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実録物としての「天一坊」

令和4年4月歌舞伎座:「天一坊大岡政談」

四代目市川猿之助(法沢・天一坊)、六代目片岡愛之助(山内伊賀亮)、四代目尾上松緑(大岡越前守)、八代目市川門之助(大岡妻小沢)、三代目坂東亀蔵(池田大助)、四代目中村歌昇(白石治右衛門)、二代目坂東巳之助(下男久助)、二代目市川猿弥(赤川大膳)、六代目市川男女蔵(僧天忠)他


1)「政談」物について

歌舞伎座での「天一坊」は、平成27年(2015)5月の上演(この時の天一坊は菊之助)以来のことです。今回(令和4年4月歌舞伎座)上演は、猿之助(天一坊)・愛之助(伊賀亮)・松緑(大岡越前守)と云う、歳が近くて共演してそうでいて・その機会がなかった三人の珍しい組み合わせが、興味深いところではあります。「天一坊」は、あまり出る芝居ではありません。定本と云えるものが存在しないので、適切な脚本アレンジが必要です。今回の脚本は、見たところでは第1部の時間枠に収めるため、平成27年上演時の半通し脚本をベースに若干(十数分ほど)切り詰めて、三幕6場(正味2時間半)の芝居に仕立てたようです。まあ一応の筋は通っており芝居はトントン運びますが、芝居は筋が通ればそれで良いものでもないので、ドラマ的に盛り上がるかと云うとそれほどでもなく、「黙阿弥の芝居は毒にはならぬが薬にもならぬ・他愛のないものだなあ」と云う感想になりかねない感じではあります。ただしこれは脚本だけの問題ということではなく、役者の工夫によって補える場面もあるだろうとは思いますね。

まず今回の「天一坊」ですが、ジャンルとしては「政談」物と云うことです。「政談」物は、歌舞伎から映画・テレビにも引き継がれて大きな流れを成すものですが、例えば大岡越前守や遠山景元(遠山の金さん)などを主人公としたものです。裁判場面はありませんが、広義には水戸黄門や長谷川平蔵(鬼平)なども入れても良いと思います。いずれも庶民に長く愛されたキャラクターです。ところで折口信夫が「人間悪の創造」という論考のなかでこんなことを書いています。

『神だって人を憎む。むしろ神なるが故に憎むと言って良い。人間の怒りや恨みが、必ずしも人間の過誤からばかり出ているとは限らない。恐らく一生のうちに幾度か、正当な神の裁きが願い出たくなる。こういう時に、ふっと原始的な感情が動くものではないか。多くの場合、法に照らして、それは悪事だと断ぜられる。しかし本人はもとより彼らの周囲に、その処断を肯わぬ蒙昧な人々がいる。こう言う法と道徳と「未開発」に対する懐疑は、文学においては大きな問題で、此が整然としていないことが、人生を暗くしている。日本でも旧時代の「政談」類が、長く人気を保ったのは、この原始的な感情を無視せなかった所にあるとも言える。(中略)人間の処置はここまでで・これから先は我々法に関わる者の領分ではないと言ふ限界を、はっきり見つめて、それははっきりと物を言っているのである。すなわち法律が神の領分を犯そうとすることを、力強く拒んでいるのである。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年)

この世においては、禍福が必ずしも合理的にもたらされるものではなく、誠実に生きる人が必ずしも幸福になるわけではありません。ひどい災厄を受けることもあります。そう云う時に「おかしいじゃないか、真面目に誠実に信心深く生きている私が、こんな仕打ちを受ける理由はない、私が何か悪いことをしたのか」と神に抗議したい気持ちになることだってあると思います。そういう時に法(政治或は社会の機構)は、大抵、何もしてくれません。結局、法は被害者の気持ちを十分に救いあげることが出来ません。しかし、正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか。そのような憤る庶民の気分を、「大岡裁き」みたいなものがちょっとだけ和らげてくれると折口は云うのです。「世の中捨てたものじゃない」と云う気持ちになるのです。一時的なものには違いありませんけどね。

江戸の芝居や小説に勧善懲悪ものが流行るのは、結局、そう云うことなのです。とは云え、江戸の庶民は、お上が神の如く公正に裁くなんて決してないことはちゃんと分かっているのです。それが現実というものだし、諦めということもある。されど誰だって、良いことは良い・悪いことは悪いと、裁きは情けを以て公正に行ってもらいたいと思っているのです。例えば大岡越前守・あるいは遠山の金さんのように。今が正しい世の中であるならば、公正な裁きがきっとなされるはずだ。(それがなされないのであれば、今の世の中どこか間違っている。)

歌舞伎の「大岡政談」物は、天一坊の他にも、村井長庵・越後伝吉・雲切仁左衛門・小間物屋彦兵衛・畔倉重四郎・鈴川源十郎・髪結新三など、いろんな事件を素材にして劇化されています。今回(令和4年4月歌舞伎座)の「天一坊大岡政談」を見る時、そんな視点を少し持って見ると面白くなるだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R4・4・9)


2)黙阿弥の鎮魂術

このことは「天一坊」のなかで大岡越前守が芝居の芯を取ることを意味しますが、それは大岡がこの芝居の主人公だと云うのとは若干異なります。あくまで芝居の本筋は、悪方の天一坊(法澤)が担うものです。しかし、結局、天一坊はお縄に掛かり、芝居は「悪は滅び善は栄える、天下泰平で目出度い・目出度い」となり、大岡の正義を証明することになるのです。この時、観客は「世界」が正しく在るべき形に収まったことを確認して安心します。つまり「義経千本作」で、三人(知盛・権太・忠信)の主人公がどんなに活躍しても、最後は「義経記」(義経)の世界へと収束するのと似たような構図を、「天一坊」も持っていることが分かると思います。

ですから黙阿弥の勧善懲悪のドラマは、すべからく「天下泰平」の祝言(しゅうげん)の意味合いを持つものです。これは風紀の乱れを厳しく監視する幕府に対する方便(ポーズ)だと主張する方がいるだろうと思います。確かにまさかの時にはお上に対し悪人が主役の芝居を書いたことの言い訳に役立つでしょうが、それが目的で黙阿弥は勧善懲悪の結末を書いたわけではないのです。黙阿弥は謹厳実直な人で、酒も莨もやらず女遊びもせず、特に信心に凝ることもない人でした。しかし、因果応報の理(ことわり)だけは、これを信条としていました。つまり「正しい者は救われなければいけない。悪い奴らには相応の罰を与えなければならない。そうならないのであれば神も仏もあるものか」と云う心情が根底にあるのです。悪方と善方が対抗し・一時は悪が栄えて善を圧倒するかに見えるが・終には悪は滅び去り・善の正しさが明らかとなる、これで「天下泰平」の祝言の構図が立つ、それが黙阿弥の勧善懲悪のドラマでした。江戸の庶民は、元禄のその昔から「正義が大好き」なのです。

ところが祝言の構図が正しく理解されないと、勧善懲悪の結末が、何だか取って付けたような・居心地の悪い・ベタな結末に映ってしまうことになります。それこそ体制におもねる論理として「天下泰平」が使われていると見えてしまいます。こうなると大岡が旧弊の象徴の如くに見えてきます。だから「黙阿弥の芝居は毒にはならぬが薬にもならぬ、社会批判の精神が疲弊した旧時代の産物だなあ」みたいな感想になりかねないのです。

こうなってしまう原因の最たるものは、歌舞伎の解説で「歌舞伎の悪の魅力・アウトローの魅力」と云うことがしばしば言われるせいです。黙阿弥は悪を賛美しているわけではありません。実際にはその真逆で、黙阿弥が書く悪とは、「善(正義)を賛美するために生成する悪」です。似たような悪人を挙げれば、例えば名探偵シャーロック・ホームズに対して、彼との頭脳比べを愉しむためだけに次々と難事件を仕掛ける極悪人モリアーティ教授です。

『此神の如き素人探偵の持った特異性は、いつも固定していない。人間の生き身が常に変化しているように、ホームズは、生きて移っている。しかも彼らの特異性が世間に働きかけて、犯罪を吸い寄せ、罪悪を具象して来る。そうしてあたかも神自身のように、犯罪を創造していく。彼の口は、皮肉で、不逞な物言いをするに繫らず、犯蹟を創作する彼の心は、極めて美しい。ホームズを罪悪の神のように言ったように聞こえれば、私の言い方が拙いので、世の中の罪が彼の気品に触れると、自ら凝集して、固成しないではいられなくなる。そして次々に犯罪を発見し、またそれ自身真に、その罪悪と別れて行く。(中略)だから、ホームズの物語は、ドイルの行なう鎮魂術であったと言ってもよい。』(折口信夫:「人間悪の創造」・昭和27年・仮名遣いなど吉之助が若干手を入れました。)

折口信夫とホームズとは、ちょっと意外な組み合わせだと思いませんか。江戸の庶民も(黙阿弥も)、この世が公正に動いているなんて決して思っていませんでした。むしろこの世には不正なことが沢山はびこっている。そのような世にはびこる邪悪な心が自ら凝集して、芝居のなかの悪人として固成していく、しかし最後にそれらが大岡らによって裁かれる、勧善懲悪のドラマとは、黙阿弥が行なう鎮魂術に他ならないのです。(この稿つづく)

(R4・4・12)


3)実録物としての「天一坊」

ところで講談などで人気だった大岡政談が芝居に脚色されるようになったのは、幕末の嘉永年間(1848〜53)頃からのことであったようです。史実の大岡越前守の没年が宝暦元年(1752)ですから、約百年後です。幕末に大岡政談が急に人気となるのには色々な理由が考えられますが、やはりこれは白浪狂言の流行と根は同じで、当時の閉塞した社会状況に庶民がうんざりしていたことが大きいでしょう。当時は実名による劇化はご法度でした。だから芝居は鎌倉時代の青砥左衛門藤綱などに仮託した形にせざるを得ませんでした。黙阿弥の「勧善懲悪覗機関(かんぜんちょうあくのぞきからくり・通称「村井長庵」・文久2年・1862・江戸守田座)も大岡政談ですが、大岡は大館左馬之介義晴(おおだちさまのすけよしはる)という役名に変えられています。狂言作者にとって、ついちょっと前までそのような窮屈な世の中であったのです。

ところが「扇音々大岡政談」(おおぎびょうしおおおかせいだん・通称「天一坊」・明治8年・1875・1月・東京守田座)では、世が替わって、もう設定を鎌倉にする必要がなくなりました。だから本作では役名を大岡越前守としています。しかし、このことは役名だけに止まらないと思います。材料は幕末の講釈師初代神田伯山の人気演目「大岡政談天一坊」から採ってはいますが、黙阿弥はこれを、出来るだけリアルに・実録物に近い芝居に仕立てようと考えたはずです。明治の世になって、そう云うことが堂々と出来る世になったのです。まあ世が変れば黙阿弥にも演劇改良運動とか別の苦労が生じて来るわけですが、とりあえずこれは良いことです。

当然観客の方にも、世が変って、実名を使った本物の芝居を見たいと云うワクワクした期待があったに違いありません。初演の記録を見ると、観客の評判が良かった箇所は、無常門から呉服橋外迄(今回の上演には含まれません)と大岡邸切腹の場であったそうです。どちらも伯山の講談にない場面でした。これらこそ黙阿弥が腕に選りをかけて書いた場面であったに違いないのです。老中の調べにより御落胤と定まった天一坊になおも不審を抱く大岡が、謹慎を申しつけられて動きがままならないなか、死人が出たと偽って早桶のなかに隠れて・秘密裡に屋敷を抜け出し、水戸藩主綱條に助力を願う場面(無常門から呉服橋外・水戸家奥殿)、紀州に差し向けた天一坊の素性調査の報告を待つ大岡が、もはやこれまでと腹切る寸前に吉報が届くという大岡邸切腹の場面です。そこで黙阿弥がやろうとしたことは、10年前には、やりたくても絶対に出来なかった、大岡越前守の苦悩と大逆転のドラマを、堂々と実名で、より生々しく・リアルに突っ込んで描いてやると云うことだったと思います。ですから本作は講談タネには違いないですが、黙阿弥の気概としては「実録物」(歴史物)だったと思います。

これは大事なことですが、「天一坊」が初演されたのは明治8年、と云うことは、演劇改良運動の波がもう黙阿弥の元に押し寄せていた時期です。時系列を整理しておくと、いわゆる大政奉還があって明治の世になったのが、明治元年(=慶応4年・1868)のこと。明治政府が斬髪脱刀令を発したのが、明治4年(1871) のこと。ガス灯など近代設備を備えた新富座が開場したのが、明治11年(1878)のことでした。文明開化の世の中で、西洋の風俗や考え方が日本にドッと流入してきて、「西洋のものならば何でも良い、江戸の昔のままを守るのは悪い」という風潮さえありました。そんな雰囲気のなかで、黙阿弥がのんびり江戸の狂言作者の伝統に甘んじていられたはずがないわけなのです。

ですから、吉之助がここで申し上げたいことは、明治8年初演の「天一坊」のなかに、「実録物」たる・リアルさへの追求と云う課題があるということです。それは明治初頭の世の、改革の気風を反映しているのです。吉之助がどうも杓然としないのは、今回の「天一坊」に限らないのですが、補綴者・演出者・役者のなかに、「黙阿弥の芝居はこういうもの」と云うような一様な様式イメージがあって、幕末のものも、明治初期のものも、明治中期の晩年のものも、どれも一緒くたに・同じような味付けに処理しようとするところがありはしないかということです。今回の「天一坊」も、いつもの黙阿弥もの、感触的には先月(3月歌舞伎座)の「河内山」とあまり変わらないような芝居です。そこのところを考え直さないと良い復活物は出来ないと申し上げたいですねえ。(この稿つづく)

(R4・4・14)


4)実録物の新しさ

猿之助の法沢(後に天一坊)ですが、線の太い造りで、「俺りァあ偽者だ」と開き直って・その度胸の良さで相手を感服させて・逆に味方に付けると云う常楽院の場(三幕目)は、なかなかよく出来ました。翻って序幕(お三婆ァ住居)は、何げない会話から始まって・それが思いもかけず将軍吉宗公の御落胤の話しに展開して・殺しへ発展していく意外なプロセスに、ヒッチコック張りの心理サスペンスの面白さがあるはずです。(ここに黙阿弥の小団次劇の経験が活きています。)それが時間的制約でこの場を無理に切り詰めた補綴脚本のせいで、お三婆が自分から秘密をベラべラしゃべり始める不自然な形に変わってしまいました。このため法沢の心変わりが十分に描かれません。しかし、どうせ型らしい型など残っていない芝居なのですから、脚本のバランスが変わったら変わったで、役者の思い切った工夫で面白く出来るところもあろうかと思います。御落胤の話しをお三婆が語り始めたところで・鼠取りの薬で死んだ鼠の死骸が天井から落ちて来る、猿之助はこの箇所を、法沢に悪心が芽生えるきっかけとして、ここでグッと声を低く太く変えて悪心へ変わります。だからその後の法沢の会話は悪の魂胆が見え見えになっています。これが定型のやり方かも知れませんが、ここは別の手を考えてみたらどうでしょうかね。もし吉之助が法沢を演るならば、二人の会話の最後の最後、お三婆が酒で寝込んだ後・法沢がお墨付きと懐剣を確かめて「いいものが手に入った」とボソッと独り言を云う箇所で、ここで声色を低めて・写実に簡潔に・悪の性根へガラリ変わるようにしたいと思います。そこまでは悪を気取られない行き方にしたい。この方が法沢の変わり身が大きく・変化が際立つと思います。

このやり方の根拠は、ないわけではありません。明治2年市村座初演「桃山譚(地震加藤)」で九代目団十郎が演じる加藤清正が夢から覚めた時・「夢か」と簡潔に言い切ったのが大評判となって、これが「活歴」の始まりとされたことです。普通の歌舞伎のやり方ならば、ここは「夢であったかア」と引き伸ばして言うところです。そこをしないで、グッと思い入れを入れて「夢か」と手短かに済ませる、そこに観客は新しい時代の到来を感じたのです。「天一坊・お三婆ァ住居」で、法沢がお墨付きと懐剣を確かめて「いいものが手に入った」とリアルに呟く場面は、つまり黙阿弥がここで五代目菊五郎(初演の法沢)に活歴をさせたのだと云うことです。そこが「天一坊」の新しさ・実録物の新しさだろうと思いますね。(この稿つづく)

(R4・4・16)


5)下座音楽の使い方について

今回(令和4年4月歌舞伎座)に限ったことではないですが、「天一坊」には、いつからこれが定型のやり方になったのか分かりませんけれど、これは見直した方が良いと思える箇所が、他にもあります。例えば大岡邸奥の間で、天一坊が乗物に飴色網代蹴り出しの塗棒(高貴な人しか使用を許されない)を用いた理由を大岡が伊賀亮に問い糺(ただ)す、いわゆる「網代問答」(あじろもんどう)です。大岡と伊賀亮が四つに組んでの網代問答は、「勧進帳」の山伏問答にも比せられる激しい論戦であり、この芝居の最大の見せ場のひとつです。天保11年(1840)「勧進帳」初演には、若き黙阿弥も参画していました。山伏問答が下座を入れない・純粋な対話劇であることは、ご承知の通りです。一方、網代問答では、大岡の問いの箇所で三味線の下座が入ります。三味線がこの場を如何にも「形通り」の芝居の雰囲気を強めてしまって、問答のリアルさを甚だしく削いでいます。このため問答で、松緑の大岡がかなり損をしています。ここは思い切って下座を取っ払い、純粋な対話劇に仕立てた方がずっと良いです。松緑の大岡は悪くはないですが、声がよく通る人なのだから・2月の助右衛門みたいな感じで・二拍子のリズムで論理をどんどん押していけば、もっと迫力ある対話劇に出来たはずだと思います。本家の講談の網代問答を上回るリアルな芝居を造ろうと思ったら、そうするしかないと思いますがねえ。

もうひとつ、大岡邸奥の間・切腹の場にト書き浄瑠璃が入ります。もちろんここは黙阿弥がそのように脚本を書いたわけですが、ト書き浄瑠璃にはト書き浄瑠璃の仕様があるだろうと思いますね。これを通常の義太夫狂言の感覚で芝居をすると、演技が間延びして見えてしまいます。逍遥の「牧の方」観劇随想でも触れましたが、ト書き浄瑠璃では、人間の肉声(台詞)は音楽によって分断されているのです。音楽のト書きは脇から刺さり込んで心理的情景を説明するという・まったく別個の役割を負います。だから音楽もまた台詞によって分断されていると云うことです。このバラバラ状態から如何にして演技にひとつの息の流れを構築するか、これが役者が担うべき仕事です。それは竹本の仕事ではありません。肝要なことは、ト書き(竹本と唄)の最中に息を詰めて、所作を簡潔にし、役者は台詞と次の台詞の息が繋がるように緊張を持続するよう努めることです。台詞は二拍子を基調にテンポ良く流す、これで演技の流れに一貫したリズム感覚を保つことが出来ます。

前回の歌舞伎座所演(平成27年5月)でもそんな感じでしたが、「天一坊」半通しのなかで・大岡邸切腹の場は、大抵芝居が浮いた印象になってしまいます。ひとつには、無常門〜水戸家奥殿をカットしてしまうと、幕府内でひとり大岡だけが天一坊に不審を抱いており、このため大岡が孤立している状況が理解されません。そうなると網代問答も大岡の切迫感(というか焦り)が見えなくなるので困るのだが、切腹の場でも、何故ここで大岡が切腹せねばならぬのか・肝心のところがあやふやになるから、とても困ったことになります。そこでト書き浄瑠璃が入ると、芝居はますますリアルから乖離してしまいます。何だか大岡が形だけ切腹のポーズをしているかのような嘘っぽい印象になってしまう、その責任の多くはカットだらけの補綴脚本にあることは明らかですが、仮にそうであったとしても、ト書き浄瑠璃をリアルな感覚の方向へ持っていくことで、役者にも対処の仕様があると云うことは申し上げたいと思います。このことが分かって来れば「都鳥廓白浪」など黙阿弥の小団次劇でト書き浄瑠璃が入る場面の印象がガラリ変わって来ると思います。そのためには「黙阿弥劇は音楽劇だ」と云う固定観念を打破せねばなりませんね。

(R4・4・17)



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