(TOP)     (戻る)

合邦の悲劇〜八代目三津五郎の「合邦辻」通し

昭和43年6月国立劇場:「摂州合邦辻」

七代目尾上梅幸(玉手御前)、八代目坂東三津五郎(合邦道心)、三代目尾上多賀之丞(合邦女房おとく)、十三代目片岡仁左衛門(高安左衛門通俊)、十四代目守田勘弥(羽曳野)、七代目中村芝翫(俊徳丸)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(浅香姫)、十七代目市村羽左衛門(奴入平)、十代目岩井半四郎(次郎丸)他

*本稿は別稿「玉手御前の悲劇〜七代目梅幸の合邦辻通し」と対を成すものです。


1)大隅太夫の合邦

師匠二代目豊沢団平の三味線で三代目大隅太夫が「合邦」を初役で語った時のことだそうですが、玉手御前が邪恋の真相を語り「父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ」と言うのに応えて、父・合邦が「オイヤイ、オイヤイ・・」と言う場面で、大隅が 何度「オイヤイ」と言っても団平の三味線が全然受けてくれなかったそうです。大隅は「オイヤイ、オイヤイ、オイヤイ、オイヤイ・・・」と立て続けに叫 びましたが、とうとう酸欠になったかして気を失って見台の上に倒れて頭をガンッと打った。それでも団平は弾いてくれなかったそうです。見台の上でハッと我に返った大隅が「オイヤイ、オイヤイ・・」と言ったところで、やっと団平が受けを弾いたということです。

大隅と団平の芸の逸話は、こんなものばかりですね。杉山其日庵は大隅の思い出を語る時はいつも目に涙を浮かべていたそうです。上記の逸話も芸の秘密を掴み取ろうと必死であがく大隅の姿に胸が熱くなりますが、師匠団平は大隅の「オイヤイ」のどこが不満であったのだろうか、そのことを考えてみます。「オイヤイ」以前に合邦は娘・玉手の邪恋の、そのあまりの狂乱振りに怒り狂って、合邦は脇差で娘を刺してしまうのです。ところが玉手は「ヲヽ道理でござんす道理ぢゃ憎い筈ぢゃ、ガこれには深い様子のある事・・」と言って邪恋の真相(トリック)を語り始めます。怒りが冷めやらず最初は信用しない合邦も、娘の話を聞くうちに次第に娘の貞節を理解していきます。元より合邦が娘を愛していなかったはずはないわけで、「しまった・・・早まった・・」、合邦の胸に去来するのは娘を刺してしまったことの強い後悔、或いは娘の貞節を信じないで怒りの感情に任せてしまった自分に対する惨めさ・情けなさです。多分大隅の最初の「オイヤイ」はそこ の感情の表出が若干足りなかったのかも知れません。しかし、気を失って見台の上に倒れて頭を打ってハッと我に返った大隅が、恐らく合邦の気持ちに自分の芸の至らなさ・情けなさががふと重なって「オイヤイ」と語ったところで初めてそれが出来た、それでやっと団平が受けを弾いたということだろうと思います。

豊竹山城少掾は、「文楽の鑑賞」(山口廣一編)のなかで、「先代大隅さんは最初は低い小さな声で、それが次第に大きくなっていく、しかも「オイヤイ」から次の「オイヤイ」に掛かる間がとても長く、その長かったことは本当に絶句されたかと思われるほどでした」と語っています。まあ大隅のやり方が絶対と云うものではないにしても、参考にはなると思います。

別稿「玉手御前の悲劇」のなかで、「死ぬ間際の玉手がこの恋はトリックだと言っているのだから、ここは素直に信じて聞いてやれば良いじゃないか」と吉之助が書いたのは、そこのところです。玉手御前の恋が真実か偽かというのはそのどちらであっても、玉手の性根としては演技の構築は出来ます。しかし、これだけ合邦が娘を刺したことを悔いて「オイヤイ」と泣き叫んでいるのに、「でもホントは玉手は心の底で俊徳を愛していたのでした」では、今度は合邦が浮かばれないと吉之助は思うわけです。(この稿つづく)

(H30・12・2)


2)説教「しんとく丸」の世界

「庵室」に先立つ場面として、下の巻に「天王寺万代池の段」があります。歌舞伎では滅多に上演がされません。「合邦辻」の源流となる説教「しんとく丸」でも謡曲「弱法師」では、天王寺は中世期の浄土信仰の浄化・再生の聖地として計り知れないほど重要な意味がありました。しかし、近世江戸における「合邦辻」では、様相がちょっと異なるようです。例えば「盲目になった俊徳丸が天王寺で日想観をするうち、夕陽に輝く西の海原の光景をありありと見る」(弱法師)と云う奇蹟は、天王寺では起こりません。「天王寺で父と出会って俊徳丸が救われる」ということも起りません。「合邦辻」では業病に冒された俊徳丸の再生は、次の場(庵室)に持ち越されます。奇蹟は玉手の犠牲(死)によって引き起こされるのです。

それでは「合邦辻」のなかでこの天王寺の場は、どのような位置付けになるのでしょうか。ここでは中世期の浄土信仰は全く意味を持たず、天王寺の場は説教や謡曲のパロディにしか過ぎないのでしょうか。そんなことは、決してありません。浄瑠璃作者は中世の浄土信仰を引き継ぎながら、これを近世的な感性で読み解き、新たな人間ドラマを作り出そうとしたはずです。そこに近世江戸の作品たる「合邦辻」の意義がある に違いありません。

中世期の天王寺(四天王寺)は、病魔に冒された人たちが最後にすがる聖地でした。西門の鳥居の横には掘っ立て小屋が沢山あって、施し・あるいは救いを求めて多くの乞食・あるいは病人が集まっていました。また施しをする人々も大勢集まりました。特に彼岸の中日には「日想観(じっそうかん)」を行うために大勢の人々が天王寺に集まってきたものでした。日想観と云うのは、天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っているという信仰から来たものです。人々は西門付近に集まって、沈む夕日をここから拝みました。まず夕日をじっと眺めて、目を閉じてもその像が消えないようにして、夕日が沈む彼方の弥陀の浄土を思い浮かべます。だから太陽が真西に沈む彼岸の中日が一番良いとされていました。

説教「しんとく丸」では、業病に冒されたしんとく丸は各地を放浪した後、天王寺の御堂の縁の下に隠れて餓死を思い立ちます。そこへしんとく丸と夫婦の約束をした乙姫が巡礼姿に見をやつして天王寺にやって来ます。乙姫はしんとく丸を見つけて、再会をかたくなに拒否するしんとく丸を抱きかかえて肩にかけ、天王寺七村を袖乞いして歩きます。最後は観音様の夢のお告げにしたがって乙姫がしんとく丸を再生させます。

ここで説教「しんとく丸」をよく知る方が歌舞伎の「合邦辻」の天王寺の場を初めて見るならば、この場で俊徳丸と再会する許嫁の浅香姫が多分説教の乙姫に当たるだろう、浅香姫がこの場で奇蹟を引き起こすだろうと、筋を予想しながら芝居を見ることになるはずです。天王寺の場の最後では合邦の指示で浅香姫が土車を引いて俊徳丸を庵室にまで運びます。この件も説教「おぐり」の照手姫を連想させて、観客は この後の浅香姫=乙姫の奇蹟を期待するでしょう。しかし、結局、浅香姫が奇蹟を引き起こすことはないのです。意外なことに、俊徳丸を業病にした継母の玉手によって、次の場(庵室)奇蹟が引き起こされます。つまり乙姫の役割を負うのは玉手であって、浅香姫ではないのです。ここで浄瑠璃作者は観客の予想を裏切り、次の場に向けて挑戦的にトリックを仕掛けて来ます。

説教の世界の近世的な感性での読み解きと云う点では、「さんせう太夫考〜中世の説教語り」(平凡社選書)のなかで、中近世文学研究者の岩崎武夫が興味深い指摘をしています。天王寺にたどり着いた乙姫は、寺内の金堂 ・講堂・六時堂・亀井の水と順番に、しんとく丸を姿を探し求めます。これらはすべて大坂観音霊場三十三か所の札所であって、ここに乙姫と観音信仰の深い関係が見えます。このような観音信仰霊場巡りの風習は、中世末期には成立していたものと考えられています。近松門左衛門の「曽根崎心中」(元禄16年5月竹本座初演)冒頭のお初の観音巡りは、そこに発想の源流があったのです。観音巡りの詞章に「色で導き、情けで教え、恋を菩提の橋となし、渡して救う観世音」とあります。同年4月に曽根崎の森で心中した遊女お初に、この世に示現した観音菩薩のイメージを重ねています。 ここでの遊女お初は、観音を担い観音と共に巡礼する巫女(歩き巫女)でもあります。

説教と「曽根崎心中」との深い関連は、乙姫が天王寺の御堂の縁の下にいるしんとく丸を探して抱きしめる場面にも見られます。徳兵衛は天満屋の縁の下に隠れており(つまり徳兵衛は闇のなかに居り)、「いつまで生きても同じこと、死んで恥をすすがいでは」というお初の言葉に即されて姿を現し、お初の足首に取りついて、心中を決意します。つまり近松の近世的な感性は中世の観音信仰を解体して、巫女を遊女に、寺社の縁の下を遊女屋の縁の下へと移し替え、業病からの再生・救済を、現世の苦しみを脱して新たな次元において「生きる」という意味へと読み直しています。

このような近松の天才と比べるわけに行かないかも知れませんが、近松より数十年時代が下る「合邦辻」の作者(菅専助、若竹笛躬)もまた同様に、彼らなりの近世的な感性と合理思考によって、中世の観音信仰の世界を再構築しようと懸命に試みているのです。さらに「合邦辻」の天王寺の場の考察を続けます。(この稿つづく)

(H30・12・19)


3)謡曲「弱法師」の世界

説教のしんとく丸(俊徳丸)は、謡曲では弱法師と呼ばれています。盲目の乞食となった俊徳丸がよろよろと歩く弱々しい姿から人々がそう呼んだものとされています。しかし、歴史学者・吉田東伍によれば、これは太平記の北条高時の田楽舞にある「天王寺の妖霊星を見ずや」(歌舞伎では新歌舞伎十八番「高時」の天狗の舞で使われる)に関連するものだそうです。折口信夫はこの指摘を取り上げて、霊は「ろう}とも発音するので、「ようれいぼし(妖霊星)」は「ようろうぼし(弱法師)」となる。すると唄の意味は「今日天王寺で行われるようろうぼし(弱法師)の舞を見ようじゃないか」となる。「ぼし」を拍子であるとすれば、これは舞を伴う語り物の一種となる。ですから天王寺に古くから伝わる「よろ拍子」という霊験譚みたいな語り物があったのかも知れぬと折口は推測します。(折口信夫:「信太妻の話」・大正13年)

中近世の天王寺は、大勢の人々が行き来し交流する芸能の地でもありました。折口の少年時代(明治の末頃)にも天王寺境内には見世物小屋がずいぶん並んでいたそうです。「合邦辻」の天王寺の場では、合邦が「閻魔堂の建立、一銭二銭の多少によらずお志はござりませんか」と呼びかけて勧進を募り、周囲の民衆を巻き込んでみんなで軽妙な踊りを踊ったりします。勧進聖は半俗の僧で、各地を遊行しながら人々に仏の教えを語り、寺社建立の寄金を募った芸能者でもありました。次場の「庵室」だけだと合邦は謹厳実直で道徳一転張りのお堅い人物に見えるでしょう。まあそう考えて大筋では間違いではないのですが、しかし、前場の天王寺の場を見ると、合邦はこれはなかなか剽軽でフットワークの軽い性格のようです。二つの場で合邦の性格が割れているとよく云われますが、恐らくこれは上記のような天王寺に伝わる古い習俗から来たものとすれば理解ができると思います。

一方、観世元雅による謡曲「弱法師」では舞台が簡素化されて民衆のエネルギーが渦巻く雑踏の気分がまったく見られませんけれど、前提としてそのような天王寺の雰囲気を頭のなかに入れておく必要がありそうです。「合邦辻」のもうひとつの源流である「弱法師」は、日想観の思想を取り入れています。人々に混じって日想観をするうち、俊徳丸はしだいに気分が高揚して、俊徳丸の脳裏に不思議な光景が見えて来ます。

「住吉の松の暇より眺むれば、月落ちかかる、淡路島山と、眺めしは月影の、今は入日や落ちかかるらん、日想観なれば曇りも波の、淡路絵島、須磨明石、紀の海までも見えたり見えたり、満目青山(ばんぼくせいざん)は心にあり、おう、見るぞとよ見るぞとよ」(謡曲「弱法師」)

これが病魔に冒された俊徳丸が日想観のなかで得た宗教的奇蹟です。法悦は長く続くことはなく、ふらふらと歩き始めた俊徳丸は人に突き飛ばされて、たちまち現実に引き戻されます。俊徳丸は深く恥じて「今よりはさらに狂わじ」と肩を落とします。しかし、夜更けに俊徳丸は父と出会います。俊徳丸は自分を恥じて逃げようとしますが、父は追いついて手を取り息子を高安の里に連れて帰ります。

これが謡曲「弱法師」に描かれた日想観の奇蹟です。それにしても「合邦辻」の天王寺の場には、これに相当しそうな場面がまったく見えません。そもそも「合邦辻」の天王寺の場を見ると、日想観ということがまったく浮かんで来ません。「弱法師」をよく知る観客は、天王寺の場で何か奇蹟が起きるだろうと予測すると思います。しかし、浄瑠璃作者はここでも観客の期待を大胆に裏切ります。観客にはその後の展開がまったく読めません。しかし、場所を天王寺に設定していると云うことは、この「合邦辻」が日想観と深い関係があると云うことであるはずです。それでは「合邦辻」のどこに日想観の思想が反映されているでしょうか。

それは合邦庵室が、天王寺の西、つまり西門からの坂道を下ったところに位置するということです。天王寺の西門は極楽浄土の東門と向かい合っている、天王寺の西門の向こうに救いがあるのです。「合邦辻」の奇蹟は、合邦庵室(現在は閻魔堂があるその場所)において、俊徳丸を業病に陥れた継母・玉手の犠牲によって引き起こされると云う、意外な展開を見せます。説教「愛護の若」において義理の息子の愛護に恋し、愛護はおろか一族をも破滅に追い込んだ継母・雲井の前は、まったく救いようがない邪悪な存在です。雲井の前が玉手のモデルであるならば、玉手は俊徳丸を死に追い込み、高安家をも滅亡させることになりそうです。ところが「合邦辻」は観客が予想出来ない展開を示します。「合邦辻」は、自らを犠牲にして義理の息子・俊徳丸を業病から救うことによって、邪悪な存在と思われた我が身を観音菩薩の姿に転化する玉手の「救われ」の物語であったことが、最後の最後に明らかとなります。「合邦辻」は大筋において古来の俊徳丸の救済物語の形式を守っていますが、実は玉手の物語なのです。

ここで雲井の前にとっては夫・俊徳丸にとっては父である高安公の存在が気に掛ってきます。「合邦辻」の天王寺〜庵室においては高安公は登場しませんが、ドラマ的には謂わば高安公を代行する役割を負うのが合邦です。合邦が体現するものは、夫婦はこう在るべし・親子はこう在るべしと云う、世間的な倫理・道徳です。庵室前半の邪恋に狂う玉手と真っ向から対立するのが、合邦なのです。(この稿つづく)

(H30・12・22)


4)合邦の悲劇

「庵室」においては高安公は登場しませんが、「玉手の邪恋の件を高安公はどうお感じであろうか」というところで合邦は動いています。

『高安殿が今日まで、うぬを助けて置かっしゃるご心底を推量するに、もとおのれは先奥方の腰元、後の奥方に引上げうとあった時、たって辞退しをったを、心の正直懇望で無理やりに奥方姿(なり)、アヽ手をかけず奥様とも云はさずば、今この仕儀にも及ぶまい、殺さにゃならぬやうになったも、みなわが業とお身の上を省みて、親への義理に助けさっしゃるを、アヽありがたい、恥づかしいと思ふ心が芥子ほどでもあるなら、譬へどれほど惚れておっても、思ひ切るに切られぬといふ事はないわい、それに何ぢゃ、そのざまになっても、まだ俊徳様と女夫になりたい、親の慈悲に尋ねてくれとは、どの頬げたで吐(ぬ)かした、エヾあっちから義理立てゝ助けて置かしゃるほど、生けて置いてはこっちもまた義理が立たぬ、サ覚悟せい、ぶち放す』

この台詞で分かることは、玉手が先妻のお付きの腰元であったのを、先妻の死後、高安公が玉手を見染めて、再三辞退したのを無理やりに奥方にされたということです。この辺の裏事情については察するしかありませんが、父・合邦が頑固に清廉潔白を貫いて極貧生活を続けていることで、両親を養うためにも、娘としてはこれに抗うことが出来なかったということでしょう。そのようなことから日頃から合邦は高安公に強い恩義を抱いているわけです。さらに邪恋の件について高安公が玉手を即手討ちにしないのも、これも玉手を無理に後妻にした我が身の業だと親への義理で助けたのであろうと思えば、なおさら有難い・恥ずかしいという気持ちが合邦のなかに湧いて来るということです。合邦が高安公の気持ちをこれほどまでに気にするのには、理由があります。これは合邦がもともと大名であったのを讒言(ざんげん)により鎌倉を追われた過去があるからです。

『畜生め、おのれにはまだ話さねど、もとおれが親は青砥左衛門藤綱というてナ、鎌倉の最明寺時頼公の見出しに合うて天下の政道を預り、武士の鑑と云はれた人ぢゃわい、おれが代になっても親の蔭、大名の数にも入ったれど、今の相模入道殿の世になって、侫人どもに讒言しられ、浪人して二十余年、世を見限っての捨て坊主、この形になってもナ、親の譲りの廉直を立て通した合邦が子に、マようも/\おのれがやうな女子の道も、人の道も、むちゃくちゃな娘を持ったと思へば、無念で身節がエイ砕けるわい』

青砥左衛門藤綱は鎌倉時代の実在の人物ですが、「青砥稿花紅彩画(弁天小僧)」でも最終場面の極楽寺山門に登場するのでご存じの通り、江戸時代の歌舞伎にしばしば公正な裁判を行い権力者の不正から民衆を守る「さばき役」として登場した人物です。或る晩、藤綱は滑川を通って銭十文を落とし、従者に銘じて銭五十文で松明を買って夜中にこれを探させたことがあったそうです。「十文を探すのに五十文を使ったのでは収支が合わないで損ではないか」と笑われると、「十文は少ないがこれを失えば天下の貨幣を永久に失うことになる、五十文使うのは自分にとっては損だが商人の益となる、つまり合わせて六十文が天下の財となる」と答えたそうです。これを屁理屈と見るか・やせ我慢と見るかは兎も角、そう見えるくらいに藤綱は清廉潔白、不器用なほど真正直を貫き通した人でした。その藤綱の息子が合邦なのです。

合邦は讒言によって鎌倉を追われますが、合邦にとって親の譲りの正直を立て通すことが意地になっています。世を捨てて不遇な生活をしても誓いを破ってしまえば讒言した奴らに負けたことになると合邦は思っているのです。誰かが俺を笑っているかと思えば、合邦は死ぬほど悔しいのです。(合邦が高安公の気持ちを気にするのは、そこに背景があるでしょう。)それで合邦は清貧な生活を意地になって続けています。だから当然のことですが、合邦は娘・お辻(玉手)を真正直な人間に育てたと云うことです。ここに父と娘との、あまりに強過ぎる親子関係が察することが出来ます。父親には或る強い「思い入れ」があ って、(青砥左衛門藤綱のことは知らずとも)娘もその「思い入れ」を共有していることになります。(この件に関しては別稿「玉手御前の悲劇〜七代目梅幸の合邦辻通し」を参照ください。)

その娘が義理の息子・俊徳丸に恋するという不義を働くということは、合邦のこれまでの人生が否定されたも同然なのです。つまり合邦は娘の不義を怒っているとか、高安公への義理立てから必要以上に娘を怒らざるを得ないとか、そういうことはもちろんあるかも知れませんが、それだけでは決してないのです。それ以上に合邦のなかに渦巻く憤りは、これまで頑固に清廉潔白を貫いてきた俺の娘がこんな不義を犯すのか、これが清い心で仏に仕えて来たつもりの俺への報いなのか、これが俺の業(ごう)なのか、それを思うと恐ろしい・やりきれない・堪らないということなのです。そのような憤りが合邦になければ、仏に仕える身でありながら娘を殺すなんてことが、合邦に到底出来るはずがありません。

似たような状況が、「義経千本桜・鮓屋」の弥左衛門にも見られます。「千本桜」初演本では、弥左衛門は元々平重盛が大唐育王山に三千両を寄進しようとしたのを盗んだ海賊であったということになっています。(この設定は、後に削除されました。モデルの鮓屋から抗議があったと推測されています。)本来は命がないところでしたが、重盛が許してくれたのです。その後弥左衛門は改心して吉野で鮓屋を開きました。ところが息子の権太がグレ出したのです。弥左衛門にとっては、これは自分の悪行の報いのせいかと気に掛ります。さらにグレだだけならまだよいが、こともあろうに大恩のある重盛の息子の維盛を首にして妻子を捉えて梶原に指し出すと云う権太の暴挙(これは権太の大博打であったことが後に明らかになります)に、弥左衛門は怒り心頭となってしまいます。弥左衛門が遂に権太を刺してしまうのは、俺の過去の悪行の報いがこれかという後悔と、業の報いの恐ろしさに耐えられなくなってしまったからです。弥左衛門の気持ちも、合邦と同じようなものと考えて良いです。

合邦が娘・玉手を刺した後で、娘の告白(モドリ)により事の次第が明らかになります。玉手は合邦が育てた通りの清廉潔白な娘でした。「しまった・・・早まった・・」、合邦がそう思った時には既に遅かった。玉手が「父様いな、何と疑ひは晴れましてござんすかえ」と言うのに応えて合邦が「オイヤイ、オイヤイ・・」と泣き叫ぶのは、そのような場面なのです。(この稿つづく)

(H30・12・25)


5)八代目三津五郎の合邦

「庵室」の前場である「天王寺万代池」では、合邦は「閻魔堂の建立、一銭二銭の多少によらずお志はござりませんか」と参詣の衆に呼びかけてリズミカルに勧進踊りを踊り 始め、やがて周囲を巻き込んで行きます。今回の舞台ではのどかで品が良い踊りなので、中世期の天王寺の猥雑なエネルギーが表現できたとまではちょっと行かないようですが、八代目三津五郎の合邦はいつもと違う随分軽妙な印象に仕上がりました。人物に奥行きが出たというほどではないにしても、合邦が謹厳実直だけの人物ではないところが表現出来たことは成果でした。これで後の場がどれだけ演りやすくなったか分かりません。

「庵室」だけであれば謹厳実直一辺倒の性根で押し通しても、それでも十分合邦になると思います。事の真相が分かった時の合邦の後悔・嘆きが表現出来ていれば、それでモドリが映えて「庵室」の玉手の悲劇が成立すると思います。しかし、「合邦辻」は玉手の悲劇であると同時に合邦の悲劇でもあるはずです。「合邦辻」を合邦の悲劇にするためには、合邦の娘への愛情をそこはかとなく表現することが必要となるでしょう。例えば刀で娘玉手を刺した合邦が云う「蚤一疋殺さぬ手で現在の子を殺すも、とっとモウ浮世の義理とは云ひながら、これが坊主のあらう事かい、これが坊主のあらう事かいなあ」という台詞に、娘に対する愛憎渦巻いています。ところが娘への情愛が強くなり過ぎると、怒って娘を刺しに行く段取りが取り難くなるかも知れません。だから合邦に頑ななところはもちろん必要ですが、愛憎半ばのバランスが大事になるのです。娘が可愛い・助けてやりたい気持ちが強くなればなるほど、逆に高安公への申し訳なさが募ります。高安公への義理から娘を殺さねばならぬと思えば思うほど、逆に娘への憐憫の情がますます募るのです。そこのバランスが難しい。三津五郎の合邦は謹厳実直な印象を守りつつも、娘に対する情愛の表出が言葉の端々に感じられて、まことにバランスが良い。玉手の告白を聞いての「オイヤイ、オイヤイ・・」の嘆きも良く出来ました。ここに三津五郎の 持ち前の浄瑠璃丸本理解が生きて来ます。

このような父合邦と娘玉手の、あまりに強過ぎる親子関係は、放浪の果てに玉手が生まれ育った庵室にたどり着き、まるでわざと父親に刺されに行くような振る舞いをすることからも明らかです。歌舞伎の「庵室」の舞台を見ると、高安の里を落ちて玉手はまっすぐ天王寺傍の庵室を目指して翌日の晩に着いたかに見えます。事実、高安の里から天王寺までは歩いて半日くらいの距離しかなのです。しかし、浄瑠璃丸本を見ると玉手が高安の里を出奔したのは雪の夜(つまり季節は冬)で、庵室の場面は春の彼岸中日後のことですから、少なくとも三か月 くらいが経過しているのです。玉手は恐らくその間、散々の苦労をして各地を放浪して俊徳丸を探し回って、ほとんど乞食同然の姿となり、最後に生まれ育った庵室にやっとたどり着いたのです。(「玉手御前の恋」のなかで折口は「庵室」の玉手は女乞食の姿、少なくとも「朝顔日記」の朝顔くらいの姿になっても良いと書いています。この辺は歌舞伎の「庵室」の玉手からはまったく察せられませんが、これはまあ仕方のないことで。)不義の汚名を着せられた玉手の振る舞いは、父親の手で元の清い身体に戻されることを望んだかのようにさえ見えます。まったく救いようがない邪悪な存在と思われていた玉手が、最後の最後に至って観音菩薩の姿に転化します。その「救われ」のきっかけが、実は合邦によって与えられています。つまり怒り狂った合邦が娘を刀で刺したことです。父合邦にとってあまりにも残酷な試練ですが、実はこれは娘が望んだことでもあったわけです。(別稿「玉手御前の悲劇」をご参照ください。)

『父はつね/\勧進の、「自力他力にこの仏体、建立してわが住家をそのまま一つの辻堂に、営むもまた平等利益、東門中心極楽へ、娘を往生なし給ヘ」と、願ふ心は後世のため、現世の名残り数々は百八煩悩夢覚めて、涅槃の岸に浮かむ瀬と形見に残る盃の、逆様事も善知識、仏法最初の天王寺、西門通り一筋に、玉手の水や合邦が辻と、古跡をとゞめけり。』(「摂州合邦辻」の結び)

「救い」は天王寺の西方に在ります。天王寺の西門を出て坂路をずっと下って行くと、小さな閻魔堂が見えて来ます。これが今も残っている合邦の閻魔堂です。

*写真館「夕陽丘と日想観〜四天王寺から閻魔堂・生玉神社」もご覧ください。

(H30・12・29)



 

  (TOP)     (戻る)