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八代目幸四郎の河内山・十四代目勘弥の直次郎

昭和43年10月国立劇場:通し狂言「天衣紛上野初花」

八代目松本幸四郎(河内山宗俊)、十四代目守田勘弥(片岡直次郎)、四代目中村雀右衛門(三千歳)、八代目市川中車(金子市之丞/高木小左衛門)、二代目中村又五郎(暗闇の丑松/松江出雲守)、二代目中村芝鶴(上州屋後家おまき)、三代目尾上鯉三郎(按摩丈賀)、五代目坂東玉三郎(腰元浪路)他

*本稿は未完です。最新の章はこちら


1)「天衣紛上野初花」の新しさを探して

本稿で紹介するのは、昭和43年(1968)10月国立劇場で「明治100年記念芸術祭参加」として上演された通し狂言「天衣紛上野初花(くもにまごううえののはつはな)」の舞台映像です。主役の河内山を八代目幸四郎、直次郎を十四代目勘弥が勤めます。

「天衣紛上野初花」が初演されたのは、明治14年(1881)3月新富座でのことでした。この時の河内山は九代目団十郎、直次郎を五代目菊五郎が演じました。(ちなみに本作は明治7年10月河原崎座で上演した「雲上野三衣策前(くものうえのさんえのさくまえ)」を全面改訂して、まったく面目を一新したものでした。)この芝居が企画されたのは、この年3月1日から上野で第2回内国勧業博覧会が開催されることになっていたので・このために上京する人々を当て込んだのです。はるばる遠方から東京にやってくる人たちにとって博覧会はもちろんのことですが、芝居見物も重要な目的でした。もう明治14年ですから風俗も大分変わったことでしょうが、ここでちょっと古き良きお江戸の昔をお愉しみ頂きましょうという趣向であったわけです。

もうひとつ大事なことは、この芝居が初演された明治14年(1881)と云う時期のことです。明治10年代は演劇改良運動が最も激しかった時期でした。歌舞伎の荒唐無稽な筋立てを排し、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な芝居を作ることが求められました。そのなかで昔ながらの歌舞伎の旧弊の象徴として糾弾されたのが黙阿弥でした。これに嫌気が差した黙阿弥は、明治14年11月に「島月白浪(しまちどりつきのしらなみ)」を書いて二代目新七を改めて・黙阿弥を名乗って引退宣言してしまいました。と云っても周囲が完全引退を許してくれないので・その後も黙阿弥の執筆は続きますが、遡ってみれば「天衣紛上野初花」執筆最中の煮えくり返った黙阿弥の心中が察せられると云うものです。

ここで吉之助が考えてみたいことは、そのような黙阿弥が煮えくり返った心のうちが「天衣紛上野初花」にどれだけ反映されているかと云うことです。一般に歌舞伎の解説本に書いてあることは、「明治維新以後・散切物やら活歴やら・そんな時代におもねた芝居を書かざるを得なかった黙阿弥が久しぶりに江戸の世話物らしい演し物を書いたと見物は拍手喝采した」と云うようなことです。まあ事実としてはそんなものかも知れないが、それならばそれは黙阿弥が「昔ながらの手法で芝居を書いた」と云うことでしょうか。それでは演劇改良運動の頑固な大先生方をギャフンと言わせることは出来ないはずです。彼らの鼻を明かす為の「新しい要素」が「天衣紛上野初花」のなかに含まれていなければならないと思います。吉之助としては、そこに時代の荒波に抗した老黙阿弥の気骨を見たいのです。それにしては現行歌舞伎でみる「河内山」や「直侍」は、幕末歌舞伎とあまり変わらぬ感触に収まり過ぎていないでしょうか。明治14年に書かれた「天衣紛上野初花」はもう少し新しい感触、つまり大正期に登場することになる二代目左団次の新歌舞伎の先駆ける・どこか新しい感触を備えていても宜しいのではないか。吉之助はそんなことを考えるのですがね。(この稿つづく)

(R6・3・15)


2)松林伯円の写実(リアリズム)

「天衣紛上野初花」は、二代目松林伯円(しょうりんはくえん・松林は「まつばやし」とも)の講談「天保六歌撰」を元に黙阿弥が作劇したものと云うことはよく知られています。吉之助は講談の分野にさっぱり疎いのですが、伯円のことを調べてみると、その軌跡が同時代の黙阿弥とオーバーラップして、まことに興味深く思われました。そこで本稿で伯円のことにちょっとだけ触れておきます。

まず伯円の講談「天保六歌撰」は、明治6年(1873)11月に初めて高座に掛けられたようです。講談はそのネタが初めて高座に上げられた時にどんな内容であったか、厳密なところは分かりません。口演されるたびに内容がどんどん変化・成長していくのが当たり前のものでした。だから狂言作者が講談師のいつの口演を元にしたか・どこが狂言作者の工夫かなど正確な比較検討は難しいようです。ともあれ講談「天保六歌撰」を元にしたとされる黙阿弥の「雲上野三衣策前」(四幕十一場)が初演されたのはその翌年・明治7年(1874)10月河原崎座のことで、この時の河内山は九代目団十郎・直次郎が四代目関三十郎でした。さらに黙阿弥がこれを全面的に改作した「天衣紛上野初花」(七幕十六場)が初演されたのは明治14年(1881)3月新富座でのことで、先に述べた通りこれは内国勧業博覧会のための上京客を当て込んだものでした。この時の河内山は九代目団十郎・直次郎が五代目菊五郎で、大成功を収めたものです。

さて二代目松林伯円は天保5年(1834)に武家の四男として生まれました。芸好きが高じて・養子先を勘当されたり、講談をやろうと入門しても見込みがないと突き放されたり、散々苦労しながら修行を続けましたが、酒と博打が過ぎて女房からも見放され、安政5年(1858)9月半ばの夜、大川に架かる永代橋で身投げしようと・欄干に手をかけてボーッとしていたそうです。その時フト足元を見ると何やら光るものがある。拾ってみるとこれが二分銀で(後年の伯円の話ではそれが二分金に脚色されているそうです)、途端に現実に引き戻されて空腹を感じ、その二分銀を持っておでん屋に駆け込んだ。満腹すると死ぬ気をすっかりなくしてしまった。そこで今後の身の振り方をじっくり考えた結果、伝手を頼って芝居の四代目小団次に泣きついたと云うのです。

伯円は小団次の世話になりながら、小団次の前で口演しながら批評をもらって芸を磨く。小団次の方は伯円の講談が自分の芸風にマッチすることから、講談の劇化を思い立つ。これが黙阿弥の筆によって、例えば「小猿七之助」が「網模様燈籠菊桐」(あみもようとうろうのきくきり)、「鼠小僧」が「鼠小紋東君新形」(ねずみこもんあずまのしんがた)となって芝居に掛かることになります。もともと講談と歌舞伎との関係は深いものがあったのですが、小団次が間に入ったことで、講談のなかの細密な描写が、芝居のなかの細やかな写実に取り入れられていく、またその逆もあるということが起こったのです。互いが影響しあって、写実(リアリズム)の芸風を確立していったのです。

ここで吉之助は黙阿弥のことを考えるわけですが、嘉永6年(1853)秋の・多分月の明るい夜に、黙阿弥(当時は二代目新七)が両国橋から身投げしようとして・かろうじて思いとどまった話と、伯円の身投げの話とがダブってくるわけです。黙阿弥も伯円も、まったく似たような経緯で小団次に絡んでいくのです。この翌年・安政元年(1854)4月江戸河原崎座初演の「都鳥廓白浪」から、黙阿弥と小団次との約12年に渡る提携関係が始まります。(別稿「黙阿弥さんも苦しうござんしたろうねえ」を参照ください。)

こうして世の人は、役者の小団次を「どろぼう小団次」、狂言作者新七を「どろぼう新七」、講談の伯円を「どろぼう伯円」と呼んで、三人まとめて「どろぼう三幅対」と呼んで褒め囃しました。当然小団次を通じて黙阿弥と伯円も親しい付き合いをしたと思います。それにしても巷間の黙阿弥の評伝には伯円関連の記述が異様に少ないように思われますねえ。これを検証することは困難でしょうが、黙阿弥-伯円が作品上で相互に影響しあっていたと云うことは大いにあり得ると思います。

伯円が講談「鼠小僧」を構想した時は、伯円は席の掛け持ちの途中、浅草から山の手まで毎日同じ道を通らず、道筋・風景から、大名屋敷・旗本屋敷、神社仏閣、塀のたたずまい、どぶ板の状態までも、詳細にメモを取り、これを鼠小僧が逃げる道筋や場面描写に生かしたそうです。或る時、弟子の円玉が、盗賊二人が九段坂を上る場面を描写するのに、「神田鍛冶屋町を出て、九段かかり、阪を上り切って御堀について右へ切れて」と語ったのを、高座が終わった後に伯円が呼び止めて、「アンナことじゃあ世話物は読めないぜ、少しも凄みが利かない」と言ったそうです。こう演るんだ、

『牛ヶ窪を左に見て爪先上がりに九段坂を上り、田安の御物見を横ににらんで、御堀について左に切れ番町を出外れると、市ヶ谷月桂寺の九つの鐘が聞こえました。オイ兄い大分空が悪くなった、一降かかるぜ。』

「牛ヶ窪という宜い道具があるじゃアないか」とそう言ったそうです。「月桂寺の九つの鐘」の響きが三次元の空間を醸し出しますねえ。これが小団次の仕込みかは分かりませんが、眼前に情景が浮かんで来る・或る種「映画的」とも言えるような写実(リアリズム)とリズム感、このようなことは幕末の黙阿弥-小団次の提携作にも共通して見られるものだと思います。(この稿つづく)

付記:本稿での二代目松林伯円については、目時美穂著:「たたかう講談師〜二代目松林伯円の幕末・明治」(文学通信)を参考にしています。

(R6・3・30)


3)醒めた写実(リアリズム)

明治維新を目前にした慶応2年(1866)5月8日に四代目小団次が亡くなりました。(これについては別稿「小団次の西洋〜四代目小団次と黙阿弥」を参照ください。)黙阿弥はもちろん・伯円にとっても後ろ盾を失った衝撃は大きかったはずです。後年伯円は周囲に小団次の思い出話をよくしたそうです。しかし、小団次が亡くなった当時の伯円の心境を語った記録は残されていないそうです。逆にそんなところから伯円の気持ちが察せられるかも知れませんねえ。しかし、明治の世になっても「どろぼう伯円」の人気が衰えることはありませんでした。

明治元年(1868)伯円は下谷練塀町(現在の千代田区神田練塀町)に引っ越しました。練り塀とは、瓦と練り土を交互に積み・上に瓦を葺いた塀のことを云い、武家屋敷や寺院の塀によく使われたものです。この時伯円は知り合いから、「おめえの住んでいる家は、もと河内山というお城お坊主の住居だったそうじゃないか。こいつは茶道なんかに似合わない肝っ玉のふてえ男で、ふんづかまって牢屋で一服盛られて死んだそうだ。調べてみたら面白い読み物が出来るかも知れないよ」と言われたそうです。それで河内山に興味を覚えて、出来上がったのが講談「天保六歌撰」なのだそうです。当時は河内山の屋敷の面影がそのまま残っていました。伯円のことですから、当時の江戸の雰囲気なども取り入れながら、綿密な調査を重ねたうえで話を創ったのです。ただし史実の河内山宗春(芝居では「宗俊」とする)が牢屋で毒殺されたのは文政6年(1823)7月のことで・「天保六歌撰」とすると年代が合わないですが、その辺は適宜設定を変えているのです。

市井の小悪党を主人公にした話なので「どろぼう伯円」に如何にも相応しい題材に思われますが、伯円の生涯を調べてみるとちょっと面白い事実に突き当たります。明治5年(1873)の或る日のこと、伯円は東京府庁舎に出頭を命じられました。行ってみると髭をたくわえて洋服を着た高圧的な役人が出てきていきなり「どういうわけでお前のことを泥棒伯円というのか、お前は維新前に賊でもしていたのか」と言ったのだそうです。驚いた伯円が説明をすると、「たとえ講談にせよ賊のことを演ずるは風況上甚だ宜しからざる事である。以来は改心して泥棒をやめたが良かろう」と説教されました。実は明治5年4月、明治政府は教部省を通じて通達を出し、諸芸の関係者が呼び出しを受けていたのです。目的は、日本を近代国家とするために、まずは国民に自分が日本人であることを理解させる、このために芸能関係者に風紀上の指導を行うというものでした。伯円への呼び出しも、こうした政策の一環であったわけです。

この時伯円は「泥棒するところばかり聞けば為にならぬものでしょうが、終いには泥棒は捕縛され獄中で苦しんだ上に重い処罰を受けます。さすれば話をお終いまで聞けば風教上の利益にもなります」と抗弁したようですが、帰り道につらつら考えてみるに、「なるほど開明の世の中に泥棒の異名も面白くない」と思い、「これが改良講談の緒(いとぐち)とはなった」と後年伯円は回想しています。その後伯円は題材を新聞記事に求めてみたり、西洋小説の翻案物などに挑戦したりします。(この辺も、例え不承不承であろうが、散切物や翻案物の芝居を書かねばならなかった黙阿弥と重なってくるようです。)

と云うことは、「天保六歌撰」の最初の口演が明治6年(1873)11月なので、これは東京府庁舎からの呼び出しの後のことです。恐らくこの時点で取材調査は終わっており・講談の構想がかなり出来上がっていたはずです。もしかしたら「天保六歌撰」は前年(明治5年)の東京府庁舎からの呼び出しが多少なりとも影響してないこともなかろうと吉之助には思えるのです。単純に過ぎし日の江戸のノスタルジーを描いたわけではなかろうと思うのです。

例えば、今回(昭和43年10月国立劇場)の通し狂言「天衣紛上野初花」の脚本演出を担当した宇野信夫は、当月筋書の「演出者の言葉」で次のように書いています。

『(従来歌舞伎で演じられる)直次郎は、まことに江戸前のさっぱりとした人間で、いわば色男の英雄みたいな感じがするのであるが、講談での直次郎は、いうところの、イヤな奴になっている。黙阿弥の本は、演じた役者が五代目菊五郎であるし、小意気な男にはなっているけれども、(いつもの「直侍」で出る)蕎麦屋と寮の場以外に出てくる直次郎は、さすがに、ところどころ原本(伯円の講談)の匂いがする。つまり小悪党で、女郎を喰物にする色男である。二幕目の大口の回し部屋で、三千歳が借金で首が廻らないから心中しようというと、直次郎は金で死ぬのはイヤだと言う。そうして、金子市之丞がお前に首ったけなのだから、市之丞に無心をしろとそそのかす。(中略)そんなわけだから、今度の直侍を見て、裏切られたような、夢を破られたような気のする向きがあるかも知れないが、演出者としては、江戸末期に生きていた御家人、何の目当てもなくゴロついていた市井の人間を出してみたい。これは三千歳にもいわれることだ。今までの寮の場だけの三千歳は、美しくたおやかであるが、もともとこの三千歳は借金で首の廻らぬ女郎である。直次郎のようなやくざに惚れるぐうだらな女である。要するに、河内山の大悪党、小悪党の直次郎、くずれた三千歳、この三人を主にして、江戸末期の人間を出してみたいと思っている。』(宇野信夫:「演出者の言葉」・昭和43年10月国立劇場筋書)

このように宇野信夫の目を通して読み取れる伯円の講談「天保六歌撰」の感触は、確かに写実(リアリズム)に違いないが、ノスタルジーに味付けされていないものです。それは伯円の醒めた観察眼に裏付けされています。彼らは幕末江戸の市井のただのちっぽけな悪党に過ぎませんが、煩悩を抱えつつ・それでも懸命に生きている、そのような人間模様を伯円は突き放した筆致で描いたのですね。(この稿つづく)

(R6・4・1)


4)講談と芝居の関係

明治7年(1874)10月河原崎座で「雲上野三衣策前」が初演された時、伯円は「釈(しゃく)の河内山より劇の河内山へ」と記した引き幕を九代目団十郎に贈りました。また明治14年(1881)3月新富座で改作の「天衣紛上野初花」の初演では、今度は団十郎から返礼として「釈の河内山君へ 劇の河内山より」と記した美しいビラが贈られたそうです。伯円は、自分の講談を題材にした芝居だけでなく・関心がある芝居は必ず2回見たそうです。講談のどこの筋を芝居ではどういう風に変えたか・そんなところも含めて、次の新作のための参考にしたのだと思います。伯円は弟子にも芝居を見ることを盛んに勧めたそうです。

黙阿弥が原作である講談「天保六歌撰」のどこをどのように変えたか・どこが違うかを比較検討することは、それなりに意義のあることです。本稿ではそこまでする気はありませんけれど、例えば講談の入谷田圃での金子市之丞と恋人・三千歳とが交わす悲しい逢瀬の場面が、歌舞伎では「雪暮夜入谷畦道」として片岡直次郎と三千歳とが逢瀬を情緒たっぷりに見せる場面に変わる、市之丞は三千歳の腹違いの兄という設定に変わるのを見て、伯円は「なるほど芝居ではここをこのように変えて来たか」と頷きながら見たのでしょうかねえ。そうだとすれば、著作権意識が先行する現代ではこれは考えられないことですが、当時の講談と芝居はお互い切磋琢磨し合う良き関係であったのでしょうねえ。

演劇改良運動が最も激しかった明治10年代に在って、「芝居から荒唐無稽な筋立てを排さねばならぬ」とお上から強制された時、黙阿弥は「芝居は確かに人生の真実を描いている」という信念で以て対抗するしかなかったと思います。真実=史実・事実とは限りません。チョンマゲ帯刀の風俗はもう東京のどこにもありませんでした。明治10年代に生きる庶民にとって、芝居を見て「ああ昔の江戸の世の中の空気はこんな感じだったなあ」と懐かしく思い出せるものが「真実」なのです。そんななかで苦しみつつも懸命に生きる庶民の生き様を、黙阿弥は芝居のなかで描こうとした。写実(リアリズム)に基づいた伯円の講談は、そのための重要な根拠であったと思います。そのような黙阿弥の思いを頑迷な演劇改良論者の先生方さえ否定できなかったと思います。なぜならば芝居の河内山や直侍を見て連日拍手喝采だったからです。観客の支持こそ強い味方です。

明治14年の黙阿弥がそれをはっきり意識して書いたわけではないにせよ、黙阿弥が仔細を尽くして芝居を書く時、本人がそれを意識せずとも、明治14年当時の庶民の「真実」が自然とそこに立ち現れると云うことがきっとあるはずです。名作と呼ばれるものは、常にそう云うものです。これこそ幕末の四代目小団次から、黙阿弥へ・伯円へと引き継がれた「思い」なのです。(この稿つづく)

(R6・4・5)


 

 


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