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六代目歌右衛門の淀の方・八代目幸四郎の且元

昭和51年12月国立劇場:「沓手鳥孤城落月」

六代目中村歌右衛門(淀の方)、八代目松本幸四郎(初代松本白鸚)(片桐市の正且元)、三代目実川延若(徳川家康・氏家内膳)、七代目中村芝翫(婢お松実は常盤木)、十代目市川海老蔵(十二代目市川団十郎)(片桐出雲守孝利)、八代目中村福助(四代目中村梅玉)(豊臣秀頼)、五代目中村松江(二代目中村魁春)(御台所千姫)、六代目沢村田之助(大野修理之亮治長)他


1)意義ある通し上演

本稿で紹介するのは、昭和51年(1976)12月国立劇場での、六代目歌右衛門の淀の方と八代目幸四郎の片桐且元による通し狂言「沓手鳥孤城落月」(ほととぎすこじょうのらくげつ)の映像です。云うまでもなく淀の方は歌右衛門の当たり役のひとつであり、「糒庫」を主とした淀の方の筋は度々上演されています。しかし、今回の「沓手鳥」上演の眼目は、滅多に舞台に掛からない且元の筋が出ることです。大坂夏の陣で既に大阪城も落城寸前のなか、且元は何とか淀の方・秀頼親子の命だけは救おうと奔走しますが、結局徒労に終わり、且元は豊臣家滅亡の報を聞きながら落命します。淀の方が成駒屋の当たり芸として広く知られるのに対し、今では且元の件はすっかり忘れ去られてしまいました。調べてみると且元の筋が上演されたのは、昭和13年(1938)1月新宿第一劇場での上演以来、今回が38年ぶりのことで、その間の「沓手鳥」は「奥殿・乱戦・糒庫(つまり淀の方の筋)」での上演でした。これ以降現在(令和4年)まで、且元の筋は上演されていません。

「沓手鳥」には、淀の方と且元が同じ舞台に立つ場面がありません。淀の方と且元のそれぞれの筋が相互に関連しないまま別個に続きます。このような作品構造上の問題(二つの主題が並列したまま絡まないと云うこと)があるので、淀の方の件だけの上演で満足してしまって、我々は何の不足も感じなかったのです。しかし、改めて今回の通し上演映像を見直すことで、坪内逍遥が本来意図したものが何となく見えて来ました。自らの驕慢な性格と猜疑心ゆえ次第に自滅に追い込まれて行く淀の方の悲劇に、裏切り者と蔑まれても主家の存続を計ろうと必死で努力するが・西軍からも東軍からも終に理解されることなく報いられることもない且元の悲劇を重ね合わせることで、豊臣家滅亡のドラマがより重層的に映ってきます。題名の「沓手鳥」とは、且元の泣いて血を吐く思いと云うところを暗示しています。これで逍遥が意図した史劇の様相が見えてきました。

逍遥の新歌舞伎執筆は、明治27年(1894)11月の「桐一葉」が最初のことで、二作目が明治30年(1897)4月の「牧の方」、三作目が明治30年(1897)9月の「沓手鳥孤城落月」でした(いずれも雑誌発表の年)。これら三作の上演映像をざっと見て痛感するのは、(上演頻度の差が影響しているのは確かなことですが)最初の2作であると、役者の方に「こんな感じでもいいでしょうか」という迷い・自信の無さを感じるところがしばしばあったけれども、三作目の「沓手鳥」であるとそこがしっくり行っているようで、作品と役者の演技との親和度が高いと感じることです。つまり逍遥が確実に作劇の腕を上げて来たということです。それは多分逍遥が、ト書き浄瑠璃を入れたり・新奇なことを試みず、純然たる台詞劇として正攻法でドラマを書いているからでしょうが、本作で逍遥の新歌舞伎のスタイルが決まって来たようです。しかし、ここまで辿り着くために逍遥はいろんなことを試みなければならなかったわけですね。(この稿つづく)

(R4・3・23)


2)歌右衛門の淀の方

初演を勤めた五代目歌右衛門の淀の方は、恐らく線が太い・或る意味淡々とした史劇タッチの淀の方ではなかったかと想像をします。それと比べると、六代目歌右衛門が演じる淀の方は、線が細めで、しかし柳の枝のようにしなりがある・粘着性の強いものでした。これはもちろん五代目と六代目の個性の違いでもありますが、もうひとつ、六代目歌右衛門の場合、その時代(戦後昭和)との関わり合いということが大きかったと思いますねえ。この件については別稿「六代目歌右衛門の今日的意味」でも触れました。三島由紀夫は「歌右衛門の危機美」ということを言いましたが、ここでは堂本正樹氏の言を再構成して紹介しておきます。

『(戦後昭和が)何か歌右衛門が滅びゆく日本の古きものを代表して、孤塁を守っている感じになっていた。それが歌右衛門にとって非常に得になるんだよ。新しい時代に圧迫されている貴種の代表みたいになっちゃうわけだから。(中略)女形ってものが、そういう疎外されている、或る種の階層だか社会だかを代表しちゃってだね、必死の叫びをあげるような感じがするわけよ。そこのところが非常に得なんだよね、歌右衛門という人は。そういう疎外された代表者みたいに見えるわけだから。(中略)ホントはさ、時代に痛めつけられてなんかいないんだよ。時代はうまいこと役割を決めてくれて、歌右衛門を殉教者に仕立ててくれたわけだけど、いくら火焙りになったって、ジャンヌ・ダルクの方がいい役に決まってるんだよ。』(堂本正樹談話:「歌右衛門の芸」〜「歌舞伎・研究と批評」・第28号、2002年1月、なお発言は吉之助が再構成しました。)

ここで「時代に疎外され否定されて滅びて行くしかない日本の古き芸」と云う、戦後昭和の或る時期に存在した・歌舞伎の女形のイメージが、時代の流れに圧し潰されて消えて行くしかない豊臣家の儚い運命・淀の方の哀れな運命と、ぴったり重なって来るのです。まことに淀の方は歌右衛門にとっての象徴的な役であるなあと、当時は思ったものでした。以上のようなことは、令和の現在においては、説明しただけでは若い人には俄かに納得してもらえないでしょうねえ。現在では女形芸は日本伝統芸能の特殊技能として尊敬されて、立派に守られるべきものとされていると思います。令和の現在にこの映像を初めて見る若い方は、もしかしたら異なった印象を持つでしょうかね。それは聞いてみないと分かりませんが、吉之助には、今回改めて映像を見直しても、「歌右衛門と役(淀の方)との尋常ではない一体感」と云う言葉しか出て来ません。

今回の映像を見直して、糒庫での狂乱の場の壮絶さはもちろんのことですが、その前場となる・奥殿での、歌右衛門の淀の方の演技に、改めて深い感銘を受けました。奥殿での淀の方は、やり場のない怒り・絶望・焦燥が渦巻いており、危うく正気を失いかけています。しかし、まだ狂気には至っておらぬのです。(他人から見ればもうそんなものに何の重みもないのだが)プライドや、(何の根拠もないのだけれども)一縷の望みみたいなものを、淀の方はまだしっかり持っています。それらによって、淀の方はどうやら正気を保っています。これが次の糒庫の場での狂気へとつながっていくわけですが、淀の方の心の変化は段階的に起こるものではありません。それはランダムに・浪のような形で起こります。或る時は淀の方は怒りのあまり狂気に傾くが、正気を何とか取り戻す。かと思うと猜疑心がまた淀の方を狂気へ引き込む。狂気と正気の揺り返し・揺り戻しが、様相を変えながら続きます。このような変化を、逍遥は台詞の変化とト書きで克明に表現しています。歌右衛門はこんなことを語っていますね。

『父(五代目歌右衛門)が申しておりましたのは、糒庫の淀君は真似をしようと思えばできるけれども、奥殿は難しいと。私も幾度か千姫を勤めて父の傍にいて感じたことは、(奥殿は)とかくひと幕中ひと流れになりがちなものを、父の淀君は、一区切りずつ芝居の流れが変わるのにつれて、雰囲気がどんどん変わっていくように感じられ、奥殿ひと幕の間に幾つも起伏がございました。』(六代目中村歌右衛門談話)

今回の映像では、とにかく奥殿が緊張感があって、歌右衛門の感情の、押して、引いて、息を詰めて、また押して引く・・・と云う変化がまことに面白く、目が離せません。芝翫の常盤木がキリッとして良い出来ですが、千姫(松江)・正栄尼(芝鶴)・饗庭局(東蔵)以下周囲も手堅く、このなかで歌右衛門の淀の方の大きさが必然的に決まって来ます。これほどの奥殿ならば、続く糒庫が悪かろうはずはないと言えるほどの出来でした。特に今回の上演では片桐且元が並行して描かれますから、淀の方・秀頼親子の自害は芝居では描かれませんけれども、或いはそれ故にと云うことかも知れませんが、淀の方の悲劇が「もののあはれ」を以て感じられたことでした。なお福助の秀頼・延若の氏家内膳も、糒庫での悲劇の厚みに大いに寄与していることも付記しておきます。(この稿つづく)

(R4・3・26)


3)幸四郎の且元

「桐一葉」の単行本(明治29年2月出版)の巻末に、逍遥は続編「且元の末期」の予告を掲載し、

『「桐一葉」は此の続編を得てはじめて一の完き複雑なる悲劇たるを得べし(中略)、淀君の末期も市ノ正の末期もすべて此の一段中に写し尽さるべし、「桐一葉」を読みて物足らず感ぜし読者は此の続編を得てはじめて作者の本意を了せん…』

と書きました。実際には「且元の末期」一幕三場の予定が、「沓手鳥孤城落月」三幕六場となって完成したわけです。「孤城落月」が雑誌「新小説」に発表されたのは、明治30年(1897)9月のことでした。文中に「「桐一葉」を読みて物足らず感ぜし読者は・・」とあるのは、森鴎外や高山樗牛らが「桐一葉」に対し「悲劇としての感銘が薄い」と批判したことを受けてのものです。「桐一葉」では片桐且元は、主家(豊臣家)の行く末を憂い・その存続のために奔走するも・周囲から裏切り者扱いされて・大阪城に居られなくなりますが、死ぬわけではありません。鴎外は、且元が大阪城を去る長柄堤の幕切れは、主人公が対立する葛藤に破れて破滅すると云う本格的悲劇になっておらず、読者や観客にただ同情の念を呼び起こすのみであると批判したのです。当時(19世紀末)は、悲劇至上主義みたいな考え方がありました。欧米の演劇では、葛藤のなかで主人公が破滅する(或いは死に至る)ような筋書きが最高の劇形式とされました。鴎外の立場は、そう云うところかと思います。

一方、逍遥は、主人公の行動・言動が廻り巡って悲劇の結果(主人公の死・或いは破滅)をもたらすと云うのでなく、且元の悲劇はむしろ主人公の境遇のなかにあるとするのです。大阪城落城・豊臣家没落は歴史の転換期の大きな背景として描かれています。歴史の流れのなかで翻弄され・圧し潰されていく人々の姿を、いわゆる「境遇悲劇」として見るということです。且元の悲劇は、時代の「あはれ」を共有する者としての悲劇になるのです。

他方、淀君は歴史の当事者として滅びますから、色合いはちょっと異なります。豊臣家滅亡の結末は自らの驕慢な性格が招いた結果であると考えるならば、淀君の悲劇は「性格悲劇」であると見なすことが出来ます。「孤城落月」を淀君の筋だけを出すいつもの上演スタイルであるならば、これはそのように読んでまったく差し支えないと思います。しかし、今回(昭和51年12月国立劇場)のように、且元の件を並行させた形で「孤城落月」を改めて見直してみると、ちょっと違った色合いが見えて来るように思うのです。つまり淀君もまた、歴史の激しい渦のなかで翻弄され・か弱い女の愚かさゆえに懊悩し・狂気に陥って行く存在ですから、つまり淀君の悲劇もまた「境遇悲劇」と見ることができると云うことです。前節に触れた通り、淀の方の悲劇が「もののあはれ」を以て深く感じられるとは、そう云うことです。このことは、且元の件を対照させることで生まれた思わぬ効用だったのではないでしょうか。ただし淀君は、且元よりは歴史の当事者の要素が重いですから、「性格悲劇」の色合いも濃くなると云うことです。それにしても逍遥自身は、淀の方の悲劇にどちらの色合いを重く見たでしょうか。もしかしたら「境遇悲劇」の方かも知れませんねえ。

話しを且元に戻しますが、今回の「孤城落月」を見て、且元の件がまったくドラマティックでない点に、まず軽く驚いてしまいました。且元は豊臣家存続のため一生懸命・誠意を以て働きかけをします。しかし、且元の言うこと・やることを誰も認めず、ことごとく邪魔されて空回りします。結果として且元は豊臣家存続のために何にも貢献しなかった(させてもらえなかった)のです。すべてが徒労に終わり、燃け落ちる大阪城を眺めながら且元は死んでいきます。これが且元の悲劇なのです。このことを逍遥は次のように書いています。

『片桐且元の悲劇は、性格に由縁するところが比較的少なくて、境遇に因縁するところが比較的多いということが、深く小生の心をひいた。(中略)且元その人は、思慮あまりあって勇断が足らず、策士ながら本来は正直律儀で人情が深く、したがって思い切った陰険な、また残忍なことはできぬ人物、またできたところが豊臣家のため寸効もなかったであろうという点が、小生のはなはだ興味深く感じたところであった。』(坪内逍遥:「沓手鳥孤城落月」と史実との関係、明治39年)

このようにまったくドラマティックでない・いまにも息を引き取りそうな病人の且元は、普通であると存在感がない役になってしまいそうです。「孤城落月」上演から、いつの間にやら且元の筋が抜け落ちてしまったのも、もしかしたら・それが原因したのかも知れません。しかし、そこはさすが幸四郎、史劇をやらせたら重厚さで並ぶ者がいない。且元が、リア王のような悲劇の人物に見えてきます。肚の大きさがあるからこそ、且元に悲劇を体現させることが出来るのです。幸四郎の見た目のことだけを言うのではなく、それは幸四郎が台詞を実(じつ)を以て発声しているからです。且元が落ち入る大詰・大阪城本丸桜門前は、なかなか感動的なものになりました。(なお史実では且元が病死したのは、大阪城落城から20日ほど後のことでした。)

他の役では延若が演じる家康が、なかなか興味深い。この家康は老獪と云うべきか・誠実と云うべきか、或いはその狭間で揺れているのか、そのどちらにも取れそうな家康なのです。しかし、家康が何を考えていようが、周囲の優秀な家来たちが徳川家のため(と云う名目で)すべてよしなに取り計らってしまうのです。且元の願いを家康が聞き入れようが・聞き入れまいが、そんなことは全然関係ないのです。すべてはまるで歴史が定めたかのように・成るように動いて行く、それがまるで且元が自ら悲劇を招き寄せているかのように見えて来る、そこに且元の「境遇悲劇」があると云うことです。

(R4・4・19)


 


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