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イーヴォ・ポゴレリッチ・ピアノ・リサイタル・2018


吉之助は、ピア二ストとしてのポゴレリッチの特質は、楽譜に示されたひとつひとつの音をその使命が終わった(と彼が信じる)ところまで・極限ギリギリまで持続して美しく鳴らし切ること、その美学に徹していることだと思っています。音符が示す通りひとつの音を鳴らし切ることは、なかなか難しいものです。それをあまりに強く意識し過ぎると自然とテンポが遅くなってしまいそうです。ポゴレリッチも例外ではなくテンポは人一倍遅い印象ですが、ポゴレリッチの場合は、まるでテンポの遅くなった分を取り返そうとするかのように速い場面ではこれまた人一倍速いのです。(まあそれでも全体では演奏時間はずいぶん長いですが。)そのような速い場面でも、ポゴレリッチはひとつひとつの音の粒立ちが揃って美しさが決して損なわれることがありません。もちろんこれは並外れたテクニックに裏付けられた術です。だからポゴレリッチの演奏はリズムの打ちが深くて、音楽の息遣いが深く感じられます。

超絶技巧を売り物にしているピア二ストは世間に大勢います。しかし、指が鍵盤から次の鍵盤へ移行する時に音を十分に鳴らし切れていないピアニストが少なくありません。だから響きが混濁して結果的にリズムの打ちがどこか 雑な印象になってしまいます。ポゴレリッチの場合は、あまりそういうことがありません。音の輪郭がくっきりと立つ端正な印象なのです。吉之助がポゴレリッチを高く評価するのは、この点です。ただしポゴレリッチの独特の息遣いに付いていくのはなかなか気疲れすることではありますが、まあこれも癖になれば何だか心地良い疲れです。

ところでリサイタル前の普段着姿のポゴレリッチがピアノの前に座ってポローンポローンと指慣らしすることは、以前にも書きました。2010年には単音でポローンと弾くだけだったのが、やがて年ごとに2音になり・そして和音になって、2016年には旋律に近い感じになって、ポゴレリッチのなかにだんだん「流れ」が生まれつつあるようで した。そこに2010年前後には「音楽的に壊れた」とさえ云われたポゴレリッチの精神回復の過程を聞く気がしたものでした。

2016年のポゴレリッチのリサイタルは、巷間この時のリサイタルは評判が良かったと思います。しかし、実は吉之助はちょっと物足りない印象を受けました。ポゴレリッチのなかに「流れ」が生じて来たことは良い事ですが、内面から湧き出してくる ものがあまりに多過ぎて、これをポゴレリッチが自分のなかで十分受け止め切れていないように感じたのです。相変わらずテクニックは素晴らしいし、重低音は迫力あったけれども、威圧的で暑苦しい感じがしました。何よりも吉之助がポゴレリッチに期待しているところの、音の粒立ちがクリアでなく、響きが混濁している印象を受けました。恐らく吉之助の場合は、2010年の「音楽的に壊れた」ポゴレリッチの衝撃が強烈にあって、そこからポゴレリッチへの関心が始まっているので、ポゴレリッチの聴き方が捻じれているのかも知れませんねえ。しかし、あの時は音楽がホントに止まるかと 思うほどで、音と音とがかろうじて繋がって、それでやっと音楽になっているという印象さえありました。音と音の連関こそ音楽だと云うことをポゴレリッチの演奏ほど強く意識させるピアニストはありません。吉之助はそういうアクが強い解釈のポゴレリッチの方が好きなのです。

昨年(2017年)のポゴレリッチのリサイタルも聴きましたが、吉之助の印象は2016年とさほど変わらずでした。出来は悪いということはありませんでしたし、世間の評判はなかなか良かったと思いますけれど、吉之助にはやっぱり物足りませんでした。このくらいの出来ならば何もポゴレリッチでなくても良いという気がしたものです。吉之助が昨年のリサイタルの記事をサイトに書かなかったのは、実はそのせいでした。

しかし、今回(2018年)のリサイタルでは、ポゴレリッチは持前のクリアな響きを取り戻したと感じました。音楽に「流れ」、推進力が出て来ました。しかも音の粒立ちが良くなって、音楽の息遣いの深さが戻って来ました。吉之助が期待していたポゴレリッチがやっと戻って来たことを嬉しく思います。

リサイタル前のポゴレリッチの練習ですが、今年(2018)は明らかに旋律を弾いていました。弱音で指のコントロールを確認する感じで、ゆっくり柔らかく旋律をさらっていました。ポゴレリッチにおいては、音と音の連関が常に重要です。ポゴレリッチのこのピアノ練習を聴いていると、吉之助には次第に音楽が伸びて行く心地がしました。例えば神経細胞(ニューロン)が神経伝達を担うシナプスを伸ばして他のニューロンと繋がって、脳のネットワークが次第に複雑さを増していく、そのような感じで音楽が次第に雄弁さを増していくイメージなのです。これと比べれば2016・17年の時は、まだ音のシナプスが十分伸びておらず、音楽に訥々とした感覚が依然残っているように感じました。しかし、今回は音楽がスルスル伸びていく健康的な感覚が聴こえて来ました。そこにポゴレリッチがやっと戻って来たという印象を持つわけです 。

前半のプログラムは、モーツアルトのアダージョとリストのロ短調ソナタの組み合わせ。後者はポゴレリッチの定番曲目で吉之助も何度も生で聴きましたが、今回はモーツアルトのアダージョ(これもロ短調)を弾き終ってもポゴレリッチは姿勢を崩さず(立ち上がって観客の拍手を受けることをせず)、そのままリストのロ短調ソナタへ繋げるやり方を取りました。このやり方は興味深いものがあります。

何年か前のことですが、ミッシェル・ダルベルトがワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」前奏曲(ゾルタン・コチシュ編曲)を切れ目なしでリストのロ短調ソナタに続けたのを聴いたことがあります。(前曲の最終音と、後曲の冒頭音が同じ音なのです。)この時、ダルベルトはアンコールで続けてリスト編曲の「トリスタンとイゾルデ」愛の死を弾いたのでなおさらその印象が強くなりましたが、この場合であると二曲のロマン性或いは官能性はさらに高められます。

一方、今回のポゴレリッチのモーツアルトのアダージョとリストのロ短調ソナタの組み合わせであると、モーツアルトのアダージョはポゴレリッチの緩急が付いた解釈であるとロマン派に近寄った感じに聴こえましたが、逆にロ短調ソナタの方は純音楽性がより高められて古典的な印象が強くなったような気がしました。そういえばロ短調ソナタは第一主題においては相変わらずの大音量で豪放な凄みのある仕上がりでありましたが、今回の演奏で心に残ったのは抒情的で柔らかい第二主題で、ここにリサイタル直前の練習の成果がよく出ていたのではないでしょうか。ここには音楽が先へ先へと伸びて行く感覚が確かにありました。響きもとても美しく澄んでいます。

後半プロも、前半と対照をなすように作られています。シューマンの5曲の小品から成る遺作変奏が、有名曲である交響的練習曲に先だって・これも切れ目なしで続けて演奏されました。遺作変奏を交響的練習曲に加える場合は曲の配置に議論があるそうですが、冒頭にまとめて遺作変奏を置く例は珍しいようです。冒頭の遺作変奏は静かに湧き上がるような抒情性、ここにはリサイタル直前の練習の成果がよく出ていましたが、切れ目なく交響的練習曲に入って も、この抒情的・幻想的感覚が持続して、音楽がこのまま果てしなく伸びて行くように感じられました。輝かしい終曲に入ると何だかホッと救われた気分にさせられました。

(ちなみに今回来日公演のプログラムは下記の通りでした。)
12月8日サントリー・ホール
モーツアルト:アダージョ・ロ短調
リスト:ピアノソナタ・ロ短調
シューマン:交響的練習曲(遺作変奏含む)
(アンコールなし)

(H30・12・16)




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