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語り物演劇の系譜〜「子午線の祀り」初演

昭和54年4月国立小劇場:「子午線の祀り」

嵐圭史(新中納言知盛)、観世栄夫(大臣殿宗盛)、山本安英(影身の内侍・読み手B)、滝沢修(阿波民部重能)、野村万作(九郎判官義経)、宇野重吉(読み手A)他

作:木下順二
共同演出:宇野重吉、観世栄夫、酒井誠、高瀬精一郎、木下順二
音楽:武満徹


1)語り物演劇の系譜

本稿で紹介するのは、昭和54年(1979)4月国立小劇場での「子午線の祀り」初演の舞台映像です。「子午線の祀り」初演は、ご当地壇の浦での上演を皮切りに、東京(国立小劇場)の他・大阪・名古屋など各地で公演されました。能から観世栄夫、狂言からは野村万作、歌舞伎から前進座の嵐圭史、新劇から山本安英・滝沢修・宇野重吉と、各ジャンルから錚々たる名優たちが参加しての公演と云うことで大きな話題になったもので、現在では戦後昭和演劇史上の重要な一頁とされています。吉之助はこの公演を生(なま)では見てませんが、当時NHKのテレビ中継でこれを見ました。

「子午線の祀り」執筆の経緯について木下順二が後書きに記しています。昭和42年(1976)に山本安英の会で「言葉の研究会」が発足し、そこで生まれたテーマに「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」と云うのがあったそうです。このテーマを取り入れた実験的作品として木下が書き下ろしたのが、「平家物語による群読〜知盛」四幕という台本でした。これは最初と最後に現代語によるコメントを入れたほかは、もっぱら「平家物語」原文をアレンジすることによって知盛像を描き出そうとしたものであったようです。これが後の「子午線の祀り」の原型となったものです。また「言葉の研究会」メンバーの何人かが「子午線の祀り」に参加しているようです。昭和54年当時の吉之助は上記の経緯を知ったうえでテレビ中継を見たので、「子午線の祀り」については、これを「朗読から発する演劇」と考えて見ました。そのせいか静止画的でドラマティックな流れがちょっと弱い芝居という印象を受けましたが、当時の吉之助にはこの「子午線の祀り」は難しかったかも知れません。嵐圭史が演じる知盛の線が太い台詞廻しに感嘆したこと以外は細部がよく思い出せませんが、約40年の歳月を経て舞台映像を見直してみると、当時と若干違ったことをいろいろ考えます。

ところで訳あって近頃吉之助は文楽床本を朗読することを始めました。新型コロナウイルス感染防止で自粛生活を続けて数か月も経つと、他人と会話する機会が極端に減ったせいか、しゃべっていて言葉がどうもスムーズに出てこないもどかしさを感じることが多くなりました。歳のせいかボケが兆して来たのかも?吉之助は人前で歌舞伎の話をすることもあるので、これでは困る。そこで脳の訓練のために床本を朗読することを始めたわけです。義太夫語りを学ぶわけではないので節附けは加えていませんが、山城少掾や四代目越路太夫の録音など聴きながら、あれかこれかと詞章を口に出して試行錯誤しています。いわゆる「本読み」・朗読ごっこに過ぎませんが、それでも得るところは実に多いものです。

そこで文楽床本の朗読について考えてみたいのですが、ご承知の通り、文楽は語り物芸能の系譜にあるものです。(「子午線の祀り」の原典たる「平家物語」も琵琶法師による語り物であることは、云うまでもありません。)我々が目にする文楽床本は、読みやすいように句読点やかぎ括弧が加えてあります。例えば「寺子屋」において

「鬼になつて」と夫婦は突立ち、互ひに顔を見合はせて、「弟子子(でしこ)といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」と、妻が嘆けば夫も目をすり、「せまじきものは宮仕へ」と、共に涙にくれゐたる。

と記するならば、句読点やかぎ括弧があれば確かに理解しやすい。しかし、もしかしたらそのせいで誤解が生じる場面があるかも知れません。例えば「せまじきものは宮仕へ」という詞章は、台詞かト書きかという疑問です。歌舞伎の場合は源蔵役者が「せまじきものはアア宮仕へじゃなあ」と云いますから、ここは台詞だという解釈に違いない。しかし、義太夫節を聴くと「せまじきものは宮仕へ」の箇所は節付きになっており、これが台詞かト書きなのかは、判然としません。恐らくそのどちらでもあるという解釈でしょうが、太夫の表現の仕様で、台詞に寄るかト書きの方へ寄るか、色合いは微妙に変化します。更にまた、これが源蔵か戸浪か・どちらの心情を表わす詞章であるかも問題になると思います。後に「共に涙にくれゐたる」とあるのだから、「せまじきものは宮仕へ」は源蔵だけでなく・夫婦に掛かる詞章ではないか、そう云う疑問も出て来ることになります。ともあれ節付け(作曲)自体ひとつの解釈に違いありませんから、ここは節付けさえも取り去って、真っ新な丸本の状態にまで還元してみる必要があります。実際文楽太夫が使う床本は、句読点もかぎ括弧もないものです。下記のように記すれば、そこに語り物たる義太夫節の様相が視覚的にもはっきり見えると思います。

鬼になつてと夫婦は突立ち互ひに顔を見合はせて弟子子といへばわが子も同然サア今日に限つて寺入りしたはあの子が業か母御の因果か報ひはこちが火の車追付け廻つて来ませふと妻が嘆けば夫も目をすりせまじきものは宮仕へと共に涙にくれゐたる

ここには神の視座が感じられます。吉之助は床本を朗読しながら、ここは台詞と取るべきか・それともト書きと取るべきか、この詞章は第三者的に公平な立場で語るべきか、それとも誰かの感情を踏まえて主情的に語るべきか、それではそれはどのように?など色々考えますが、どれが正しい・どれが間違っていることはなく、語り方は実に無限にあるものなのです。

このように床本の詞章を眺めていくと、文楽太夫の仕事とは、節付けと云う助け(ヒント)を借りながら(節附けとはひとつの視座を提供するものです)、全体が語り物(情景描写)の、単調な詞章の流れのなかから、役(文楽の場合は人形ですが)の肉声をくっきりと浮かび上がらせる作業だとも言えるのではないでしょうか。延長すれば、これが最終的に人間の声(芝居の台詞)となっていくものです。こうして演劇的な構造が生まれることになります。同じようなことは「平家物語」の語りについても言えるだろうと思うのです。

中世期の琵琶法師が語る「平家物語」には、視覚的要素はありませんでした。民衆は琵琶法師を取り囲んで語りに聞き入りながら、情景を思い浮かべて涙を流したものでした。説経浄瑠璃でもそうでした。聞く者の脳裏にドラマティックな感情は呼び起こされるけれども、「語り」の要素だけでは、まだそれは演劇ではありません。そこに人形という視覚的要素・或いは解説が加わって初めて語り物は演劇の領域へと踏み出していきます。さらに語り物のなかから台詞になりそうなものを拾い上げ・これを役者(人間)が担うようになると、語り物はもうはっきり演劇の領域に入り込んでいます。これが歌舞伎の義太夫狂言なのです。これはかつては神への捧げものであった語り物が、人間の領域へ降りて行くことでもあります。日本芸能の大雑把な流れを、このように理解することが出来ます。

だから「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」というテーマは、演劇人から発せられた日本芸能の語り物の系譜を巡る問いであるのです。なぜならば普段役者は戯曲家から脚本を渡されて・自分のパートをその通りに読めばそれでそのまま台詞になるという作業(ルーティーン)に慣れてしまっており、語り物のなかから役の肉声を浮かび上がらせてこれを自分の台詞にするということなどもはや思いもよらぬからです。(この稿つづく)

(R2・6・28)


2)語り物演劇の系譜・続き

床本朗読についてもう少し考えます。文楽太夫が使用するものと同じように、句読点やかぎ括弧をすべて取り去ってしまうと、詞章は語り物の様相を呈します。これを広義に情景描写文であると解して朗読しても、それはダラダラ平坦な読みになるかも知れませんが、語り物の読みとしてはそれでも事足ります。

鬼になつてと夫婦は突立ち互ひに顔を見合はせて弟子子といへばわが子も同然サア今日に限つて寺入りしたはあの子が業か母御の因果か報ひはこちが火の車追付け廻つて来ませふと妻が嘆けば夫も目をすりせまじきものは宮仕へと共に涙にくれゐたる

しかし、ここからかぎ括弧付きの詞章(台詞に相当する部分・役の肉声)を浮かび上がらせようとすれば、これは或る種の力技(ちからわざ)になって来ます。台詞を際立たせるためには、そうでない(台詞以外の)部分にも力を入れて・そこから台詞を持ち上げるようにしないと、結局、台詞が際立って来ないのです。そうしないと台詞は下に溶け込んでしまって、元の平坦な語り物の読みに戻ってしまいます。このことは吉之助が床本朗読をしていてとても気になるところで、文楽太夫はつくづく大変な仕事をしているのだなと思います。むしろ節付きの箇所の方が楽なのじゃないかとさえ思いますねえ。

詞章に句読点やかぎ括弧を付してもらうと、確かに朗読は楽になるようです。しかし、句読点やかぎ括弧が提供する視点(結局それはひとつの解釈なのです)に頼ってしまうせいか、どことなく読み手の解釈の幅を狭くするようです。かぎ括弧が付いていれば台詞・そうでなければこれはト書きというような整理を、脳が自然としてしまうからです。結局、これも息の詰め方の問題に帰するわけですが、台詞のエッジが立たなくなって読みが平坦になり、声のコントロールに苦労します。文楽大夫の床本が句読点やかぎ括弧を付さないのは、このためかなとも考えます。

「鬼になつて」と夫婦は突立ち、互ひに顔を見合はせて、「弟子子といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」と、妻が嘆けば夫も目をすり、「せまじきものは宮仕へ」と、共に涙にくれゐたる。

息の詰め方が弱いと、かぎ括弧付きの詞章(台詞)の場面で声色・口調を変えて誤魔化したくなります。そうやって台詞とそうでない部分との対照を付けようとする小手先の朗読に陥り易いのです。何だか句読点やかぎ括弧が、そうしろと読み手を誘惑しているようにさえ感じます。これも吉之助が床本朗読をしていて痛感するところです。しかし、こちらには山城少掾や四代目越路太夫の語りが脳裏にありますから、それをお手本に頑張るだけです。もうひとつ朗読で陥りやすいのは、例えば、「鬼になつて」と夫婦は突立ち の箇所を、

「鬼になつて」●と●夫婦は突立ち (●は休止)

「と」の前後に息継ぎを入れて、そこで語りの色を変えることです。前半「鬼になつて」は台詞で、後半「と夫婦は突立ち」はト書きだと区別すれば、ここで色を変えて対照を付けようと云う意図ですが、まるでかぎ括弧がここはそうしなさいと読み手を誘惑しているように感じます。大抵の場合、ここで朗読の息が途切れます。これは息の詰め方が弱いとそうなるのです。吉之助は出来るならば、「鬼になつてと夫婦は突立ち」は、一気に言い切りたい。息を詰めて「鬼になつて」で色をグッと変えて一気に言い切るようにしたいと思って努力していますが、腹に力を込めて語らないと、ここはなかなか難しい。ともあれ詞章の句読点やかぎ括弧の存在は、これらを忘れて朗読したいと思います。それはひとつのヒントに過ぎないものです。

改めて上記の箇所を義太夫節を聴きながら、人形浄瑠璃から歌舞伎の義太夫狂言への道程を考えてみます。詞の箇所である「弟子子といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」を役者の台詞に取ると云うのは、これは当り前です。誰がしたって、そこはそうなります。しかし、地色で節が付いている「せまじきものは宮仕へ」の箇所を、歌舞伎で役者の台詞にして言わせるというのは、歌舞伎はよくこうした発想が出来たなと感心しますねえ。義太夫節の音曲の流れに素直に乗れば、ここは普通は床に任せる箇所です。丸本を何度も朗読して役の肉声を聞き取らないと、こういう発想は出て来ないと思うのです。

「菅原伝授」は人形浄瑠璃初演後すぐさま歌舞伎化されましたが、源蔵役者が「せまじきものはアア宮仕へじゃなあ」としゃべる型が成立するまでには、多分そこからさらに長い年月が必要だったのです。(これは文献では確認が出来ません。)そこで吉之助は想像するのですが、歌舞伎の、恐らくは狂言作者が、句読点やかぎ括弧がない丸本を前に、節附けなしで、ウンウン何度も朗読しているうちに、或る時ハッと、「せまじきものは宮仕へ」を台詞に取ってみようという発想が浮かんだのではないですかね。語り物の、単調な詞章の流れのなかに、人間の声が響いた瞬間です。そんな小さな事件が義太夫狂言の成立過程に、たくさんあったに違いない。このような過程を経て、神への捧げものであった語り物が、人間のための演劇へ降りて行くのです。(この稿つづく)

(R2・6・30)


3)居グセの発想

語り物文学である「平家物語」の朗読から人間の声を浮かび上がらせること、延長すればこれが芝居の台詞になって行くわけです。つまり語りの詞章の或る種の高まりが台詞となるのです。このような筋道から日本の語り物の伝統を踏まえた新しい演劇が生まれるかも知れないと云うのが、山本安英の会で「言葉の研究会」で提起された問題提起ではなかったかと、まあそんなことを床本朗読の試行錯誤しながら考えるわけです。

一方、木下順二が「平家物語による群読〜知盛」の試みを経て「子午線の祀り」へ至る発想は、吉之助が考えたことと重なるところが結構大きいだろうと思います。しかし、木下順二が実際に書いた「子午線の祀りはあくまで「平家物語」を下敷きにしたところの現代戯曲、つまり戯曲と云うのは本来的に役者に台詞を言わせるためのものであり、起点が台詞となるわけですから、台詞を語り物の構図のなかにはめ込まねばなりません。作業プロセスとしては方向が逆になると思います。だから吉之助のイメージするところと若干の食い違いが生じるかも知れません。本稿ではその辺を論じることになりそうです。

「子午線の祀り」後書きのなかで、木下順二は冥の会が上演した観世寿夫による「オイディプス王」(昭和46年)についての渡辺保の劇評に示唆を受けたと書いています。思いがけないところで渡辺先生の名前を見付けて吉之助はビックリしましたが、木下順二はこんな風に書いているのです。

『能楽師という存在、それは舞台のうえでつねになにものかからなにものかへうつりつつ、しかもそのいずれにも没入して自己を喪うということがない。ときに語り手であり、ときに運命そのものであり、ときぬ自然そのものであるとその変身の見事さ。それはいい換えれば、物語のなかの一人の主人公の心理や性格を超えて、世界の本質にいたる能楽師の技の見事さということである。(中略)群読の試みから当時の私が気が付かされていたこと、考えかけようとしていたことに対して、渡辺氏のあの文章は極めて示唆的であった。ときに自を語りときに他を語り、同時に自他を含む全体を語り、また次の瞬間その全体を俯瞰する視点を中空に設定する「平家」の文体を、最もそのようなものとして表現し得る方法=群読。それと能楽師の技と類比的に考えて見たらどういうことになるか。』(木下順二:「子午線の祀り」後記2・昭和54年)

ところで木下順二は「オイディプス王」の劇評だと書いていますが、後日渡辺保はそれは観世寿夫が演じた「弱法師」について書いた劇評だったと証言しています。だから「オイディプス」だと云うのは木下順二の記憶違いのようですが、渡辺保の言う所はこういうことです。「弱法師」の居グセでシテはじっとして動かないのだけれども、観世寿夫演じる弱法師(俊徳丸)は、ある時は人間であると同時に、地謡が描写している四天王寺の伽藍にもなる、風景にもなるし・物にもなる、そして最後はすべてが個人である弱法師に収斂していくということを劇評で書いたのだけど、木下さんは近代劇の作家だから、ひとりの俳優がひとりの役を演じるという方法論からどうやったら抜け出せるかということをいつも考えていたのではないか。そう云う時に僕の劇評に出会って、ああ能はそういうことをするのか、能で人間が物になるとか風景になることが出来るならば、「子午線の祀り」でもこれはできるなと木下さんは思ったのではないかと云うのです。(以上は平成21年3月にNHK・BS2で放送された番組「昭和演劇大全集」での渡辺先生の談話を吉之助が再構成したものです。)

能の居グセとは、曲(くせ)を地謡に任せてシテは舞台中央にじっと座してまま舞わないものを言います。(立って舞う場合は舞グセと云います。)多くはシテの物語りで、恋物語や戦物語など自己の体験・或いは寺社の演技などを物語るものです。曲の中ほどから後半で、題目の一句か二句をシテが謡うところがあって、これを上ゲ端(あげは・上羽とも)と呼びます。この場面でシテは個人になったり・物になったり・風景になったりもすると云うわけです。ここからインスピレーションを得て、木下順二は「子午線の祀り」の構造を考えたということです。(この稿つづく)

(R2・7・6)


4)語り物の系譜と群読

三味線の四代目鶴沢清六が「義太夫の魅力を教える」という企画に招かれて、清六が三味線を弾き、集まった約百人の聴講生に義太夫を唱和してもらったことがあったそうです。この時の経験を、後に清六は武智鉄二に「義太夫というもんは、百人に教えるということはできまへん。やってられまへんで」と語ったそうです。義太夫の稽古は、師匠と弟子が一対一でやるのが原則です。合唱のように百人が義太夫を一斉に語ろうとすると、大勢ではまず声が混濁してよく聞こえません。これを綺麗に聞こえるように整えようとすると、間が均(なら)されてリズムが重くなってしまって、結果として義太夫が本来の間合いにならないのです。(この逸話は、吉之助編「武智鉄二 歌舞伎素人講釈」の「間とは何か」のなかで紹介されています。)

「邦楽にはアンサンブルがない」と武智は言っています。邦楽では大人数で合奏するということがあまりなくて、基本的に少人数でやるものです。少人数ならば奏者の阿吽の呼吸で互いに息を合わせる行き方で十分間合いが取れます。だから改まった概念としてのアンサンブルが邦楽にはなかったのです。しかし、多人数で間合いを合わせるとなれば、阿吽の呼吸では出来ません。少人数と多人数では、拍(リズム)の取り方が全然異なるのです。相互の十分な打ち合わせが必要です。多人数の場合に拍を合わせるのに手っ取り早い手法は、拍の打ちを定間に取って縦の線をぴしっと揃えることです。そうすると西洋音楽的な作りになって、ますます義太夫が義太夫に聴こえなくなって来ます。清六が指摘していることは、そう云うことです。

以上のことは重要なことを示唆しています。日本の語り物の系譜には、合唱のように百人が一斉に語ると云う形式(つまり群読)はない、と云うよりも、本質的にあり得ないということなのです。「平家物語」を諸国に語り歩いた中世の琵琶法師もまた一人語りでした。だから山本安英の会の「言葉の研究会」で試みられた「平家物語」の群読と云う形式は、概念的には日本の語り物の伝統を踏まえようとする意図なのだけれど、実際面では木に竹を接いだようなところがあるわけなのです。このことを木下順二がどれくらい理解したのかなと思いますねえ。一人語りでも・群読でも同じで、語りの人数が違うだけだと考えたのかも知れません。このため木下順二が意図したものと実際の様相が微妙に変わってしまうことになったのではないか。

初演当時にNHKのテレビ放送を見た時には、吉之助は群読という形式に古代ギリシア悲劇のコロス(合唱)のイメージを重ねてこれを見た記憶があります。これは恐らくそのように捉えて良いものだろうと思います。ギリシア悲劇のコロスも神々の定める運命を唱和し、時に作品の主題を開設し、時には登場人物の気持ちに寄り添い、時には劇中の大衆の気持ちを代弁することもあります。そのなかで劇の視点は交錯し、時間の座標軸も失われて現在と永遠が交錯します。「子午線の祀り」でも「平家物語」の詞章を唱和する群衆のなかから主要人物が浮かび上がり、やがて人物は単独で動き始め、また群衆のなかに溶けて行くような形式が取られています。この意図は戯曲台本を読めば、「なるほど木下順二はそう云う意図であったのだな」とスンナリ理解が出来ます。しかし実際に出来上がった舞台が木下順二が意図したことが実現できていたかどうかと云うことになると、これはなかなか難しいことだったなと思いますねえ。当時の吉之助には、「子午線の祀り」はレーゼ・ドラマ(演じられる芝居ではなく・読むための芝居)のように映りました。しかし、吉之助も今回・つまり初演から41年後に、戯曲台本を参照しながら舞台映像を見直してみて初めて「ああそういう意図であったか」と思うところがいろいろありました。(この稿つづく)

(R2・7・9)


5)嵐圭史の新中納言知盛のこと

昭和54年4月国立小劇場での「子午線の祀り」初演は、能狂言・歌舞伎・新劇と、各ジャンルから錚々たる名優たちが参加しての公演でした。このような座組みであるとそれぞれ持っている演技様式が異なりますから、群読という形式に対するスタンスの取り方も変わって来るはずです。「子午線の祀り」をひとつのコンセプトに従って仕上げて行く時、互いの演技様式の違いが障害にならないかと云うことは、これは当然湧いてくる疑問です。普通に考えれば、演技様式が揃った・ひとつのジャンル(劇団)で取り組んだ方が、ずっと楽にこの問題に対処出来るはずです。

しかし、吉之助が考えるには、多分この疑問を承知のうえで、木下順二は敢えてこのような混成メンバーを組んだのです。なぜならばひとつには、この公演の母体が山本安英の会で「言葉の研究会」であったからです。そこで提起された「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」と云うテーマから「子午線の祀り」が出来たのです。語り物演劇の可能性、これは日本のすべての演劇者がジャンルを超えて対峙せねばならぬ課題だと木下順二は考えたに違いありません。

しかし、演技様式が異なる面々で群読という語り物形式に統一感を与えることは実際面ではなかなか難しいことでしょう。しかし、対処法がひとつだけあるかも知れません。それは台詞を早めの二拍子で処理すること、全員がこのリズムに徹することです。二拍子ならば台詞の縦の線を揃え易い。二拍子は二つに割れば四拍子、さらに割れば八拍子と云っても良いのですが、そういうのは記譜上の都合で、どれも二拍子が基本だとお考え下さい。要するにタンタンタンと進む二拍子のリズムです。それが日本語の語り物の基本リズムであるのです。演技様式が異なる面々であっても、この早めの二拍子のリズムを共通因子とするならば、すべての様式が割り切れます。二拍子のリズムは、日本の音楽や演劇のいろんな場面に随所に現れるものです。例えば能の謡いはゆっくりした二拍子、狂言のしゃべりは軽やかな二拍子、元禄歌舞伎の荒事の台詞は気忙しい二拍子、そして大正期の二代目左団次の新歌舞伎のリズムは急き立てる二拍子、勃興期の新劇の翻訳劇は畳み掛ける早口の二拍子でした。二拍子のリズムこそ日本の芸能の共通因子なのです。

日本の演劇の新旧ジャンルが二拍子のリズムに徹するならば、そこに何かしら統一感覚を与えられる可能性があります。そう考えると木下順二が「子午線の祀り」の芯となる新中納言知盛に前進座の嵐圭史を当てたことは、これは当然と云うか、まさに選ぶべくして選ばれたということなのです。もしかしたら現在は前進座のことを「歌舞伎もやる劇団」くらいに思っている人が多いかも知れませんが、前進座は昭和6年に歌舞伎界の身分差別や待遇に反対した河原崎長十郎・中村翫右衛門らを中心に結成された歌舞伎の劇団です。前進座の中心人物であった長十郎は左団次一座に入門し芝居を学んだ役者でした。創設期の前進座の演目に、真山青果の新歌舞伎のみならず、鶴屋南北や歌舞伎十八番の復活など左団次絡みのレパートリーが多かったことからも分かる通り、前進座の芝居は演劇理念的に左団次の影響が強かったのです。そのような左団次劇の基本リズムが急き立てる二拍子でした。(詳しくは別稿「左団次劇の様式」をご覧ください。)初期の前進座はシェークスピアなど翻訳劇でもこの急き立てる早い二拍子を多用したもので、世間ではこれを「前進座調」と呼んだりしたものでした。

「子午線の祀り」第1幕は「平家物語」巻第9・「知章最後」の群読から始まります。一の谷合戦で敗走して沖合いの船に逃げ延びようとする知盛に源氏の武士たちが迫ります。父危なしとみた息子の知章が割って入りますが、逆に敵に討たれてしまいます。息子が殺されるのを目の前にしながら、知盛はどうすることも出来ず、そのまま逃げ延びてしまいます。この場面の最初は「平家物語」の詞章がそのまま群読によって語られ、やがてこれが群衆の一人であった知盛単独での朗読に引き継がれます。

知盛:「このまぎれに新中納言知盛の卿はそこをふっと逃げ延びて、究竟(くきょう)の名馬には乗り給えり、海へざっと打ち入れ海のおもて二十余町を馬泳がせて、兄大臣殿(おおいとの)宗盛の卿のおん船に乗り移って助かり給いけり。(後略)』

この詞章を知盛が語る時、知盛は知盛ではなく、動く知盛を冷静に見詰める別の第三者であるかのようですが、しかし、これはやはり知盛自身でもあるのです。なお上記詞章のうち「・・の卿はそこをふっと逃げ延びて」は原作である「平家物語」にはないもので、これは木下順二が付け加えたものです。語調を整える目的もあるでしょうが、多分それだけではなく、目の前で息子が殺されるのを見て茫然自失の態で逃げ落ちる知盛を描いて、これを「平家物語」の枠組みから知盛と云う人格が舞台に転がり落ちるきっかけとしているのです。阿波民部重能が進み出て、知盛が乗って・今は(船に乗り移ったので)不要となった馬を・源氏の手に渡してはと射殺そうとしてます。これを見て知盛が叫びます。

知盛:「やめろ民部、矢番(やつがえ)するな。(中略)やめろ民部!外せ外せ外せ!』

群衆から浮かび上がった知盛と云う人格は、「平家物語」の世界にしばし漂っていましたが、ここで完全に抜け出て、ひとりの人間としての像を結びました。この知盛の台詞は完全に人間の台詞であり、芝居の台詞でもあります。しかし、大事なことは、自然主義演劇の様式としてもしゃべれそうな・この台詞が、群読で語られた様式的な詞章と、水と油のような様式の違和感を醸し出してはならぬと云うことです。それは繋がっていなくてはならない。繋がっているけれども、別の次元の台詞なのです。つまりここでの台詞は語り物のなかから止揚(アウフヘーベン)されたものでなければならないと云うことです。これこそが「子午線の祀り」での木下順二の実験です。二つの様式の間に確かに繋がっていると云う感覚を与えるための・ひとつの対処法は、リズム感覚を統一することです。つまり日本の芸能にとって大事な二拍子のリズムをその共通因子に置くことです。

ですから嵐圭史の知盛の器用こそ、「子午線の祀り」上演の要(かなめ)なのです。知盛の周囲の人物はすべて知盛の意識を反射して映っている虚像であって、それらが知盛を取りまく「世界」を構成しています。だから知盛が作り出すリズムに身を任せて、他の役者が台詞をしゃべるのです。知盛の台詞のリズムが「子午線の祀り」全体の流れを規定していると云うべきです。嵐圭史なしでは「子午線の祀り」の成功はないと言っても良いほどです。事実本作は現時点(2020年)までで8回もの再演を見ていますが、そのうちの最初の5回までが嵐圭史の知盛でした。(第5次上演は1992年のこと。)だから歌舞伎の出身であるから嵐圭史が起用されたということではないのです。もし仮に松竹歌舞伎から黙阿弥の七五調の台詞をいかにも「歌舞伎らしく」ねっとり歌う役者が知盛役に起用されたのであれば、「子午線の祀り」の成功はなかったでしょう。(この稿つづく)

(R2・7・14)


6)宇野重吉の演出のこと

昭和54年国立小劇場での「子午線の祀り」初演は、演劇の新旧ジャンルの違いを越えて統一感覚を与えることに成功したでしょうか。これは或る程度の成果を挙げたと云って良いと思います。もっとも、台詞のリズムの統一は、徹底した感じではありません。もっと二拍子の刻みを前面に押し出した方が芝居の生々しさが出せたかなと云う気がしますが、様式臭が強くなることに対しては、多分新劇方面の役者には抵抗が強かったとお察しをします。それでも全体的に、弱い感じではあるが何かしら様式的な縛りを感じさせる舞台には仕上がったと思います。

吉之助がこのなかで一番違和感を覚えた役者は、意外に思うかも知れませんが、実は第1幕冒頭の読み手Aを勤めた宇野重吉でした。(宇野重吉は本公演で台本補綴を行い、実質的な演出責任者でした。)飄々として無理な力を入れる所がない、訥々としているのだけれど自然で味わいのある、当時の宇野重吉をよく知る世代には懐かしい語り口です。しかし、語り物演劇「子午線の祀り」を導入部としては、力が抜けすぎの自然演劇の語り口で、物足りなく感じるものです。言葉が観客の心に突き刺さってこないのです。宇野重吉の自然な語りから次に続く力強い群読シーンが呼び起こされるようには、吉之助にはとても感じませんでした。或いは本作を語り物演劇と位置付ける吉之助の方が身構え過ぎでしょうかね。しかし、これは結構大事な点だと思います。宇野重吉は群読シーンから芝居が始まると考えているように思いますが、そうではないだろうと思います。

吉之助の考えるところは、山本安英が勤める読み手Bと比べれば、多分お分かりいただけると思います。山本安英の語り口も無理な力を入れる所がないけれど、読み手Bの語りは観客の心に染るようです。こうした違いがどこから来るかと云うと、それは結局言葉のリズムが醸し出す佇まいから来るのです。山本安英も無理な力を入れる所がなく、決して二拍子の刻みを前面に出すところがない(その点では宇野と同じ自然主義演劇の行き方)なのですが、山本安英の場合は、語りがしっかりとした歩みで進められています。そのしっかりした足取りが何かしら由緒正しい佇まいを醸し出し、それが聴く者を「平家物語」の世界に誘うのです。そこが宇野重吉の散文的な感覚の語りとの大きな違いです。山本安英はさすが「言葉の研究会」を主宰するだけあって、語り物の言葉のリズムの意味を考えていると思います。

一方、宇野重吉の散文的な語りであると「天の子午線が虚空に描く大円(だいえん)を三八万四四〇〇キロのかなた、角速度毎時一四度三〇分で月がいま通過する時・・・」なんて件りは、言葉が軽く耳を通り過ぎていくだけで、何も印象に残らない。事実ここでは語り手が語ることの意味は、どうだって良いわけなのです。大事なことは、語りの足取りです。つまり言葉の意味が大事なのではなく、言葉のリズム・響きが大事なのです。これがないから語りが脳裏に残らないのです。このような宇野重吉の考え方は、「子午線の祀り」の演出面でも齟齬をきたす気がしますねえ。

吉之助がそのように感じるのには、根拠があります。平成2年(1990)、これは宇野重吉が亡くなった後のことになりますが、「子午線の祀り」第四次上演において、木下順二は自らの手でそれまでの宇野重吉による補綴台本による上演を改めて「全曲上演」・つまり改訂カット無しの原典上演を敢行したからです。(主演の知盛はもちろん嵐圭史でした。)この時の木下の演出メモには次のようにあります。

『一般的にカットでちぢめた舞台は、シアトリカルであってもドラマティカルではない。つまりお芝居の面白さはあっても、劇文学としての「文学」が落ちてしまった、ということではなかっただろうか。(中略)あえて「文学としての作品の舞台化」に挑むことによって、その困難を乗り越えるエネルギーを創り出したい。』(木下順二:私自身のメモより・1990)

上記の文章は、初演の宇野重吉演出に対して敬意を払いながらも、木下順二は作者として婉曲に異議を申し立てていると云えそうです。確かに初演の舞台映像を、原作台本を手にしながら見ると、「オッこの台詞部分をカットするのか・これ大事な台詞でないのか」と驚くような、結構大事な箇所がごそっと落とされたりしています。それは多分「このカットで〇〇秒縮められる」とか、「この箇所がなくても筋の流れは大して変わらない」という効率的な理由が多いのだろうと思います。しかし、作者としては無駄な台詞など毛頭書いたつもりはないので、身を切りさいなまれるように感じるのでしょう。特に「子午線の祀り」のような語り物演劇の場合であると、木下順二が考える「ドラマティカル」ということと、宇野重吉の考える「ドラマティカル」とは、かなり様相が異なるのかも知れません。云い方を変えれば、宇野重吉の考え方は現場的・実際的なのです。「実際に上演可能な体裁にしなければ意味がないでしょ」ということです。これはまあ立場の相違ということです。そういう齟齬が多少はあるにしても、出来上がった初演の舞台は、全体としては何かしら様式的な縛りを感じさせる舞台には仕上がっています。だから宇野重吉演出が悪かったということでは決してありません。むしろ「レーゼドラマ的な作品をよくここまで見られる舞台に仕上げたものだなあ」と褒めてあげるべきかも知れませんが、しかし、それにしても宇野重吉は、「子午線の祀り」を日本芸能のなかの語り物演劇の系譜のうえに置くと云うようなことは、あまり考えていなかったように感じるのです。(この稿つづく)

(R2・7・16)


7)語り物演劇のイメージ

語り物芸能で聞く者の脳裏にドラマティックな感情が呼び起こされたとしても、「語り」だけでは、まだそれは演劇ではありません。語り物のなかから台詞になりそうなものを拾い上げていけば、語り物は少しずつ演劇の領域に入り込んでいくでしょうが、それが台詞としてしっかり立つためには、語り手に力技(ちからわざ)が必要です。語り手に力量がなければ、台詞は語りのなかに埋もれてしまいます。吉之助が文楽太夫の語りから学んだところは、そう云うことです。

一方、演劇の台詞は初めから役者に発声されることを前提に書かれています。これは当然のことのように思うかも知れませんが、「子午線の祀り」のように、コロス的な群読のなかから知盛や影身の内侍の台詞が立ち上がり・再び群読のなかに消えて行くイメージを求めるのならば、それはどう云うことになるかと云うことを考えねばならないでしょう。確かに木下順二は戯曲を書いたわけで、語り物の台本を書いたのではありません。だからそこに内部矛盾があるのですが、脚本を渡されて・自分のパートをその通り読めばそれがそのまま台詞になるというのでは、それでは木下順二が考えたことと少し違うと思うのです。宇野重吉の演出を見ると、とても上手く整理されているけれども、ホンのちょっとした感覚の違いで・しっくり来ない場面があるようです。それは脚本のかぎ括弧で括られた箇所をしゃべればそれがそのまま台詞となると云う常識から宇野重吉が抜け出ていないからではないかと思われます。言い換えれば宇野重吉は「子午線の祀り」をはっきり戯曲として処理したということです。そのおかげでこの舞台がまとまった形に仕上がっていることも確かなのですが。

それにしても知盛や影身の内侍の台詞が再び群読のなかに溶け込んで行く場面では、宇野重吉はその音楽的効果をあまり理解していない印象を受けます。(ただしそれは「気になる」という程度であると云うことを付け加えておきます。)例えば第1幕での知盛が影身への思いを独白し・厳島での出会いを回想する場面、これに厳島の八乙女が舞う今様歌が重なります。それがやがて源平の争いの渦に巻き込まれた人民の怨嗟の群読に代わって行きます。ところが宇野重吉はこの群読シーンをカットしてしまいました。この処置は「子午線の祀り」を語り物演劇と解しようとする吉之助にはかなり気になります。

知盛:「・・花を挿頭(かざ)し大口を着て舞うた八人の厳島の内侍、その八乙女の影身は一人だったが・・・」
(優雅な舞はそのまま続きながら、今様歌はいつか怨嗟の調子を帯びた以下の群読に代わっている。)
群読:「去んぬる治承養和の頃より/諸国七道の人民百姓ら/平家のために悩まされ/源氏のために滅ぼされ/家を失いかまどを捨てて/春は東作(とうさく)のおもいを忘れ/秋は西収(さいしゅう)のいとなみにも及ばず」
知盛:「何だ、その声々は?その声々は何のことだ?」

上記の群読は解しやすいように作者が親切心で「/」で区切っていますが、語りの詞章ならば本来あるべきではないものです。これは決して息継ぎの指示ではなく、群読は二拍子で読み進められねばなりません。群読は知盛の外にあって彼を怨嗟しているように聞こえますが、実は知盛の内にある懐疑の声(戦さの大義への疑問・戦うこと自体への疑問など)です。だからこれらは知盛の台詞と同じリズムでしゃべられなければなりません。この群読は「子午線の祀り」のなかでもとりわけ重要な詞章なのですから、この箇所のカットはまずいと思いますねえ。人民の怨嗟は後に続く影身の台詞(この時点の影身は亡霊ですが影身が殺されたことを知盛はまだ知りません)で形を変えてリフレインされます。ここを「後のと重複するから要らない」と考えてカットしたところに宇野重吉の現場的な考え方がよく出ています。しかし、それは群読の役割が理解できていないからだとも感じます。

影身:「現心(うつつごころ)でわたくしの口から洩れます言葉、お聞き取りくださいませ・・・」
度々(どど)の戦に命を落とすもの・・(低く二・三度繰り返すうちに、徐々に群読が重なってくる)
群読:平家源氏の兵(つわもの)どもは更にもいわず、諸国七道の人民百姓ら、とこうの弁(わきま)えにも及ばぬうちに、忽ち鳴りどようむ辻風に巻きこまれて、あるは空しき屍(かばね)を野天(やてん)にさらし、あるは千尋の海の底によこたわる

この場面の影身の台詞も群読も、実は知盛の内部で響く懐疑の声なのです。「子午線の祀り」では、台詞はいろんな方向から(いろんな役者から)響いてくるけれども、それらはすべて知盛の心のなかに映った像のようなものだと言えます。つまりそれは一人の語り手が語り描いた物語のように、ひとつの視点で統一された感覚であるべきです。それが台詞の二拍子のリズムの統一という様式感覚に表れるものです。宇野重吉演出では、木下順二がト書きで指示した「二・三度繰り返すうちに徐々に群読が重なってくる」という形になっていません。指示通りであれば、影身(山本安英)は「度々の戦に命を落とすもの・・」を数度繰り返しながら群読のなかに次第に溶け込んで行かねばならないでしょう。そのためには台詞のリズムやトーンを合わせる必要があります。そういう音楽的効果を木下順二はきっちり計算して台詞を書いていると思います。(そのために前述のリフレインの効果が必要なのです。)これが実現出来れば、コロス的な群読のなかから知盛や影身の内侍の台詞が立ち上がり・再び群読のなかに消えて行くというイメージになるでしょう。こう考えてみると、木下順二は「子午線の祀り」で、演劇ではなかなか実現が難しいことを夢見ていたのかも知れませんね。(この稿つづく)

(R2・7・30)


8)再び語り物演劇の系譜について

以下は「浄瑠璃素人講釈」にある杉山其日庵(茂丸)の回想です。何時のことか記述がありませんが、明治20年代半ばのことでなかったかと思われます。或る日、其日庵は後藤象二郎伯爵の高輪の邸宅で、三代目大隅太夫が鶴沢寛三郎の三味線による「先代萩・政岡忠義の段」の素浄瑠璃の催しを聞いたそうです。聞き手のなかには、五代目菊五郎もいました。其日庵も(女役・子役が活躍するので高調子が多い)「先代萩」を悪声の大隅に語らせるとは注文が悪いなどとブツブツ云ったりして、客席は最初はザワ付いていたそうです。しかし、大隅の語りが進むにつれて一同水を打ったように静かになり、「誠に国の礎ぞや」で政岡のクドキ語る時には、誰もが顔をあげられずただ泣くばかりと云うことになりました。段切れまで息を詰めて聞いていた後藤伯は、フッと息を付き「ご苦労であった」と挨拶して、一同を振り返って「どうじゃ分かったか。これを聞くと、五人も十人も顔を塗って騒ぎまわる芝居は馬鹿なものじゃねえ」と言ったそうです。後ろに菊五郎がいるのによく言ったと思いますが、思わず口から出ちゃったのでしょう。菊五郎は黙っていましたが、傍にいる其日庵にこう言ったそうです。

「旦那、この大隅さんの息込みで政岡をしましたら、素顔で袴を着けてしても、きっと見物は泣きますぜ。しかし今の役者には、これだけの芸人はおりませぬ。もし居ても、アノ息込みで広い舞台を懐に入れて出ましたら、役者なら長生きは出来ませぬ。きっと早死してしまいます。」

この件について其日庵は「菊五郎の話にひとしお感服した。芸人の見どころには責任がある。たたでは決して聞いてはおらぬことが分かった」と書いています。

杉山其日庵:浄瑠璃素人講釈〈下〉 (岩波文庫)

この菊五郎の逸話ですが、「大隅さんの息で芝居をしたら役者は長生き出来ません」と云うのは、恐らく菊五郎の言う通りだと思います。文楽の語りには語りなりの・芝居には芝居なりの、息と間合いがあるのです。25日興行せねばならぬ歌舞伎の場合には、したくたって・それが出来ない場合もある。それが分っているから其日庵も菊五郎の言に「感服した」のです。だから、それは似ているけれども別もので、しかし本行のイメージから全然離れてもいけないという関係なのです。しかし、大隅の息で演技をやり続けるわけにいかないとしても、ここぞという場面では瞬間的にはメーターを最大に振り切るテンションの高い演技を見せることが出来なければ、ホントに「文楽と比べれば歌舞伎は馬鹿なものじゃねえ」と言われることになってしまうでしょう。要するに息のメリとハリが大事なのです。菊五郎ほどの名優ならば、そこの算段はきっちり付けたと思います。このように歌舞伎の義太夫狂言には、語り物演劇の系譜として、「如何にして本行(語り)の息に迫るか」と云う大きな課題が横たわっているわけです。現代の歌舞伎役者は、どれくらい真剣にこの課題と向き合っているでしょうかねえ。役者は台詞をしゃべる役割・竹本はト書きを語る役割と割り切って、それで済ませているかも知れません。ホントにそれで良いのでしょうか。

一方、新劇は理念的に旧劇(歌舞伎)の否定から発しているわけですから、新劇以後の日本の演劇は、恐らく語り物演劇の系譜なんてことを意識することがほとんどないと思います。つまり日本演劇の流れは、精神的に、新劇から途切れているのです。木下順二が「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」と云う言葉の研究会での課題に発し、「平家物語による群読〜知盛」の試みを経て「子午線の祀り」執筆へ至った過程(プロセス)は、同じく日本語を駆使する演劇という視点から、能狂言・歌舞伎から新劇まで、途切れてしまった日本演劇の流れを繋ぎ合わせてみようという試みであったのかも知れません。吉之助は「普段役者は戯曲家から脚本を渡されて・自分のパートをその通りに読めばそれでそのまま台詞になるという作業(ルーティーン)に慣れてしまっており、語り物のなかから役の肉声を浮かび上がらせてこれを自分の台詞にするということなどもはや思いもよらぬ」と書きました。もしかしたらこの書き方は役者にとってはいささかショッキングかも知れませんが、(歌舞伎も含む)日本の現代演劇はこの問題に立ち返らなければ、日本語の台詞の響きは研ぎ澄まされることがないかも知れませんねえ。

(R2・8・2)



 

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