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お初の「初一念」を考える

令和3年12月京都南座:「曽根崎心中」

四代目中村鴈治郎(平野屋徳兵衛)、三代目中村扇雀(天満屋お初)、二代目中村亀鶴(油屋九平次)、四代目中村梅玉(平野屋久右衛門)他

(四代目坂田藤十郎三回忌追善狂言)


1)お初の「初一念」

本稿で紹介するのは、令和3年(2021)12月京都南座での、「曽根崎心中」の舞台映像です。一昨年(2020)11月に亡くなった四代目藤十郎の追善狂言ということで、徳兵衛を鴈治郎・お初を扇雀のお初の、兄弟二人が勤めています。ご承知の通り、「曽根崎心中」は昭和28年(1953)8月の初演以来、もっぱら四代目藤十郎(二代目扇雀-三代目鴈治郎-)のお初を軸に長年上演されて来たわけです。だから世間ではお初と云えば、藤十郎のイメージです。しかし、これまで藤十郎以外のお初が全然なかったわけではなく、早いところでは、例えば昭和62年(1987)4月国立小劇場での「曽根崎心中」がそうで、浩太郎(後の三代目扇雀・当時26歳)が初役でお初を勤めています。この時の舞台は吉之助もよく覚えています。なおこの時の徳兵衛は智太郎(後の四代目鴈治郎・当時28歳)で、智太郎は既に何度か徳兵衛を経験していました。(当時二代目鴈治郎は既に亡く、藤十郎(当時は二代目扇雀)は56歳でした。)

昭和62年4月国立小劇場「曽根崎心中」チラシ
智太郎(当時28歳)の徳兵衛、浩太郎(当時26歳)のお初

実説の徳兵衛は心中した時に25歳、お初は19歳(21歳との説もあり)であったと云われています。つまり・この時の智太郎・浩太郎は、実説の二人に年齢がとても近かったのです。例えば「ロメオとジュリエット」は人気作ですからベテラン俳優のカップルが演じることも少なくありませんが、役設定(ロメオ17歳・ジュリエット13歳)に近い若い配役で見ると、芸の上手い下手を越えた・新鮮な感動を覚えることがあるものです。昭和62年4月国立小劇場での、智太郎と浩太郎の若いカップルによる「曽根崎心中」も、まったくそのような舞台であったと思います。もちろん技芸的にはまだまだであったと思います。そりゃあ祖父・父の舞台にかなうわけはありません。しかし、一生懸命勤めますと云うこととはまた別種の・どこか熱い熱気が伝わって来て、若い身体の素材そのものが放つメッセージと云うものがやはりあるのだなあと云うことを思ったものでした。特に歌舞伎の場合には、大ベテランが若い恋人同士を演じることが他狂言においても日常茶飯事です。それが当たり前の感覚になって、その辺のことをつい忘れてしまい勝ちですが、お軽勘平でも若い役者カップルで見てハッとさせられることはやはりあるものです。

そこで「若い身体の素材そのものが放つメッセージ」と云うことですが、それはつまり、「深いことは考えず・思い込んだらまっしぐら、失うものは何もない、何も恐れるものはない、見ていろ・やってやろうじゃないか」と云うメッセージなのです。このようなストレートなメッセージは、若くなければ決して出せません。歳を取れば、嫌でも世間の柵(しがらみ)にまみれるし・要らぬ分別も付いて来ます。まあそれも生きていれば大事な知恵ではあるのですが、若い人にはそれはない。年寄りから見ると、かつて自分も持っていたはずだけれども・いつの間にか忘れてしまった大切なものを教えられた気がすることも、時にはあるものなのです。

ところで「曽根崎心中」のことですが、初演は元禄16年5月7日(旧暦)・大坂竹本座の人形浄瑠璃で、これは実説の心中から1ヶ月後のことでした。「曽根崎」で竹本座は借金を一気に返済してしまったほどの大評判となりました。興味深いことは、その直前にまったく別の物凄い大事件が起こっていることです。本来ならば大坂中の話題はそっちの方で持ち切りだったはずで、醤油屋の手代と女郎の心中噺は消し飛んでしまいそうに思うのです。その物凄い大事件とは、「忠臣蔵」事件(元禄赤穂事件)のことですがね。前年暮・元禄15年12月14日に大石内蔵助以下四十七名が本所・吉良上野介邸に討ち入り、亡君の無念を晴らした事件です。内蔵助他四十六名に切腹の御沙汰が下ったのは、元禄16年2月4日のことでした。実説の曽根崎の心中は同年4月7日のことですから、当然徳兵衛もお初も「忠臣蔵」のニュースを知っていたはずです。

吉之助が申し上げたいことは、「曽根崎」は愛しあう若い男女が・よんどころない事情で死に赴くことになった愛のドラマと考えるのは、もちろんそういうことであるに違いない。それはそれで正しいことなのですが、この芝居がもし「愛のドラマ」だけであるのならば、大坂中が「忠臣蔵」の噂話で湧き返っている時に、「曽根崎」は消し飛んでしまいかねないと思うわけです。忠義のドラマである「忠臣蔵」とでは、あまりに次元が違い過ぎます。しかし、実際には「曽根崎」は大ヒットを記録しました。さらに世間にその後の心中ブームを引き起こすきっかけにもなったほどでした。と云うことは、「曽根崎」のドラマには「忠臣蔵」のドラマと心情的に何か重なる要素があったに違いないのです。「忠臣蔵」と同時代のドラマとして、相乗的に「曽根崎」はヒットしたということなのです。そのような仕掛けを作ったのは、もちろん近松門左衛門です。近松は、曽根崎の森の心中は「忠臣蔵」事件に連鎖する形で引き起こされたと読んだのかも知れません。このことは天満屋でのお初の台詞のなかにはっきりと表れています。

「徳さまの御事なら、幾年か馴染を重ね底の底まで、心根を明かし明かせし仲なるが、それはそれはいとしぼげに微塵いささか、そのやうな悪いお人ぢゃござんせぬ。情けが結句身の仇で、だまされさんしたものなれど証拠なければ理も立たず。この上は徳さまも死なねばならぬ品なるがハテ死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オヽその筈/\、いつまでも生きても同じこと、死んでその恥をそゝがいでは。」(「曽根崎心中」)

このお初の台詞は、もしかしたら真山青果の「元禄忠臣蔵・大石最後の一日」のなかで、内蔵助に磯貝十郎左衛門に会わせて欲しいと娘おみのが訴える台詞と対比すべきかも知れませんねえ。これは作品中で内蔵助が繰り返し語るところの、「初一念」と深く関係することです。おみのの台詞を見てみます。

「一端の偽りは、その最後に誠に返せば、偽りは偽りに終りますまい。実(まこと)のために運ぶことも、最後の一時を偽りに返せば、そは初めよりの偽りでございましょう。(中略)十郎左さまにさえお目にかかれば、やがて必ず誠に返してお目にかけます。十郎左さま方便の偽りも、おみのは誠に返してお目にかけます。どうか、どうか十郎左さまに、お引きあわせを願い上げます。」(「大石最後の一日」)

印鑑を盗んで偽りの借金証文を書いたという濡れ衣を着せられて・徳兵衛は窮地に陥りますが、証拠なければ理も立たず。しかし、これを一発で偽りを実(まこと)に返してみせる方法がある。そのために私たちは「死んでみしょう」と云うことなのです。偽りを必ず誠に返してお目にかけます、これがお初の論理なのです。(この稿つづく)

(R4・1・3)


2)「曽根崎」のラジカル性

「心中」という言葉は、元々「まことの心、まごころ」を意味するものでした。転じて「他人に対して自分の気持ちを示す」ことを「心中立(しんじゅうだて)」と云い、これがだんだん相思相愛の男女の間で使われるようになります。相思相愛の男女がその気持ちを押し通して二人して死ぬことは、心中立の究極の形と云うべきものです。「愛ゆえに命を捨てる」というと、何だかロマンチックな甘い響きに聞こえますが、これは「愛し合う私たち」を世間に対して誇示する行為に他ならないのです。武士が体面を意識したのと同じく、町人も「義理が立つ」・「私(わたくし)が立つ」ということを強く意識しました。死ぬことで世間に対する「個」の主張を押し通すことが、心中を甘美なものにします。(別稿「かぶき的心情とは何か」をご参照ください。)

だから幕府は心中の流行を危険視したのです。「心中」という言葉は、武士の最高徳目である忠義の「忠」の字を分解して上下転倒にしたものと言われていました。これは後付けの理屈に違いありませんが、単なるこじ付けだとも言い難い。武士にとっての「忠」に対して、町人にとっての「忠」こそ「心中」であると解されたのです。これは幕府にとって我慢ならないことでした。八代将軍・徳川吉宗は「忠」を連想させる心中を、「もってのほか不届きの言葉なり」と激怒し、心中した者は「人にあらざる所行」・「畜生同断の者なれば」・「死切候者は野外に捨べし、しかも下帯を解かせ丸裸にて捨てる。これ畜生の仕置なりと御定被遊ける」(「名君享保録」)と言ったと伝えられています。尋常ではない怒り様です。享保7年(1722)、続いて翌年にも、幕府は心中禁止令を出しました。その条文のなかで「心中」という言葉自体を不当なものとして代わりに「相対死」(あいたいじに)という言葉を用い、甘美な響きを消し去ろうとしました。

以上のことから、「曽根崎心中」でお初が「この上は徳さまも死なねばならぬ品なるが、死ぬる覚悟が聞きたい。(中略)オオその筈、いつまでも生きても同じこと、死んでその恥をそゝがいでは」と叫ぶことが、どれほどラジカルな行為であるか、その意味は明らかなのです。しかも、その台詞が遊女風情によって言われているのです。お初が主張することは、「私が愛したのは大坂商人・徳兵衛である、どんなに惨めであっても・徳兵衛は大坂商人である、これが私が愛した男である」ということです。「大坂商人である」ということと、「私が愛した男である」と云うことがぴったり重なっています。「死んで見せることで、徳兵衛が大坂商人であるという実(まこと)をお目にかけます」と云うのです。ですから「曽根崎」は「愛のドラマ」であると同時に「心情」のドラマでもあることが、これでお分かりいただけると思います。

西洋では、こんな芝居は絶対にありません。(徳兵衛は)まったくみじめな姿で第2幕(天満屋)に登場し、縁の下に入って、お初の足首にしがみつくんです。西洋の芝居ではあれほどみじめったらしい主人公はまずいないと思います。ではそれほどにも頼りない男がなぜ主人公になる資格を持つのか。それは道行があるからなんです。あの道行がなければ、「曽根崎心中」という芝居もありません。(中略)お初と徳兵衛は、世界苦の代表・人間の業の代表として死に場所へ向うんです。だからこそ二人は歩きながら背も高くなります。そして、目指す曽根崎の森に着いたときには徳兵衛は立派な人間です。彼は偉大な人物として死んでいくのです。」(ドナルド・キーン/徳岡孝夫:「棹友紀行」(中公文庫)

キーン先生は「道行で二人は歩きながら背が高くなる」とズバリ指摘しています。ここでの徳兵衛は、もはや醤油屋のみじめったらしい手代ではなく、誇り高い大坂商人・徳兵衛なのです。徳兵衛にその方向を指し示したのは、お初でした。だからこそ、「曽根崎」冒頭の観音廻りの詞章にある通り、お初は「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」なのです。(この稿つづく)

(R4・1・6)


3)「曽根崎」幕切れの改訂

前述の通り、昭和62年(1987)4月国立小劇場での、智太郎・浩太郎の「曽根崎」には、「若い身体の素材そのものが放つメッセージ」があったのです。当人たちがそれを意識したかどうかは分かりませんが、若い身体が近松の「曽根崎」のラジカル性を自然と想起させました。吉之助も彼らと同じ昭和30年代世代として(吉之助の方が若干上にはなりますが)当時・彼らと同じ目線で「曽根崎」のドラマをそのように見たわけです。それでは、その34年後になる、令和3年(2021)12月京都南座の、同じ二人が演じた「曽根崎」はどうであったでしょうか。吉之助も同じように34年を生きてきました。だからこの34年の歳月を同じ視線で見ることになります。あの時の若さはもう失われたわけですが、その代わりに芸の豊潤な実りを見せ始めているか、そこが大事なことになると思います。そう云う(或る意味では厳しい)見方になってしまうのは、やはり彼らが吉之助と同世代であるからですね。

実は別稿「上方和事の行方」のなかで、平成27年(2015)2月大坂松竹座での「曽根崎」(この時のお初は四代目藤十郎)での・新・鴈治郎の徳兵衛について、「この役を(初役以来)30年近く演じてきたことを考えれば・このレベルの徳兵衛ではチト困る」と書いたのです。あれから数年が経過しました。まあ正直申して、同じ60代の頃の親父さんと比べればまだ物足りないということにはなるでしょうが、この数年で、鴈治郎も扇雀も、芸の進境を見せてはいます。第2場(天満屋店先)は、それなりのひたむきさを以て描かれています。もちろん天満屋は成駒屋の名に懸けて死守せねばならぬ場面で、そこはよく頑張ってします。しかし、注文があるのは、第1場(生玉神社境内)です。これは「曽根崎」改訂本を元にして脚色した宇野信夫の台本に大いに責任があることは事実ですが、「曽根崎」の悲劇を1幕3場の・序破急の古典的感覚で捉えて、第1場(生玉神社境内)を「悲劇の発端」(お初徳兵衛が死に赴かざるを得ない状況が第1場で生成する)と見えるところに問題があると思います。九平次に騙され・辱められたことで徳兵衛は心中せねばならなくなると見えることです。恐らく鴈治郎も扇雀も、そのように考えているでしょう。確かにそれでも「曽根崎」は十分「愛のドラマ」にはなります。しかし、そうであるならば、大坂町人の心中沙汰を誘発する「心情のドラマ」には決してならないのです。

「曽根崎」を心情のドラマにするために、序破急の古典的感覚を壊さねばなりません。「お初徳兵衛が死に赴かざるを得ない状況が第1場で生成する」のではなく、お初徳兵衛は何かしら日常に形容しがたい憤懣を抱えており・いつ何時それが爆発しかねない状況にあった、もともとそれが悲劇のタネであったわけで、始めからぶすぶす燻ぶっていたところに九平次の一件で火が付いたと云うのが、第1場(生玉神社境内)なのです。悲劇のタネは、遊女であるお初の悲惨な境遇、醤油屋の手代としてアクセク働く日常に苦しむ徳兵衛の境遇にあるのです。そこに元禄の大坂町人を熱くさせた要因があります。九平次の件は引き金にしか過ぎません。ですから「曽根崎」の悲劇は「起こる」(状況悲劇)のではなく、最初から「在る」(存在悲劇)のです。(別稿「近松世話物論〜歌舞伎におけるヴェリズモ」をご参照ください。)

34年前の智太郎・浩太郎の若い身体は、そう云うことを意識せずとも、直接的に「示した」のです。現在の、鴈治郎・扇雀にはその「若さ」はもうない。だから同じものを頭脳で理解して・芸として形で見せねばならぬわけです。そこのところがちょっとねえ・・・。繰り返しますが、お初徳兵衛を被害者的な心中にしてしまった宇野信夫の台本にも大いに責任があるのです。しかし、台本をしっかり読み込んで、台本の至らぬところを繕って見せるのも役者の仕事です。台本をいじらなくても、役の性根の解釈で色合いを変えて見せることは出来るはずです。第1場(生玉神社境内)に関しては、お初徳兵衛が死に向かって暴走するための、さらなる工夫が必要だと思います。

しかし、今回(令和3年12月京都南座)、彼らがそう云う試行錯誤を試みなかったわけではありません。従来の「曽根崎」幕切れでは、目を閉じて合掌するお初の後ろで徳兵衛が脇差を抜いて構えるところで幕を下ろして、心中場面は見せなやり方です。しかし、今回は第3場(曽根崎の森)では、台本を変えずに、徳兵衛がお初を刺し殺し・自らも喉ぶえを切って自害するところまで演じ切って、そこで幕を下ろすように変えています。お初徳兵衛が折り重なって絶命するところまで見せたことで、悲劇のイメージが鮮烈になりました。このことは高く評価したいと思います。ところで丸本を参照すると、お初徳兵衛の心中場面はまことに凄惨に描かれています。

「いとし、かはいと締めて寝し・肌に刃が当てられうかと・眼もくらみ、手も震ひ、突くとはすれど、切先は・あなたへはずれ・こなたへそれ・二、三度ひらめく剣の刃、あっとばかりに喉ぶえに、ぐつととほるが、「南無阿弥陀仏/\、南無阿弥陀仏」とくりとほし、くりとほす腕先も、弱るを見れば両手を伸べ、断末魔の四苦八苦、哀れと云うもあまりあり。「我とても遅れうか、息は一度に引き取らん」と、剃刀取って喉に突き立て、柄もおれよ刃も砕けと、ゑぐりくり/\目もくろめき、苦しむ息も暁の、知死後につれて絶え果てたり。」(「曽根崎心中」丸本)

映画監督の篠田正浩氏は、「刀の使いようを知らぬ町人を凝視する武士だった男(近松)の非情さを見逃すわけにはいかない」と書いています。残酷なほどのリアリズムです。まあ舞台でそこまで見せるのはどんなものかとは思いますが、「曽根崎」においては心中場面は直視せねばならぬものです。今回の幕切れの改訂で、「曽根崎」は何かしら完結した感覚を得ることが出来たと思いますね。

(R4・1・9)



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