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中老尾上と草履打ち〜六代目歌右衛門の尾上

昭和54年3月国立劇場:通し狂言「鏡山旧錦絵」

六代目中村歌右衛門(中老尾上)、三代目実川延若(局岩藤)、七代目中村芝翫(召使お初)、六代目沢村田之助(奴伊達平)、四代目市川左団次(牛島主税、剣沢弾正)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(庵崎求女)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(大姫君)、六代目中村東蔵(侍女左枝)、五代目中村児太郎(九代目中村福助)(腰元松ヶ枝)他


1)「草履打」の実説

本稿で紹介するのは、昭和54年(1979)3月国立劇場での、六代目歌右衛門の中老尾上による通し狂言「鏡山旧錦絵」(かがみやまこきょうのにしきえ)の舞台映像です。ご存じの通り、歌右衛門は尾上を当たり役にして、尾上を12回も演じました。尾上は歌右衛門の芸を語るうえで外せない大事な役のひとつです。この昭和54年3月国立劇場の舞台が歌右衛門最期の尾上となったのは意外なことですが、多分本人はこれで役納めにするつもりなどなく、ただ演じる機会が来なかっただけのことだろうと思います。

なお「鏡山」は現在は「加賀見山」と表記されることが多いのですが、まあこれはどちらでも良いようなものですが、今回の昭和54年国立劇場上演がわざわざ「鏡山旧錦絵」と表記したのは、これを文楽の「加賀見山旧錦絵」と厳密に区別したいと云う意図があったからのようです。「加賀見山旧錦絵」は天明2年(1782)1月・江戸薩摩外記座で初演された人形浄瑠璃作品でした。作者は下谷に住む医者・容楊黛(ようようたい)と云います。この初演が好評で、翌年4月に歌舞伎に移されて森田座で上演されました。その後は上演の度に手が加えられて、現行の形態になるまでに複雑な経路をたどっています。まあそれだけ人気が高かった題材であったと云うことです。一番大きかったのは、文化11年(1814)3月江戸市村座で初演された四代目南北の「隅田川花御所染」(すみだがわはなのごしょぞめ・通称「女清玄」)のなかに、「鏡山」の筋が取り込まれたことでした。この時に原作になかった「花見」の場が新たに付け加えられたり、義太夫が取り払われて地狂言になったりしました。現行歌舞伎の「鏡山」の場割り構成などは、ほぼ「女清玄」から来ているそうです。その後、「女清玄」から「鏡山」の筋だけを抜いて単独作品に再構成された時に、また義太夫(竹本)が部分的に戻されたりして、さらに手が加わえられました。これが天保頃のことのようです。そんなことなので、何が原典だかよく分からん・と云うよりも厳密な意味での原典はないと云うのが正しいのかも知れませんねえ。現行台本成立経緯の分かり難さは、「伽羅先代萩」などと似たようなところがあります。そういう事情なので本稿においては歌舞伎の方を「鏡山」と略記することにしますが、大ざっぱに云うと現行「鏡山」台本では、花見・竹刀打・鳥啼・奥庭が純歌舞伎仕立て、草履打が部分的に・長局が大筋で義太夫狂言仕立てと云う感じでしょうか。

ところで文楽の「加賀見山旧錦絵」の大筋は加賀騒動に取材した御家騒動物で、局岩藤と中老尾上の諍い(いわゆる「草履打」)はそのなかの趣向に過ぎなかったのです。作者としてはこれをひとつの挿話で、大したものと考えていなかったようです。しかし、いざ上演してみると、「草履打」の件がすこぶる評判が良かったのです。そこで歌舞伎の「鏡山」は、次第に「草履打」の話をメインに仕立てた上演へと変わって行ったようです。歌舞伎では3月に「鏡山」・あるいはその類似の狂言を上演するのが通例になりました。「女清玄」に「鏡山」が仕組まれたのも、それが理由です。と云うのは、3月は江戸城をはじめ、大名家の奥御殿に勤める女中たちが、年に一度里帰りを許される月(宿下がりの月)であったからです。彼女たちは普段女ばかりの御殿での窮屈な生活から解放されたいと云うので、憂さ晴らしに競って芝居見物をしたものだそうです。その時、底意地の悪い局に虐められる中老と・その中老の仇を討つ健気な侍女と云うストーリーが大いに受けたのです。

そこで考えてみたいことは、「草履打」・草履で以て相手の身体・顔を打って辱めるという行為が劇的要素としてどれほど重い意味を持つのか、そのような芝居を見て・どうして当時の観客が我が事のように怒るのかと云うことです。「満座で草履で打たれると云うことは恥だ」と云うことは、現代人にも理屈としては何となく分かると思います。しかし、それが身震いするほどの激しい怒りで、もはや生きてはいられぬと思うほどの屈辱なのか?(草履で打たれた尾上は自害してしまいます)と云うと、多分現代人はそこまでの屈辱は感じないのではないでしょうかね。しかし、そこを考えてみないと、江戸期の「鏡山」人気のホントの意味は見えてこないかも知れません。

そこで原作である文楽の「加賀見山旧錦絵」の実説を検討しようと思うのですが、「加賀見山」の本筋である御家騒動の実説(加賀騒動の詳細)については、本稿ではとりあえず関係がありません。関係があるのは、「草履打」の実説です。

「草履打」の実説は、諸説あります。複数の説があるのは、「加賀見山」が人気になって来ると・そのモデルこそ当藩にありと名乗りを上げたものがあったからだそうです。(と云うことは、これはどこの藩ででも起こりそうな事件であったということで、それがこの狂言の人気の元であったと云うことも言えるわけです。)実説として一番有力なものは、太田南畝(蜀山人)の「一話一言」巻38に伝えられた「草履打意趣松田敵討の事」で、享保9年(1724)4月3日、石見国浜田城主松平周防守の木挽町にある江戸藩邸(現在は新橋演舞場がある場所だそうです)で、沢野という意地の悪い局(61歳)が、誤って草履を履き違えた側女のみち(21歳)を草履で打って罵ったために、みちは自害し、みちの侍女さつ(24歳)が沢野を刺して主人の仇を打ったという話で、これが世に「草履打事件」として大評判となったものでした。実説が芝居化されるまでに、半世紀ほどの歳月が掛かっています。(この稿つづく)

(R5・1・29)


2)「鏡山」と「忠臣蔵」

歌舞伎の「草履打」の趣向は、元禄8年(1695)正月・江戸山村座で演じられたのが最初のこととされます。その翌々年の元禄10年(1697)正月・江戸中村座での「参会名護屋(さんかいなごや)」では、初代団十郎が演じる不破伴左衛門が、名護屋山三郎の為に、傾城葛城が山三郎に惚れているか確かめに行くのですが、自分の方が葛城に惚れてしまって、怒った山三郎が草履で伴左衛門を打ちます。伴左衛門は「なぜ剣戟(けんげき)で殺さず草履で打った」と恨みを言って切腹します。絵入狂言本けいせい浅間嶽江戸之部には、「京にて七三郎が浅間嶽に仕組に入れてより大当たりせしより、草履打は浅間が始めのように思ふ人多けれど不破名古屋が最初なり」との記述があります。これから分かる通り、「参会名護屋」以後、「草履打」の趣向が他狂言でも大いに流行りました。

山三郎が伴左衛門を草履で打ったのは「お前には刀を使うほどの価値もない」という侮蔑を込めたものに違いありません。打つことに呪詛の意味合いを含むかとも考えられますが、歌舞伎で「草履打」の趣向が観客にこれほど受けた理由は、むしろ草履で打たれた側の気持ちから読んでいかねばならぬだろうと思います。つまり、打たれた相手が耐え難い屈辱を感じるところがすべての起点となるのです。相手にそうした感情を起こさせるために草履や扇子などで意図的に打擲を加えるのです。「刀を使うのさえ汚らわしい」という扱いをされて死ぬほど悔しい、俺の面目は地に落ちた、この悔しさ・惨めさを如何せん、生き変わり死に替わり恨みを晴らさで置くべきかとなった時、その怒りが観客の心にまで燃え移って、観客が自分の事の如くに怒り始めます。「俺はお前の気持ちが分かるぞ、俺はお前の味方だゾ、この恨みを絶対に晴らすんだ」と観客が叫び始めます。これはかぶき的心情の問題なのです。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)江戸期の観客は「一分(いちぶん)が立つ」・「私(わたくし)が立つ」と言うことをとても大事にしました。江戸っ子は筋が通らないことが大嫌いなのです。私が立たないと感じたら、命を捨てても筋を通さずには置きません。

このような「かぶき的心情」が大きな社会問題になったのは、赤穂義士の討ち入り事件(元禄赤穂事件・吉良邸討ち入りは元禄15年・1702・12月14日のこと)でした。(この事件が上述の「参会名護屋」初演とほぼ同時期であることにご注目ください。これらは共通した時代的心情を孕んでいるのです。)大石内蔵助らの行動には、武士の「一分」を守るという強烈な体面意識が潜んでいました。「四十七士の討ち入りは義挙か・暴挙か」、この問題で江戸幕府だけでなく世間が揺れました。それは仇討ちという行為が「かぶき的心情」の所産であることが誰の目にも明らかであったのに、もしこれを公に否定すれば封建制の精神的支柱である「忠孝」が否定されてしまう、逆にこれを公に肯定すれば封建制度の「法秩序」が否定されるという袋小路に入ってしまったからです。赤穂浪士の討ち入りとは「アイデンティティの強烈な主張であり、自分たちの存在を世間に認知させようとした行為であった」、こう考えることで初めて、赤穂義士たちの行為・世間の賞賛と熱狂・そして幕府の困惑が理解出来ます。討ち入りから47年の歳月が経過してから成立した「仮名手本忠臣蔵」では、こうしたドロドロした熱い要素は或る程度理性的に整理整頓された形で提示されています。別稿「近世的な・あまりに近世的な」をご参照ください。)しかし、現行の「忠臣蔵」の舞台からでも、探せば痕跡が見えて来ます。

例えば「忠臣蔵」・四段目・塩治判官切腹の場は、昔の歌舞伎では「通せん場」と称して、上演中は出入口を閉ざし、劇場への一切の出入りを禁じたものでした。四段目は厳粛な場面です。それは腹を切る判官の悔しさ・無念さを劇場に居合わせた者たち全員が共有し、判官の怒りを我が怒りとし、この怒りを由良助に受け渡すための大事な儀式なのです。

或いは四段目・幕切れの門外での由良助にも、それが見えます。門外で独りきりになった由良助が、懐から主人の形見の血のついた九寸五分を取り出し、「判官の末期の一句五臓六腑にしみ渡り」で刀についた判官の血を舐め、「忠臣義臣の名を上げし根ざしはかくと知られけり」で師直の首を掻き切る仕草をして、その刀を袖に隠すように抱いて泣き上げます。これは寛延2年(1749)江戸三座で「忠臣蔵」が初演された際に、市村座で由良助を勤めた初代彦三郎の型であると云われています。主君の血を舐めるのは、主君の無念の気持ちを我が体内に取り込み主君と同化しようとする行為です。これはまさに歌舞伎役者が台本をかぶき的心情において読み取って、これを視覚形象化したものです。

一方、「鏡山」は、「女忠臣蔵」とも呼ばれることがあります。これは忠義な召使が主人の仇を討ったという相似から来ますが、歌舞伎では意識的に「鏡山」を「忠臣蔵」になぞらえる工夫がされています。例えば尾上役者は、「草履打」で揚幕へ引っ込み・次の「長局」でまた揚幕から出るまで、揚幕の内で待っている間、ずっと合引に腰かけて・俯いて一言もしゃべってはならぬと云う心得がそれです。(これは現在でも守られているようです。)また昔の歌舞伎では、「長局」で尾上が自害すると、役者は死んだままの姿で駕籠に乗せられて(つまり他人に顔を見せることなく)そのまま自宅へ帰ることをした役者もあったそうです。これらは言うまでもなく「忠臣蔵」四段目を強く意識しています。このように役に対して儀礼を重ねるのは、尾上を「忠臣蔵」の判官に・お初を由良助に見立て、尾上の怨念をこの「場」(役者・観客)が引き受けてお初に受け渡す、そのような精神的な儀式を、無意識のうちに行なっていると云うことなのです。(この稿つづく)

(R5・2・2)


3)歌右衛門の尾上の引っ込み

六代目歌右衛門は、どんな役を演っても「私が演るからには・この役が持つ情念をとことん描き出さずには置くべきか」と云う気合いで掛かる役者でありましたねえ。だから演技を引っ張ると云うか・長く感じるところがあったのは事実です。吉之助はそんなピーンと張った緊張感が好きでしたが、まあそれに辟易する観客も少なからずいらっしゃっただろうとは思います。そんな歌右衛門が特に精魂込めてじっくり演じた役を、巷では「歌右衛門三迷長」と揶揄しておりました。諸説あるようですが・それは、「鏡山」の尾上の花道引っ込み、「四谷怪談」のお岩の髪梳き、そして舞踊「隅田川」のことを指します。兎に角長い、長いのです。

そこで「鏡山」で局岩藤に草履で打たれて恥辱を受けた中老尾上がしおしお花道を引っ込む場面のことです。今回(昭和54年・1979・3月国立劇場)もそうでしたが、歌右衛門の尾上は七三まで行って、フト見ると奥の襖の陰から岩藤方の腰元が尾上の様子を窺っています。尾上ははっとしますが、その後も沈痛な面持ちで・一段とゆっくりと・止まりそうな速度で花道を歩みました。これが「歌右衛門三迷長」と云われる歩みです。昭和23年・1948・9月新橋演舞場で歌右衛門(当時は六代目芝翫)が二回目の尾上を演じた時、吉之助の師匠である武智鉄二がこの演技に噛み付きました。(ちなみにこの時の岩藤が初代吉右衛門、お初が三代目時蔵でした。)

「芝翫(後の歌右衛門)でいけないのは、性根場たる草履打の引っ込みで、その古来の演出の意図をまったく呑み込んでおらず、ひいては、尾上の腹に徹していない点が、その最たるものである。打たれたあとの尾上は、もう生きている人ではないのである。形骸は生きていても、無念と口惜しさとお家の大事への憂慮とで一杯になっていて、死んでこの無念を晴らし、大事を御前へ御披露したいと思っている。これはいわば生きている幽霊なのである。だから決して尾上自ら動くということはあり得ない。(中略)いや尾上の花道への引っ込みは、決して引っ込んではいけないのだ。ただ歩むとはなしに七三まで行くのである。そこで奥で敵役一同が笑う。この笑い声を聞いて気を取り直して、ややシャンとして入るのだ。もし敵役が笑わなかったら、尾上はいつまでも一か所で低徊していて、決して引っ込みはせず、したがってこの一幕の幕は切れないのだ。他人が見ているという意識、これが尾上をスタスタ引っ込ませるのだ。ところが芝翫は比較的元気よく七三まで行き、無念の心で振り返ると、ちょうど敵役の一人が襖からうかがっていて、顔を見合わせて襖を閉めるのが幕のキッカケで、そこから改めてソロリソロリのシオシオと引っ込むのである。これではまるで昔の型の真意と正反対ではないか。」(武智鉄二:劇評「復活はしたけれど」・昭和23年11月、劇評集「歌舞伎の黎明」に所収)

後に歌右衛門と対面した時、歌右衛門は武智に「尾上の引き込みはあなたのお説が正しいのです。父(五代目歌右衛門)もそう申しておりました。しかし、ああするようにというご注文なので、やむを得ずそうしております」と言ったそうです。歌右衛門に注文をしたその人の名が語られていませんが、これは誰の目にも明らかなことで、それは初代吉右衛門の指図だったと云うことでしょう。しかし、ここで大事なことは、初代吉右衛門亡き後も・歌右衛門はその引っ込みを止めないで、これを「歌右衛門三迷長」と云われるまでの型にしたという事実です。(注:初代吉右衛門は昭和29年(1954)に没。)

しかし、今回映像で歌右衛門の尾上の花道引っ込みを見直して改めて感じることは、確かに理屈では師匠武智の指摘は正しいのであろうけれど、歌右衛門の花道引っ込みは、映像からでも、尾上の無念がビンビンこちらに伝わってくると云うことです。神経が張りつめた引っ込みです。この尾上はもう怨霊に成り掛かっている、もう次の場(長局)で尾上が生きていることはあり得ない、そう云う印象がしますねえ。奥で尾上を窺う腰元が襖をピッシャリ閉める、これをきっかけに尾上がスタスタ引っ込む(それが従来の型であるわけですが)のが正しいかどうかと云うのは、尾上の無念の性根が正しく描けているのであれば、実はどちらであっても良いことなのです。むしろ答えはそれを演じる者(役者)の身体感覚から発するべきです。「私にはこのやり方しかあり得ない」のであれば、それで宜しいのです。多分、初代吉右衛門と歌右衛門は、尾上の息の詰めの持続・緊張の持続を重視したのでしょう。「長局」冒頭での尾上はもう死んでいる、このことを観客に伝えるために、「草履打」幕切れの緊張を極限まで高いものにして・これをそのまま「長局」へと繋げたかった、これもまた名優の身体感覚から生まれた必然の型であるなあと思うのです。(この稿つづく)

(R5・2・3)


4)尾上と云う女性

長局の場では、浄瑠璃談義にことよせて・お初が尾上に「お気持ちは分かりますが、決して短慮なことをしてはなりません」と暗に諫める場面があります。会話のなかに「忠臣蔵」が登場するところに、尾上を塩治判官のイメージに重ねようとする作者の意図が見えます。

「当り浄瑠璃も多い中に、あの忠臣蔵の浄瑠璃ほど面白いのはござりませぬぞえ」
「ヲヲあの師直づらの憎さ」
「イヤ申し、お前様のお心には塩谷殿の師直へ斬りかけられしそのところは、尤な事に思召しますか、但しまた不了見なことに思召すかサ、何と思召しますえ」
「サレバイノ御短慮にはあったれど遺恨に遺恨を重ねるうへは御尤にもあろかいの」
「イエイエ憚りながら、そりゃお前様の御贔屓口、塩谷殿は大不了見サ何故と御意遊ばせ、大切な身を軽々しく短気にその身を滅し給ひ親御様のお嘆き、イヤほんに私とした事が粗相な塩谷殿に親御はないもせぬものオホホホ、何と思召す家国を亡し奥様はじめ御家中散り散り、たった一人の不了見が千万人の身にかゝって御恩を受けた者どもの歎きのほどはいかばかりと思召すぞいのお情ない、ヲヲあほうらしい何のこっちゃ拍子にかゝってお前様へ御意見の様にヲヲおかし、どりゃお薬を見てこう」

このような尾上を塩治判官に重ねて儀礼化する歌舞伎の工夫の数々を怨霊信仰の反映であるとすることも出来るかと思います。しかし、むしろ民俗学的なルーツを持つ日本人の「心情」の発露であると考えれば良いのではないでしょうかね。(別稿「忠臣蔵は御霊信仰で読めるか」もご参考にしてください。)そう云うことも踏まえつつ、吉之助としては、江戸の人々の明晰かつ合理的な感性で以て「鏡山」を読みたいと思うのです。

「奥女中たちは、この芝居(鏡山)に自分自身を発見して、いつしか自身が舞台上の尾上となりお初となり、岩藤を先輩の某々として憎悪の眼を注いだことであろう。だが、この芝居は、唯、三人の登場人物が何処の大名屋敷にも居て、同じような事件が大事に至らぬ程度で繰り返されていただけではない。その外にもっと広い意味での社会性をも含んでいた。(中略)その社会性というのは、岩藤、尾上、お初三人の階級、身分、境遇である。(中略)岩藤は、陽のあたる武家階級の出身者で、女の落ち着き場所が大きい目で見て異常な女、尾上は町人階級に属して、物質的には恵まれていても、階級的には岩藤には一切頭の上がらぬ境遇、お初は、陽の当たらぬ武家階級の出身で、境遇的には物質豊かな尾上に帰伏しているけれど、いざとなれば、尾上よりは岩藤に対して、一言二言は云える階級的な誇りを持っている・・・鏡山の持つ社会的な構図には、こうした「三すくみ」のような面白さがある。この「三すくみ」の構図が全体を覆うモチーフであり社会的なテーマが更にその上を覆いかぶせている。」(加賀山直三:「鏡山」小観、昭和30年4月)

上の加賀山直三の指摘は、「鏡山」読解のためにとても役に立ちます。特に岩藤、尾上、お初の関係を「三すくみ」と評したところなどは、さすがだと思います。先にあげた太田南畝の実説にある、草履で打たれて自害した側女のみち(21歳)は、武家出身の娘であったようです。そこを「鏡山」では実説にこだわらず、尾上を町人階級出身に置き換えたところが、実に作者(容楊黛)の手柄であったと思います。

尾上は裕福な町人の娘の出身でした。江戸期には、寺子屋以外に教養を得る環境がありませんでした。当時礼儀作法や躾、教養を得るための女性教育の最高学府の役割を果たしたのが、大名屋敷に奉公することでした。このため嫁入りまでの箔を付けるために、富裕な町人の娘は御家奉公をしたものでした。時にはお武家様の目に留まって武家の女房に納まることもあり得たでしょう。武家に対して劣等感を抱いていた町人にとって、それが何らかの憧れを充たすことにもなったわけです。ですから3月に一斉に宿下がりする町人出身の女中たちが芝居見物に出掛けて、「鏡山」を見て・我が事のように尾上に肩入れするのは、これは実に自然なことであったと思います。

「鏡山」を見ると尾上は従順で慎み深い女性であって・野心からは最も遠いようですが、裏返すと、ストイックで思い詰めるところが多い女性なのです。始終緊張して、決して隙を見せることがない。「私(尾上)は武家奉公する身であるから、武士同然。お前は町人出身だからと決して侮られまいぞ」と云う気持ちが、尾上にはとても強いのです。

歌舞伎では尾上と同じような境遇の女性を他にも見出すことが出来ます。それは「忠臣蔵・九段目」の戸無瀬です。戸無瀬の出身については、丸本には明確な記述がありません。「九段目」だけだと、戸無瀬はずいぶんと気位が高さそうな女丈夫に見えるでしょう。しかし、「二段目」での戸無瀬は機転が利く・世話好きでさっくばらんな女性に描かれています。出過ぎた口をきいてしまった戸無瀬に本蔵が「一言半句にても舌三寸の誤りより。身を果たすが刀の役目。武士の妻ではないか」とたしなめたりします。武士の妻にしてはしゃべり過ぎる、世話に過ぎる。そんなところから恐らく戸無瀬は 町人階級出身だろうと推察が出来ます。本蔵のお傍で女中奉公していて、見染められて後妻に納まったということです。だから戸無瀬は「武家の女房はかくあるべし」という観念に必死にしがみ付き、理想の武士の妻・理想の母を勤め上げようとしているのです。「何としても娘小浪を大石家に嫁がせる、それが叶わないならば私は生きてはいない」と必死なのです。(別稿九段目における戸無瀬と小浪」をご参照ください。)

尾上の場合は、周囲の目があるなかで草履で打擲されたことの恥辱を非常に重く感じています。「町人出身だからと決して侮られまいぞ」と思って必死で武家奉公してきた尾上にとって、これは耐え難い恥辱でした。その論理プロセスは草履で打擲されて自害したかぶき者の不破伴左衛門とまったく変わりありません。つまりこれは本来「男(かぶき者)」の論理であるはずです。これを選りによって女性が・しかも町人出身の女性がやる、そこが実に甚だしいサプライズだと云うことです。ここに「鏡山」の社会性があります。

つまり尾上と云う役は、表面上は極度に動きを抑えた内向的で陰気な役に見えますけれども、心のうちに燃え盛る闘志がとても激しい役なのです。「情念の役」とでも云いましょうか。こう云う役を演らせれば、そりゃあ歌右衛門に敵う役者はいないなあと思いますねえ。(この稿つづく)

(R5・2・7)


5)延若の岩藤、芝翫のお初

岩藤が立役の加役であるのは、中期までの歌舞伎では真女形が悪役を演じることを忌避してきたことに由来しますが、岩藤の強面(こわおもて)で意地悪な性格を立役の風貌に求めるからだと単純に考えてはいけません。それは男性から見た女性の嫌なところを表わしています。これは男性から見て・慎ましい女性に好意を抱く要素(これは尾上が体現するものです)とは真反対のものを表しているのです。それはジワジワ・ネチネチと、内にこもったように陰湿に描かれます。そこに描かれるものは、まさに女性的感性の負の表現と云えるものです。

ですから立役が岩藤をいかつく演じればそれでいいと云うものでなく、その立役は女形の立ち振る舞い(所作)を十分承知していなくてはなりません。優れた立役というのは普段は女形を演じなくとも、相手役の女形を観察して、女形的感性とは何かということを十分承知をしているものなのです。延若の岩藤を見れば、そう云うことが納得されると思います。歌右衛門の尾上を草履打ちして・これを絵面に出来る岩藤は、そうはいません。

3月は宿下がりの月であって、大名家の奥御殿に勤める女中たちが、年に一度里帰りを許されて、憂さ晴らしに芝居見物をする。その時、底意地の悪い局に虐められる中老と・その中老の仇を討つ健気な侍女と云う「鏡山」の筋が受けたと云う事実は、よく考えてみると、奥御殿での女中たちの日常生活のなかに切実なものが潜んでいたのだなあと云うことを改めて思いますねえ。刃傷沙汰に至らないまでも、似たような虐めが恐らく日常茶飯事的に起こっていたと云うことです。だから宿下がりの女中たちは「鏡山」の岩藤が尾上を虐めるのを見て・我が事のように悔しがり、主人の仇を討つお初に快哉を叫んだわけです。

お初は、尾上・岩藤と比べれば芸格が落ちる役ではありますが、ドロドロした女性的世界を一刀のもとにスパッと割り切る明快さ(=爽やかさに通ず)が観客に受けます。ただしそのような明快さは女形的感性に本来はないものです。だから竹刀打・或いは奥庭の立ち回りでは、「こんな女形にあるまじき振る舞いをするのも、お仕えする御主人の為だから仕方がないのよ」とこれを愛嬌で軽く「いなす」申し訳が必要です。芝翫のお初は可愛さがあって、ホントに良い出来だと思います。

延若(岩藤)、尾上(歌右衛門)、芝翫(お初」と揃って、これで見事に「鏡山」の「三すくみ」が完成しました。

(R5・2・24)


 


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