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高麗屋三代襲名と、新・幸四郎への期待


平成30年(2018)は、二代目白鸚・十代目幸四郎・八代目染五郎の高麗屋三代襲名で始まりました。思えば昭和56年(1981)10月・11月と2月続きで、初代白鸚・九代目幸四郎・七代目染五郎の三代襲名興行が歌舞伎座で行われて、これが実に37年前のことなのですねえ。吉之助はもちろんこの時の舞台はよく覚えています。当時のチラシが手元に残っています 。ご覧の通り 、六代目歌右衛門、二代目松緑、十七代目勘三郎も元気な頃で、懐かしい豪華な顔ぶれですねえ。今の歌舞伎座のチラシはA4版ですけれど、この頃はB5版でした。この時の料金は桟敷席でも10,000円でしたから、物価レベルも相当変わりましたね。三等Bが1,000円か、吉之助はここから襲名披露の舞台を見たわけです。襲名披露狂言では、九代目幸四郎襲名の「勧進帳」と初代白鸚襲名の「七段目」が特に印象深いものでした。それと忘れ難いのは、11月の白鸚襲名の「井伊大老」の舞台ですねえ。この時、白鸚は直弼役を15日まで勤めて休演(代役は吉右衛門)して、これが結果的に白鸚最後の舞台となったものです。これはしみじみとした味わいで良かった。

吉之助も随分長く歌舞伎を見て来たものだなあと改めて思います。まあ歌舞伎を長く見続けていることの楽しみのひとつは、「むかしはこうだったねえ・・」ということ(自慢でも愚痴でもどちらでも)をつぶやけるようになることです。 このために歌舞伎をずっと見続けて来たわけです。若いファンのみなさんも、当代染五郎が十一代目襲名する未来へ向けて頑張って歌舞伎を見続けてください。吉之助も年齢的にはその可能性がゼロでもなさそうだから、頑張ってこれからも歌舞伎を見続けることにしましょうかねえ。

松本幸四郎が歌舞伎史のなかでの重要な名跡であることは今更申し上げるまでもありません。襲名と云うのは、先達の魂を受け継ぐことであり、その名跡が背負うイメージの何某かを背負うことです。襲名披露興行に先だって、昨年12月11日に浅草・浅草寺で行われた襲名祈願お練りも覗かせてもらいました。お練り出発の雷門に現れた新・白鸚が吹っ切れた笑顔を見せたのに比し、唇を噛みしめて緊張した面持ちで新・幸四郎が登場したのは、さもありなんと思わされました。その重圧たるや余人には計り知れないものがあると思います。「幸四郎」というと荒事とか実悪とか、或いは熊谷直実や大星由良助など時代物の重厚な役どころを得意として、線が太く豪快なイメージが兎角付きまといます。新・幸四郎は、今月(1月)の「車引」の松王丸、「勧進帳」の弁慶で線の太い台詞廻しに、その決意のただならぬところを見せてくれました。初日でのNHKの初芝居の生中継の弁慶は、ちょっと発声に力が入った感じがしましたが、まあ幸先良いスタートをしてくれたと思います。


写真は平成29年12月11日、浅草寺参道仲見世通りでのお練り。 吉之助の撮影です。

一方、吉之助は、与三郎や或いは上方和事の役どころ(現・仁左衛門が得意としている役どころ)がこれから新・幸四郎のものになって行くと思います。こういう役どころはこれまでの「幸四郎」の領域になかったものですが、こういう繊細な役どころが「幸四郎」の系譜に加わって行くことになる。これも宜しいことだろうと思います。2月歌舞伎座での「大蔵卿」や4月御園座での「廓文章」がその線で選ばれているわけですが、これから新・幸四郎は、「線が太く豪快」と云うイメージと、「線が細く繊細」と云うイメージと、相反する二つの要素を追わねばならなくなります。これは決して容易なことではありません。吉之助が申し上げたいのは、この相反する要素を無理に演じ分けようとせぬこと、相反する要素に折り合いを付けながら自分なりの「幸四郎」を作って行って欲しいということです。例えば弁慶も、豪快な要素と同時に、祖父・父の弁慶が持つ理知的な要素(つまりそれは近代性ということであり、新・幸四郎が持つ繊細さにもつながるものでしょう)を大事にしてもらたいと思います。それが高麗屋の弁慶ではないかと思います。期待しています。

(H30・1・11)




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