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久しぶりの「人間万事金世中」

令和5年1月歌舞伎座:「人間万事金世中」

二代目中村錦之助(恵府林之助)、初代坂東弥十郎(辺見勢左衛門)、八代目中村芝翫(毛織五郎右衛門)、三代目中村扇雀(辺見の妻おらん)、初代片岡孝太郎(おらんの姪おくら)、初代中村虎之介(辺見の娘おしな)、四代目中村鴈治郎(寿無田宇津蔵)他


黙阿弥の散切物「人間万事金世中」は、上演頻度はそう高くありません。歌舞伎座では平成15年(2003)4月以来の上演で、松竹版では今回の通り、二幕四場が定型となっているようです。内訳は、序幕が横浜境町辺見店先・辺見家奥座敷での遺言状開き、二幕目が横浜音町恵府林店先・波止場脇海岸です。しかし、本作を前進座が平成30年(2018)5月国立劇場で上演した時は、二幕八場での上演でした。前進座版と比較してみると、松竹版でカットされているのは、序幕では林之助の乳母おしずの借家、二幕目では境町辺見店先の前後2場と恵府林宅婚礼の場です。上演時間は今回の松竹版が1時間25分ですが、前進座版の三分の二くらいの分量でしょうか。

松竹版では、カットされた箇所の件も取り入れて上手に筋を補ってはいます。(辺見店先での)勢左衛門・おらん夫婦が金を巡って言い争い・5圓札が宙を舞う騒動、(大詰・恵府林宅での)すべての絡繰りが明らかになっての大団円も、すべて波止場脇海岸の場で済ませてしまうと云う効率の良さです。そんな不自然さも生(なま)の舞台を見ていると・何だかそんなものかなと思って見てしまいますが、芝居は見掛けの筋が通っておればそれで良いわけではなく、一見無駄と思えるようなところにも作者の苦労があるわけで、そう云うところが省かれてしまった簡略版を見て、「何だ、黙阿弥なんてこんな程度のものか」なんて思われてしまうのも情けないことです。

吉之助が思うには、本作「人間万事金世中」は英国の劇作家リットンの芝居「マネー」の翻案ではありますが、いつもの黙阿弥ならばついつい湿っぽく粘った因果応報の筋立てに傾いてしまうところを、サラッと軽めの喜劇に仕立てたところに、むしろ黙阿弥の劇作家としての技巧の卓越を見たいものです。そこに本作初演当時(明治12年・1879)の、文明開化の時代の民衆の、パッと解放された気分を感じます。それは一時だけの表面的なものなんですけどね。しかし、世が世であれば黙阿弥は上質の喜劇をどんどん生み出したかも知れないと云うことを思いますねえ。結局、明治という時代が、或いは明治期の歌舞伎が、黙阿弥にそうさせなかったと云うことです。黙阿弥の苦しみはまだまだ続きます。

例えば本作が黙阿弥にしては台詞がいつもほど様式的な七五のリズムに粘らない、或いは芝居が下座音楽にあまり頼らないなどの印象があり、吉之助は黙阿弥にこの方向を歩ませてやりたかった気がしますねえ。もしかしたらそこから歌舞伎の、新演劇への新しい展開があったような気がするのです。結局、歌舞伎は江戸時代から離れることが出来なかったわけですが、本作初演の時点であると、まだ新演劇への可能性は十分あったわけです。そう云うことをちょっと考えてみても良いかと思うのです。

今回(令和5年1月歌舞伎座)の、弥十郎(勢左衛門)・錦之助(林之助)以下の面々はみな、この点・いつもと感触が異なる黙阿弥物に、新作と同じ新鮮な感覚で取り組んでいたようで、芝居はテンポも良く、それなりに愉しめて良かったのではないでしょうか。ただ今回上演の松竹版は「強欲勢左衛門始末」という副題通り、脚本が勢左衛門一家の強欲と滑稽さを強調する方向でアレンジがされていたようですが、黙阿弥の真意は、「義理人情を重んじ・真面目に慎ましく暮らす者には必ず良いことがあるだろう」というところにあるのですから、そこのところは押さえておきたいと思います。

(R5・1・20)



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