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語り物演劇の系譜〜「子午線の祀り」初演

昭和54年4月国立小劇場:「子午線の祀り」

嵐圭史(新中納言知盛)、観世栄夫(大臣殿宗盛)、山本安英(影身の内侍・語り手B)、滝沢修(阿波民部重能)、野村万作(九郎判官義経)、宇野重吉(語り手A)他

作:木下順二
共同演出:宇野重吉、観世栄夫、酒井誠、高瀬精一郎、木下順二
音楽:武満徹

(この原稿は未完です。最新の章はこちら。)


1)語り物演劇の系譜

本稿で紹介するのは、昭和54年(1979)4月国立小劇場での「子午線の祀り」初演の舞台映像です。「子午線の祀り」初演は、ご当地壇の浦での上演を皮切りに、東京(国立小劇場)の他・大阪・名古屋など各地で公演されました。能から観世栄夫、狂言からは野村万作、歌舞伎から嵐圭史、新劇から山本安英・滝沢修・宇野重吉と、各ジャンルから錚々たる名優たちが参加しての公演と云うことで大きな話題になったもので、現在では戦後昭和演劇史上の重要な一頁とされています。吉之助はこの公演を生(なま)では見てませんが、当時NHKのテレビ中継でこれを見ました。

「子午線の祀り」執筆の経緯について木下順二が後書きに記しています。昭和42年(1976)に山本安英の会で「言葉の研究会」が発足し、そこで生まれたテーマに「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」と云うのがあったそうです。このテーマを取り入れた実験的作品として木下が書き下ろしたのが、「平家物語による群読〜知盛」四幕という台本でした。これは最初と最後に現代語によるコメントを入れたほかは、もっぱら「平家物語」元文をアレンジすることによって知盛像を描き出そうとしたものであったようです。これが後の「子午線の祀り」の原型となったものです。また「言葉の研究会」メンバーの何人か(今回影身の内侍を勤める山本安英はもちろんです)が「子午線の祀り」に参加しているようです。昭和54年当時の吉之助は上記の経緯を知ったうえでテレビ中継を見たので、「子午線の祀り」については、これを「朗読から発する演劇」と考えて見ました。そのせいかドラマティックな流れがちょっと弱い芝居という印象を受けましたが、当時の吉之助にはこの「子午線の祀り」は難しかったかも知れません。嵐圭史が演じる知盛の線が太い台詞廻しに感嘆したこと以外は細部が思い出せませんが、約40年の歳月を経て舞台映像を見直してみると、当時と若干違ったことを思います。

ところで訳あって近頃吉之助は文楽床本を朗読することを始めました。新型コロナウイルス感染防止で自粛生活を続けて数か月も経つと、他人と会話する機会が極端に減ったせいか、しゃべっていて言葉がどうもスムーズに出てこないもどかしさを感じることが多くなりました。歳のせいかボケが兆して来たのかも?吉之助は人前で歌舞伎の話をすることもあるので、これでは困る。そこで脳の訓練のために床本を朗読することを始めたわけです。義太夫語りを学ぶわけではないので節附けは加えていませんが、山城少掾や四代目越路太夫の録音など聴きながら、あれかこれかと詞章を口に出して試行錯誤しています。いわゆる「本読み」・朗読ごっこに過ぎませんが、それでも得るところは実に多いものです。

そこで文楽床本の朗読について考えてみたいのですが、ご承知の通り、文楽は語り物芸能の系譜にあるものです。(「子午線の祀り」の原典たる「平家物語」も琵琶法師による語り物であることは、云うまでもありません。)我々が目にする文楽床本は、読みやすいように句読点やかぎ括弧が加えてあります。例えば「寺子屋」において

「鬼になつて」と夫婦は突立ち、互ひに顔を見合はせて、「弟子子(でしこ)といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」と、妻が嘆けば夫も目をすり、「せまじきものは宮仕へ」と、共に涙にくれゐたる。

と記するならば、句読点やかぎ括弧があれば確かに理解しやすい。しかし、もしかしたらそのせいで誤解が生じる場面があるかも知れません。例えば「せまじきものは宮仕へ」という詞章は、台詞かト書きかという疑問です。歌舞伎の場合は源蔵役者が「せまじきものはアア宮仕へじゃなあ」と云いますから、ここは台詞だという解釈に違いない。しかし、義太夫節を聴くと「せまじきものは宮仕へ」の箇所は節付きになっており、これが台詞かト書きなのかは、判然としません。恐らくそのどちらでもあるという解釈でしょうが、太夫の表現の仕様で、台詞に寄るかト書きの方へ寄るか、色合いは微妙に変化します。更にまた、これが源蔵か戸浪か・どちらの心情を表わす詞章であるかも問題になると思います。後に「共に涙にくれゐたる」とあるのだから、「せまじきものは宮仕へ」は源蔵だけでなく・夫婦に掛かる詞章ではないか、そう云う疑問も出て来ることになります。ともあれ節付け(作曲)自体ひとつの解釈に違いありませんから、ここは節付けさえも取り去って、真っ新な台本の状態にまで還元してみる必要があります。実際文楽太夫が使う床本は、句読点もかぎ括弧もないものです。下記のように記すれば、そこに語り物たる義太夫節の様相が視覚的にもはっきり見えると思います。

鬼になつてと夫婦は突立ち互ひに顔を見合はせて弟子子といへばわが子も同然サア今日に限つて寺入りしたはあの子が業か母御の因果か報ひはこちが火の車追付け廻つて来ませふと妻が嘆けば夫も目をすりせまじきものは宮仕へと共に涙にくれゐたる

ここには神の視座が感じられます。吉之助は床本を朗読しながら、ここは台詞と取るべきか・それともト書きと取るべきか、この詞章は第三者的に公平な立場で語るべきか、それとも誰かの感情を踏まえて主情的に語るべきか、それではそれはどのように?など色々考えますが、どれが正しい・どれが間違っていることはなく、語り方は実に無限にあるものなのです。

このように床本の詞章を眺めていくと、文楽太夫の仕事とは、節付けと云う助け(ヒント)を借りながら(節附けとはひとつの視座を提供するものです)、全体が語り物(情景描写)の、単調な詞章の流れのなかから、役(文楽の場合は人形ですが)の肉声をくっきりと浮かび上がらせる作業だとも言えるのではないでしょうか。延長すれば、これが最終的に人間の声(芝居の台詞)となっていくものです。こうして演劇的な構造が生まれることになります。

中世期の琵琶法師が語る「平家物語」には、視覚的要素はありませんでした。民衆は琵琶法師を取り囲んで語りに聞き入りながら、情景を思い浮かべて涙を流したものでした。説経浄瑠璃でもそうでした。聞く者の脳裏にドラマティックな感情は呼び起こされるけれども、「語り」の要素だけでは、まだそれは演劇ではありません。そこに人形という視覚的要素・或いは解説が加わって初めて語り物は演劇の領域へと踏み出していきます。さらに語り物のなかから台詞になりそうなものを拾い上げ・これを役者(人間)が担うようになると、語り物はもうはっきり演劇の領域に入り込んでいます。これが歌舞伎の義太夫狂言なのです。これはかつては神への捧げものであった語り物が、人間の領域へ降りて行くことでもあります。日本芸能の大雑把な流れを、このように理解することが出来ます。

だから「日本の古典の原文による朗読はどこまで可能か」というテーマは、演劇人から発せられた日本芸能の語り物の系譜を巡る問いであるのです。なぜならば普段役者は戯曲家から脚本を渡されて・自分のパートをその通りに読めばそれでそのまま台詞になるという作業(ルーティーン)に慣れてしまっており、語り物のなかから役の肉声を浮かび上がらせてこれを自分の台詞にするということなどもはや思いもよらぬからです。(この稿つづく)

(R2・6・28)


2)語り物演劇の系譜・続き

床本朗読についてもう少し考えます。文楽太夫が使用するものと同じように、句読点やかぎ括弧をすべて取り去ってしまうと、詞章は語り物の様相を呈します。これを広義に情景描写文であると解して朗読しても、それはダラダラ平坦な読みになるかも知れませんが、語り物の読みとしてはそれでも事足ります。

鬼になつてと夫婦は突立ち互ひに顔を見合はせて弟子子といへばわが子も同然サア今日に限つて寺入りしたはあの子が業か母御の因果か報ひはこちが火の車追付け廻つて来ませふと妻が嘆けば夫も目をすりせまじきものは宮仕へと共に涙にくれゐたる

しかし、ここからかぎ括弧付きの詞章(台詞に相当する部分・役の肉声)を浮かび上がらせようとすれば、これは或る種の力技(ちからわざ)になって来ます。台詞を際立たせるためには、そうでない(台詞以外の)部分にも力を入れて・そこから台詞を持ち上げるようにしないと、結局、台詞が際立って来ないのです。そうしないと台詞は下に溶け込んでしまって、元の平坦な語り物の読みに戻ってしまいます。このことは吉之助が床本朗読をしていてとても気になるところで、文楽太夫はつくづく大変な仕事をしているのだなと思います。むしろ節付きの箇所の方が楽なのじゃないかとさえ思います。

詞章に句読点やかぎ括弧を付してもらうと、確かに朗読は楽になるようです。しかし、句読点やかぎ括弧が提供する視点(結局それはひとつの解釈なのです)に頼ってしまうせいか、どことなく読み手の解釈の幅を狭くするようです。かぎ括弧が付いていれば台詞・そうでなければこれはト書きというような整理を、脳が自然としてしまうからです。結局、これも息の詰め方の問題に帰するわけですが、台詞のエッジが立たなくなって読みが平坦になり、声のコントロールに苦労します。文楽大夫の床本が句読点やかぎ括弧を付さないのは、このためかなとも考えます。

「鬼になつて」と夫婦は突立ち、互ひに顔を見合はせて、「弟子子といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」と、妻が嘆けば夫も目をすり、「せまじきものは宮仕へ」と、共に涙にくれゐたる。

息の詰め方が弱いと、かぎ括弧付きの詞章(台詞)の場面で声色・口調を変えて誤魔化したくなります。そうやって台詞とそうでない部分との対照を付けようとする小手先の朗読に陥り易いのです。何だか句読点やかぎ括弧が、そうしろと読み手を誘惑しているようにさえ感じます。これも吉之助が床本朗読をしていて痛感するところです。しかし、こちらには山城少掾や四代目越路太夫の語りが脳裏にありますから、それをお手本に頑張るだけです。もうひとつ朗読で陥りやすいのは、例えば、「鬼になつて」と夫婦は突立ち の箇所を、

「鬼になつて」●と●夫婦は突立ち (●は休止)

「と」の前後に息継ぎを入れて、そこで語りの色を変えることです。前半「鬼になつて」は台詞で、後半「と夫婦は突立ち」はト書きだと区別すれば、ここで色を変えて対照を付けようと云う意図ですが、まるでかぎ括弧がここはそうしなさいと読み手を誘惑しているように感じます。ところが、大抵の場合、ここで朗読の息が途切れます。これは息の詰め方が弱いせいです。吉之助は出来るならば、「鬼になつてと夫婦は突立ち」は、一気に言い切りたい。息を詰めて「鬼になつて」で色をグッと変えて一気に言い切るようにしたいと思って努力していますが、ここはなかなか難しい。ともあれ詞章の句読点やかぎ括弧の存在は、これらを忘れて朗読したいと思います。それはひとつのヒントに過ぎないものです。

改めて上記の箇所を義太夫節を聴きながら、人形浄瑠璃から歌舞伎の義太夫狂言への道程を考えてみます。詞の箇所である「弟子子といへばわが子も同然」「サア、今日に限つて寺入りしたは、あの子が業か、母御の因果か」「報ひはこちが火の車」「追付け廻つて、来ませふ」を役者の台詞に取ると云うのは、これは当り前です。誰がしたって、そこはそうなります。しかし、地色で節が付いている「せまじきものは宮仕へ」の箇所を、歌舞伎で役者の台詞にして言わせるというのは、歌舞伎はよくこうした発想が出来たなと感心しますね。義太夫節の音曲の流れに従順に乗れば、ここは普通は床に任せる箇所でしょう。丸本を何度も朗読して役の肉声を聞き取らないと、こういう発想は出て来ないと思うのです。

「菅原伝授」は人形浄瑠璃初演後すぐさま歌舞伎化されましたが、源蔵役者が「せまじきものはアア宮仕へじゃなあ」としゃべる型が成立するまでには、そこから長い年月が必要だったのではないでしょうか。(これは文献では確認が出来ません。)そこで吉之助は想像するのですが、歌舞伎の、恐らくは狂言作者が、句読点やかぎ括弧がない丸本を前に、節附けなしで、ウンウン何度も朗読しているうちに、或る時ハッと、「せまじきものは宮仕へ」を台詞に取ってみようという発想が浮かんだのではないですかね。語り物の、単調な詞章の流れのなかに、人間の声が響いた瞬間です。そんな小さな事件が義太夫狂言の成立過程に、たくさんあったに違いない。このような過程を経て、神への捧げものであった語り物が、人間のための演劇へ降りて行くのです。(この稿つづく)

(R2・6・30)



 

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