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十七代目勘三郎の「彦市ばなし」

昭和46年6月国立小劇場:舞踊劇「彦市ばなし」

十七代目中村勘三郎(彦市)、三代目河原崎権十郎(殿様)、西川右近(天狗の子)

(国立劇場・第16回舞踊公演)


1)十七代目勘三郎の彦市

木下順二は昭和二十年代に、民話から題材を採った戯曲(民話劇)を多く作りました。その代表は、もちろん昭和24年(1949)に発表された「夕鶴」です。これは民話の「鶴の恩返し(鶴女房)」から採ったものです。その他、戯曲としては「山の背くらべ」・「三年寝太郎」、放送劇では「わらしべ長者」などがあります。一方、「彦市ばなし」は肥後国(現在の熊本県)八代辺りに伝わる頓智(とんち)話を原話とした戯曲です。彦市のモデルが誰なのか、実在の人物かどうかについては、確証がないそうです。八代城下の長屋に住む下級武士で、定職はなく、農作業や傘貼りなどをして生計を立てていたとも云われています。木下順二は、昭和21年(1946)にこれを民話劇に仕立てて好評を得ました。昭和30年(1955)に武智鉄二の演出で狂言仕立てに改作されて、これは現在でも狂言の人気の演目となっています。

今回紹介するのは、西川鯉三郎が木下順二の許しを得て日本舞踊に仕立てたもので、田中青磁脚色・清元栄次郎作曲、西川鯉三郎自身の振り付けにより初演がされました。本作は歌舞伎でも何度か上演されました。十七代目勘三郎は、昭和33年(1958)12月歌舞伎座でこの舞踊劇「彦市ばなし」を取り上げましたが、本興行ではこの一度だけだったようです。今回紹介するのは、昭和46年(1971)6月に国立劇場の舞踊公演で行なわれた舞台映像です。茶目っ気のある勘三郎の仁は、嘘を振りまいて周囲をひっかき廻しても民衆から愛された彦市に、まことにピッタリだと思いますねえ。ところで脚色の田中青磁が公演筋書にこんなことを書いていました。

『今気が付いたことだが、「嘘つき」の踊りというものは案外に少ない。狂言ものなどに沢山ありそうに思うが、あっさり(淡泊)していて取るに足らない。身替座禅の右京などが奥方を騙すが、それだけのもので、ごく人の良いものだ。その点、彦市には人間らしい、性格的な、どうにもならないものがあって、早く言えば、体臭を発している。』(田中青磁:彦市ばなしの舞踊化・昭和46年6月国立劇場舞踊公演筋書)

確かに狂言の太郎冠者などは、嘘をついても・すぐバレて、「やるまいぞ」・「許させたまへ」で終わってしまって、大抵その嘘はあっさりして・後に引かないものです。ところが彦市は嘘をついて・それがバレそうになって「これはマズい」と思うと、また新たな嘘をつくのです。嘘に嘘を上塗りして・その嘘がまた新たな嘘を産む、それでも彦市は平気な顔をしています。彦市は殿様が天狗の面をかぶって登場した時だけは、天狗の親が来たかと思ってさすがに平身低頭しますが、相手が殿様だと分かってしまえば、もう平気の平左です。このようなねちっこいところは、勘三郎が得意にした法界坊にもどこか似ていますね。もっとも法界坊は自分を取り巻く世界に敵意を以て対しているところがあります。彦市にはそれは全然ありませんが、とにかく呆れるほど自分本位であることは共通しています。恐らく彦市には自分が嘘をついている意識は全然なくて、自分に振り掛かっている難事をスイスイ切り抜けるのを愉しむくらいの図太さを持ち合わせているのです。これは、生き抜くための図太さ・したたかさと云うことで、これがつまり田中氏が云うところの彦市の生臭さ・「体臭」ということです。軽めの小品ではありますが、勘三郎ファンであった吉之助にとっては何とも嬉しい舞台でした。

ところで息子の十八代目勘三郎は「彦市」をやらなかったようですが、もしやっていたらどんな感じかなということを思いました。愛嬌があってカラッと陽性の彦市にはなったと思うし、トリックスター的な愉しさもあっただろうと思いますが、「体臭」の強さと云うところでは多分いま一つだったかなとも想像します。まあそこはあくまで十七代目と十八代目の芸の感触の違いということですが、これに両者が演じた法界坊のイメージを重ね合わせて見れば、何となくご納得いただけると思います。

三代目権十郎にはシリアスな役どころが似合ったような印象が吉之助にはあって、「彦市」の殿様はどんなものだろうと観る前は思いましたが、舞台の権十郎の殿様は実に呑気で大らかで楽しくて、権十郎の別の面を知ることができたのは嬉しいことでした。ところで「彦市」に関連して「この民話には領主を笑いのめしたいという領民の願いが込められている」という解説文をたまたま目にしましたが、これは如何にも昭和3・40年代の左寄りの文学研究者によくある唯物史観的視点でイケマセンねえ。民話をそういう視点で読んではイカンと思います。吉之助は「彦市」の殿様は領民に愛されていただろうとしか感じませんねえ。権十郎の殿様には、そういう感じがよく出ていたと思います。(この稿つづく)

(R2・10・28)


2)「彦市ばなし」から「子午線の祀り」へ

以下の文章は、舞踊「彦市ばなし」にはとりあえず関連しません。武智鉄二が茂山千之丞との共同演出で狂言様式による「彦市ばなし」を上演したのは、昭和30年(1955)10月京都大江能楽堂でのことでした。これは台詞を狂言風に直したのではなく、熊本弁の原作をそのまま狂言のイントネーションで発声したものでした。これが大きな評判を呼びました。

『狂言のイントネーションが、生(なま)なリアリズムではなく、方言という生きた言語を、より一層生き生きと、舞台的再計算のなかから浮かび上がらせることを知って、私たちはひどく驚かされた。狂言師が初めて狂言言葉以外の言葉をこの時しゃべったのだが、この歴史的事件のなかで、狂言が単なる会話劇なのではなく、詩劇としての本質を備えていることを私は悟った。木下方言劇が、符牒化された標準語へのレジスタンスであることも、併せて気付いた。』(武智鉄二:「彦市ばなし」演出者のことば・昭和30年10月)

このことは、狂言も木下方言劇も、共に民衆劇に他ならないということを当時の観客に印象付けました。作家木下順二も、民衆劇と云うことを自身の使命として任じたと思います。「民衆劇」なんて用語は、何となく肩肘張った印象があって、現在では滅多に使われることがありません。如何にも昭和30年代の演劇思潮を反映した用語です。しかし、「民衆劇」という概念は、木下演劇を考える時にも、武智理論を考える時にも、とても大事です。

とりあえず「彦市ばなし」を取っ掛かりに木下順二の仕事を追いますが、木下は昭和33年(1958)に岩波書店から「日本民話選」と云う、民話を読み物に書き下ろした本を出版しました。当時「夕鶴」などで「木下は民話作家」だというイメージが世間にあったでしょうから、それで戯曲家であるはずの木下に依頼が行ったものと思われます。この仕事が好評だったようで、二度ほど話が追加されて、昭和37年(1962)には、22編を集めた大判が出されました。ここには「彦市ばなし」の他、「わらしべ長者」・「山の背くらべ」・「三年寝太郎」など、木下が過去に戯曲化した民話も収められています。これらは木下が原話を採取して読み物に仕立てたものですけれど、「彦市ばなし」など数編に関しては、戯曲化の方がずっと昔(昭和二十年代前半)に終わっていたわけです。順序としては逆のプロセスを踏んだ形になるわけです。恐らくここで木下は「民衆劇作家」としての自分の仕事を改めて振り返ることになったに違いありません。木下は、民話が持つ「語り口」について、このように書いています。

『なぜ民話は面白いかという問いは、なぜ小説は面白いかというような問いと同様、漠然としすぎた設問であるに違いない。ただ本来口から耳へ語られるものであった民話の面白さの大きな部分が、文字に書き記された場合にも、その「語り口」のなかにあるということは言えるだろう。(中略)話の好きな老婆が民話を語る有様を思い浮かべるてみると良い。彼女の声音(こわね)、身振り、顔付き、目付き、話の運び方、間のとり方(時には入れ歯のカクカクいく音や水っぱなをすすりこむ音)その他、そうしてそれらすべてが、薄暗い囲炉裏端で、昔から知り抜いているこの婆さんの話上手に期待しつつ、熱心に聞き入って、時に相づちを打っているひなびた子供たちに囲まれて行なわれているということ、こういうことの全体が、多分あの「語り口」の面白さというものを作り出しているのであって、婆さんの顔付きよりはだいぶそっけない文字というものの羅列の中から、つまり文章の中から、「語り口」の場合にああいうものであったところの中身を、文章というものの可能性の中に移しかえて、可能な限り読者の前に浮かびあがらせようとする操作、それが民話の場合の「文体」というものだといって良さそうである。』(木下順二:「わらしべ長者〜日本の民話ニ十二編」・作者の言葉、昭和37年11月)

ここで木下は、民話の「文体・語り口」への思いを、自らの仕事(劇作)に重ねて考えていることは明らかなのです。これは延長すれば、語り物文学(民話もそうですが、代表は言うまでもなく「平家物語」です)も、戯曲と同次元に考えられるのではないかということです。つまり戯曲の台詞とは、どんなものであっても、それは俺の(劇作家)の「語り口」だと云うことになるでしょうか。それは民話の婆さんの「語り口」みたいなものです。

そんなところで木下は昭和42年(1967)に山本安英が主宰する「言葉の研究会」に出合うことになりました。そこで提起されたのが、「日本古典の原文による朗読はどこまで可能か」という問題提起でした。そこから「平家物語による群読〜知盛」四幕という実験的台本が生まれ、これがさらに昭和54年(1979)4月国立小劇場で初演された「子午線の祀り」に繋がっていくわけです。「彦市ばなし」から「子午線の祀り」へ、劇作家木下順二の思索の流れを以上のように、想像してみると面白いのではないでしょうかね。

(R2・10・30)



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