感じがします 。

もっとシンプルに、ガブとメイの友情に焦点を合わせて、「食べたいけれど一緒にいたい、食べられそうで怖いけれど一緒にいたい」という気持ちだけを膨らませて描けば良いのです。もちろん脚色の今井氏の作劇にも、良いところはたくさんあります。お互いの顔を知らないままふたりが嵐の翌日に再開する場面(原作ではここはその後のふたりの回想でしか描かれていません)での、ガブがお土産にとオズオズ差し出した草をメイが思わず「美味しそう」とパクッと食べちゃうところなど、とても良いです。ガブにとって観賞用の・それゆえお土産にふさわしいと思って持ってきた草をメイが食べちゃったことで、ガブはびっくりしますが、それでメイとの違いを意識すると同時に、自分を受け入れてくれてもらえた嬉しさを感じたでしょう。そこにガブとメイの友情の機微がさりげなく表現できています。こういうところをもっと膨らませて描けば良いのです。こじんまりとした世話物で、大きな筋の起伏なく芝居が進んでも良いのです。それでこそ絵本「あらしのよるに」が、それにふさわしい歌舞伎になります。

巷の書評を見ると絵本「あらしのよるに」について「人間社会の暗喩(メタファー)」ということを書いているものが多いですが、作者の創作過程でそういうものが作用したことが確かにあったとしても、そこは作者が一番隠したいところです。童話は、感性において受け取らねばならぬものです。子供はそうやって童話を(読むのではなく)感じるのです。歌舞伎で大事なことは、人情を細やかに描いて見せることです。人情がしっかり描けてさえいれば、それだけで歌舞伎になるのです。作劇にもっと自信を持つことです。

ガブ(獅童)とメイ(松也)は繊細な感情を描けて、好感の持てる演技でした。獅童は平成14年(2002)に「あらしのよるに」がNHKでテレビ番組となった時にガブ役を務め、それ以来、本作の歌舞伎化を熱望してきたそうです 。この絵本から歌舞伎が浮かぶとは、なかなかプロデュースのセンスがあるなあと感心しますね。それだけの意欲が感じられる熱演でありました。

(H29・12・17)


○平成28年12月歌舞伎座:「あらしのよるに」・その1

平成28年12月歌舞伎座での新作歌舞伎「あらしのよるに」を見てきました。これはきむらゆういち(文)・あべ弘士(絵)による絵本を歌舞伎化したもので、初演は昨年9月・京都南座のことでした。それが好評 だったので、今回は東京の歌舞伎座での再演 となったということです。実は吉之助は最初見るつもりなかったんでやんす。(とガブの口調になる。)ところが近所の行きつけの喫茶店に絵本「あらしのよるに」シリーズが全巻置いてありましてねえ。それをパラパラめくっているうちに、やっぱりこれは歌舞伎の方も見ておいた方がよいかなあと思って、それで見たんでやんす。

それにしても歌舞伎に狐忠信や葛の葉など動物を擬人化する伝統的手法があるとは云え、オオカミとヤギが主役の絵本を、子供からお年寄りまで幅広い客層を満足させる歌舞伎に仕上げることは、 大変な苦労だったと思います。 脚色は「NINAGAWA十二夜」や「陰陽師」を手がけた今井豊茂だけに、一見すると歌舞伎にならなそうな題材を、手際よく芝居に仕立てています。狂言作者と役者と裏方が一体となって、これをエンタテイメントにしようと懸命に努力していることも、よく伝わって来ました。そこのところを認めたうえで、吉之助が感じた作劇上の問題を書いてみたいと思います。

まず吉之助が感じるのは、「歌舞伎らしい芝居にしよう」ということを過度に意識し過ぎだということです。もうちょっと肩の力を抜いて、原作絵本の持ち味を素直に芝居にする、それで十分良いはずだと思います。例えば歌舞伎らしいってどういうことでしょうか?見得してツケを打つことですか。立廻りですか。今回の芝居では隈取はオオカミの化粧のなかに溶け込んでいるので 違和感はないですが、隈取のことも挙げておきましょうか。隈取して見得して立廻りをしてれば、派手でダイナミックで面白くて、それで歌舞伎らしい芝居に仕上がると、そういう安直な思い込みが、狂言作者のなかにないかということです。しかし、数ある古典歌舞伎の名作を御覧なさい。歌舞伎には、隈取も見得も立廻りもない芝居がごまんとあります。そういう芝居の方が多いのです。

歌舞伎らしい手法・歌舞伎らしい芝居というイメージを、もう一度見直してもらいたいと思います。真山青果の「元禄忠臣蔵」はもう押しもおされぬ歌舞伎のレパートリーですが、吉之助がこの四十年超歌舞伎を見てきて、「元禄忠臣蔵」の幕が下りた後、近くの観客が「こういうのも歌舞伎なの?」と呟くのを何度も聞きました。しかし、隈取も見得も立廻りもないけれど、「元禄忠臣蔵」は立派な歌舞伎です。だから歌舞伎は、自らの芝居にもっと自信を持つことです。歌舞伎には、作劇上の・演出上の引き出しがまだまだいっぱいあるのです。自らの可能性を限定しないことです。

吉之助が原作絵本を見ながら、頭に浮かんできたのは、オオカミのガブとヤギのメイ、このふたりの会話だけで進むこじんまりとした世話物、そんな感じでしたねえ。他の登場人物は要 らないと思います。例えば彼らがそれぞれの仲間たちから責められて、相手の事情を聞き出してこいと送り出される場面、そういうところはガブとメイの独白・あるいは対話のなかで描けば、それで十分なのです。吹雪のなかで立往生するふたりを、仲間のオオカミたちが追ってくる。そういう場面はオオカミの遠吠えだけで描けば良いのです。ガブはメイを守る決意をして、追っ手のオオカミたちと戦うわけですが、そんな場面も立廻りにせずに、ガブが必死の形相で花道を駆けていくことで示せば良いと思います。大事なことは、主人公であるガブとメイの心情の揺れを、原作絵本以上に細やかに描いてみせることです。つまり、ふたりの会話が大事なのです。ガブ(獅童)とメイ(松也)はなかなか良いのに、残念ながら、今回の芝居を見ると、ふたりの 友情の機微が十分に描かれているとは言えません。一方、余計な枝葉のストーリーが長くて、何だかオオカミたちの御家騒動か仇討だかが中心みたいになって、肝心の友情の主題がどこかへ行ってしまいます。「あらしのよるに」には、見得もツケも立廻りも要らないのじゃないで しょうか。歌舞伎の歴史のなかで、近松門左衛門から河竹黙阿弥に至るまで、歌舞伎で最も大事なことは、人情を細やかに描いて見せることだったはずです。(この稿つづく)

(H28・12・8)


○真山青果にとっての近世

昨日(12月3日)に真山青果学術シンポジウムに行ってきました。テーマは「真山青果の魅力〜近世と近代をつなぐ存在」というものでした。現在では青果(明治11年〜昭和23年)はもっぱら「元禄忠臣蔵」を代表作とする新歌舞伎作家として知られていますが、新派の座付き作家であった時期があり、新国劇のためにも芝居を書きました。また青果は井原西鶴の研究者としても大きな業績を残しているそうです。作劇の傍らで西鶴本の地名の特定とか語彙注釈などこのような地道で細かい仕事を続けていたのには驚きました。青果本人が「劇作で稼いだ金をこれ(西鶴)につぎ込んでいるんだ」と言っていたそうですが、趣味かと聞かれれば「そうだ」と答えたかも知れませんが、これは趣味以上の何ものかですね。今回のシンポジウムでは、そのような青果の新たな側面を知ることができて興味深く聴きました。ただ青果にとって何で江戸なのかというところ、つまり「近世と近代をつなぐ」というところをもう少し突っ込んでもらいたかったなあと思いました。

青果というと内蔵助とか東郷元帥とか乃木大将とか歴史上の偉人を描くイメージがあるように思いますが、実はやくざなど社会や世間の枠からはみ出して屈折した感情を抱きながら生きている名もない庶民も芝居のなかに数多く描いています。偉人とや くざを同じ視点で眺めているというのは、確かにそうだと思いますけれど、これはもうちょっと考えてみる必要がありそうです。例えば青果はこんなことを言っているそうです。

『端的に申せば、彼桃中軒雲右衛門は、作者わたくしの最も愛好する性格者の一人であった(中略) わたくしは常に人間の真相と人性の誠真とをその人物の徳行の完成円満のうちに求めることをせずして、その不完全と不具足との間に見ようとしている性癖があります。』(真山青果:「戯曲「桃中軒雲右衛門」の構想」)

青果のこの文章ですけれど、「その不完全と不具足」のところに重点を置いて読むのでは間違えてしまいます。これでは偉人と庶民を同じ視点で眺めていることになりません。これは「人間の真相と人性の誠真」 との「間」に重点を置いて読まねばなりません。吉之助の云いたいことはこうです。誰でもその人なりに、その人のレベルであっても誰でも「人間の真相と人性の誠真」の完成を求めて生きているのです。しかし、残念ながら誰でもそこまで は至りません。だから「人間の真相と人性の誠真」の完成を求めながら、自分がそこに到達できないことの、口惜しさや惨めさや哀しさ、或は怒りや歯がゆさが、そこに意識されているのです。そこにその人間の有様が出るからです。青果は その有様のことを言っているのであって、その人物の不完全と不具足に興味があるということではないです。

ですから時代に適応できず・或は時勢に乗り遅れて振り落された人々の有様を思いやったというところから、「近世と近代をつなぐ」青果の存在を考えれば良いと思います。つまり、 明治という時代が 過去の何を否定し・何を振り捨て・何を置き去りにしてきたかということが問題なのです。だから青果にとって江戸が大事になるのです。そこに明治・大正の知識人のひとつの在り方が明確に見えます。 これは夏目漱石や森鴎外についても云えることなのですが、例えば長谷川伸(明治17年生)は股旅物などで人間の負い目という形で時代に適応できない人々を描きました。長谷川もまた劇作の傍ら「日本捕虜誌」や「日本敵討ち異相」などの資料収集を続けてい たわけで、そこに青果とまったく同様のものを見ます。柳田国男(明治8年生)が役人生活の傍らで民俗学資料取集に励んだのともまったく同じことです。そうやって考えてみれば、現代の吉之助が会社生活の傍らで歌舞伎研究を続けているというのも、まあ同じことなのだろなあと思いますねえ。何かこの時代が忘れてきたものを探しているのだろうと思います 。

(H28・12・4)


○盛綱は智の人である・その3

母微妙に小四郎を殺してくれと頼んだ時、盛綱は「現在の甥が命、申しなだめて助くることこそ情ともいふべけれ、殺すを却って情とは情けなの武士の有様や」と嘆いています。情にこだわる限り、 盛綱はこの状況から逃れることはできません。情を超えるロジックが必要です。それがなければ、盛綱は大将を裏切って偽首を偽証することはできません。それが「自分の気持ちに対して忠、同時に武士である自分の本分に照らして義」というロジックです。

小四郎を褒める盛綱の長台詞を読めば、盛綱は小四郎の行為に感動しその気持ちを一気に吐き出そうとしていますが、紡ぎだされる言葉はあくまで論理的です。別稿「アジタートなリズム〜歌舞伎の台詞のリズムを考える・19・義太夫狂言のリズム」で触れましたが、 義太夫での盛綱の長台詞は、タテ言葉です。立て板に水を流すように早口に台詞をまくし立てるものです。タテ言葉の早いリズムは、観客の耳に小気味良く・快適に感じられるかも知れません。そう感じるのは決して間違いではないですが、見方を変えれば、タテ言葉のリズムは決して自然なしゃべり言葉のリズムではないのです。それは異様な興奮に裏打ちされた・機械的なリズムです。小気味良いリズムの背後に実は人間性を押さえ込もうとする不気味で圧倒的なものが潜んでいることが見えてきます。(劇中でそれを体現する存在はもちろん北条時政です。)タテ言葉のリズムのなかで、盛綱は不気味で圧倒的な力に対抗する人間の意志を主張しています。

もちろん歌舞伎の盛綱は本行通りにしゃべるのではなく、それは歌舞伎様式において処理されなければなりません。タテ言葉の早いリズムを基調としつつく如何にこれを歌舞伎様式に持って行くかです。しかも、熱く・冷静に論理的に語るところは、絶対に守らなければなりません。遺された映画での初代吉右衛門の盛綱を研究すれば、 どこをどう処理すれば良いか実感できると思います。しかし、残念ながら、昨今の歌舞伎の盛綱役者の多くは、盛綱は小四郎の行為に情で反応して大将を裏切るという解釈であるようです。だから長台詞をさも感じ入ったように熱くしゃべろうとする。だからテンポが遅くなり、さらに泣きが入って台詞の息がぶつ切れる。だから盛綱の語る論理が空回りしてしまいます。今月(平成28年11月)歌舞伎座での、新・芝翫初役の盛綱もそんな感じがしますね。興奮した気分を表現しようとして台詞が高調子になり、力んだ台詞回しになっています。

ところで、先ほど「歌舞伎の盛綱は人形浄瑠璃ではないのだから歌舞伎様式 において処理されなければならない」と書きましたが、歌舞伎様式ということをどう考えるかです。芝翫の盛綱の長台詞は、確かに「歌舞伎らしく」は聞こえますが、ホントにあれで良いのかということです。

例えば襲名披露口上での「中村芝翫の名跡を、八代目として、襲名致す運びに、相成りましてござりまする」という文句を聴くと、芝翫の口上は重ったるいですねえ。台詞が後になればなるほど段々テンポが遅くなります。だから歌舞伎らしく 大きい印象に聴こえるけれども、メリハリがない伸びた感じに聴こえます。まずこの文句を読んだ時、大事な語句は何でしょうか。芝翫・八代目・襲名の三つの語句でしょう。これら三つの語句を張り上げてたっぷり強調する。他のところはサラリと流すことです。最後の「ござりまする」は歌舞伎役者は伸ばしたいでしょうねえ。吉之助は台詞の末尾を伸ばすのが嫌いなのて採りませんがね、まあ最後は伸ばしても良いで しょう。これで歌舞伎様式においてメリハリの付いた台詞回しにすることが出来ます。大事なのは、テンポの緩急です。芝翫はこれが まだ足りません。

今回の盛綱の首実検とそれに続く場面を見れば、新・芝翫は確かに「らしく」は出来ています。しかし、メリハリが乏しいので、印象はそれなりに 太く大きいけれど、引き締まった感じがいまひとつです。これは新・芝翫の、先月の熊谷直実も同じ印象です。 もう少し台詞や動作に緩急が欲しい ところです。この辺が、新・芝翫がこれから本物の時代物役者として大成する為の課題となるでしょう。「いわゆる歌舞伎らしさ」という問題、これは生活感覚と切り離されたところで伝承と対峙せねばならぬ歌舞伎役者すべてに共通して課される問題だと云えますが、そこを突き抜けて、もう一段上のランクを目指してもらいたいと思いますね。

(H28・11・23)


○盛綱は智の人である・その2

盛綱は鎌倉方の智将です。つまり読みが人一倍深い武将です。相手が何を考えているか・どのような行動に出るか徹底的に読んで、その対策を練ります。相手がそう来るならば、こちらはこう出ると、次の次の手までも読むのです。ましてや弟高綱が相手ならば、その性格を知り尽くしている盛綱にとって、弟が何を考えているか 、心を読むことなど造作もないことです。盛綱が心配するのは、息子の小四郎が生け捕りにされたことで、高綱の心が迷い戦う意欲が失われれば、高綱は不忠の汚名を着ることになるということでした。「盛綱陣屋」の舞台を見れば、戦さの情勢は、途中までまさに盛綱の読み通りに進行して行きます。そこへ高綱討ち死にの報。盛綱は「ハハア南無三宝死なしたり、さしも抜からぬ弟高綱子ゆえの闇に心くらみ、謀に陥たるな・・」と嘆息しますが、ここは偽首ということもあり得るぞということは、盛綱の頭のなかに当然あります。そこまでは盛綱の読み通りです。ただし盛綱にとっても、小四郎が「父様さそ口惜しかろ、わしも後から追いつく」と叫んで腹を切るというところは、まったくの予想外でした。そこからドラマは急転換します。

ここが大事なところですが、盛綱の頭のなかは今ここで何が起こっているか・この事態を正しく理解しようと物凄い勢いで回転しています。そして盛綱は偽首を弟高綱の首に相違ないと証言する のですが、それは盛綱が小四郎の行動に感動し情に反応して一時的な激情に駆られて、偽証に走ったということではないのです。盛綱の性格からして、そういうことはあり得ません。盛綱がここは偽証してでも弟高綱の気持ちを通さねばならぬと考えるに足る、筋が一本通ったロジック(論理)が絶対に必要です。それがなければ、盛綱は決して偽証など出来ません。偽証をしても盛綱が「俺は不忠ではない」と自分が納得できるロジックが必要です。 つまり盛綱が忠を尽くすべき対象は時政ではなく、本当に忠を尽くすべきことが他にあるということです。

れは「俺たち佐々木兄弟は京方だ・鎌倉方だとそんなことで戦っているのじゃないよ。俺たちは武士なんだ。相手が兄弟だろうが武士である以上死力を尽くして戦うのは当然じゃないか。それでどちらかが勝つならば・勝った方が佐々木の家を継ぐだろう。それでいいじゃないか」ということです。(別稿「京鎌倉の運定め」を参照ください。)
これがロジックかと仰るお方がいるかも知れませんが、これは立派なロジックですよ。これこそ死を覚悟した男のロジック です。ホントに澄み切るほどに・まっすぐなロジックだと思います。

『イヽヤいっかな心は変ぜねど、高綱夫婦がこれ程まで仕込んだ計略。父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。彼が心を察するに、高綱生きてある中は鎌倉方に油断せず、一旦討死せしと偽って山奥にも姿を隠し不意を討たんず謀。しかれども底深き北條殿、一応の身替りは中々喰はぬ大将、そこを計って一子小四郎を、うまうまとこの方へ生捕らせしが術の根組、最前の首実験、贋首を見て父上よ誠しやかの愁嘆の有様に、大地も見抜く時政の眼力をくらませしは教へも教へたり、覚えも覚えし親子が才智、みすみす贋首とは思へども、かほど思ひ込んだ小四郎に何と犬死がさせらう。主人を欺く不調法、申し訳は腹一つと極めた覚悟も、負うた子に教へられ浅瀬を渡るこの佐々木、甥が忠義にくらべては、伯父がこの腹百千切っても掛け合ひがたき最期の大功。そちが命は京鎌倉の運定め、出かいたな出かした』

この盛綱の長台詞を読んでどうお感じでしょうか。盛綱とは、自分が偽証に踏み切った心理的経緯を、これほどまでに精緻に自己分析して論理的に語ることが出来る男です。これは熱いけれども、決して激情に駆られた台詞ではありません。冷静に見えるほど、筋が通った台詞です。この台詞は、盛綱の決断が理性的なものであったことを示しています。この台詞は、熱く・ しかし冷静に語られなければなりません。 盛綱は智の人であるからです。その意味で吉之助にとっての理想的な盛綱は、映画(昭和28年歌舞伎座)で見た初代吉右衛門の盛綱ですねえ。(この稿つづく)

(H28・11・18)


○盛綱は智の人である・その1

「盛綱陣屋」については、別稿「「盛綱陣屋」の音楽的な見方」など、何本か論考を書きましたが、まだまだ書き足らないことがありそうです。多分それが名作である所以なのでしょうねえ。「盛綱陣屋」の大筋を見ると、捕えられた小四郎が心の中で「この首を父の首だと偽証してくれ」と叔父に訴えながら腹を切り、盛綱はこれが弟高綱の計略の偽首であることが分かっていながら、小四郎の健気さに感じ入って、これを犬死にさせることに忍びず、高綱の首だと偽証するということ になるかと思います。これは、小四郎の行為に対して、盛綱は情で反応して偽証を決意したということなのでしょうか。まずこのことを考えたいと思います。盛綱はこう言っています。

『父が為に命を捨つる幼少の小四郎が、あんまり神妙健気さに不忠と知って大将を欺きしは弟への志。』

盛綱が小四郎の行為に心を打たれたことは疑いがありません。ならば「この首が高綱の首だと偽証してくれ」と叔父に無言で訴えて腹を切った小四郎の健気さにほだされて、情に反応して偽証を決意した ということでしょうか。しかし、盛綱は「不忠と知って大将を欺きしは弟への志」と言っています。 「小四郎への志」とは言っていない。もちろん「教えも教えたり、覚えも覚えし親子が才智」とありますから、そのなかに小四郎のことも含まれていると考えるべきです。しかし、盛綱の心にあるのは、弟高綱のことです。弟高綱の為に盛綱は偽証をしたのです。

吉之助が言いたいことは、盛綱は情で反応して動いたわけではないということです。そのなかに熱いけれども、盛綱なりの冷静な判断があるのです。ひと目見て盛綱には偽首であることは分かったのです。本来ならば、盛綱は高笑いして「この首は偽首でござる、この盛綱、その手は食わぬ」と言わねばならぬところです。 当然それが鎌倉方の武将としての盛綱の仕事です。しかし、予想外の小四郎の切腹で盛綱は考えを転換するわけですが、 これは「情に感じて理を非に曲げて通した」ということではありません。それはつまりその時、盛綱の頭のなかで本来通るはずのない論理が通ったということなのです。盛綱は優秀な武将なのですから、そのような判断が研ぎ澄まされた 理性の下で行われたと考えるべきです。盛綱は智の人である 。そこのところを考えないと「盛綱陣屋」はとても柔いドラマになってしまいます。

別稿「近松半二の作劇術を考える」でも書きましたが、近松半二は儒学者穂積以貫の息子です。作劇者としての半二が考えるところは、人の道ということです。 この状況下で、私は人としての道をどう行くべきかといことです。だから半二は、とんでもない極端な設定を主人公に課します。半二の芝居はみんなそうなのです。「盛綱陣屋」の場合には、「自分の気持ちに対して忠、同時に武士である自分の本分に照らして 義」という論理(ロジック)はあるかということです。 盛綱は優秀な武将なのですから、そういう論理がないのならば、不忠と知りつつ大将を欺くなどということが、到底できるはずはないのです。

話が変わるようですが、「勧進帳」の場合を考えてみます。富樫が弁慶一行に関所通行を許すのは、無礼覚悟で主人義経を杖打つ弁慶の心に感じ入ってこれを許すというけれど、確かに筋を表面的になぞればそういうことですが、ホントにそうなのかということです。情にほだされて富樫は通行を許したということなのでしょうか。これについては別稿「「勧進帳」についての対話」を参照ください。富樫はもちろん弁慶の行為に感動していますが、富樫が感動するのは打擲される強力が義経であることが分かっているからです。義経は、弁慶にとっても富樫にとっても、舞台を見ている観客にとっても「神」です。弁慶が義経を打擲する時、「義経が神である」という認識が 、富樫のなかに突然この場で共有されます。富樫は「神が打たれることはあってはならぬ」という思いに駆られて、弁慶を止めます。富樫は情において通行を許すのではありません。「義経が神である」という認識においてこれを許すのです。これは まったく理性的な判断なのだと富樫は答えるはずです。盛綱の場合も、同じであると吉之助は思いますねえ。(この稿つづく)

(H28・11・13)


○近松半二の作劇術を考える・その2

吉之助は、「吉野川」 のドラマのなかで、これらの伏線があまり効いていないように感じるのです。それどころか見物を混乱させかねないような気さえしますね。これは近松半二の作劇上の、ひとつの問題点であるかなと思います。 「吉野川」では大判事と定高の家の争いがそれよりずっと大きい入鹿という巨悪の存在にかき消されてしまって、最後には専制政治に対するレジスタンス劇みたいな終わり方をしますから、この芝居の本質が見えにくくなっています。 或は意図的にそのようにしているのかも知れません。 現代から見るとその必要があったように思えないのだけれど、当時はそのようにする必要があったのかも知れません。

大判事と定高はそれぞれの子供を殺すことによって、入鹿の謀略から子供らを守り、彼らの恋路を貫かせた、親たちは互いに争うことを止め家の存続を捨てることで人間の自由を守ったという風に「吉野川」を読むのは、何だかもっともらしいようですが、ホントにそうですかねえ。 半二はそんな御大層なことは書いておらぬと、吉之助は思います。例えば「吉野川」 前半を見れば、両岸にいる雛鳥と久我之助は互いに実現される恋であることを嘆いていますが、この時点ではふたりは入鹿の要求のことをまだ知らされていないわけです。ということは、雛鳥と久我之助の許されぬ恋に限って考えれば、この恋を阻んでいるものは 領地争いに始まった両家の長年の不和であり、つまり恋の障害が親だということは明らかなのです。悲劇の発端はそこにあるのです。雛鳥と久我之助の線から見れば、彼らの気持ちにブレるところはまったくなく、劇構造は案外シンプルです。これを親の線で読もうとするから混乱してしまうのです。

雛鳥と久我之助の線から読めば、「吉野川」 のドラマは、親の考えに従うのは子供として当然という儒学的倫理に彼らは縛られていて、両家が不和である、だから親が許さない以上、この恋はこの世では許されないものだとふたりは観念してい るということです。雛鳥にも久我之助にも親に逆らって、駆け落ちしても一緒になろうなんて考えはありません。子として取るべき選択ではないという自制が働いています。こうなると、この恋を貫き通す(これは自分の気持ちに対して忠であるということです)にはふたりには死ぬしかないのですが、もし自害すれば親に対して不孝ということになります。だから滅多なことでは、ふたりは動けません。だから彼ら が死ぬための大義 を用意してやる必要があります。

半二は穂積以貫の息子なのですから、作劇者としての半二が考えるところは、そこです。つまり、この恋を貫き通して自分の気持ちに対して忠、同時に親に対して孝 となれる状況を作って、初めて彼らは死ねるということです。そこで半二が用意したのが「吉野川」 のなかでの入鹿の役割なのです。入鹿は舞台に登場しませんけどね。「久我之助を入鹿の元に出勤させよ、雛鳥を入内させよ」という入鹿の要求に対抗する形で、久我之助は自害すること により、采女の方の付き人としての義を貫き通すことが出来、同時にこれは父・大判事の息子として孝を立てることになります。雛鳥は死を選ぶことで、愛する男への操を守ることが出来、これはつまり女としての義を貫くこと になるから、同時にこれまでの母・定高の教えを守ったことになり、それで孝を立てることになるのです。

ですから半二は儒学者の息子であることが分かれば、回路はシンプルです。「自分の気持ちに対して忠、同時に親に対して孝という道はあるのか」、これ が半二作品に共通するテーマだということです。雛鳥と久我之助がそうであるし、「本朝廿四孝」の八重垣姫もそうだし、「鎌倉三代記」の時姫もそうなのです。 それにしても、自分の気持ちに対して忠ということは、よく考えてみれば、当時としてはとても危険な香りを持つ思想だったに違いありません。だから、ちょっとオブラートに包む必要がありました。そうなると必然的に筋が入り組んで しまうことになります。一生懸命、主人公を状況でがんじがらめに縛り上げていく伏線をいろいろ工夫しているうちに、後で気が付いてみたら、こうなっちゃったみたいだと吉之助が言うのは、そういうことなのです。

(H28・11・5)


○近松半二の作劇術を考える・その1

別稿「ピュアな心情のドラマで「妹背山婦女庭訓・吉野川」 について吉之助の考えるところを披露しましたが、文章の流れで割愛せざるをえなかった点を補足の形で記しておきます。まず作者近松半二の作劇には、トリッキーと云うか、観客に対して 少し意地悪に感じられるところがあると思います。ドンデン返しの意外な結末に観客はアッと驚きますが、後で冷静になって筋を振り返ってみると、筋が矛盾して見える箇所とか、状況が右にも左にも取れる箇所があって、却って芝居の主題がよく分からなくなってしまう。半二の芝居の場合には、そんなことが少なからずあるようです。

しかし、吉之助が思うには、半二には観客を引っ掛けてやろうとか・驚かせてやろうという意図は別にないと思うのですねえ。主人公に対して箍(たが)を幾つもはめて、主人公を極限の状況に段階的に追い詰めようとしているうちに、後から見るとああしたものになっちゃったということだと思うのです。まあ或る意味では、半二は作劇的にラフなのです。縦横斜め・がっちりと論理的に矛盾ない作劇をしようなんて、細かいことはあんまり考えていない。ですから半二の芝居を観る場合には、むしろ芝居の流れに沿って局所局所の状況を刹那的に素直に受け取った方が、作品の理解はスンナリ行くのです。

例えば「吉野川」に関して言えば、大判事も定高も両花道に登場した時には、「自分の子供を殺しても相手の子供は助けよう」という覚悟が決まっているわけですが、いつの時点で二人はそのように決断をしたのでしょうか。丸本を見ると、そのことはどこにも書いてありません。そうなると、いろいろ想像をしたくなりますね。まず気になるのが、入鹿が圧倒的な権勢を誇り、入鹿の横暴に対して誰も抵抗できない状況にあるということです。久我之助はこのように言っています。

『我も心は飛立ど、この川の法度厳しきは親々の不和ばかりでない。今入鹿世を取て君臣上下心心。隣国近辺といへども、親しみあらば徒党の企あらんかと、互に通路を禁しめて船をとめたる此川は、領分を分る関所も同然。』

隣国仲良くしていると、入鹿に徒党の企てありと睨まれるので、無用の疑いが掛からぬようにどの国も互いに仲が良くないように見せかけているというのです。そうすると、大判事と定高の家の争いも、本当はなかったことなのでしょうか。しかし、久我之助は「親々の不和ばかりでない」と言っているのですから・両家の不和は確かにあると思いますが、さらに気になることがあります。それは定高が、雛鳥と久我之助の仲をずいぶん前から知っていた らしいことです。(一方、大判事の方は、入鹿に指摘されるまでそのことを知らなかったように見えます。)雛鳥と腰元小菊の台詞には、こうあります。

『つらひ恋路の其中に親と親とは昔より、御仲不和の関と成あふ事さへも片糸の、むすぼれとけぬ我思ひ。恋し床しい清船様。此山のあなたにと、聞いたを便り母様へ、お願ひ申して此仮屋、お顔が見たさの出養生、ここまでは来たれども』(雛鳥)

『雛鳥さま。お前の病気をお案じなされ、この仮屋へ出養生さしなさったは、余所ながら久我様に、お前を逢す後室様の粋なお捌き。女夫にして下さりませと、直にお願ひ遊ばしたら、よもやいやとは岩橋の渡る事こそならずとも、せめて遠目にお姿を』(小菊)

ということは、定高は娘の恋心を理解し、以前から二人を添わせてやろうと考えていたということなのでしょうか。そうなると両家の諍いはどうなる?もしそれが定高の本心ならば、両家の不和という大前提は、やはり入鹿に対する見せ掛けだったのだろうかと、疑問が湧いて来ます。気になる点はまだあります。前場「花渡しの場」で、入鹿が家来の弥藤次を呼びつけて、次のように言うのです。

『ヤアヤア弥藤次はやく参れ。汝は百里照の目鏡をもって、香具山の絶頂よりきっと遠見をつかまつれ。コリャコリャ両人よっく聞け。もし少しでも容赦いたさば両家は没収、従類までも絶やするぞ。性根を定めはや行け』

弥藤次は望遠鏡みたいなものを持っていて、両家で起こることは、香具山の山頂にいる弥藤次から始終観察されています。このことを定高も大判事も知っているということです。両花道で交わされる定高と大判事の対話は、そもそも監視下にあるものですから、二人とも「自分の子供は死んでも、そなたの子供は生きてくだされ」という本音が言えない過酷な状況に置かれているということです。

大事なことは、これらの伏線が、「吉野川」 の芝居を観る時の伏線として効いているのかということです。これらの伏線が「吉野川」 のドラマの主題を研ぎ澄ますような働きをしているのかどうか、そこのところが問題になります。(この稿つづく)

(H28・10・21)


○国立劇場開場50周年・その2

ところで昭和41年(1966)11月の国立劇場開場公演の筋書には「国立劇場における歌舞伎公演はどんな方針でおこなわれるか」という記事があって、そこに七つの方針が掲げられています。劇場創建に係った方々の理念・意気込みがよく分かって、とても興味深いものです。七つの方針のポイントだけを記しておきますが、1)原典を尊重した上演、2)通し狂言を心掛ける、 3)意欲的な復活狂言を試みる、4)演出を努めて観客に分かりやすいものにする、5)配役は適材適所を旨とする、6)役者の仕勝手を排除し演出を統一化する、7)伝統的な歌舞伎の技法を基盤とした新作上演にも努める、というようなものです。

この50年を通覧してみると、見取り狂言が多くなった時期もあったし、これを国立でやる意義があるのだろうか?と思うような上演もなくはなかったけれど、まあ紆余曲折もありながらも、大筋では七つの方針を守りながら運営がされてきたのだろうと思います。思えば今は「四の切」(「義経千本桜」)・狐忠信の定番の如くとなっている
澤瀉屋の宙乗りも、最初に行われたのは昭和43年4月の国立劇場でのことでした。近年の上演では「伊賀越道中双六」通し(「岡崎」を含む)(平成26年12月)であるとか、「神霊矢口渡」通し(平成27年11月)とか歌舞伎座ではこれからも決して上演されないだろうと思える演目も上演されました(いずれも吉右衛門主演)。「絵本合法衢」(平成24年4月・仁左衛門主演)のようにその後大阪松竹座の本興行で再演された演目もありますから、国立劇場もなかなか頑張っていることは大いに認めて良いと思います。

吉之助が思うのは、松竹さんは長期的な観点から国立劇場との連携を真剣に考えるべきだということです。つまり役者の貸し出しということですがね。 松竹から貸してもらえる役者が決まってからでないと企画が決まらないようです。これじゃあ意欲的な企画は立てようがありません。50年前の国立創建時だと、映画・テレビに観客を取られて歌舞伎が落ち目の時期でしたから 、何となく補完関係が成立していたと思います。近年の歌舞伎ブームの状況では、人気役者を国立に貸すのが惜し くて仕方ないと云う感じが露骨に見えます。どうも 松竹は目先の算盤のことしか考えていないようです。松竹の本興行ではなかなか実現できない演目(配役)を国立で役者に経験してもらうとか、国立で成功した演目を歌舞伎座へ持って行って本興行のレパートリーを増やすとか、若手に修業がてらいろんな演目や配役を 経験してもらうとか、そういう太っ腹なところを意識して持って欲しいと思うのですがねえ。そうなれば長い目で見れば結局、松竹のためにもなるのです。今や歌舞伎は世界の無形文化遺産なのであるし、伝統芸能の木の幹を太くするために、いい意味において国立劇場を使うという戦略を持ってもらいたいものです。そういうことならば国立劇場側だって大歓迎ではないかと思いますが。

(H28・10・10)


○国立劇場開場50周年

国立劇場が開場したのは、昭和41年(1966)11月のことで、開場記念の演目は2か月続きでの通し狂言「菅原伝授手習鑑」でした。それから50年経って、今月(10月)から開場50周年記念公演のシリーズが始まります。思い出すに、吉之助が初めて国立劇場公演に行ったのは昭和48年(1973)7月の歌舞伎鑑賞教室でのことで( これは学校団体で行ったのではなくて個人で行ったのですが)、これは開場6年半くらいのことだったわけです。当時は吉之助はまだ高校生で、吉之助にとってこれが歌舞伎初観劇ではなかったのですが、当時の吉之助は歌舞伎をほとんど知らなくて、これが歌舞伎十八番の内だというので多分これは演目として見ておかなきゃならないものなのだろうということで勉強のつもりで見に行ったのです。後で「忠臣蔵」も「千本桜」も歌舞伎十八番ではないのを知って「へーそうなの、なんで?」と思ったくらいです。演目は十二代目団十郎(当時は海老蔵)の粂寺弾正による「毛抜」でした。他愛ない 芝居だなあと思ったけれど、面白かったですよ。前座の「歌舞伎の見方」の解説は半四郎であったと記憶します。まあそういうところから吉之助の歌舞伎観劇も始まったわけですね。

それにしても吉之助もかつてお世話になったように、歌舞伎鑑賞教室で初めて歌舞伎を見た学生・若者は50年通算すると相当な数にのぼります。国立劇場の活動の大きな柱が日本文化に親しんでもらう・あるいは伝統芸能の啓蒙ということにありました。それは地道な活動ではありましたが、着実に成果を挙げて来たと思います。このことは国立劇場の50年の功績として高く評価されるべきものと思います。 昭和40年代の歌舞伎は興行的にはどん底期でしたが、現在の歌舞伎隆盛に、国立劇場の努力も一役買っているところはあると思います。

現在の吉之助はビジネスマンとしての仕事があるので、歌舞伎興行のすべてをフォローしているわけではなく、どうしても観劇は歌舞伎座が中心になります。昔と比べると国立劇場へ足を向ける回数が減ってはいますが、通し狂言であるとか、 復活もの、松竹がいろんな理由があって上演しない(できない)取りこぼした演目を拾い上げるとか、国立劇場に期待したい役割は、これからますます増えて来ると思います。まずは今月から3ヶ月掛けての「仮名手本忠臣蔵」通しを期待したいと思います。

(H28・10・2)


○役の仁と、役者の仁

一年前のことになりますが、別稿「歌舞伎の仁について」 で歌舞伎の仁(ニン)について考えました。役の仁と、役者の仁と、ふたつの要素があると思いますが、歌舞伎の特殊なところは、役者の仁に重きを置くところです。どうしてこうなるかと云うと、初期の歌舞伎は上演する度に狂言作者が役者の個性・雰囲気に合わせて役を書き変えたものなので、当然その役は役者の仁にぴったりしたものになったわけです。 当時は、役の仁と、役者の仁が重なっていました。しかし、やがて演目が固定して同じ役を多くの役者が演じるようになって来ると、必ずしもそういうわけに行かなくなってきます。どうしてもイメージの齟齬が出て来る。前の役者が当たり役にして・観客にそのイメージが強く残っている役であると、前の役者と印象が似たようでないと観客が許さないことがあるものです。だから昔の役者はちょっとでも仁が違うと思うと、その役を演じることを躊躇したもので した。そんなことが積み重なって、歌舞伎のなかでこの役はこんな感じという漠たるイメージが徐々に出来て来る、そんなこともあるものです。そのようなものが歌舞伎の歴史が作りあげた役の仁でした。

ただし歌舞伎の役の仁というのは、さほど厳然としたものではないのです。そこに客観的かつ絶対的な基準などないのです。多くの場合、それは一世代前か・せいぜい二世代くらい前の役者のイメージを追っています。「七代目幸四郎のようでないと弁慶とは言えないよ」、「二代目松緑の弁慶と比べれば、今の役者はなってませんね」というようなものです。(吉之助も二代目松緑の弁慶は見ましたけどね。)その人にとっては、その昔に見た舞台が弁慶という役のイメージとして絶対的なものです。ただしその人にとっては・・ということです。そこに真実がないとは言えません。古老の言うことは参考として聞いておきましょう。しかし、そういう言い方は、七代目幸四郎とか二代目松緑とか過去の役者の仁と、弁慶という役の仁とを混同してはいませんか?ということも、ちょっと疑ってみた方が良いのです。弁慶の性根の置き方だって、いろんな可能性があるはずです。別の役者が演じるならば、別の可能性がある。 もちろん伝統に対する尊敬は決して忘れてはなりませんが、役作りの可能性を認めなければ、弁慶を演じても過去のイメージをただなぞるだけになりますね。

だから「○○は弁慶の仁でない」という決め付けた言い方は、いわゆる芝居通の会話にはしばしばあるものですが、あまり良い言い方と思えません。役の仁と役者の仁とを混同しており、役者に対してフェアでない言い方です。確かにその昔は役の仁と役者の仁は重なっていたかも知れないが、歌舞伎も現代の演劇思潮の 上にあるのですから、もうこれをはっきり分けて使うべきです。もうそういう時代になっていると思います。「○○の仁に弁慶はぴったりはまる役ではない」という言い方ならば、役者の仁に重点を置いた表現になります。これならば歌舞伎の仁の議論として納得できます。付け加えますが、吉之助は言葉をいじくっているつもりはないのです。吉之助は批評家ですから、 仁という語句の使い方には十分気を付けているつもりです。吉之助の師匠である武智鉄二は厳しい言葉で役者を批判することがありました(このことは批評家武智の 良くない点でした)が、武智も「○○は弁慶の仁でない」という書き方はしなかったと思います。

先日ドイツの名歌手ディ‐トリッヒ・フィッシャー=ディースカウのインタビュー映像を見ていたら、彼がとても興味深いことを語っていました。歌手としてのF=ディースカウの本領はシリアスな役どころ、悲劇にあると思います。冗談ばかり言って不真面目なファルスタッフ は、F=ディースカウの仁からもっとも遠い役だと言えそうです。1966年ウィーン国立歌劇場での上演(ヴィスコンティ演出、バーンスタイン指揮)のためにファルスタッフの打診を受けた時 には、本人も最初やる気がしなかったそうです。しかし、ファルスタッフを演じてみてF=ディースカウは或る体得をしたと 云います。

『オペラでの俳優兼歌手の問題は複雑だ。対立するふたつの要素、ひとつは天賦の声、もうひとつは私も悩む様々な役柄。演劇俳優ならば容姿や年齢に即し役を与えられる。ところが私たち(オペラ歌手)の場合は、役は声域次第だ。役に向かい、 役に成り切る為には、ブレヒト流に言うと、「異化」しなければならない。ドン・ジョヴァンニをやるのに、彼になり切る必要はない。

ディ‐トリッヒ・フィッシャー=ディースカウ:秋の旅~シューベルト・リサイタル [DVD]

ベルトルト・ブレヒトの演劇概念・異化とは、慣れ親しんだ日常的な事物を奇異で非日常的なものとして表現するための手法のことです。役者は単に役になりきるのでなく、 特徴的な身振りを見せることで役を示します。ブレヒトはこのことを「俳優がある人物を引用する」と言っています。このことは歌舞伎だって、同じことではないでしょうか。「九代目団十郎の弁慶か・弁慶の九代目団十郎か」という現象は、ここから起きるのです。

(H28・9・20)


期待の若手ピアニスト・反田恭平のこと

先日(8月31日)に期待の若手ピアニスト・反田恭平(そりたきょうへい)のピアノ・リサイタル(浜離宮朝日ホール)を聴いてきました。反田は現在22歳で・まだまだ駆け出しですが(モスクワ音楽院の学生だと聞いていたが、今もそうなのかね)、このところめきめきと評判をあげているピアニストです。最近はマスコミへの露出も増えているようです。吉之助が反田を知ったのは一年ほど前で、まったく偶然に・ほとんど期待もせず・銀座の山野楽器の視聴コーナーでリストのCDをちょっと聴いて、その打鍵の強さと指遣いの巧さ・響きの美しさに驚いて、「これは誰だ?」と改めてジャケットを見直したら、それが日本人の若手ピアニストだったのを知ってまた驚いてしまいました。それが反田恭平だったわけです。そういうわけで吉之助のなかに反田恭平という名前が強烈にインプットされました。その後、反田は何回かリサイタルを持ったようですが、吉之助は聴けず、この度やっと彼の生演奏を聴けたというわけです。

反田恭平のデビューCD:「リスト

反田のピアノが素晴らしいのは、まずは打鍵の強さ、音の粒がよく揃っていて、硬質の珠が転がすような指遣いが出来ることです。このリストの録音では、ホロヴィッツの愛用したピアノを使用したそうですが、響きを聴くとなるほどそのおかげかと思うことは確かにあるにしても、逆に言うと鍵盤をあれほど軽いタッチで調整した名器を確実にコントロールできているというのは、実に驚くべきことなのです。テクニックは日本人離れしていると思います。

そこで先日のリサイタルのことですが、今回の浜離宮朝日ホールでのリサイタルは三夜連続、それぞれに「ドイツ」・「フランス」・「ロシア」とテーマがあって、それに似合った曲がプログラムされています。吉之助が聴いたのは、第2夜「フランス」です。最初のプログラムのリスト(詩的で宗教的な調べ・第7番:「葬送」)は、冒頭から打鍵強い響きで勢いあって、なかなか良かったと思います。ただCDで聴いた印象と違って、いくらか響きが濁って 聴こえましたな。これはピアノのせいじゃなくて、ちょっと勢いが付き過ぎでタッチが甘くなったかなと思います。ほんのコンマ1か2くらいの差なのですが、音符を完全に弾ききるまで指を保てるかということです。生演奏はそこが辛いですね。中間プロのショパンの三曲は、これは仕方ないことですが、若さがちょっと露呈したと云うか、まだ課題が多いなあと思います。テンポが遅い場面では響きが美しく、抒情的な雰囲気を表出してましたが、全体的な設計がまだしっかり出来ていないようです。スケルツオ第2番は後半が苦しそうでしたし、アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ も、まだ曲を十分把握できていないなあという感じがしましたねえ。それとショパンの場合には細かいフレーズでテンポの揺れが表現できないと、イン・テンポではショパンの様式の面白さが出ないと思います。やはり今の反田には、リストが一番似合っているようです。リストはストレート一本でも勝負できますから。ショパンはそういうわけには行きません。吉之助は反田が将来はショパン・コンクールでも狙ってくれないかと期待しているのですが、その時はテンポの緩急が鍵ですからね。これは優れた教師についてショパンの様式について習った方が良いです。モスクワには良い先生いるだろうになどと思いながら聞いておりました。 まだ若いのだから、そんなものはどうにでもなることです。最後のラヴェル(夜のガスパール)は第1曲・「オンディ―ヌ」の響きが精妙でなかなか良かったです。第2曲・「絞首台」はちょっともたれたかも知れません。第3曲・「スカルボ」は彼の技巧が生きていました。いずれにせよ反田恭平は才能豊かなピアニストであることは疑いなく、吉之助としては先物買いということで、応援して行きたいなあと思っているのです。 今後の成長を期待しています。

ところでこれは日本の音楽界では初めての試みではないかと思いますが、レコード会社とのタイアップで、リサイタルの前半部分の演奏をライヴ録音して・即席でCDに仕上げて・演奏会終了後にお渡しします(パンフレット付きで3千円)ということをやってました。これは結構売れ行きが良かったようです。吉之助は買いませんでしたけど、その日のお客しか手にできないレア・アイテムということですから、これを欲しがるファンは多いだろうと思います。さすが若いだけあって、頭が柔軟・というか商売お上手だなあと感心いたしました。この試みは多分どんどん拡がって行くでしょうねえ。

(ちなみに当日のプログラムは下記の通りでした。)
リスト:「詩的で宗教的な調べ」〜第7番「葬送」
ショパン:ノクターン第17番ロ短調作品62−1
ショパン:スケルツオ第2番変ロ短調作品31
ショパン:アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ
ラヴェル:夜のガスパール

(H28・9・10)


○歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ・その4

吉之助は外国からのお客様に「俊寛」を見せたことがありますが、とても喜んでいただけました。「俊寛」が喜ばれるのは何となく分かりますが、予備知識なしで外国人に「寺子屋」を見せるとなると、吉之助もちょっと不安を感じてしまいます。 身替りのドラマを分かってくれるか。「主人のために自分の子供を犠牲にするとは何て理不尽な芝居だ」と言われないか。しかし、どうやらそれは杞憂であるようです。「森の学校」ベルリン上演の新聞批評を見ると、封建主義だとか主従関係とか忠義とか名誉とか恥だとか「寺子屋」の表層的なプロットを飛び越えて、ドイツ人 がドラマの本質を しっかり掴みとっていることに驚いてしまいます。アブラハムやアガメムノンの犠牲を引き合いに出すのにびっくりするかも知れませんが、これは「寺子屋」を強引に自分の方に引き寄せて・我流な受け取りをしているということでは 決してありません。彼らはピュアな感覚で「信仰」の意味を自らに重ね合わせて、素直に涙しています。もちろん ドイツ人は天神信仰なんて知りません。それでも松王夫婦の犠牲は何か貴い行為であることを、彼らは確かに感じ取っています。

伊藤道郎の「「忠臣蔵」を見て「何て馬鹿なことをするんだろう 」と言ったアメリカ人が「寺子屋」では泣いた」という証言も興味深いですねえ。多分筋立てのせいだと思いますが、「忠臣蔵」の場合には仇討ちする登場人物の追い込まれたドラマ設定が外国人の方に身に詰まされる状況として直截的に伝わって来ないのでしょう。観念的な要素が理解を阻害するのです。しかし、「寺子屋」の場合は、松王夫婦の悲嘆の涙によって、彼らの置かれた状況が視覚で観客に直截的に伝わります。このことは「熊谷陣屋」にも言えます。ですから 筋立ての具合でドラマの主題が外国の方に伝わりやすいものと、そうでないものがあるのだろうと思います。親子の愁嘆、あるいは心中物の男女の愛の死の方が、主題がストレートに伝わって、余計な説明を必要としないのでしょう。このことは、今後海外で歌舞伎公演でどんな演目を選ぶ為の、良いヒントを与えてくれます 。

最近の海外での歌舞伎公演演目を見ると、「まあどうせ外国人には細かい筋なんか分かりっこないし、隈取と派手な色彩で理屈に抜きに見た目で楽しませてやれば、それで十分 さ」という感じに見えますねえ。いや別に「獅子王」(先日の染五郎のラスベガス公演)のことを言っているわけじゃないです。そういうのも良いですが、芝居の内容で勝負を掛けてやろうという気概を持って欲しいと思うわけです。歌舞伎は、内容にもっと自信を持って良いと思いますがねえ。

(H28・9・3)


○歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ・その3

吉之助は現時点でその舞台を見たわけではないので断言はしかねますが、ふたりの作曲家の「寺子屋」のオペラ化した経緯を知れば知るほど、国境や時代背景を越えて、西欧で「寺子屋」のドラマの本質が驚くほど正しく理解されていることに、或る種の感動さえ覚えますねえ。例えば1908年のベルリンでの「森の学校」での新聞評では、松王が息子小太郎を身替りにしたことを、アブラハムが神のために息子のヤコブを捧げ、アガメムノンが自分の娘を犠牲に捧げたことと比較されています。まったく初めての事象に出会った時に、人は自らの知識経験を取っ掛かりにしてこれを理解しようとする しかないのは当然です。ここでは、西欧の故事来歴のなかから、まことに適格な事例が選択されています。

ちなみに吉之助は「
武士道における「義」を考える」(これは2004年、もう12年ほど前の論考になります)のなかで、「熊谷陣屋」のドラマを西洋人に理解してもらうためには、アブラハムが神のためにこ息子のヤコブを捧げる(ただしその直前に神により制止される)旧約聖書の逸話を引いて説明することが最も良いと書きましたが、まさにその通りでしたね。

現代日本での歌舞伎批評を見ると、「寺子屋」(あるいは「熊谷陣屋」)は主人のために家来が我が子を身替りに差し出すことことへの、親の苦悩・悲嘆を描いた悲劇、つまりこれは封建制度への批判・忠義への批判だという論調が多いと思います。もちろんこれは的を射てないわけではないです。それで一応説明は付きます。ただし、これは現代が民主主義の時代ですから、「主人だろうが家来だろうが同じ人間だ・人の命に重いも軽いもあるものか」という考え方から来るものだとも言えます。ある劇評家などは、管秀才が「われに代はると知るならばこの悲しみはさすまいに、可愛の者や」と言うことについて、「お前のために周囲の者が苦労してるのに、気楽なこと言いやがってと頭に来る」と書いていました。吉之助はこれを読んでのけぞりましたよ。こういう方は、昔の日本にかつてこんなことを考えて行動した人が居り、そんなドラマを見て感動して涙した民衆がかつて居たことが、愚かで恥ずかしいことだとしか感じないのでしょう。それで忠義批判という、民主主義の時代に相応しい・新しい「寺子屋」の読み方を見付けたということですかね。まあ解釈は如何ようにしても個人の勝手ですが、吉之助に言わせれば、封建主義だとか主従関係とか忠義とか名誉とか恥だとか、「寺子屋」の表層的なプロットだけ見てそれでドラマを判断するからこういうことになるのです。もっとドラマの本質的なところを見なければなりません。

それでは「寺子屋」のドラマの本質的なものとは何でしょうか。それは「私には守らなければならないものがある」という強い心情です。ただし、これだけではドラマになりません。ドラマにするには行為がなくてはなりません。そして気持ちの揺れがなければなりません。歌舞伎というのは近世(プレ近代)のドラマなのですから、大事なことは「守るべきものを守るために私は一番大事なものを犠牲にしようとしていますが、教えてください、私がしようとしている行為は正しいでしょうか、それとも間違っているでしょうか」という気持ちの揺れです。 それに加えて、謙虚さということを挙げておきたいと思います。念のために申し上げますが、これはすわわち「懐疑」ということですが、犠牲の不当を訴えているのではありません。忠義を否定しようとしているのではない。自分の行為が正しいことの確証を求めているのです。懐疑というのは、自分が信じて行なう行為の意味をなんども問い直すという行為です。だから、それは信仰の行為と言って良いものです。

ちなみに日本ではニーチェの「神は死んだ」と云う言葉を西欧における神の存在否定だと思っている方が少なくないようですが、それは違うのではないでしょうか。これは懐疑です。神が否定されているのではない。信仰という行為の意味が何度も問い直されているのです。懐疑ということがまことに近代西欧的な感覚だということが分からなければ、19世紀西欧芸術は理解できません。だから「寺子屋」に懐疑があるということが、歌舞伎が近世(プレ近代)のドラマであることの証になるということです。1908年ベルリンでの「森の学校」の舞台を見たドイツの批評家は、このことを実に正確に読み取っていますね。(この稿つづく)

(H28・8・28)


○歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ・その2

1910年頃のドイツで、オルフやワインガルトナーが一体どのような経緯で歌舞伎「寺子屋」という題材を知ったのでしょうか。吉之助が最初に想像したのは、もしかしたらその頃に日本のどこかの劇団が歌舞伎の演目を持ってヨーロッパを巡演したようなことがあって、オルフらはそれを見たのかなということでした。しかし、調べてみると事実はそうでなくて、とても興味深い経緯をたどっています。以下大塚奈奈絵氏の調査報告を基にオペラ版「寺子屋」が生まれた経緯を記します。

明治に長谷川武次郎という人物が出版業を営んでいました。長谷川は明治18年(1885)から「日本昔噺シリーズ」という「ちりめん本」を作って好評を得ていたそうです。ちりめん本というのは、和紙に木版多色摺で挿絵を入れて横文字を印刷し、これを圧縮してちりめん状に仕立てた 和綴じの本のことです。風合いが絹織物の縮緬に似ていることからちりめん本と呼ばれ、外国人に喜ばれたそうです。ちりめん本は英語・ドイツ語など数か国版が作られました。このちりめん本で儲けた長谷川が、明治33年(1900)にパリで開催された万国博覧会に大型ちりめん本を2冊出品し、そのうちの1冊が帝大教授カール・フローレンツがフランス語に翻訳した「Terakoya寺子屋」でありました。これがとても好評で、続いて 安価なドイツ語版が出版されました。この本には「寺子屋」の他に「生写朝顔話」の「宿屋」の段が収録されています。

吉之助は内容を確認してるわけでないですが、フローレンツ訳は丸本より歌舞伎台本の方を参考にしているようです。寺入りで千代が扇子を忘れる場面があるそうです。 これは歌舞伎ではよくやる入れ事です。有名な「せまじき者は宮仕え」の文句はないそうです。この文句は明治期の歌舞伎上演では省かれることがありました。竹本の部分は原文から離れて自由に訳したようで、 いろは送りがないようです。ここは外国語でそのまま訳したら面白味が分かりませんね。そのような異同はありますが、全体としては原作(歌舞伎)の筋を概ね忠実に追ったものであると思われます。

このフローレンツ訳のドイツ語版ちりめん本「Terakoya」が基になって、ヴォルフガング・フォン・ゲルスドルフのドイツ語劇「Terakoya:Die Dorfschule(森の学校)」が作られたようです。(出版された脚本に、フローレンツへの謝辞が記されている。)つまりこれは日本人による上演ではなく、ドイツ人によるドイツ語による「寺子屋」上演だったということです。森の学校という題名は、舞台が京都郊外芹生の里の寺子屋ということから来たわけですね。役名・大筋は歌舞伎とほぼ近いものであったようです。初演は1907年2月22日ケルン市立劇場でした。この上演 が好評で、その後各地で上演がされたようです。1908年10月ベルリン・ドイツ劇場での上演では、当時当地に滞在していた劇作家中村吉蔵が、劇場支配人から大使館経由で「なるべく日本の風俗、人情にそむかない上演にしたい」と頼まれて、アドバイスを行なったそうです。当時の新聞評では、「寺子屋」での子の犠牲を、アブラハムが神のためにこ息子のヤコブを捧げ、アガメムノンが自分の娘を犠牲に捧げたことと比較し、「寺子屋」では両親の煩悶苦悩が観客に良く伝わって来て、真に悲劇的である」と評されました。恐らくオルフやワインガルトナーは、 どこかで「Die Dorfschule」の舞台を見て感動し、そのオペラ化を思い立ったに違いありません。

なおオペラとは全然別の流れになりますが、1910年に英国で発表されたM.C.マーカスによる脚本「The Pine-tree」は、フローレンツ訳ドイツ語版「Terakoya」からの重訳であったようで、これが基になって1916年11月ワシントン・スクエア・プレーヤーズにより英語劇「Bushido」 というタイトルで上演されて、好評を博したそうです。こちらは1900年に米国で出版されて大きな話題になった新渡戸稲造の「武士道」の影響を受けており、家の名誉がより強調されたものになっているそうです。「Bushido」演出を担当した伊藤道郎(舞踊家)は、「「忠臣蔵」を見て「何て馬鹿なことをするんだろう 」と言ったアメリカ人が「寺子屋」では泣いた、キャッキャと騒いでいたアメリカ人観客が涙を流してシーンとしてしまった」と当時の光景を回想しているそうです。「Bushido」はその後も米国各地で上演されたようです。

以上のことは、大塚奈奈絵氏の論考「テラコヤ(寺子屋)、「日本」を発信した長谷川武次郎の出版」(国立国会図書館・月報2011年7・8号)及び同じく大塚奈奈絵氏の論考「20世紀初頭のアメリカにおける歌舞伎「寺子屋」の受容」(日本大学大学院総合社会情報研究科紀要・No.14 (2013), No.15(2014))において詳しく紹介されています。(この稿つづく)

(H28・8・20)


○歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ・その1

吉之助もクラシック音楽を聞いて随分長くなりますが、近頃は音楽雑誌もあまり読まないので情報に疎くなってきたようです。先日ネットでパラパラと検索してたら、オペラ「寺子屋」という文字が偶然目に入りました。あれ日本の作曲家の新作オペラかな?と思ってよく見たら、これがワインガルトナーの作曲だというので吉之助は一瞬目を疑いました。指揮者のフェリックス・ワインガルトナー(1863-1942)は戦前はベートーヴェン演奏の大家ということでよく知られた方で、もちろん吉之助も録音は聞いて知ってます(ウィーン・フィルとの交響曲第8番のSP録音は名演です)が、作曲もものしたそうで、彼が1920年に書いたオペラが「寺子屋」だそうです。(正しい題名は「森の学校Die Dorfschule」と言います。)歌舞伎の「寺子屋」をドイツ語のオペラにしたもので、役名もそのまま松王や源蔵が出て来ます。下記のリンクで音声がちょっと聞けますので、興味のある方はどうぞ。ただし音楽は日本風というわけではありません。このオペラは結構評判が良くて、戦前のドイツではよく上演されたそうです。

ワインガルトナー:歌劇「寺子屋」(ナクソスのCD)

さらに調べると、カール・オルフ(1895-1982)にも歌舞伎の「寺子屋」をドイツ語のオペラにしたものがありました。題名は「犠牲Gisei - Das Opfer」と言います。オルフは「カルミラ・ブラーナ」が人気曲として知られた作曲家で、オペラでは「月」や「賢い女」・「アンティゴネ」が有名。本作はオルフが無名時代の1913年(17歳の時)に作曲したもので、その後作曲者自身がお蔵入り させたためにその存在が知られず、2010年2月にドイツのダルムシュタット歌劇場で世界初演がされて話題となったそうです。吉之助はこの情報をキャッチし損なって、今頃知ったというわけ。左の写真はこの世界初演時の上演を録画したDVDのジャケット写真ですが、これは小太郎の遺骸を抱いた戸浪 のようですね。 舞台演出も歌舞伎にとても忠実なオペラ化のようです。(残念ながら吉之助は現在DVD取り寄せ中ですが、在庫がないようで、まだ見ていません。)これも下記のリンクで音声がちょっと聞けますので、興味のある方はどうぞ。 音楽は確かにオルフらしいですねえ。

オルフ:歌劇「犠牲」(ナクソスのCD)




吉之助が興味が湧くのは、その音楽もさることながら、1910年頃のドイツにおいて歌舞伎「寺子屋」がどういう経緯でオルフやワインガルトナーの目に留まりオペラとなるに至ったのかということです。これについては国立国会図書館の主任司書大塚奈奈絵氏が詳細な調査をされており、国立国会図書館・月報2011年7・8号でその論考を読むことが出来ます。以下その引用になりますが・ふたつのオペラの成立過程を紹介し、これに吉之助の考察を加えてみたいと思います。(この稿つづく)
 

(H28・8・16)


○中川右介著・「歌舞伎一年生」

先日或る集りで歌舞伎のお話をする機会があったのですが、だいたい吉之助の話はいつものような具合なのですが、その時のお客さんは歌舞伎を全く見たことのない方ばかりだったので、吉之助 も普段より工夫を凝らしたつもりでしたが、予備知識のない方々に言葉だけで歌舞伎の魅力を伝えることはやはりなかなか難しいものだなあと思いました。そういう時はいろんな難しいことを言わずに、やっぱり「まずは見てみよう」と言うのが一番のようですね。

まあしかし、何にでも約束事は付きもので、敷居はあるものです。
吉之助の場合は、 思い起こせば「知り合いの外国人が日本に来た時に、案内する自分が日本文化のことを何も知らないのでは恥ずかしいなあ」みたいなところが動機で、最初は 半ば勉強のつもりで歌舞伎などの伝統芸能を見始めたので、兎に角見て見ないと何も始まらないという感じでしたが。

今回の会合でのご質問も「歌舞伎はいつでも見られるのですか」とか「歌舞伎で○○屋と掛け声かけるのはあれは何ですか」というようなものが多かったですが、なるほど最初は誰でもそういうことが気になるものなのだなあと思いました。多分吉之助もそういう時期があったのだろうけど、もうすっかり忘れちゃってたわけです。そのような質問 (というより不安と云うべきかも)に対して、やさしく応えてくれる本が必要なのだろうと思います。薀蓄たれる解説ではなくて、「これから歌舞伎を知りたい・でも何となく敷居高そうだなあ・・」という方と同じ目線でお話しができて、素朴な疑問に応えてくれる本です。イラスト・ビジュアルで工夫 を凝らした本は多いけれど、そういう本がありそうでいて、探してみるとこれが意外とないのだなあ。最近出た中川右介氏の「歌舞伎一年生」は、そういう本ですね。

中川右介:歌舞伎一年生: チケットの買い方から観劇心得まで (ちくまプリマー新書)

吉之助は今回歌舞伎の話をして感じたのですが、「これから歌舞伎を知りたい・でも何となく敷居高そうだなあ・・」という方の質問に対して、どうしても吉之助などは学問的に正しく・納得できるお答えを差し上げようと身構えてしまうのですが、必ずしもそうでなくても良いのですね。多分「そうだよねえ、確かに歌舞伎見ているとそういうことが気になるよねえ」という応え方で、質問した方は十分満足なのです。そこにさりげなく薀蓄を交えてみせる、そこのところが、歌舞伎案内人としては大事だということでしょうか。その辺が中川氏はとてもお上手だと思います。吉之助にはとても真似のできないところです。まあ人には向き不向きがありますから、吉之助はこの立ち位置で行かざるを得ないのですが、この本での中川氏の語り口は、吉之助にも教えられるところは多いわけです。 次にどこかで歌舞伎の話をする機会があるならば、参考にしたいなと思います。

(H28・8・11)


○井上ひさしの人形浄瑠璃「金壺親父恋達引」

先日所用で大阪へ行く機会がありまして、何かやってないかと調べたらちょうど国立文楽劇場で夏休み文楽公演が興行中でした。「文楽は面白い演目を工夫するとか集客努力 が足りない」などと批判する政治家がいたりするので、大阪の文楽も難儀なことだと思います。第3部はレイト・ショーということで午後七時からの開演で吉之助としても都合が良かったのですが、行って見ると案外お客の入りが良 かったようで(明らかに地元のお客さんと思われるご年輩が多かった)、集客努力の成果が出ているなあと感じました。大変結構なことだと思いました。演目は井上ひさしの人形浄瑠璃「金壺親父恋達引 (かなつぼおやじこいのたてひき)」で、これを新作と言って良いかは分かりませんが、吉之助不勉強で井上ひさしが人形浄瑠璃を書いたことを知らなかったので、大変興味深く思いました。

この「金壺親父恋達引 ですが、17世紀フランスの劇作家モリエールの「守銭奴」を翻案したもので、昭和47年度(1972)芸術祭参加作品としてNHKラジオで放送されたものだそうで・これが初演になるのかも知れませんが、人形付きで舞台上演されるのは今回が初めてだそうです。まあ吉之助が知らなかったのも、仕方なかったかもね。

モリエールの「守銭奴」(1668年発表)は性格喜劇と呼ばれるもの。性格喜劇とは、強欲とか色欲とか大ホラ吹きとか・人間特有の性格が巻き起こす喜劇というものです。翻案された金壺親父恋達引 を見ると、主人公のアルパゴンを江戸の呉服屋金仲屋金左衛門に、息子クレアントを万七になど人物設定も筋もほぼ踏襲して、井上ひさしの筆はさすがに上手いものです。アルパゴンの金銭に対する執着は、江戸期の(本作での時代は明確ではないが多分江戸後期の)貨幣経済が生み出した拝金主義とそのまま通じるところがあって、そこがとても興味深い。また徳右衛門と行平・お舟が生き別れになった親子だと知れる場面も浄瑠璃・歌舞伎にはよくありそうな設定で、これで如何にも浄瑠璃らしいオチになっているのですが、実はこれも原作「守銭奴」そのままなのです。1668年フランスはルイ14世の治世、アーヘンの和約(ネーデルランド継承戦争の講和条約)の年。この時代のフランスと江戸後期と社会状況を比較してみると、面白い類似が見つかるかも知れませんねえ。

(H28・8・7)


○山の人生・その3

子供たちが父親に「おとうこれで殺してくれ」と言ったという気持ちは、あまりに哀しく、同時にあまりに美しい。 ところで同じような局面を歌舞伎に探すならば、(山には関係ないけれど)それは「義経千本桜・鮓屋」で手負いとなったいがみの権太の述懐のなかで、女房小仙と息子善太が若葉の内侍と六代君の身替りになろうと申し出る場面です。

『この度根性改めずば、いつ親人の御機嫌に預る時節もあるまいと、打つてかへたる悪事の裏。維盛様の首はあつても、内侍若君の代りに立つ人もなく、途方にくれし折からに。女房小仙が伜を連れ、「親御の勘当、古主(こしゅう)へ忠義、何うろたへる事がある。私と善太をコレかう」と、手を廻すれば伜めも、「母様と一緒に」と、共に廻して縛り縄、掛けても掛けても手が外れ、結んだ縄もしやら解け、いがんだおれが直(すぐ)な子を、持つたは何の因果ぢやと、思ふては泣き、締めては泣き、・・』 (「鮓屋」でのいがみの権太の述懐)

小林秀雄が言う通り、ここで「どうしてこの母子はこんなことを申し出たのだろう」といくら言ってみても仕方ないのです。ここに見えるのは、「むごたらしいほどに救いようのない、絶対の孤独と悲しみ」とでも云うべきものです。 そこに余計な感傷がはいる余地がありません。(別稿「文学のふるさと・演劇のふるさと」を参照ください。)

ただし、このままでは文学や演劇になりません。「鮓屋」でも小仙・善太の行為は、いがみの権太の死や時代物の構図のなかに溶けてしまって、母子のピュアな哀しみが よく見えないきらいがあります。「なぜどうして」ということをいくら言ってみても仕方ないものを起点に置くと これ以上の筋の展開が出来なくなるから、作者は母子のことを悲劇の主軸に置かずに、ちょっと脇に置いています。だから「鮓屋」を論じる時に母子の気持ちを正面に論じた論考がほとんどありません。しかし権太の大博打を完成させるためには小仙・善太の犠牲が不可欠であったのですから、権太がその哀しみを共有していることは疑いありません。「 鮓屋」の感動の源はホントはここから来ているのです。(別稿「放蕩息子の死〜権太の死の意味」を参照ください。)

余談ですが、このむごたらしいほどに救いようのない、絶対の孤独と悲しみというものは、「義経千本桜」全体の思想に も深く関わっているものです。それはこの世の無常を想い、人間の業を想う精神へ繋がって行きます。知盛の述懐も、義経の述懐も同じ気付きから発しているのです。だから義経が全然登場しない「 鮓屋」が「千本桜」の一幕になります。 しかし、気付きだけでは演劇になりません。それが思想と行動に発展して行くからこそ知盛も義経も悲劇の主人公になれるのです。

「西海の波に漂ひ海に臨めども、潮にて水に渇せしは、これ餓鬼道。ある時は風波に逢ひ、お召しの船をあら磯に吹き上げられ、今も命を失はんかと多くの官女が泣き叫ぶは、阿鼻叫喚。陸(くが)に源平戦ふは、取りも直さず修羅道の苦しみ。又は源氏の陣所々々に、数多(あまた)駒のいなゝくは、畜生道。今賎しき御身となり、人間の憂艱難目前に、六道の苦しみを受け給ふ。」(「大物浦」での知盛の述懐)

「われとても生類の、恩愛の節義(せつぎ)身にせまる。一日の孝もなき父義朝を長田(おさだ)に討たれ、日蔭鞍馬に成長(ひととなり)、せめては兄の頼朝にと、身を西海の浮き沈み、忠勤仇なる御憎しみ、親とも思ふ兄親に見捨てられし義経が、名を譲つたる源九郎は前世の業、われも業。そもいつの世の宿酬(しゅくしゅう)にて、かゝる業因なりけるぞ」(「川連法眼館」での義経の述懐)

柳田の「山に埋もれたる人生ある事」の逸話を読んで吉之助が感じることは、(恐らく小林も同じだろうと思いますが)必ずしも山のことではなく・人生そのものについて、人が生きるということの哀しみみたいなものです。 一方、柳田の思索が山の人生の方へ傾いて行くのには、やはり柳田なりの山への特別な想いがあるのだと思います。(この稿つづく)

(H28・7・16)


○山の人生・その2

柳田が山人実在説を断念した後の昭和元年(1926年)のことですが、柳田は雑誌に連載した「山の人生」という随筆の冒頭で、法制局勤務時代に見聞した或る殺人事件のことを記しています。恐らく明治30年頃に 実際に起きた事件のようです。山の炭焼小屋で苦しい生活をしていた樵(きこり)の男がいて、その日も炭が売れず糧が得られずに戻って来て、子供の顔を見るのが辛さに昼寝をしてしまった。

『眼が醒めてみると、小屋の口一ぱいに夕日がさして居た。秋の末の頃であったという。二人の子供がその日当たりのところにしゃがんで、しきりに何かして居るので、傍へ行ってみたら、一生懸命に、仕事に使う大きな斧を磨いで居た。おとうこれで殺してくれと言ったそうである。そうして閾の材木を枕にして二人ながら仰向けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして前後の考えもなく、二人の首を打落してしまった。それで自分は死ぬことが出来なくて、やがて捕らえられて牢に入れられた。』(柳田国男:「山の人生」 〜山に埋もれたる人生ある事)

柳田国男 山人論集成 (角川ソフィア文庫)

「山の人生」では、後続の章で神隠しや山姥・山人の話が長く続いて、そこにちょっとギャップというか違和感があります。この樵が山人の末裔だということではない ですから、柳田がどういうつもりでこの逸話を冒頭に置いたのか、その意図を図りかねます。しかし、「山の人生」を読みながら吉之助が感じるのは、すでに柳田は山人説を断念していたわけですから、山間地で暮らす民の厳しい生活を語る逸話をきっかけに、山人というイメージの民俗学的な展開を試みているということかなということです 。あまり成功していると言えない気もします。まだ山人説に未練たっぷりというところも感じられます。

それにしても、この樵の逸話は無用の感傷を拒む淡々とした語り口が、読む者に鮮烈な印象を与えます。このままでそのまま文学にはならないけれども、ここには確かに文学のふるさとの 如くのピュアな感動があるようです。例えば小林秀雄は次のように書いています。

柳田さんが深く心を動かされたのは、子供等の行為に違いあるまいが、この行為は、一体何を語っているのだろう。こんなにひもじいなら、いっその事死んでしまえというような簡単な事ではあるまい。彼等は、父親の苦労を日頃痛感していた筈である。自分達が死ねば、おとうもきっと楽になるだろう。それにしても、そういう烈しい感情が、どうして何の無理もなく、全く平静で慎重に、斧を磨ぐという行為となって現れたのか。しかし、そういう事をいくら言ってみても仕方がないのである。何故かというと、ここには、仔細らしい心理的説明などを、一切拒絶している何かがあるからです。柳田さんは、それをよく感じている。(中略)炭焼きの子供等の行為は、確信に満ちた、断乎たるものであって、子供じみた気紛れなど何処にも現れてはいない。それでいて、緊張した風もなければ、気負った様子も見せてはいない。純真に、率直に、われ知らず行っているような、その趣が、私達を驚かす。機械的な行為と発作的な感情との分裂の意識などに悩んでいるような現代の「平地人」を、もし彼等が我れに還るなら、「戦慄せしめる」に足るものが、話の背後にのぞいている。子供等は、みんなと一緒に生活して行く為には、先ず俺達が死ぬのが自然であろうと思っている。自然人の共同生活のうちで、幾万年の間磨かれて本能化したそのような智慧がなければ、人類はどうなったろう。生き永らえて来られただろうか。そんな事まで感じられると言ったら、誇張になるだろうか。』(小林秀雄:「信じることと知ること」)(この稿つづく)

(H28・7・10)


○山の人生・その1

民俗学者柳田国男がその研究の初期から、民間伝承のなかで山人(さんじん・やまびと)あるいは山姥とか天狗と云われる人々はもともと日本の原住民で、弥生時代に大陸から稲作を行う人々が渡来した後、追われるように山地に逃れた者たち (原日本人)であるという仮説を立てて、これを実証することに意欲を燃やしたことはよく知られています。柳田の出世作である「遠野物語」(明治43年)序文には「国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」と高らかに宣言して、その力強さに驚かされます。しかし、柳田が見出したのは山民(山地民)であって、結果として山人説を実証することは出来ず、自説を放棄せざるを得なくなりました。

吉之助は、柳田の山人説についてはまだよく分からないというのが正直なところです。どこか人里離れたところに文明を拒否し孤高を守って生活している人々がいる(らしい)という 考え方は、どこか現代文明のアンチテーゼを太古に求める甘いロマン主義的感性の産物のように思われなくもありません。19世紀西欧では「ソロモン王の洞窟」(ヘンリー・ライダー・ハガード)のような秘境冒険小説が盛んに出版されたものでした。確かにそういう一面もあるとは思います。しかし、山人は(そのような人々がいるならばの話ですが)我々平地人からすると、想像を絶する・生と死とが隣り合わせの厳しい環境下で生きているわけで、よくよく考えてみると、どうして彼らは平地に下りて来ないのか(ずっと楽な生活ができるのに)、どうして平地との交流を頑なに拒否しつづけるのか。そこから我々平地人が生きることの意味を問い直さざるを得ません。「遠野物語」を初めて読んだ時、吉之助は「願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ」に込めた柳田の意図をちょっと図りかねたのですが、柳田がそういう意図で言うのならば理解はできるなあと思っているのです。(この稿つづく)

(H28・7・6)


 

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