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クリティカルな「黙阿弥」のために

平成17年(2005)1月・歌舞伎座:「魚屋宗五郎」
  
九代目松本幸四郎
(二代目松本白鸚)(魚屋宗五郎)

     (参考)平成17年(2005)1月・歌舞伎座:「盲長屋梅加賀鳶」
                 九代目松本幸四郎
(二代目松本白鸚)(按摩道玄)


1)黙阿弥のフォルム

現行歌舞伎の問題点のひとつは、「黙阿弥の様式美・音楽美」というイメージのために黙阿弥劇が次第に写実から離れて・間延びしたものになってしまったことだと思います。資料的に論証ができないのですが、六代目菊五郎の死以降に・黙阿弥もののテンポはぐっと遅くなって・間延びしてきたと想像しています。 吉之助が歌舞伎を見始めた昭和50年代には黙阿弥もののテンポは既にかなり間延びしておりました。むしろ最近の方が若干テンポを戻しているのではないかと思うくらいで、黙阿弥ものに関してはこの時期が一番テンポが遅かったようにも感じています。ところが、六代目の世話物の録音などを聴きますとこれが「あれっ、昔はこんなに早かったの」という軽い驚きがあるのです。感触もサラリと乾いた感じです。菊五郎劇団の面々は六代目菊五郎の薫陶を受け・その教えをよく守り・その形をよく伝えましたけれど、形を守ることに気が行き過ぎて・若干テンポが遅くなった弊害があったのではないかと 吉之助はちょっと感じています。この時代(昭和末期)の歌舞伎のことは(もちろん吉之助は個人的に大変お世話になりましたが) 黙阿弥に関してはちょっと考えておかねばならない問題もあったように思います。

ところがそんな流れのなかでも敢然とそれに抵抗する役者はやはりいるもので、若くして亡くなった初代辰之助がそういう数少ない役者でした。辰之助は口跡が明瞭な人で・黙阿弥ものでも早いテンポで勢いのある台詞をしゃべりましたが、いわゆる七五調のイメージからかなり遠い台詞回しでありました。リアルに演じたい辰之助の気持ちはよく分かりましたけれど、若干 剛速球一本槍という感じがあって、もう少しテンポに幅を持たせて変化球も混ぜてくれればよろしかったなあと思いました。しかし、それ以後に黙阿弥を写実に戻そうと果敢に問題提起を行なおうとする役者は現われないようです。

さきほど「最近の黙阿弥上演の方が若干テンポを戻しているかも」と書きましたが、単純にテンポが早くなればいいと言うものでもありません。やはり黙阿弥には黙阿弥なりの台詞独特のフォルムというものがあるので、ただテンポを早くするとますますフォルムが崩れてしまいます。これについては別稿「 試論:黙阿弥の七五調の台詞術」にも書きましたが、黙阿弥の七五調の場合には「遅い(様式)」と「早い(写実)」の伸縮が肝心なのです。あるいはこれは時代と世話の揺り動きと言ってもよろしいものです。

ところで平成17年1月歌舞伎座において幸四郎は、「盲長屋梅加賀鳶」の按摩道玄、「新皿屋舗月雨暈」の魚屋宗五郎を共に初役で演じました。その積極的な取り組みは大いに評価すべきだと思います。その幸四郎の黙阿弥の演技ですが、型の手順・約束を忠実に守りながら・そこに写実の表現を入れようとして、結果的にその手順がフォルムに落ち着くのではなく・技巧として浮き上がるという非常に興味深い現象を呈しています。誤解して欲しくないのですが・これは皮肉で言っているのではありません。そこに黙阿弥のフォルムが時代と世話に引き裂かれている状態が露わに見えているのが興味深いということを言いたいのです。

ただし幸四郎に問題ありとすれば、その引き裂かれた状態(ギャップ)が「裂け目」としてアンビバレントな感情で実感されるのではなく・「ちぐはぐ状態」として多少滑稽味を以って見えてくるというところにあると思います。 このことが喜劇味の濃い道玄では比較的成功し・シリアスな要素が若干強い宗五郎ではうまく行っていない原因になっているのですが、幸四郎の演技コンセプトとして二役を分けて演じているつもりではないでしょう。それだからなおさら興味深いということが言えます。

幸四郎の演技の特徴が端的に現われているのは、おなぎが妹が殺された経緯を話すのを聞きながら、「(磯部の殿様が妹の)髷をつかんだとさ何てエひでえ」と父太兵衛に感情を込めて時代風に嘆きながら・おなぎに サッと向き直って「それからどうしました」と写実に早口に言う場面です。幸四郎は「何てえひでエそれからどうしました」の時代と世話の緩急の付け方が鮮やか過ぎです。「それからどうしました」を軽妙に早口で言って、そのために芝居が軽く嘘っぽくなってしまって・それで客席からかなり大きい笑いが起きています。

この箇所が笑いを取る場面ではないのは明らかです。むしろここはドス黒い憤りが宗五郎の腹の底に溜まっていく場面なのです。だからここで観客が笑うとマズイの は明らかなのですが、そんなことを幸四郎ほどの役者が分からないはずがないと思います。だから幸四郎がこういう調子でこの箇所を処理したのは意識してやったと思います。笑いを取ろうとしてやったと言うより、ここは時代と世話の変わり目の技巧の妙を見せる「お約束」の箇所として意識してやったということでしょう。全体としては幸四郎は「型( 手順あるいは口伝)」を意識して・忠実に追っているようにも思えるのです。

実際この箇所の処理は難しいようです。平成16年5月歌舞伎座での三津五郎の宗五郎は「それからどうしました」を極端に軽くせず抑えて・客席からの笑いを起こさないのはさすがです。しかし、それでもやはり危うい感じは多少あります。こうして見ると、この箇所が時代から世話に切り替える軽妙な技巧を見せるお約束(口伝)になっていること自体を疑問に思わざるを得ません。黙阿弥は本当にこの箇所をこういう調子でしゃべって欲しくてこの台詞を書いたのでしょうか。

まず歌舞伎ということをまったく考えずに「それからどうしました」と写実に言うとすればどうなるかを考えて見ます。するとこれは低く重めに発声されねばならぬ台詞であると思います。妹が殺される話はつらくて聞きたくはないが・しかしそれでも真相は聞かずにはいられないという相反した思いが伝わってこなければならないでしょう。 吉之助なら低く押しつぶすような声でボソボソと「・・・それから・・どうしました」とでも言いたいところです。

もうひとつ別の言い方も考えられます。怒気を含んで相手を押すように「それからどうしました」を低く強く言うやり方です。責めるつもりはないにしても・相手が磯辺家のお女中であるから・つい怒気を含んでしまうのです。これは「逆櫓」を世話に砕いたのがこの芝居であることが分かれば理解できるでしょう。磯部家女中おなぎは「逆櫓」のお筆に、宗五郎は権四郎に相当するのです。(別稿「荒事としての宗五郎」をご参照ください。)

五代目菊五郎も・その息子六代目菊五郎も低調子で声の通りは悪かったと言われています。六代目の生世話は台詞をボソボソ言って最前列でもしばしば聞き取りにくかったそうです。こうしたことから考えると、 吉之助は初演の五代目菊五郎は低調子でボソボソと「それからどうしました」と言ったに違いないと想像します。この台詞は絞り出すように言わないと言えない台詞ですし、その方が生世話の写実の定石に沿っているのです。それがどうして今の言い方に定着してしまったのかと言うと、伝言ゲームの原理で何人かに伝わっていく段階でいつの間にやら変化してしまったのだろうと想像をしています。恐らく五代目菊五郎の台詞は「なんてエひでえ」と「それからどうしました」に緩急の差がついていて・確かにそれが良かったのでしょう。しかし、その勘所はテンポではなくて・声のトーン(高低)であったと 吉之助は思います。この想像は文献的に確かめようがないですが、吉之助のなかでは確信のある想像です。

そこで話を幸四郎の言い回しに戻しますと、この箇所で観客が笑うのがまずいことくらい幸四郎ほどの役者が分からないはずがないのですから、幸四郎はやはり意識してあの言い回しをしているに違いないのです。口伝にある・時代から世話への切り替えの妙を再現しようということでしょうが、それが鮮やか過ぎて・かえって嘘っぽく感じるのです。もしかしたら観客から笑いの出るのは「お約束」のせいで現代では仕方がない・黙阿弥とはそういうものだと幸四郎は思っているのかも知れません。結果として幸四郎の演技は「現代の黙阿弥の批評」たり得ているのです。これは嫌味で言っているのではありません。幸四郎の演技が黙阿弥の様式美・音楽美のイメージに問題提起を投げかけていると考えたいのです。


2)引き裂かれたフォルム

例えば宗五郎が酒樽を持って家を飛び出し・バタバタと駆け出して花道七三で酒樽を振り上げて決まるというおなじみの形ですが、この見得を写実の感情(この場合ならば宗五郎の階級社会に対するやり場のない怒り)を究極にまで高めたものとして形象化するのが、もちろん通常の型生成のプロセスなのです。「宗五郎内」はこの宗五郎の花道の見得に向けて・すべての段取りが構築されていると言って良いものです。世話の見得は正確には「決まり」と言うのであって「見得」とは言いません(見得とは時代物の用語なのです)が、ここでは便宜上「見得」と呼ぶことにします。バタバタと駆けていく写実の動きから・見得をする時代の動きへとスムーズに・その切れ目を観客に意識させるなく流れで見せて行くのが、世話物の通常の演技思考であろうと思います。

しかし、世話と時代の境目を観客にあえて意識させ、そこに裂け目をありありと現出させようとするやり方もあり得るかも知れません。別稿「荒事としての宗五郎」で宗五郎の酒乱の荒れは世話の荒事であるということを申し上げました。この場面での宗五郎は、荒事での御霊神のキャラクターと同様に・ 理不尽なものへの煮えたぎった怒りに突き動かされているのです。その意味で彼は人間ではない何ものかに変化しているとも言えます。そのような何ものかの動きは生身の人間ではない動き・写実ではない動きを示します。それが見得の表現するもの なのです。とすれば酒樽を振り上げた宗五郎の花道での形はまさに「見得」としか言いようのないものです。宗五郎の花道での見得は写実(生身の人間の感情)の高められたところの究極の形として現われるのではなく、逆に写実を押しつぶすものとしてその内面から破裂するように立ち現われるのです。

幸四郎の宗五郎が花道で酒樽を振り上げて決まる見得は、確かにその形を見せるためだけに段取りされているように見えます。バタバタと花道を掛けて行く写実の動きがそこで中断されて「ハイ、お約束のポーズ」という感じに見えます。悪く言えば写実から様式への動きに連続性がなくバラバラです。しかし、逆に言えばそこに明確な境目が見えるということが言えるかも知れません。そこに表現の裂け目が明確に見えてくるならば幸四郎の見得への移行の仕方は「批評」になる可能性があります。

問題は幸四郎が「型」というものが持つ引き裂かれた状態を表現しようとする時、観客にはそれが「ちぐはぐ状態」のように・何かしら滑稽なもののように映ることです。そのために裂け目をシリアスなものとして観客が捉えられないきらいがあります。これは幸四郎にも更なる工夫の必要があるのです。幸四郎はそこに至るプロセスをもっとシリアスなタッチで描くべきなのです。

例えば宗五郎の「それからどうしました」の台詞は、内面の怒りを押し出すように・おなぎが思わず後ずさりするくらいの気迫で言われた方が幸四郎の仁ならば良いのです。そしてハッとして「ついカッとして失礼をしてしまいました・・」という思い入れでうなだれて見せれば世話になるでしょう。これはもちろん現行歌舞伎の口伝ではありません。しかし、こうすれば観客が笑うことはあり得ないし、宗五郎の花道での「引き裂かれた見得」への段取りにもなるのです。

このことは道玄の演技についても言えます。「伊勢屋質見世」の強請場で加賀鳶松蔵にお茶の水での殺しの件を指摘されて、それまで煙管を加えてふてぶてしい態度をしていた道玄がアッと口を開けて間の抜けた表情を見せるのは、現行歌舞伎の型です。観客は大喜びする場面ですし、幸四郎もそのように演じています。それは型通りでいいですけれど、幸四郎の仁ならば・苦虫を噛み潰したような表情でギラリと目を剥いて「この野郎・・」という殺気で松蔵を横目で睨み付けるくらいに凄みを見せた方が似合っていると思います。もちろんそのようなやり方は歌舞伎の型・口伝にありません。しかし、それは道玄が五代目菊五郎の芸脈でしか演じられてこなかっただけの話であって、それは不幸なことかも知れないのです。

「道玄」の件で言えば・この役は「四代目小団次が演じた村井長庵のような悪人が演りたい」という五代目菊五郎の希望で黙阿弥が書いたものでした。五代目菊五郎は恐らく自分の仁に合っていないということで・長庵を一度も演じておりません。だから黙阿弥は菊五郎の仁に合うように道玄を書いたと考えるのが普通ですが、あるいは黙阿弥が懐かしい小団次を思い出すように書いたものを菊五郎が自分流に変えてしまったということもあったかも知れません。もし小団次が明治の世に在って道玄を演じたら・・・ということもちょっと想像してみたいと思うのです。それならば道玄は今の幸四郎にピッタリの仁ではないでしょうか。それならばお茶の水での殺しはもっと凄みを見せてもいいでしょうね。

そう考えれば宗五郎にしても・道玄にしても、かどかどの時代の決めの動き・世話との揺り動きを、引き裂かれたアンビバレントな表現として形象化することは幸四郎ならでは可能なことであると思います。問題はそこに至るまでの詳細なブロセスの構築です。そのためにある部分は現行の型の手順・お約束から思い切って離れる必要があります。そうすれば幸四郎はまったく新しい宗五郎・道玄のクリティカルな姿を創出できるでしょう。

(H17・9・18)


 

 

 

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