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夢のなかの「あの女」

平成29年8月歌舞伎座:「刺青奇偶」

九代目市川中車(半太郎)、二代目中村七之助(お仲)


1)夢のなかの「あの女」

長谷川伸の「刺青奇偶」は、昭和7年(1932)6月歌舞伎座での初演。配役は、六代目菊五郎の半太郎、五代目福助のお仲、十五代目羽左衛門の政五郎でした。

作者長谷川によれば半太郎にはモデルがあって、明治の頃に実在した三下博徒の坊主竹五郎、略して坊主竹と云う人であったそうです。この人は五代目菊五郎の弟子である尾上蟹十郎(二代目)の知人で、蟹十郎から聞いた話を六代目菊五郎が何かの折に長谷川に話して、長谷川がメモっていたネタだそうです。それに拠れば、坊主竹の女房の前身は新吉原の遊女で、亭主の博打好きに散々の苦労をして、病気になって余命がないと知るや、亭主に頼んでその二の腕にサイコロを刺青し、私の死んだあとでこれを見て遺言だと思っておくれと云って死んだ。坊主竹は女房の遺言を気に掛けず博打を続けていましたが、博打をすると二の腕のサイコロが痛むので、着物のうえからサイコロをそっと叩いて「もうこれっきりだ」と云って博打をしていたそうです。これは長谷川の「材料ぶくろ」(昭和31年出版)のなかに出て来る話です。

それと「材料ぶくろ」には出て来きませんが、長谷川はアメリカ映画の「紐育の波止場」から「刺青奇偶」のヒントを得たことが明らかです。長谷川は映画好きで、アイデアを映画から取り入れることがしばしばあったようです。映画監督の稲垣浩がこんな思い出話をしています。

『戦後のある日先生に、アメリカ映画の「シェーン」は「沓掛時次郎」の焼き直しではないですかと話したことがあった。先生の答えは「あれは上手に作ってあるね」だった。抗議してはどうですかと言ったら、「なあにこっちも「紐育の波止場」にヒントを得て「刺青奇偶」を作ったのだからお会いコさ」と笑い飛ばされた。」(稲垣浩:「長谷川先生に学ぶ」・長谷川伸全集月報9)

「紐育の波止場」(The Docks of New York)は1928年に制作されたアメリカ映画(ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督)で、サイレント映画の名作とされているそうです。翌年・昭和4年に日本でも公開されて話題になりました。七つの海を股にかけてきた蒸気船の火夫のビルが、男に捨てられ絶望から海に身を投げた娼婦のメイを救ったことから愛に目覚める・・という筋書です。長谷川は、「紐育の波止場」から身投げした見知らぬ女を男が助けて愛に目覚めるという発端を拝借し、これに六代目菊五郎から聞いた坊主竹の逸話を絡めて、「刺青奇偶」に仕立てたわけです。

従来の芝居だと話を因縁仕立てにしてしまうところですが、「刺青奇偶」は男と女の愛の発端を偶然の出会いにしたところが新鮮で、外国映画からヒントを得たというのは、なるほどそこが新歌舞伎らしいところなのだな・・と思います。半太郎もお仲も、その前身に暗い蔭を引きずっています。その辺は匂わせていますが詳しくは描かず、「観客のみなさま、どうぞお察しください」という感じで済ませています。大詰・幕切れもそうで、吉之助は初めて「刺青奇偶」を見た時はこの場で終わるのが尻切れトンボの印象がして、この後に半太郎がお仲の枕元に駆けつける場が続くのをカットしたのかなと思いましたが、実は長谷川の台本がこうなっているのです。その後の展開は察してくれというわけです。そこに余韻が出て来る。そこらも長谷川が映画から学んだテンポアップの工夫でありましょうか。

ところで長谷川は「刺青奇偶」の女主人公お仲に思い入れがあったようで、こんなことも書いています。

『自分の書いた戯曲のなかの、「あの男」を夢に見ることはないが、「あの女」を時に、それこそ実に思いもかけず夢に見ることがある。例外なくそれはいつも、黙って立ち姿をみせる、ただそれだけを夢に見るのである。その後の二、三日は気にかかるが、いつか又忘れて日がたち月がたつのが例である。(中略)「書いた戯曲のあの女」で、「ふと夢に見る」のは二人だけ、「沓掛時次郎」のお絹と、「刺青奇偶」のお仲だけである。』(長谷川伸:「材料ぶくろ」)

「刺青奇偶」初演の稽古の時、六代目菊五郎が長谷川の傍に行き、「この女の性根が俺には分からねえ」と言ったそうです。長谷川は「君と僕とでは通って来た人生の街道が違うからそうなのだ。僕はこうした女を友達に持つような過去があったのだから、僕には分かるんだがなあ」と言いました。菊五郎が承服しない顔つきだったので、さらに「この女は、坊主竹とかの女房ではなくて、僕の過去の中にいた女がモデルなのだけどね・・」と言ったそうです。菊五郎は黙っていたけれど、「私の説を肯定してくれたとは思っていない」と長谷川は書いています。(この稿つづく)

(H29・8・25)


2)七之助のお仲・中車の半太郎

今回(平成29年8月歌舞伎座)の舞台は玉三郎演出ですが、確かに七之助のお仲は玉三郎によく似て声もそっくりに聞こえます。しかし、序幕の台詞の調子は語調が強くて、捨て鉢で嫌味な感じがちょっとします。そこが今後の改善点と思いますが、もう少し情を深くお願いしたいですね。長谷川伸が夢のなかで見たお仲は、どんな女だったのかなあということを考えてみたいですねえ。例外なくそれはいつも、黙って立ち姿をみせる、その昔、そうした女を友達に多く持っていたこともあり、歳月を経ても心のどこかに忘れかねるものがあるのだろうと長谷川は書いています。友達ってどの程度までの女友達だったのかなあ。幸せ薄そうな寂しい印象がしますが、どこか人恋しいところがあって、「あの女、今はどうしているか、幸せに暮らしているだろうか」とふと気に掛る女ということでしょうかね。

ところ「刺青奇偶」は映画タネのせいか、展開が早くて、ちょっと余白が多い感じがしなくもありません。気になるのは、お仲と一緒になって幸せを得たはずの半太郎はやくざ稼業から足を洗ったのに何故博打を止められずに来たのか、半太郎の心の闇があまり描かれていない点です。半太郎を探し回っている両親が出て来るけれども、いまいち心に絡んでこない気がするんですよねえ。吉之助には、ちょっとそこが本作の弱みに思えます

長谷川の主人公はどれも愛する女を幸せにしてやりたい気持ちは人一倍強いのだけど、自分は女の愛情を受けるに値しない駄目な野郎だという引け目がこれまた人一倍強い、それで女の幸せにふさわしくない自分をずっと責め続けています。ですからこれでやっと二人の幸せが来そうな場面になると、男は女に気づかれないように静かに身を引くというパターンが多いようです。半太郎もこのパターンに乗っているので、作者はあまり説明を加える必要を感じなかったのかも知れませんが、いずれにせよ半太郎のコンプレックスと云うか暗い陰と云うか、台本に不足しているそういうところは、役の雰囲気で補ってもらいたいものです。そうでないと、二の腕に諫言のサイコロを刺青してもらったのに、その瀕死の女房を置いて、再び賭場に出掛ける 危急性が見えて来ない。単に金が要り様だという理由なら、全然反省してないモデルの坊主竹と何ら変わりありません。これでは芝居が陳腐に見えて来ます。

諫言のサイコロを破ることが女房を裏切ることになると覚悟のうえでの勝負なのです。つまりそれくらい半太郎は今は金が必要なわけで、裏返せば、それくらい半太郎はお仲を大事に思っているということなのです。中車の半太郎は全体として演技がサラッと乾いた感触で、人物の暗い陰が見えてこない。何だかいい人になってしまっています。その辺に研究の余地ありというところです。もう少し演技の間を深く取ってみれば良いのではなかろうか。

中車はたいぶ歌舞伎に慣れて来た感じはしますが、サラサラと滑らかにしゃべっただけでは、まだ新歌舞伎の様式になって来ません。常夜燈脇でお仲を突き倒して言う「見損なうな、何でえ。・・・たったひとつのサイコロの丁目半目が野郎と阿魔なら・・・」以下の啖呵の長台詞は大事な台詞で、ここが駄目なら序幕の半太郎は生きてこないのですが、中車は勢い付けてるつもりでしょうが、台詞がまくれてしまっています。もっと言葉ひとつひとつを明確にしゃべることです。それで台詞にリズムが付いてきます。無闇に早くしゃべろうとせず、言葉ひとつひとつを明確にしゃべれる適切な速度でしゃべることです。これで演技の間の取り方もだいぶ違ってくるでしょう。

(H29・8・29)




  
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