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若獅子会の「国定忠治」

令和5年5月日本橋劇場:若獅子会公演・「国定忠治」

笠原章(国定忠治)、真砂京之介(川田屋惣次)、佐野圭亮(高山の定八)、安藤一人(清水の厳鉄)、林与一(日光の円蔵・中山清一郎)、中條響子(妙真)他

(若獅子会・結成35周年記念公演)


1)「男心に男が惚れて・・」

本稿は、日本橋劇場で行われた劇団新国劇の流れを汲む若獅子会・結成35周年記念公演・「国定忠治」の観劇随想です。吉之助が歌舞伎を本格的に見始めた昭和50年代には、劇団新国劇はまだ存続していましたが、当時の吉之助が見たのは歌舞伎ばかりで、残念ながら新国劇を見ずに終わりました。昭和62年(1987)に新国劇は解散し、その後残った中堅メンバーが集まって劇団若獅子を結成しました。現在は若獅子会として笠原章が新国劇の流れを継承しています。今回久しぶりに「国定忠治」がほぼ通しの形で上演されるとのことで、吉之助もこの機会を逃すと「国定忠治」を見ないまま終わりそうな気がしたので、今回の若獅子会の公演を見たというわけです。

ご存じの通り、「国定忠治」は「赤城の山も今夜を限り・・」の名台詞が人気を博した新国劇の代表的な演目のひとつで、この場面は或る種伝統芸みたいな「型もの」の雰囲気を残しています。日本民衆の精神史を考える材料としても、「国定忠治」は大事な演目のひとつです。行友季風脚本による「国定忠治」の初演は大正8年(1919)8月・京都新京極・明治座でのことで、この時主役の国定忠治を演じたのは沢田正二郎でした。迫力ある剣劇・いわゆるチャンバラが、大衆に熱狂的に受けたそうです。

ところで話がちょっと横道に逸れますが、昭和14年(1939)の東海林太郎のヒット歌謡曲に「名月赤城山」(作詞:矢島寵児、作曲:菊池博)と云う歌があるのをご存知だと思います。(東海林太郎の歌唱はこちら。)作品の成立経緯はよく分かりませんが、「赤城の山も今夜を限り・・」のセリフ入りのバージョンもあって、新国劇の「国定忠治」・赤城天神山の場からインスピレーションを間接的に受けたものであることは確かなようです。冒頭の歌詞は「男心に男が惚れて・・」と云うのですが、この最初のフレーズで一番大事な音符は何処でしょうか?東海林太郎の歌唱は、「唱歌調」とでも申しましょうか、当時の歌謡曲らしい折り目正しい歌唱でもちろんこれはこれで立派なものですが、もし吉之助が演歌としてこの曲を歌うならば、この音符が大事だなと思う箇所があります。

それは冒頭の「おとこごころ」の第2音、「オコ」で音がキュンと上がる、そこに胸にツンと何かが突き刺さる感覚が表現されなければならぬ、これが多分作曲者(菊池博)の核心であると思います。東海林太郎の歌唱ではそこがあまり強調されないまま平坦に流れている不満を若干覚えますねえ。有名曲なのでYoutubeで他の歌手の歌唱に当たってみると、大抵の歌手はオリジナルの東海林太郎に影響されてそこが十分表現出来ていません。しかし、ひとりだけ吉之助の考え通り見事に歌ってみせた歌手がいます。それが五木ひろしです。(Youtubeでお聞きください。こちら。)第2音はもちろん大事ですが、2音目で跳躍するため第1音で腹にグッと力を込めている、さすがの歌唱です。二字目起こしの基本通りですよ。

普通に考えると冒頭「オトコ」と出る場合、力強い音型を当てそうなものです。ところが作曲者はそこで「オコ」とキュンと上げます。何だか心がツンと締め付けられる感じがしないでしょうか。「オトコはツレえなあ」という感じです。ホントはこの音型は「オナ」の方が似合うくらいのものです。(「オンナ」で歌ってみてください。)そう云う女々しい音型を冒頭の「おとこごころ」にわざと当てている、この発想は並みのものではないと思いますねえ。つまりこの曲は、歌詞では男とか・意地とか・度胸とか云う文句が出て来るけれど、内面は女々しいくらいにセンチメンタルだと云うことなのです。このことは曲を聞けば分かることで、何だかしみじみした寂しさ・哀しさが全体に漂っています。そこに「名月赤城山」がヒットした隠れた要因があるわけです。(同じく忠治ものと云うべき「赤城の子守唄」も同様です。)大正〜昭和前期の大衆の心を捉えた新国劇・「国定忠治」人気の秘密を、そんなところから考えてみたいと思います。(この稿つづく)

(R5・6・1)


2)大衆芸能の思想性

ところが新国劇の「国定忠治」赤城天神山の場を見ると、舞台の上にあるのは義理と人情の丁々発止のドラマで、全然センチメンタルな芝居ではないのですね。「赤城の山も今夜を限り・・」という忠治の名台詞は、精一杯男を張ったところを見せる場面です。それなのに、この場を歌にすると(成立年代の違いはここでは無視します)、「男心に男が惚れて・・」と云うセンチメンタルに胸がキュンと来る旋律になってしまうところが、吉之助にはとても興味深く思われます。

大衆は「国定忠治」のドラマをこのようにセンチメンタルに「オトコってのはツレえ生き物なんだよなあ」という風に受け止めたのです。舞台上に見えるのは、意地と虚勢を張った男のドラマです。弱気になりそうな場面ほど「俺はオトコだ」と虚勢へ走り、最後はチャンバラになる。舞台が描くものと観客が心情的に受け止めたものは、確かに深層水脈で繋がっているのですが、見掛け上かなりのギャプ(乖離)を呈するのです。これが戦乱の時代に突入していく20世紀前半の大衆心理(国のために戦場に赴かねばならなかった男たちのセツない気持ち)と当時の世間の新国劇人気との関係なのでしょうねえ。多分新国劇はその時代との関連があまりにも強いのです。しかし、時代が変わると、心情に共感することが難しくなって来ます。そうするとこれがアナクロニズム(時代錯誤)に映りかねない。ここに現代に於ける新国劇の立ち位置の難しさがありそうです。

まあこういう状況は歌舞伎でも(例えば身替り物や仇討ち物などでは)多かれ少なかれ起こりそうなことです。しかし、歌舞伎の場合は時代(江戸)が現代から程よく離れており「古典」(歴史的遺産)だと思って見てもらえているから助かっていると云うことです。新国劇や新派は、なまじっか時代が近いせいか却って立ち位置が難しそうです。(近年は新劇もそんな感じになりつつあるようです。)ところで映画評論家の佐藤忠男氏がこんなことを書いていますね。

『大衆芸能とは、決して単なる娯楽や暇つぶしではなかったのである。それは弱者が、ある道徳思想を面白い物語に結晶させて広く一般に流布させ、その物語の持つ道徳的規制力によって強者の勝手気ままな行動もあるていどコントロールするという、一種の思想的な戦いの場でもあったのである。(中略)歌謡曲をひとつ取ってみても、やくざ映画をひとつのぞいて見ても、日本の大衆芸能の重要な特色のひとつがメランコリーにあることはすぐわかるが、それは日本人が国民性としてメランコリックだからだろうか?おそらくそうではなく、日本の大衆芸能が(思想的な戦いの場だという)重い役割を伝統的に担ってきたからではなかろうか。(中略)その戦いの唯一の武器は、極力多数の人々にそれに耳を傾けさせるだけの面白さなのである。面白いという以上にはなんの強制力もない芸によって、強者もそれに束縛されないわけにはいかないような、道徳的なイメージを流布させること。大衆芸能の基本的な機能の、少なくともひとつはそれである。』(佐藤忠男:「長谷川伸論」〜芸能と情操における階級闘争、岩波現代文庫、論旨を明確にするために若干文章をアレンジしました。)

「大衆芸能とは一種の思想的な戦いの場でもあった」という佐藤氏の指摘はしっかり胸に納めておきたいと思います。大衆芸能は声高に思想を叫ぶことはしなかったけれど、「オトコってのはツレえ生き物なんだよなあ」というポーズで、さりげなくそれを示したと云うことなのです。(この稿つづく)

(R5・6・3)


3)新国劇の様式性

新国劇の創始者・沢田正二郎は、最初は坪内逍遥が責任者であった文芸協会の第2期研究生として入所。大正元年(1912)文芸協会第3回公演で初舞台を踏みました。その後、紆余曲折あって大正6年(1919)に沢田が劇団を立ち上げた時に、逍遥が沢田に与えた名前が「新国劇」であったそうです。読めば分かる通り、旧国劇(歌舞伎)と一線を画する「新しい時代の演劇」を目指す」という理想を掲げたものです。歌舞伎を旧と見なす考え方は同時代の演劇運動に共通したもので、「新派」も旧派(歌舞伎)に対する「新」派、「新劇」も旧劇(歌舞伎)に対する「新」劇でありました。

しかし、土壌(素地)のないところから新しいものが生まれるはずがないわけで、新派も新国劇も新劇も、理念的には歌舞伎を拒否したところから発していますが、彼らのもっと深いところから発する・感性的な要素ではやはり歌舞伎から多くのものを得ているのです。彼らがそこから逃れることは決して出来ないのです。そうするとこれは皮肉なことなのですが、だんだん感触が或る様式味を帯びるようになって来ます。どことなく歌舞伎っぽくなっていくのです。誤解がないように付け加えますが、これは彼らが理念的に歌舞伎に「負けた」と云うことではなく、「日本人による・日本人のための演劇」であるからには、成熟し古典化していく流れのなかで・これが避けられない「道程」だったのでしょうねえ。新国劇の「国定忠治」赤城天神山の場を見ると、そのことを強く感じますね。

「赤城の山も今夜を限り、生まれ故郷の国定の村や、縄張りを捨て国を捨て、可愛い子分のてめえ達と別れ別れになる首途(かどで)だ。」

行友季風の脚本は、もしかしたら台詞が七五に陥らないように注意深く書いているのかも知れません。巷間誤って流布していますが、「赤城の山も今宵限り」ではありません。正しくは「赤城の山も今夜を限り」です。この違いは結構大事なことなのです。ところが、「国定忠治」が人気作になるに連れて、台詞がだんだん「型」化して・何となくツラネっぽい感触を帯びてきます。昭和末期(昭和55年・1980)の辰巳柳太郎が演じる国定忠治のこの場の映像をちょっと見ましたが、台詞を聴くと、重いなあ・ちょっと重過ぎるなあ・・と感じました。すっかり伝統芸能の雰囲気になっちゃってますねえ。まあ吉之助の記憶では同じ時代の歌舞伎もちょっと重ったるかったのですが、同じような印象がします。基本リズムは二拍子なのだけれど、間合いの取り方で無意識に七と五に近い息に揃えようとするところが見えるようです。(これは現行の歌舞伎役者も新歌舞伎の台詞などに同様の傾向が見られますから、他人事ではありません。)そこに新国劇末期の状況が窺える気がしましたが、本来ここで考えるべき課題は、二拍子のリズムを基調にして・どこまで写実(リアル)の息に近づけるかと云うことだろうと思います。今回(令和5年5月日本橋劇場)公演での笠原章が演じる国定忠治は、この台詞を過度に重ったるくせず・様式とのバランスを取ってなかなか良い出来ではなかったでしょうか。

玉三郎の「日本橋」や「ふるあめりかに袖は濡らさじ」など見ると、新派や新劇の或る種の作品、江戸期や明治初期を背景とする作品群は、いずれ歌舞伎が引き受けなければ上演が出来ない時代が来ると云うことをついつい考えてしまいます。吉之助が今回「国定忠治」を見る気になったのも実はそう云うことで、歌舞伎で新国劇の演目をやらねばならぬ時代は来るかと云うことを考えるためでもありました。この場で結論を出すつもりはないけれども、歌舞伎が守っていかないと残っていきそうにない演劇遺産が膨大にあると云うことを、歌舞伎役者は認識してもらいたいと思いますね。忙しくてそれどころじゃないと言うかも知れませんけど、将来的に歌舞伎に期待される文化的役割は、実は相当大きいものがあると思います。

(R5・6・7)


 


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