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時代と世話

平成18年(2006)4月・香川県琴平町金丸座:「仮名手本忠臣蔵・五〜六段目」

十一代目市川海老蔵(十三代目市川団十郎)(早野勘平)、二代目市川亀治郎(四代目市川猿之助)(お軽)ほか


1)時代と世話

歌舞伎の様式に時代と世話があるのはご存知の通りです。時代と世話の定義はひと口では行きませんが、まあ、おおまかに時代は様式で・世話は写実という風に考えても良いです。時代はゆっくりこってり・世話はあっさりさっぱりと考えても良いかも知れません。とにかく歌舞伎の演技はこの時代と世話の使い分けです。ふたつの様式の配合の色合いと変化の妙に演技の面白さがあるのです。ところが最近はこの辺が誤解がされているようで、どうも演技の色遣いが単調になっているようです。最初にひとつの役の色合いを決めたら・その色調で最後まで行くのが正しいと思っているみたいに見えます。ホントは芝居の局面において色調を微妙に変化させていかねばならないのが演技なのですが。

もっともこれは劇評家にも大いに責任があるのです。吉之助がいつも気に入らないのは「時代世話」という用語です。時代世話というのは時代物のなかの世話場とでも言う意味でしょうか。例えば「仮名手本忠臣蔵」なら「六段目」のことです。時代世話は黙阿弥の世話とは違う・時代世話は世話の写実のなかにもどこかかっきりした気分があるものだなどということが解説本に書いてあったりします。何を言いたいのか良く分りませんなあ。これは気分で分けているだけのことで・まともな様式の分類とは申せません。

そこで「歌舞伎素人講釈」では敢えて「時代世話」などと言う様式はないと主張しておきたいと思います。演技様式には時代と世話しかないと考えた方が良いのです。ただし百パーセント時代・百パーセント世話というものはない。すべての演技は時代と世話の配合で決まります。時代の気分の強い世話の演技もあり・世話の気分の強い時代の演技もあるのです。しかもここが大事なところですが、一本の芝居のなかでひとつの役が終始一貫して同じ色合いということはないのです。「六段目」の芝居のなかにも局面が時代に傾くところと・世話に傾くところがあります。勘平もその局面々々で演技が時代に揺れるところと・世話に揺れるところがあります。一瞬に時代を見せて・さっと世話に返る箇所もあります。様式の移ろいの妙・あるいは押して引く呼吸とでも言うものが歌舞伎では大事になってきます。


2)世話と時代の揺れ

「六段目」は全体としては世話場です。この認識は大事なことで・世話を基調にしてこの芝居を組み立てていかねばなりません。そこに時代が突然割って入ってくることで芝居に様式の歪みが生じます。この様式の歪みが「六段目」のドラマを浮き彫りにするのです。つまり平和である農家の生活のなかに突然入り込んでくる武家の忠義の論理の非情さということです。農家の世話の舞台面から見たところの時代の異常さ・場違いさが観客に実感されねばなりません。それが舞台に視覚的にはっきりと現われるのは二人侍の登場です。彼らは由良助の代理として勘平を討ち入りの仲間に入れるか否かを判断しに来たのです。二人侍は武家社会の非情な論理を象徴しています。二人侍の登場で芝居の気分は時代の方にググッと大きく傾きます。逆に言えば二人侍の登場までの芝居は世話の気分を強くしておけば、局面の変化を際立たせ・様式の歪みを観客に明確に見せることができます。

それでは「六段目」前半の勘平は世話で通せば良いか・後半は時代で通せば良いのかというとそう単純なものではないのです。前半の「五作の家に雷が落ちたそうにござりまする」などと言うのは純然たる世話の台詞で・黙阿弥の世話の口調でも別に問題ないと思います。この時の勘平は猟師なのですから。しかし、前半で言えば勘平がお軽に「ご紋附きを持ってきてくれ・アコレついでに大小も持って来てくりゃれ」と言う台詞は時代の色合いをちょっと強くする必要があります。この台詞は丸本にはなく・歌舞伎の入れ事ですが、音羽屋型の勘平の心理を分析する時には重要な台詞です。この場面での勘平は女房が祇園に売られたという事実をまだ認識していませんが、玄人筋の女性とその付き人がおり・家のなかがどうやらただならぬ事態になっているということははっきり感じているのです。だから勘平はここは俺が白黒はっきりつけねばならぬという気持ちで・さらに言えば俺は武士なのだから 舐められまいぞイザとなれば容赦はせぬという・見知らぬ客人への多少の威嚇を込めた気持ちもあるのです。すなわちこの時の勘平は猟師ではなく・意識が武士の方に振れていますから、台詞は自然と時代の様式に傾くということになります。ついでに言えば・勘平が舅を殺したと思い込んで・お軽が祇園に行くのを認めざるを得なくなる時、つまりそれは勘平が自分が武士でいられなくなるという危機を感じる時であるので・この武士を意識した伏線が効いてくるのです。革財布を見込む時の勘平の形というのも・勘平の武士のアイデンティティーの崩壊を象徴しているわけで、これも時代の形・見得に近いということになります。音羽屋型の演技は緻密に計算されていることがお分かりになりましょう。

二人侍登場後の勘平も時代に傾いた演技で通せば良いのではなく、おかやに対する時には世話に引き戻され・二人侍に対する時は時代に強く振れるという風に様式が揺れるのが正しい演じ方です。これは落語で大家と八っつあんを仕分けるような鮮やかな切り替え方ではなく・自然な揺れ動きのなかでこれを仕分けて見せねばなりません。勘平が二人侍に対して解決せねばならない問題(由良助に主人への不忠を許してもらうこと)は武士としてのアイデンティティーの問題であって、つまり様式として時代へ傾く要素です。おかやに対して解決せねばならない問題(つまり舅与市兵衛を殺したのは自分かも知れないということ)は様式としては世話へ引き戻す要素です。このふたつは複雑に絡み合って勘平に迫ってくるのですが・決してひとつなのではありません。ひとつにしてはならないのです。様式の歪みが勘平の演技で明確に示されなければなりません。このように世話と時代の揺れ動きはドラマの流れに完全に連動したものです。

平成18年4月18日、琴平町金丸座前、吉之助の撮影です。


3)海老蔵初役の勘平

このように「六段目」には勘平の演技・あるいは台詞のなかにふっと時代に傾き・あるいは世話に揺れる勘所があちこちにあります。大事なことは「六段目」の基調は世話なのですから、この世話の基調を崩さない形で演技を組み立てていく必要があります。その基調が観客に意識されないようでは・様式の揺れが感知されないからです。以上の点において海老蔵初役の勘平は時代と世話の描き分けがまだ十分ではないようです。時代と世話の様式の移ろいの妙が乏しく・全体に一本調子に感じられます。もっともこれは海老蔵に限ったことではないですが、今回の海老蔵はそれが少々目立つようです。

海老蔵の勘平は前髪立ちの若衆のように見えます。つまり様式的にしなを作っているようで・変な方向で時代の感じが強いように感じます。しかも時代と言っても・「六段目」で本来描くべき封建主義の非情の論理の倣岸さは出ていない。憂いの表情が強過ぎて・なんだか既に切腹を覚悟した桜丸みたいな感じがあります。海老蔵ならばもう少し線の強い演技の方が自然なように思うのです。海老蔵が「六段目」を時代世話だということで無理に役を作っているのではないかと疑うのはそこのところです。世話場と割り切った方が勘平はうまく行くということを申し上げたいと思います。

「六段目」を忠義に散るはかない運命の若者のドラマと捉えることは決して間違いではありません。雰囲気としてはその通りで・この芝居が人気があるのもそれ故です。しかし、ここでの勘平はまだ武士として生きる望みを捨てているわけではなく・絶望の淵から必死で這い上がろうとしているのです。そして切腹していまわの際にもなおも「死なぬ、死なぬ、魂魄(こんぱく)この土にとどまって敵討ちの御共する」とあえぐのです。それが勘平の性根です。最初から死すべき運命を漂わせるのはどうかと思います。

海老蔵の勘平で感心したところをひとつ挙げておきます。二人侍を迎えに戸口へ行く途中・刀をちょっと抜いて髪の乱れをちょっと直した後、ぐっと表情を引き締めて・ドンと強く刀を床について一気に立ち上がる場面です。その刀とドンと突く強さがこれまで見た誰よりも強かったと思います。ここで色男勘平の憂いの世話が一気に時代に振れるのが明確に見えました。おかやに舅を殺したと疑われ・そのことで取り込んで動転している時(つまり世話である)に、二人侍(つまり時代である)を迎えねばならないのです。勘平はこのくらいの気合いを自分に対して入れなければ二人侍の前にとても出られないでしょう。勘平の決意を海老蔵は誰よりも明瞭に示して見せました。「六段目」のなかではその決意さえももろくも崩れていくのですが、それは芝居でのこと。この場面での海老蔵の世話と時代の切り替えは見事なものでしたよ。海老蔵の勘平も初役でのことですから、再演を重ねて見事なものになっていくと思います。

(H18・4・23)



 

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