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三代目寿海の長門守、八代目三津五郎の且元

昭和42年11月国立劇場:「桐一葉」

三代目市川寿海(木村長門守)、三代目市川左団次(淀君)、七代目尾上梅幸(渡辺銀之丞)、八代目坂東三津五郎(片桐市ノ正且元)、十七代目市村羽左衛門(石川伊豆守)、片岡孝夫(十五代目片岡仁左衛門)(豊臣秀頼)


1)「桐一葉」の古めかしさ

本稿で取り上げるのは、昭和42年 (1967)11月国立劇場での通し狂言「桐一葉」の映像です。これは三代目寿海の唯一の国立劇場出演となったものです。吉之助の注目は、最終場・長柄堤訣別の場面の寿海の長門守と、八代目三津五郎の且元の新歌舞伎の台詞廻しということになります。

坪内逍遥の「桐一葉」は、明治27年(1894)11月から「早稲田文学」に連載された長編史劇です。当時は活歴物が盛んに上演されていた時期でした。逍遥は活歴の、外面ばかり史実に則った風を装いながら、実は内容空疎で情味が乏しいことに辟易して、これならば 演劇改良協会の連中が嘲っている在来の丸本物や狂言作者の芝居の方が遥かにましだ、それならばいっそ自分で芝居を書いてやろうじゃないかと云うのが、「桐一葉」執筆の動機であったようです。しかし、当時の歌舞伎界は外部の作者に対する排他的空気がまだまだ強くて、なかなか上演してもらえませんでした。このため初演は発表からずっと遅れて、約10年後の明治37年(1904)3月東京座のことでした。配役は且元は十一代目仁左衛門、淀君を五代目歌右衛門、長門守を七代目幸四郎という顔ぶれでありました。これがいわゆる新歌舞伎の始まりということになります。

上演に先立つ顔合わせの時、役者たちは「どこの誰だか知らぬ外部の作家に歌舞伎が分かるのか」という雰囲気であったそうです。ところが並み居る役者たちが逍遥の本読みを聞いて吃驚してしまいました。なにしろ逍遥は 長年の芝居好きで、団十郎は大の贔屓でした。団十郎に片桐勝元を演じてもらいたくてこの芝居を書いたくらいでしたから、逍遥は団十郎の息で本読みをしたのです。役者たちは「芝居をよく知っている偉い先生だなあ」と感心して、神妙に役を勤める気になったそうです。もし逍遥の本読みが下手であったならば、その後の新歌舞伎の道程は10年かそこら遅れたかも知れません。

ところで「桐一葉」を分類すれば、当然これは新歌舞伎です。しかし、ひと口に新歌舞伎と云っても、 逍遥の「桐一葉」と、後の岡本綺堂や真山青果の新歌舞伎とでは、だいぶ感触が異なるようです。ちょっと見ると「桐一葉」は古めかしい印象がすると思います。古い時代の歌舞伎の雰囲気を濃厚に引きずっています。そこに団菊を見て育った逍遥の芝居好きが出ているということなのですが、恐らく逍遥はそういうところを意識的に出しているのです。

例えば第二幕「吉野山桜狩〜畜生塚怨霊」の場がそうです。この場面は実は淀君の夢の場で、時系列としては過去にさかのぼります。夢の場のなかで豊太閤と見えたものが突然秀次の亡霊に化したりします。イヤ逍遥先生、凝り過ぎです、ホントに芝居がお好きなんですねえと思わず笑ってしまうほどです。しかし、逍遥は西洋演劇の造詣が深い学者 なのですから、この場が戯曲全体の一貫した筋の流れから見れば、余計な場だということはもちろん十分承知のうえで書いているのです。或いは「桐一葉」のなかで大きな横糸となっている銀之丞の蜻蛉への失恋と死の挿話も、戯曲全体からすれば筋の錯綜を免れないもので、芝居を無用に長くしている気さえします。しかし、恐らく逍遥は銀之丞のことを、醜い政治権力闘争の渦とはまったく無縁の、「桐一葉」のなかで最も無垢で、それゆえ愛おしい人物として描いています。むしろ逍遥は、このような筋を散漫にする挿話にこそ、歌舞伎の草双紙風の芝居の妙味を見せるところだと云うことで、腕によりをかけて芝居を書いているやに思われます。

このように書くと逍遥の思考が過去に向いているように聞こえて、逍遥は「桐一葉」で自分が思うところの「面白い歌舞伎」を書 きたかっただけのように思うかも知れませんが、そうではありません。「新時代の演劇はこのように在るべし」という理想は、逍遥にもちろんあります。むしろそこに実践者としての逍遥の態度がそこに強く出ていると見るべきなのです。

逍遥が自らのシェークスピア研究の成果を振り立てて西洋演劇の理想を日本に移植しようと遮二無二突き進むのならば、話はシンプルです。しかし、歌舞伎の過去 (江戸)を全否定して一気に理想の演劇の実現に向かうと云うような、無謀なことが逍遥には出来なかったのです。それをするには逍遥は芝居というものを(つまり歌舞伎を)あまりに知り過ぎていました。芝居を愛しすぎていたと云っても良いです。演劇の改革は劇作家一人だけで成るものではなく、役者や裏方その他関係者の意識も変えて初めて成るものです。観客の意識も改革していかねばなりません。そうであるならば過去の良いところは良いものとして生かしつつ、理想に向かって段階的に少しづつ演劇を変えていく方が良い、その場合、将来の演劇の基礎となるべきものはやはり歌舞伎だと逍遥は考えたに違いありません。それが「桐一葉」に顕れている或る種の古めかしさなのです。

後世の我々は「桐一葉」など逍遥作品の、新歌舞伎の先駆けとしての意味がどこにあるかを正しく認識しておかねばなりません。そうでないと歌舞伎史のなかで逍遥が消えて行きかねないと思います。(この稿つづく)

(H30・7・12)


2)逍遥は左団次劇を準備したか?

新歌舞伎とは「座付き狂言作者ではなく、外部作者が書いた歌舞伎作品」というのが いちおうの定義です。しかし、歌舞伎様式として新歌舞伎を厳密に定義するならば、これは大正期を中心に二代目左団次によって初演された作品群のことを指します。つまり 新歌舞伎とはほぼ左団次劇のことです。(別稿「左団次劇の様式」を参照ください。)吉之助が考えたいことは、逍遥の「桐一葉」は 次の左団次劇(新歌舞伎)を準備したか?ということです。

傍目からするとその後の左団次劇は逍遥を振り捨てたところで、これと無関係に発展して行ったように見えると思います。綺堂や青果を始め岡鬼太郎・小山内薫・池田大伍・木村錦花など、左団次を裏で支えてきた多くの作家たちは逍遥の影響をあまり受けていないように見えるかも知れません。しかし、ホントにそうなのか?ということです。先達としての逍遥が散々苦労したおかげで、後輩の彼らはさほど大きな苦労もせず自分の道を歩むことが出来たということもありそうです。

或るシンポジウムに於いて『余韻を重んじて言葉少ないのがいいとして逍遥が力を入れて書いた淀君の台詞よりも、「そのお嘆きもお怒りもお通理とも理(ことわり)ともご尤(もっと)もとも当然とも申し上ぐる言葉とてもござりませぬ」(「孤城落月・糒庫」での饗庭局の台詞)なんてところの方が芝居らしくて面白い』と仰った先生がいらっしゃいました。そういう箇所に逍遥の根っからの芝居好きの地が出ているのかも知れませんけど、このような発言は新歌舞伎の創始者としての逍遥の本意を正しく読んでいないと思いますがねえ。逍遥は旧態依然とした饗庭局の台詞のリズムのなかに、滅びゆく豊臣家の運命に悩乱する淀君にもはや何も能動的な働き掛けも忠告も出来ない形骸化した組織の虚しさ・無力感を重ねているのです。台詞が芝居らしく「歌う」ほど、その台詞は嘘臭くなって行きます。リズムが気持ちを繕(つくろ)うのです。つまりそのリズムは滑稽を示しています。この事態に直面して泣きわめき取り乱す淀君の方がむしろ正直で「実」を取っています。どちらが狂気を示しているのか。正気とは何か。逍遥はそのように台詞を書いているということが分かれば、逍遥の芝居がどちらの方向を向いているのかは自(おの)ずと明らかであると思います 。

折口信夫が「近代文学論」講義(昭和22年)のなかでこんなことを書いています。明治24年に逍遥が「評註マクベス」と題しシェークスピアの「マクベス」の注釈を発表して、そのなかで「理想を没却して、ものの姿を平均に見なくてはならぬ」ということを書きました。これに対して森鴎外が反論して、しばし理想論と没理想論の論争が繰り返されたことがあったそうです。その後、20年ほどの歳月が流れて、逍遥は芝居を書き、劇評もし、実演もさせたりして、いろいろな試みをしてきました。一方、鴎外は弟の三木竹二が主宰する雑誌「歌舞伎」のために多くの西洋演劇を 翻訳し、弟の死後も雑誌を維持するために地道に翻訳を続けました。このため逍遥が半生をかけて努力してきた仕事が思ったほどの成果を挙げぬうちに、鴎外の仕事が次第に効果を現してきました。逍遥がそれまで力を入れて来た「文芸協会」のメンバーと、逍遥との関係が次第に怪しくなってきて、ついに分裂して、島村抱月は逍遥から離れて「芸術座」の旗揚げをすることになります。抱月が脚本を頼んだのは鴎外で、この時に鴎外が与えた脚本が「マクベス」でありました。

『もし記憶の良い人なら、思い合わせて不思議な気がしたであろう。同時に鴎外の持っている根強さを感じたであろう。逍遥半生の仕事から退くための後始末に、鴎外が回って与えたものが、あの「マクベス」だった。逍遥には、釈然とせぬ気が起ったに違いない。そこに鴎外の根底の強い一種のねじけたところが現れている。その鴎外に圧迫された逍遥の寂しいが、笑いたくなるような姿が見える。世間の人は忘れていよう。鴎外も気にはしていまいが、逍遥は感じたであろう。』(折口信夫:「近代文学論」講義・昭和22年)

局面は異なりますが、ほぼ新劇と同じような現象が新歌舞伎においても起きているのです。歌舞伎史のなかで最初の新歌舞伎上演と云えば、それはもちろん明治37年(1904)3月東京座での「桐一葉」のことに違いない。それは分かっているけれど、「桐一葉」は古めかしい旧劇の感触を濃厚に引きずっているように感じられて、現代の我々の感覚では、新歌舞伎と云う時もはや逍遥の功績がパッと頭に思い浮かばなくなっています。これは逍遥にしてみれば釈然とせぬことだと思います。

逍遥は常に理論と実践を対で考えていた人でした。この点はじつに明治の先達らしい気概と云うべきです。まず理論がある、そしてそれを例証してみせるためにまず自分がやってみせる、そういうことを逍遥はいろんな場面で行うのです。ところが、いざやってみると 厳しい現実に直面して理論通りに簡単にいかないこと はよくある話で、そこでいろいろと不具合やらドタバタが起こる。そうしたことを逍遥はいたるところでやらかすのです。それで津野海太郎著の逍遥伝は「滑稽な巨人」と云うタイトルになっているわけですが、もちろん逍遥の本質は滑稽にあるのではありません。その態度の真摯なところにあるのです。(この稿つづく)

(H30・8・8)


3)七代目梅幸の銀之丞

逍遥が主張するところでは、我が国の歌舞伎・浄瑠璃のように一幕毎に主人公が代わったり、甚だしきは一幕中に二・三の挿話が入り乱れ主人公が複数になってしまうような草双紙張の作風は、西洋演劇が手厳しく非難するところであるが、用い方によってはこれも面白い作用をすまいものでもない、主人公をただ一人を限るのはむしろ劇の印象を散漫にすまいための一方便に過ぎないのではないかと云うのです。例えば自らの性格の過失が原因で悲劇を招くこともあれば、境遇のために悲劇に陥ることもある。まして一国家の興亡を主題とした場合の個人の運命は、半分以上境遇に支配されるものではないか。即ちかかる場合には、主たる人物として窮地に陥る原因は、むしろ周囲の事情や事件の合成力と解すべきではないか。このような境遇本位の悲劇を写すには、我が国の挿話沢山の草双紙張の劇の形式はすこぶる面白く利用さるべき性質のものではないか。このようなことを考えながら、逍遥が書き上げたのが「桐一葉」であったと云うことです。(坪内逍遥:「桐一葉」執筆の動機:「新演芸」大正6年より)

ですから逍遥が第二幕「吉野山桜狩〜畜生塚怨霊」とか、銀之丞の件とか、従来の歌舞伎の作劇手法を無批判的に踏襲し「桐一葉」の筋を無用に錯綜させているかのような印象を受けますが、これはむしろ西洋演劇を熟知した逍遥がこれを逆手に取って新時代の演劇を生み出そうとした進歩的発想から生まれたと見るべきです。しかし、逍遥が熟考の末に生み出したその先進性が周囲にどこまで正しく理解されたかというところが問題です。多分当時も「逍遥先生は旧劇感覚で古臭いねえ」と感じた人が多かったかも知れません。

「桐一葉」では三幕目の黒書院の場、六幕目の片桐勝元邸、長柄堤の場はよく知られており、この形での通し上演はこれまでも結構行われていました。しかし、銀之丞・蜻蛉の件の上演は大正6年帝国劇場以来絶えており、今回(昭和42年11月国立劇場)の通し上演では、この部分の復活が最大の眼目となっています。銀之丞の件の上演が絶えたのは、「桐一葉」が大正以降の上演では五代目歌右衛門の得意演目として「淀君集」のなかの一曲として定着してきたからだと思われます。淀君の件を本筋と見るならば、銀之丞の件は脇筋になるのです。しかし、逍遥が目指したものは、西洋演劇の理念に基づく英雄本位の壮大な性格悲劇の史劇ではなく、名もない 一個人が国家の興亡の渦に巻き込まれて滅んでいく状況悲劇であり、それがいくつもの挿話から構成される史劇ということなのですから、銀之丞の件の復活は確かに逍遥の意図に沿うものだと思います。

銀之丞は頭がちょっと弱い男ではありますが、純情無垢な人物です。銀之丞の且元の娘蜻蛉に対する恋自体は、豊臣と徳川の戦いとは全然無関係の出来事です。しかし、蜻蛉は大阪城内での父且元を巡る厳しい状況に心を痛めており、彼女自身は木村重成に思いを寄せているものの、思いを果たすことは出来ません。結局、政治的駆け引きに翻弄されて蜻蛉は自害してしまいます。銀之丞は一度は蜻蛉を嫁に出来ると思い込んで喜び踊りますが、蜻蛉が死んだと聞いて、「一体、誰が殺した、何故死なさせた・・」と叫びながら死んでいきます。だから銀之丞も政治に振り回された犠牲者の一人なのです。

銀之丞については逍遥は、我慢が五分、教育の足りないのが三分、短気が一分、馬鹿が一分と評したそうです。銀之丞の役作りはなかなか難しそうです。どうしても馬鹿の作りで滑稽が先に立ち勝ちになってしまって、そうなると純情真摯なところが弱くなります。そこへ行くと、今回、七代目梅幸が演じる銀之丞は観客を馬鹿で笑わせるところがなく、そこを幼児的な感覚でやんわりと処理していて、なるほど感心させられました。こういうところで梅幸の、肩に力を入れずに自然体で役に対する姿勢が生きて来ます。「いたいけな子が嫁御欲しいと云うた」と喜び踊る場面が、蜻蛉が死んだと聞いて一転して嘆きの場面となる変化は、哀れさがよく出ました。

こうして銀之丞の件など復活して「桐一葉」を再構成してみると、淀君の重さが意外と小さいことを改めて実感できます。これは今回の、淀君役の三代目左団次が悪かったということではなく、全体のなかでの本来の淀君の大きさに戻ったということです。淀君の件も数ある挿話のひとつに過ぎなかったということです。「桐一葉」を淀君物にしたのは、初演の後の五代目歌右衛門であったわけですね。(この稿つづく)

(H30・9・9)


4)寿海の長門守、三津五郎の且元

吉之助がこの映像を取り上げたのは、三代目寿海の長門守が見たかったからです。寿海は、この時81歳でした。しかし、さすがに動作には多少の衰えが見えるものの、台詞廻しでは 見事なところを聞かせてくれました。寿海の台詞廻しについては、別稿「左団次劇の様式」でも触れた通り、台詞のリズムの打ちはしっかり押さえているのですが、流麗な抑揚で刻みをあまり目立たせず に(リズムの刻みが目立つと台詞が硬い印象になってきます)、適度な緩急を加えて柔軟な台詞廻しに見せかけていることです。そのせいか寿海の台詞廻しを「歌う」と形容する劇評家が少なくありません。実はそれは表面だけの印象を聞いているからであって、寿海が新歌舞伎の創始者である二代目左団次の後継者たる所以は二拍子の「畳み掛ける」リズムの打ちをしっかり押さえている点にあるのです。そのことは遺された寿海の新歌舞伎の録音の台詞の末尾を聴けばすぐ分かることです。「○○じゃな〜あ〜あ」という言い方を新歌舞伎はしません。従来歌舞伎ならば末尾を伸ばすところを裏切って「○○じゃなあ」で寸を詰めるのが新歌舞伎です。「○○/じゃ/なあ」の二拍子のリズムの刻みを最後まで維持するのです。台詞の末尾を引っ張っ たり転がしたりしないのが新歌舞伎なのです。

注を付けますが、逍遥の「桐一葉」はいわゆる左団次劇ではありませんが、新歌舞伎の先駆として同じく畳み掛ける二拍子のリズムを取っているのです。二十世紀初頭の迫りくる国の存亡の危機が個人の運命も巻き込んで行く、そのような逼迫した状況においては、個人は胸に張り裂けるほどに溜まった心情を一気に吐き出さずにはいられない気持ちになり、台詞のリズムは急いて「畳み掛ける」感じになる、つまりそれは機関銃のような早い二拍子のリズムになるのです。もちろん歌舞伎ですから相対感覚として旧来歌舞伎よりは「早い」という程度であって、新劇の翻訳劇みたいに早いと云うことではないですが、早いという感覚はとても大事です。これは二十世紀初頭の民衆が置かれた状況から来るもので、様の東西を問わず、この時期の芸術思潮としてあるものだからです。そんな時代に「○○じゃな〜あ〜あ」なんてのんびり歌う台詞廻しなどあり得ません。

長柄堤の場での、 大坂城を去って行く且元を見送る寿海の長門守の台詞廻しは素晴らしいものです。もちろんこれは共演の八代目三津五郎の且元にも同じことが云えます。且元と長門守の間の共通した感情、滅びゆく豊臣家の運命を目の当たりにしながら急いても一個人ではどうにも出来ない焦燥感がそこに漂っています。これが 確かに悲劇の感覚です。台詞の根底にしっかりと畳み掛ける二拍子が意識されている、それでいて様式的なたっぷりした感覚もある、実にいい場面に仕上がりました。ところで今回の舞台では、世紀末の急いて畳み掛ける感覚のなかに、どこか諦観した感覚が入り混じっているかも知れません。それは寿海と三津五郎の台詞の様式的な感触から引き出されて来るものです。諦観と云うとそれは悲劇の感覚とちょっと違ってしまうようだけれども、しかし、初演当時(明治37年・1904)の生(なま)な突き刺さる感覚から約60年が経過して、昭和42年(1967)の上演ともなれば、それは次第にこなれて客観性を帯びた感触になって行くものでしょう。それは「桐一葉」が古典になって来たということなのです。そう云うことも感じますねえ。

「桐一葉」初演の時にも且元は自殺しない(豊臣家から裏切り者と見なされて大坂城を退去せざるをえなくなるが自害はしない)ので悲劇の主人公にならないという批判があったそうです。そのような批判は主人公が破滅するのが「悲劇」だと思い込んでいるから出て来るのです。この批判について逍遥は、それは史実が許容しないばかりでなく、初めから作者の主旨でないと云っています。逍遥が且元に見たものは、境遇悲劇です。且元ほど主家が置かれた危機的状況を冷静に理解し、主家の行く末を憂い、主家の存続のために身を粉にした人物はいません。しかし、且元の気持ちは周囲からまったく理解されず裏切り者扱いされて、終には主家からも見放されました。こうして彼自身は主家が滅亡に向かっていく有り様をどうすることも出来ず、悲しい思いでただ傍観していなければならなくなります。その後の史実の且元は徳川方にあって、隠居を申し出ましたが認められるはずもなく、夏の陣にも参加せざるを得なくなって、大坂城落城から20日ほど経って前年から患っていた肺病で亡くなりました。「桐一葉」ではそこまでの且元は描いていませんが、豊臣家滅亡を目撃した且元の心中は如何ばかりであったでしょうか。死ぬことも生きること出来ない境遇悲劇、それが逍遥が意図したものであったのです。

(H30・9・14)


 

 

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