(TOP)     (戻る)

四代目梅玉の綱豊・四代目松緑の助右衛門

令和4年2月歌舞伎座:「元禄忠臣蔵〜御浜御殿綱豊卿」

四代目中村梅玉(徳川綱豊卿)、四代目尾上松緑(富森助右衛門)、初代中村莟玉(中臈お喜世)、六代目中村東蔵(新井勘解由)、二代目中村魁春(御祐筆江島)他


梅玉の綱豊は青果劇の様式をよく掴んで、実直とも云える位に・台詞のリズムをしっかりと踏んでいます。梅玉の良いところは、「そちたちを信じたいのだ」と云う台詞の末尾を、「シーンジターイーノーダーーー」のように長く引っ張って歌わないことです。梅玉は「シンジターイーノダ」くらいに止めています。これで台詞は浮かず・しっかり実質を伴ったものに出来ています。これが青果劇の様式なのです。その結果、綱豊の内面に有るシリアスな要素、つまり指導者として・天下の人心の荒廃を憂い、世の模範ともなるべき行動を大石以下浅野家浪人たちに期待する気持ちはよく伝わって来ます。反面シリアスな要素が少々勝つために、世の憂さを酒色で紛らせ(本人に言わせれば決して楽しくてやっているわけではない)、世間からはそれが将軍綱吉の猜疑の目から逃れるための偽りの放埓とも見られていると云う艶あるいは色気(これが世間の甲府様人気にも繋がる理由でもある)という要素においては若干渋く見えるところがあります。そのどちらにどのくらい重点を置くべきかは、結局、役者のニンに拠るでしょう。大名の品格において梅玉に不足があろうはずがありませんが、梅玉のニンであればシリアスな要素に主軸を置くのは当然のことかと思います。

対する松緑の助右衛門も、これは梅玉の綱豊のニンに沿った形での役作りになっていたようです。吉之助は現松緑の父(三代目松緑・当時は初代辰之助)の助右衛門を見たことがあります(昭和54年・1979・11月国立劇場でのこと)が、熱く一本気な造りでした。台詞は勢いで突っ走る感じであったかと記憶します。実は吉之助は現松緑もそんな感じに助右衛門を造ってくるかなと予想していましたが、予想とは違って、松緑はむしろ赤穂の純朴な田舎侍と云う感じの助右衛門に仕立てて来ました。台詞のリズムはかなりゆっくり目に踏みしめるように発せられています。もちろんここは梅玉の綱豊の行き方に合わせるのは当然のことで、おかげで御座所での二人の印象が噛み合ったものになりました。

ただし御座所での対話は、これは梅玉と松緑の双方に課題が若干ありそうです。助右衛門から大石の仇討ちの決意を読み取りたい綱豊と、綱豊にそれを気取られたくない助右衛門と云う二元構図に思えて、だから話しが分かりやすいとも云えますが、流れがいささか単純に見えなくもない。だから助右衛門が「あなた様には、六代の征夷大将軍の職をお望みゆえ、それでわざと世を欺いて、造り阿呆の真似をあそばすのでございますか」と叫び始めるのが、その訥々とした流れからして、いささか唐突に感じられます。ここは対話の流れの設計にもう少し工夫が必要でありそうです。「もうこれ以上俺を責め立てるのはやめてくれ」と悲鳴をあげているかように見えます。まあそれも決して的外れではありません。それもひとつの解釈ではありますが、御手打ち覚悟の言なのであるから、そこはもうちょっと助右衛門の気持ちを考えて見たいと思います。

助右衛門は、いつまでたっても仇討ちの決断をしない大石に心底イラ立っているのです。助右衛門自身は、いますぐにでも仇討ちがしたい。しかし、大石が決断をしなければ自分は何も出来ない。それで日頃からずっとイライラしているところに、「綱豊のために行くべき道を示せ、俺はあっぱれ我が国の義士としてそちたちを信じたいのだ」などと今のお前の正直な気持ちを聞かせろとばかり責められると、義士の代表でも何でもない助右衛門としてはどうしようもない。それで大石への憤懣が綱豊に向かうことになるのです。つまりこれは八つ当たりみたいなものなのですが、助右衛門のなかには彼なりの論理的プロセスが確かにあるのです。それは綱豊との対話が、何だか助右衛門には大石と対話しているかのように思えているからです。綱豊の方も、何だか大石と重なったような気分になっている。観客にそこが見えるようにお願いしたいですね。二拍子の感覚を維持しつつ・台詞の速度にもっと緩急を付ける工夫してみたらどうでしょうか。(別稿「指導者の孤独」をご覧ください。)

ところで史実の助右衛門を見ると、劇設定の元禄15年3月半ばでは、当時33歳。分別のある年頃です。助右衛門は江戸給人(江戸藩邸勤務の役人)の子で、江戸生まれの江戸育ち。仲間の大高源吾とともに俳句をする教養人でもあり、赤穂育ちの他の義士たちとはかなり雰囲気が異なった人物であったかも知れませんねえ。助右衛門は江戸近郊の平間村(現在の川崎市内)に住み、堀部安兵衛を始めとする江戸急進派とはあまり付き合いをしなかったようです。このため「浅野仇討記」と云う古文書に拠れば、助右衛門は「うろんなり」(疑わしい)・つまりアイツは仇討ちに参加せぬだろうと周囲から見られていたようです。しかし、その1年前・主君浅野内匠頭が幕府の裁断により即日切腹となった時、助右衛門の母はその不当な裁きに憤慨し、武士の本懐を果たすように息子に言ったそうで、仇討ち当日は助右衛門は母から贈られた女小袖を身に着けて討ち入りに参加しました。人付き合いは上手くないが、周囲に振り回されず・信念を決して曲げない男と言う人物像が浮かんで来るようです。多分そんなところから、青果は「御浜御殿」の助右衛門を構築したと思います。

それと能舞台前で綱豊が助右衛門の襟髪をつかんで地面に押さえ付け説経する場面ですが、今回はここを綱豊から二歩ほど離れて助右衛門が平伏する形に変えたのは、これは何故でありましょうかね。(平成25年12月京都南座所演では、梅玉の綱豊は助右衛門を地面に押さえつけてますね。)まさかコロナ仕様でもあるまいし。いまいち絵面的に緊迫感が乏しい気がします。ここでは「七段目」で由良助が九太夫を打ち据えるのと同じ構図が見立てられているのです。「阿呆払いにして追っ返してやれ」も、由良助の「水雑炊を喰らわせやい」に見立てられています。そこに青果の遊び心があるだろうと思います。

(R4・3・5)



  (TOP)     (戻る)