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イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その1

クロアチアのピアニスト・イーヴォ・ポゴレリッチは、この数年、吉之助のなかで最も気になる芸術家のひとりです。正直言うと吉之助は 今回(2016年)の来日公演の成果について未だ釈然とせず、考えが整理されていないのです。しかし、恐らく結論が付くのは何年か先のことでしょうから、備忘録としてここに記しておきたいと思います。ポゴレリッチの素晴らしいところは、技巧に裏打ちされた音色の透明感と粒立ちの良さにあると吉之助は考えています。今回、吉之助が聴いたのは12月10日サントリー・ホールでのリサイタルですが、この点において若干物足りないところがあったと感じています。

ピアニストの指遣いは精密機械のようなものですから、ちょっとした精神の乱れでも音色の微妙な狂いとして現れます。 しかし、誰でも身体や気分の好不調の波はあるものです。ホロヴィッツは、1983年に来日した時は医師から処方された薬のせいでコンディションが最悪だったことは有名ですが、吉之助はNHKホールでのリサイタルを 生で聴きましたけれど、確かにミスタッチは多かったけれど、音色の方は相変わらず澄み切って美しかったと思います。ただ、ホロヴィッツの場合でもライヴ録音を数多く聴いていると、音色の微妙な乱れが聞こえるもの がないわけではなく、例えば1967年10月22日ニューヨーク市立大学ホールでのライヴ録音 (60年代は絶頂期と云って良いわけですが)では、響きにどこか普通ではない刺々しい ものが聴こえます。(理由は分かりませんが)恐らくホロヴィッツが神経的にカリカリすることが何かあったのかなと感じます。

吉之助が今回のポゴレリッチに聴くのも同じようなことですが、今回の場合は、内面から湧き出してくる ものがあまりに多過ぎて、これをポゴレリッチが自分のなかで十分受け止め切れていないと感じるのです。ポゴレリッチの最大の美点である音色の透明感と粒立ちの良さは、指先の完璧な制御によって成り立っています。その制御が完璧にできていないと感じるのです。前半プロのショパンもそうですが、特に不満を感じたのがシューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」でした。これは当日のプログラムのなかで吉之助が最も楽しみにしていた曲でした。ここ数年のポゴレリッチはテンポが極端に遅いというイメージがありま すが、今回は 予想に反して高排気量の大型車が轟音を立てて突っ走る印象で、確かに迫力あったことは認めますが、威圧的で、聴いていて熱苦しい演奏でした。何よりも低音が被って音の粒立ちがまったくクリアでなく、吉之助はこんな混濁した響きのポゴレリッチを初めて聴いて唖然としたというのが正直な感想です。もっとも後半プロ(モーツアルトとラフマニノフ)ではやや調子を持ち直したかなと思います。(この稿つづく)

(H28・12・23)


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その2

2010年頃のポゴレリッチは精神的に不安的な状況があり(理由は愛妻の死とか祖国の政情不安とかいろいろ考えられます)、「音楽的に壊れた」という言われ方をされていました。その頃の演奏は極端にテンポが遅く(と言っても早くなる場面もあるのだが、全体的には非常に遅く)音楽に推進力が乏しいとも評されました。ただし、吉之助はひとつひとつの音の連関性・つまり繋ぎ止める力の強さが尋常でないと感じていたので、これを音楽の破壊と捉えたことは一度もありません。むしろたどたどしい歩みのなかから音楽が生まれてくる瞬間を聴く思いがして、これは聴いていてとても疲れる体験でしたが、貴重な体験でした。

ポゴレリッチはリサイタルが始まる直前まで普段着のままピアノの前に座って(これをリハーサルというのか分からないが)ポローンポローンと弾くので、その音を聴くのがお楽しみです。以前はほとんど単音でただポローンと鳴らすだけだったのが、2013年来日時はそれが二音くらいになり、2014年来日時には3音くらいになって、今度(2016)は和音やら少し旋律らしい形が聞こえるようになってきました。こういうものに精神回復の過程を聞くような気がするのは吉之助の深読みなのかも知れませんが、ポゴレリッチのなかで少しずつ「流れ」みたいなものが湧き始めているのだろうと思います。



今回の来日公演の評判をインターネットでさらうと結構評判が良いようで、音楽に推進力が出てきたとポゴレリッチの回復を素直に喜ぶ声が多いようです。吉之助もそれを認めないわけではないですが、吉之助はポゴレリッチの特質が音色の透明感と粒立ちの良さにある(これは彼のデビュー以来変わらぬものと思っている)ので、今回のように混濁した響きのポゴレリッチを聴いてしまうと、これを単純に「回復」と呼んでいいものかどうか躊躇するところがあります。推進力の代わりに、大事なものが置き去りにされた感をちょっとだけ持ちますねえ。響きの彫りの深さが犠牲になっているようです。内面から湧き出してくる ものがあまりに多過ぎて、これらをポゴレリッチがまだ十分整理できていないように思われる。それが響きの過剰・あるいは威圧感になって現れている。特に前半プロのショパン・シューマンに関しては、吉之助にはそのようなことを感じました。

吉之助は12月10日東京のリサイタルに釈然としなかったので、これは何としても17日水戸でのリサイタルを聴かねばならぬと思ったのですが、残念ながら切符が取れませんでした。聞くところでは東京の時よりもかなりテンポが速かった(例えば正確でないかも知れませんが、ラフマニノフのソナタでは32分 くらい(東京)だったのが26分くらい(水戸)であった)そうですが、短期間のふたつのリサイタルでこれほどテンポが異なるということに、吉之助はポゴレリッチの精神的不安定を感じないわけに行きません。テンポは演奏者の年齢・体調やホールの響き具合の状況によって微妙に変わっていくものです。そんなことは50年音楽を聴いている吉之助にとって 承知のことですが、短期間でこれほどテンポが変化するというのは、身体に入っている基調のテンポ感覚・つまり作品に対するイメージが固まっていないということだと断言せざるを得ません。まだまだポゴレリッチは 「回復」途上にあるということかと思いますね。(この稿つづく)

(H28・12・25)


○イーヴォ・ポゴレリッチ来日公演2016・その3

ということで10日のリサイタルについては、テンポが速くなって流れが付いてきたことをポゴレリッチの「回復」だと単純に喜べない気がして、吉之助は釈然としないものが 若干残ったのです(その答えは何年か先に出るでしょう)が、アンコールで弾かれたシベリウスの「悲しいワルツ」はなかなか良い演奏でした。これは2010年のリサイタルで弾いた時とはだいぶ趣が異なっていました。10年の時はピアニッシモが近くの席でも聞き取りにくいくらいの弱音で、ホントに虚空へ消え 去ってしまうかという寂寥感がありました。これも素晴らしかったけれども、今回(16年)の演奏では生きようという願いと云うか、仄かな陽光が差し込んでくる瞬間がありました。やはりポゴレリッチ の精神は確実に健康な方向へ向かっている ことは間違いないようです。

しかし、13日の読売日本交響楽団(オレグ・カエターニ指揮)とのラフマニノフのピアノ協奏曲第2番では、ひとつひとつの音がそれぞれの意味を主張する・これはポゴレリッチらしいところを見せてくれました。魅力的な両端楽章に挟まれた第2楽章は息を持たせるのが難しいところがあるようで・どのピアニストも苦しむものですが、ポゴレリッチはこの第2楽章が息が深くて素晴らしい。じっくりとしたテンポでも音楽がまったく弛緩しない ところが、さすがポゴレリッチです。アンコールにこの第2楽章を繰り返したのも、当然だったかも知れませんね。アンコールでは本番よりも流れがさらに良くなったようでした。オケ はちょっと音は大きいかなというところはありましたが、音を引っ張るポゴレリッチに息を合わせて付いていくのは大変なことですから、オケが歌う場面では伸び伸びしたくなるのはまあ分からないこともありませんね。

(ちなみに今回来日公演のプログラムは下記の通りでした。)
12月10日サントリー・ホール
ショパン:バラード第2番
ショパン:スケルツオ第3番
シューマン:ウィーンの謝肉祭の道化
モーツアルト:幻想曲
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第2番
シベリウス:悲しいワルツ(アンコール)

12月13日サントリーホール
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番
オレグ・カエターニ指揮読売日本交響楽団

(H28・12・29)


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