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五代目菊之助のクシャナ〜「風の谷のナウシカ」再演

令和4年7月歌舞伎座:「風の谷のナウシカ〜上の巻・白き魔女の戦記」

五代目中村米吉(ナウシカ)、五代目尾上菊之助(クシャナ)、二代目尾上右近(アスベル・口上)、初代中村莟玉(ケチャ)、七代目尾上丑之助(幼き王蟲の精)、二代目中村錦之助(チャルカ)、初代坂東弥十郎(ユパ)、三代目中村又五郎(マニ族僧正)他


1)昨今の新作歌舞伎の動きについて

この数年、新作歌舞伎の動きが出て来たようです。題材としては、漫画から採ったものが多いのが特徴かと思います。正直申すと、吉之助のような偏屈爺は、新作を迷惑に感じてしまう方です。見る分には、慣れた古典の方がやはり神経的にいくらか楽なものでね。新作だと、何となく緊張してしまいます。しかし、昭和30年代や40年代の「演劇界」などをパラパラめくってみると、昔は、歌舞伎座の毎月の演目に、必ず一つや二つ新作が挟まっていたことに気が付きます。大正や昭和の初めの歌舞伎でも、演目に新作が挟まるのは当たり前のことでした。二代目左団次がその多くを初演して、現在「新歌舞伎」という大きなジャンルを成していることは御存知の通りです。当時は、これらを新作歌舞伎と呼ばず、「書き物」と呼んだものでした。ところが吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代に入ると、歌舞伎から書き物が顕著に減って来ます。吉之助が歌舞伎を見た、昭和50年代から平成の終わり頃までの、約40年間と云うのは、歌舞伎の長い歴史から見ると、例外的に書き物(新作)が少なかった時期であったことに、改めて気が付きます。

演劇は、歌舞伎に限らず、それが興行される時代の空気をどんどん取り込んで変化して行くものですから、古典と並んで新作が上演され続けないと、演劇的な活力が疲弊すると云うことが、確かにあると思います。だから新鮮な血液を輸血する感じで、絶えず新作が供給されないと、例え伝統芸能であったとしても、命脈が尽きるかも知れないと云うことなのです。現代日本においては、漫画が時代の何かを切り取った、ひとつの先鋭的なカルチュアであると位置付けられます。だから伝統芸能にとっても、漫画が新鮮な血液になるであろう。(今月、能狂言でも、野村萬斎演出で新作「能狂言「鬼滅の刃(やいば)」がただいま上演中です。どんな漫画であるかは吉之助は知りません。)まあそんなことは理屈では分かってはいますが、吉之助なんぞは、古典ばかりのプログラムが当たり前みたいな環境下でずっと歌舞伎を見てきたので、古典偏重主義者に育ってしまったわけですね。(と自嘲的に笑う。)

昭和50年代から平成の終わり頃までの約40年間、新作が少ない時代が何故続いたかと云う問いは、考えてみる価値がありそうです。ひとつの大きな原因が、歌舞伎を書ける力量・知識のある作家が払底したことにあるのは、疑いありません。しかし、作家のせいだけではなく、才能ある若い作家を見出し・育てようとする努力を、役者サイドがあまりしなかったと云う面もあると思います。そう云う努力をしなくても、伝統芸能ということで尊敬されるし、興行的にまあまあの利益が得られた、伝統芸能としては、或る意味「心地良い」時代が長く続いたと云うことです。この時代は、観客の嗜好を見ても、保守的傾向が強かったように思います。作家・役者・観客相互の原因が、複合的に絡んでいるようです。それが再び新作歌舞伎の動きが出てきたと云うことは、「心地良い」時代でなくなって来たと云うことを、役者が何となく感じ始めたと云うことであろうと思います。(この稿つづく)

(R4・7・30)


2)五代目菊之助のクシャナ

歌舞伎版「風の谷のナウシカ」については、令和元年(2019)12月新橋演舞場での初演の観劇随想をお読みいただきたいですが、吉之助はあまり感心出来なかったのです。恐らくこの種のものは「原作漫画とここが違う・あそこが違う」とアニメ・ファンの細かなチェックが入いるので、舞台のための大胆な改作が出来かねる。このため長い原作漫画のエピソードを羅列したドラマ的に平坦なものになりやすい、その典型的な例に思われました。今回(令和4年7月歌舞伎座)の再演は、初演の前半(昼の部)を主人公ナウシカの対立的キャラクターとでも云うか・トルメキア国の皇女クシャナの線で再構成したものですが、吉之助の全体的な感想として、初演の時と大して変わるものではありませんでした。そこのところは、原作漫画を読んでもおらぬし、そもそも「ナウシカ」を論じる資格は吉之助にはないと自覚していますが、純粋に舞台作品として見た場合「まことに物足りない」という感想に変わるところはありませんでした。この点はまず正直に告白しておきます。

ただし今回の再演は、筋の枝葉が刈り込まれた分(初演の昼の部が約2時間40分、再演が約2時間、休憩時間含まず)、少し流れがスッキリ見えて来たところがあるようでした。また主演のナウシカ・クシャナ以下、初演とは演者が変わった役が複数あるので、どちらが良い・悪いではなく、それに応じて芝居の色合いも微妙に変わって見えて来る。同じ役でも役者が変われば、「フーンこの役はこう云う感じもありなのだね」と云う気付きがある。これが今回演出を担った菊之助の、新作歌舞伎に対する考え方を伺わせるところがあって、これも興味深いと思いました。古典の「千本桜」だって「忠臣蔵」だって、同じ題材を手を変え・品を変え・役者を変え、何度も何度も繰り返して今日の形になったわけです。「ナウシカ」を数回やったところですぐ古典にはなるまいが、試行錯誤を繰り返すことは古典化への道に違いないと思います。十八代目勘三郎が「野田版・研辰の討たれ」を同じ面子で再演・三演して「同じ脚本・同じ配役で押し通す」と豪語したことがありましたが、本来古典化への道は、菊之助がやった通り、手を変え・品を変え・役者を変えてやるべきことです。

今回の米吉のナウシカは清らかで可愛らしく、なかなか良かったのではないでしょうか。と云うと初演の菊之助のナウシカが良くなかったように聞こえそうですが、菊之助の資質としてナウシカはやや重めで・女形の色気が出過ぎていたと思います。それだけ女形として菊之助の芸格が重いということですが、現在は娘方が似合う米吉には、ナウシカはちょうど間尺が合うようです。令和の若い女性の感覚を踏まえたナウシカだったかと云う点ではまだ工夫の余地があると思いますが、米吉の初々しさが生きていたと言えます。クシャナについては初演の七之助が宝塚男役風に凛とした風情で評判が高かったですが、菊之助のクシャナも、「なるほどこう作ってきたか」と云うところがあって、クシャナと云う役の別の側面を見るようで、これは興味深いものがありました。菊之助のクシャナであると、女性的な面が強調されるようで、役の感触としては若干重めになるようです。しかし、再演はクシャナの線で再構成されているので、米吉のナウシカとのバランスも含めて、菊之助のクシャナは納得できるところです。ただしこれは菊之助の個性であるから仕方ないことでもあるが、ドロドロの情念の表出にまでは至っていない。今回の再演はクシャナの情念に焦点を当てたかったのだろうと察しますが、そこに脚本の限界が潜んでもいます。他にも印象的な役者はいますが、とりわけ目を引いたのは、幼い大蟲(オーム)の精を演じた丑之助です。踊りの足取りと云い・手の振りの決め方と云い、非凡な感性を見せました。蜆売りの三吉以来、丑之助は目を瞠る成長ぶりです。(この稿つづく)

(R4・8・1)


3)「くやしさ」の表出

ここ数年の新作歌舞伎を見ると、作家も・役者も、「これじゃあ全然歌舞伎になってない」と云われたくないのだなあと感じます。そこで、台詞を古文にして、隈取とか見得・立ち廻りなど、歌舞伎の伝統的・様式的な技法が、新作芝居を「かぶき」にすると、多分そのように考えているのだろうと思います。何が芝居を「かぶき」にするか、そこをもっと突き詰めて考えてみた方が良いです。このためには、真山青果の作品を研究することが、大いに役に立つと思います。「元禄忠臣蔵」の台詞は古文調ではありません。隈取もないし・見得もない、義太夫も入りません。それでも青果の芝居を「かぶき」だと強く感じるのは何故なのか。そこをよく考えて欲しいのです。舞台からほとばしる「心情」が、芝居を「かぶき」的なものにすると云うことを、青果劇ほど教えてくれるものはありません。演劇評論家尾崎宏次は、青果の台詞術(つまり青果劇の様式)の源泉は「くやしさ」であるとして、次のように書いています。

『青果のセリフ術が論理的であるということに入っていかねばならないが、結論をさきにいってしまうと、その論理性のでてくる源は、「くやしさ」ということである。くやしい、ということは、容(い)れられるはずのことが容れられないからくやしいのである。くやしいという感情は、そういう状態をひき起こす事物や制約をきわめて即物的にならべたてることのできるものである。したがって、青果の戯曲にそなわっている論理性というのは、論理的に証明するためのものであって、論理的な発展のためのものではない。そう断言してしまうと例外がでてくるけれども、しかし、秀作のほとんどはそうである。そして、くやしさから出て来る論理性が、まさに青果の生きた時代の大衆にとって、魅力のある芝居になりえたのだ。』(尾崎宏次:「青果のセリフ術」〜真山青果全集・別巻1・真山青果研究)

ここで大事なポイントは、「容れられるはずのことが容れられないからくやしい」というところです。歌舞伎の名作の数々を考えてもらいたいですが、武士の対面やら商人の義理やら男の一分(いちぶん)やらいろんな論理が裏に絡みますが、その論理において「在るべき状況」が、そのような正しい形になっていないことが、くやしい・或いはやるせない・憤懣やるかたない。歌舞伎とは、すべてそのような「心情」から発するドラマなのです。(吉之助はこれを「かぶき的心情」と呼んでいます。)曽我兄弟は父親の愛を受けて育ちたかったのに・それがならなかった(父親を殺された)から「くやしい」・だから仇討ちを決行するのです。お初徳兵衛はただ二人愛し合って暮らしたかっただけなのに、いろんな事情が絡んでそれが叶わなくて「くやしい」、ならば二人一緒に死んでやろうじゃないのとなるのです。松王丸は名付け親菅丞相に御恩があるのに・危難に際して何も出来なかったから「くやしい」・だから我が子を身替わりに立てて御恩報じをするのです。大星由良助は喧嘩両成敗であるべきところ・一方的に塩治家断絶の裁断が下されたことが「くやしい」・だから高家討ち入りを行なうのです。

「風の谷のナウシカ」に、そのような「心情」の要素はあるでしょうか。人類は破滅的な戦争の果てに環境を破壊させてしまい、生き残った人々は汚染されなかった限定的な環境のなかでかろうじて暮らしている。そんななかでも依然として人は争い、醜い覇権争いが慎ましく暮らす民の生活を脅かす。民のささやかな願いさえ踏み潰す、このような状況は受け入れがたい、それは「くやしい」ことだと思いますけどねえ。そこが「ナウシカ」歌舞伎化の取っ掛かりになると思います。同時にこれが最も今日的な心情であるべきです。

吉之助がアニメ映画版「ナウシカ」を見た感じでは、主人公にそのような「くやしさ」が見えないわけではないけれど、表面的には淡い印象がしますね。そして物語が救世主待望へと情緒的に流れて行く、つまり熱い「心情」の物語になっていないと云うことです。そこが吉之助が「ナウシカ」を歌舞伎には向きの題材でないと感じるところですが、「ナウシカ」をどうしても歌舞伎にしたいならば、登場人物のなかに在る個人的な「くやしさ」の感情を抉り出し・増幅して、原作アニメファンが「ナウシカやクシャナにはこんな強烈な一面があったのか」と吃驚させるくらいに、ドラマを濃厚に作り替えてもらいたいものだと思いますね。歌舞伎にするならば、それくらいでちょうど良いのです。

(R4・8・2)

*追記:複数の舞台関係者にコロナ感染が判明したことから、7月19日から千秋楽(29日)までの公演が中止になってしまいました。



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