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十代目幸四郎のチャップリン歌舞伎

令和元年12月国立劇場:「蝙蝠の安さん」

十代目松本幸四郎(蝙蝠の安さん)、二代目市川猿弥(上総屋新兵衛)、初代坂東新悟(花売りの娘お花)


「蝙蝠の安さん」と聞いた時には吉之助も「また新作歌舞伎か」と思いましたが、実はこれは「研辰の討たれ」で知られる劇作家・木村錦花がチャップリンの映画「街の灯」を翻案して昭和6年(1931)8月歌舞伎座で上演された旧作なのだそうです。初演の配役は、蝙蝠の安さんが十三代目勘弥、お花が二代目松蔦、新兵衛が六代目寿美蔵(後の三代目寿海)でした。勘弥の安さんも面白そうですが、お堅そうなイメージがある寿美蔵の新兵衛もなかなか意外で興味深い配役に思われます。もうひとつ興味深いのは、映画「街の灯」は1931年1月が米国での公開(つまりワールド・プレミア)で、日本での公開は昭和9年(1934)のことだったので、木村錦花は執筆の時点で映画をまだ目にしておらず、映画雑誌の粗筋を元に・それだけを参考に歌舞伎化を行ったということです。これはワールド・プレミアからわずか半年後のことでした。執筆のきっかけは海外で「街の灯」を見た十五代目羽左衛門や二代目猿之助(初代猿翁)から話を聞いたからだったそうです。橘屋が「これを歌舞伎してみたらどうか」とでも薦めたのでしょうかね。その辺は分かりませんが、このように海外映画の翻案と云わないまでも・アイデアを拝借した歌舞伎作品としては、同時代に長谷川伸の「刺青奇遇」(昭和7年初演)があったりします。(別稿「夢のなかのあの女」を参照ください。)逆に海外で歌舞伎を翻案した作品もありましたから、探せば当時は東西の交流がいろいろあったのです。(別稿「歌舞伎「寺子屋」から生まれたオペラふたつ」を参照ください。)

それは兎も角、今回(令和元年12月国立劇場)上演の「蝙蝠の安さん」を見ると、なるほど原作映画の大筋を踏襲しながら・これを江戸の風俗に無理なく置き換えています。幸四郎はチャップリンの浮浪者の雰囲気をよく写して、肩の凝らないエンタテイメントを楽しそうに演じています。

それにしてもさすがに芝居を熟知している人だけに、錦花の翻案の手腕は大したものです。原作のチャップリンが演じる浮浪者(具体的な名前がない)に、誰もが知っている蝙蝠安を当てはめちゃったところが意表を突いて面白い。しかも「与話情浮名横櫛」の世界は全然引いておらず、したがって与三郎は登場しない。蝙蝠安だけが「安さん」として出て来ます。錦花は「ルンペンで偽悪家で弱っ腰で、お人好しなところが蝙蝠安にぴったりだ」と云うようなことを書いていますが、吉之助にはむしろ蝙蝠安と「安さん」とのイメージのギャップが興味深いですねえ。「安さん」は蝙蝠安ほどひねくれてはいません。飄々と底抜けの楽天家で、こういうキャラクターはそれまでの歌舞伎になかったものです。当時の観客にも既存の古典世話物に見られないテンポの良さと笑いのセンスが、新鮮に映ったのではないでしょうか。今回上演の舞台は演出や衣装化粧を原作映画のイメージに近づけようとする意図を強く感じますが、原作映画が古典名作化してしまっている現代では観客も「どんなに似てるか」と思って舞台を見に来るわけだし、そこがセールスポイントになるわけで、そうならざるを得ない事情は確かに分かります。しかし、初演(昭和6年)の舞台写真をいくつか見た感じでは、初演(昭和6年)当時の役者も劇場関係者も観客もほとんどすべて原作映画を知らなかったわけで(つまり比較対照の仕様がなかったわけで)、原作の呪縛から解放されたところでこの新作世話物が或る程度自由に作れた点が、初演好評の要因であったように思われました。

ところで、すべてがラストシーンにかかっている映画と云うものがあると思います。映画全体が最後の瞬間のための準備のようなもので、その瞬間が訪れた時にすべての意味が届く、そのような映画です。チャップリンの映画「街の灯」は、その典型的なものです。この件については「妹背山・御殿」についての論考「君のなかの・君以上のもの」で取り上げました。花売りの少女はあの「白馬の王子」をずっと待ち続けています。浮浪者を見て少女は同情して・バラの花を渡し・硬貨を手に握らせます。その瞬間、少女はその手の感触で相手が誰であったのか悟ります。少女は真剣な顔になって訊ねます。「You?(あなただったんですか?)」 浮浪者は目を指差して、「You can see now? (見えるのかね?)」と聞きます。少女は「Yes, I can see now.(はい、今は見えます。)」と答えます。画面は、期待と恐れに満ちたような・浮浪者の恥ずかしそうな笑顔で、まるで途切れるように終わります。

吉之助にとっては、「街の灯」のこのシーンはなかなかキツイ。少女が浮浪者を受け入れることが出来るとは、ちょっと思えないからです。「妹背山・御殿」の場合、お三輪は決して高望みしたつもりはなく・そこらにちょっと見当たらない素敵な男性に恋しただけのことだったと思います。しかし、白馬の王子・求女は、藤原淡海公と云う・トンでもなく身分の高い人物であったことが明らかになります。実体を現した淡海は舞台に姿を見せませんが、ドロドロの政治的要素にまみれたその姿はぶっかえった金輪五郎の姿を見れば十分に想像が出来ます。それは庶民であるお三輪の目からは、とても親しみが持てない奇怪な姿です。この時白馬の王子は自分を指差して、「You can see now? (分かったかね?)」と聞くのです。お三輪は自分が「北の方」と呼ばれたことに満足して死んでいきますが、最後に彼女の口から出たのは、「どうぞ尋ねて求女様、もう目が見えぬ、なつかしい、恋しや恋しや」という言葉でした。お三輪は必死で求女と淡海を重ね合わせようとしましたが、お三輪の心にあったのは淡海ではなくてやっぱり求女の姿であったのですね。「街の灯」のラストシーンについてスラヴォイ・ジジェクはこう分析しています。

『チャップリンの天才ぶりを示しているのは、彼が、浮浪者の真の姿が露わになった瞬間に、まったく予期しなかったように唐突に映画を終わらせるようにしたと云う点である。この映画は、「少女は彼を受け入れるか、いれないか」という問いに答えない。彼女は彼を受け入れ、二人はいつまでも幸せに暮らすだろうという推測を裏付けるものは作品中に一つもない。(中略)耐え難いほどの近さでいきなり画面いっぱいに映し出されるこの汚らしい滑稽な男は、本当に少女が愛するに値する存在なのだろうか。(中略)同じ疑問を反対の方向にも向けなければならない。(中略)浮浪者が少女に同情的な愛情を抱いたのは、彼女が盲目で、貧乏で、まったくよるべなく、彼の保護を必要としていたからではなかったのか。今では彼女の方が彼を養ってやる立場にあると云うのに。それでも彼は少女を受け入れることが出来るのか。(中略)「街の灯」は絶対的な決定不可能性の瞬間に終わる。つまり「彼は私たちの愛に値するか」と云う問いに答えなければならない瞬間に終わるのである。』(スラヴォイ・ジジェク:「汝の症候を楽しめ。ハリウッドvsラカン」、分かりやすくするために文章を吉之助が若干いじりました。)

スラヴォイ・ジジェク:汝の症候を楽しめ―ハリウッドvsラカン(筑摩書房)

「街の灯」のラストシーンは、映画では描かれない・その後の二人を想像させてどことなく不安な気分にさせます。一方、「蝙蝠の安さん」にはそのシーンの後に続きがあって、安さんはお花の元を去ってしまうことで、「自分は彼女の愛に値するか」と云う問いの答えを出すことから自ら逃げてしまうのです。だから観客は何となくホロッとして、そこで安さんの彼女への優しさを感じ取る余裕が出来ます。ここが原作映画の結末と異なる点です。執筆時点で錦花は映画を見ていないわけですから、これは映画の粗筋から錦花が引き出した結末です。些細な違いのようですが、この違いが「蝙蝠の安さん」の核心だと思います。そこに日本的な精神風土が見えてきます。

実はこれは長谷川伸の股旅物などによく出てくるパターンなのです。フーテンの寅さんなども同じです。彼は彼女との愛が成就するかも知れないと云う・あわやその時に、さっと身を引いてしまうのです。彼は彼女を幸せにすることができない「負い目」をずっと感じていたのです。「俺は彼女の愛を受けるに値しない・しがねえ渡世人だ、明日をも知れねえ俺には終わりのない旅がふさわしいのさ」などとつぶやきながら、彼は彼女に背を向けて去って行きます。もちろんこれはポーズに違いないのですが、彼はこういう場面ではじっと耐えてみせるのが「これが男というものだ」と固く信じているのです。彼の目には涙がちょっと滲んでいるかも知れません。このラストシーンのおかげで「蝙蝠の安さん」は歌舞伎の世話物として納めることが出来たと云うことなのですね。

(R1・12・27)



 

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