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玉手御前の悲劇〜七代目梅幸の「合邦辻」 通し

昭和43年6月国立劇場:「摂州合邦辻」

七代目尾上梅幸(玉手御前)、八代目坂東三津五郎(合邦道心)、三代目尾上多賀之丞(合邦女房おとく)、十三代目片岡仁左衛門(高安左衛門通俊)、十四代目守田勘弥(羽曳野)、七代目中村芝翫(俊徳丸)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(浅香姫)、十七代目市村羽左衛門(奴入平)、十代目岩井半四郎(次郎丸)他

(この連載は未完です。最新の章はこちら。)


1)玉手御前のサワリ

『昔の腹切りはもっともっと長かった。たとえば権太が腹を切るのは今は簡略過ぎますよ。合邦のお辻も同じこと。(三代目)梅玉(の玉手御前)なんてのは、胸を突いて息を引き取るまでが長いんですよ。そのためにストーリーが前に付いているという感じですよ。モドリになってからが長い。戯曲の構成というものはそれが眼目であったなということが分かるんです。今はストーリーを通すために満遍なく平均して筋がならされていくわけですね。だから演出が変わってくる。そうするとかえって矛盾が目立ってくるんです。』(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

郡司正勝が中国の古い演劇を調べているうちに、昔の芝居と云うものはストーリーが出来てから上演するのではなくて、上演しているうちに、部分と部分を組み合わせて、それが積み上がって出来て行くものだということ、それは歌舞伎でもまったく同じで昔の芝居はみんなそうだったということを語っています。本稿では「合邦庵室」で話を進めますが、結局、この芝居は玉手御前(お辻)のモドリと腹切りが核心であるので、そのために前の筋が付いているということなのです。

こういうことはいつものように「合邦庵室」だけを見る分にはどうでも良いことかも知れませんけれど、吉之助がこの点にこだわるのは、一般的に適用されるところの、日本伝統の本歌取りの発想法、つまり先行作の或る部分が新しい発想によって書き換えられて、意味が置き換えられたり趣向が加えられたりして、次第に筋が変容し複雑化していくという過程が、浄瑠璃「摂州合邦辻」の場合、どうもイメージしにくいからです。例えばものの本など読めば、業病にかかって親に疎まれた貴公子が放逐されて各地を彷徨うという件は、先行作として説教浄瑠璃の「しんとく丸」からの流れがあるとか、別に謡曲「弱法師」の流れがあるとか云われます。或いは義理の母親が息子に恋する邪恋という件は、古代のインドの美しい王子枸拏羅(くなら)が母妃の邪恋のために目を失って放浪するという仏教説話に発し、これが世界各地へ伝播して、日本では説教浄瑠璃「愛護の若」、西洋においてはエウリピデスのギリシア悲劇「ヒュッポリトス」あるいはラシーヌの悲劇「フェードラ」に繋がって行くということが云われます。確かに材料としては揃っているようです。しかし、これらの系譜がそのまますんなりと後年の「合邦辻」へ向けて一本の思念の流れを形成して行くようには思えないのです。この線から玉手御前が出来上がるとは、吉之助にはとても想像が付きません。まったく異なる発想法から「合邦辻」が出来上がっている ように思えるのです。これについては、折口信夫が自作「身毒丸」について語ったことがそのまま適用できそうな気がします。

『この話(「身毒丸」)は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

つまり折口が意図するところは、謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」から系譜を引いて「身毒丸」を考えることでもなく、逆に「身毒丸」から遡って系譜を考えることでもないのです。物語を紡ぎ出すきっかけとなる、とてもピュアなものが必要です。それがぽっと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の「身毒丸」は、そのように発想されて出来ているのです。「身毒丸」の場合には、それは「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり」という流浪のイメージです。(別稿「折口信夫への旅・第1部〜「身毒丸」」を参照ください。」)

恐らく浄瑠璃「合邦辻」においても同じ様な発想プロセスがあると吉之助には思えるのです。それでは「合邦辻」では、浄瑠璃作者の脳裏にぽっと浮かんだピュアなものとは何であろうかと云うことが問題になります。ここで郡司の、「玉手御前が胸を突いて長々と本心を語る、その場面のためにストーリーが前に付いている」という指摘が役に立ちます。すなわち玉手御前のサワリが、それです。

『玉手御前のサワリ、表に意気を持って、心に深き憂いを含んで語るのであるとの事。この段では、玉手のこのサワリを聞いて聴衆が、「ハハア、この玉手は口ではアンナ色気タップリの事を云っているが、何か腹のなかに深き考えがあって、決して不貞一方の女ではない。即ち悪い女ではない、善い人であろう」と聞き分けるように語る。それがむつかしいのである。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」)

『我々が人形芝居や舞台を見て受ける印象は、平凡だけれど力強いものを受ける。江戸時代の女は、今と違って、社会的にも宗教的にも宿命を負うているので、玉手が自分と同じように苦しんでいる女に向って、強く生きて美しく死んでいくものだ、詩人的な言い方をすると、哀れな死を遂げた屍がこれだ、と人が言うように生きなさい、と我々に言ってるのだと感じても、その受け入れ方は誤りではないと思う。凡庸な作者がそんなことを言うのでは反発する心が起こるが、玉手が・作品の上の主人公がそう言うのなら、不都合ではないと思う。』(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

観客は「玉手は悪い女ではない・善い人だ」と思いたいのです。だから舞台の玉手がその通りの清い身体に返って死んだ時、ああ良かった、やっぱり玉手は善い女だったと 安心して、それで観客は救われるのです。そこを描きたいためだけに前の筋が付いている、「合邦辻」とはそう云う芝居なのです。(この稿つづく)

(H30・10・3)


2)梅幸の玉手御前

「合邦辻」の玉手御前を考える時によく議論になるのは、義理の息子俊徳丸に対する道ならぬ恋は、偽りの恋なのか、それとも本当の恋なのかという点です。玉手が死ぬ直前にモドリになって、これは自ら不義者と云われ悪人となることが継子を守り夫の御恩を果たすための計略であったと言っているのであるし、合邦もこれを認めて「おいやい」と言って泣くのですから、吉之助などはそこはその通り素直に聞いてやれば良いじゃないかと思うのですが、深層心理なんて概念がある現代人には、これがとても気になる問題なのです。フロイトが無意識を発見して以後の「人間」は、人間は自分がはっきり意識していない何者か(無意識)に支配されている人形のようなものだと云うイメージです。だから邪恋に翻弄される玉手を見ていると、 実は俊徳に対する恋が本当のことで、玉手がモドリで云うことはそっちが建前(嘘)なのじゃないの?ということを考えたくなるのだろうと思います。

ところで戦後昭和の名女形と云えば、六代目歌右衛門と七代目梅幸の二人が並び称されますが、歌右衛門と梅幸は何となく棲み分けがされているようなところがあって、役がかち合うという印象があまりなかったですねえ。そのなかで真っ向かち合ったのは、「娘道成寺」と「合邦辻」の玉手であったと思います。幸い吉之助はどちらの舞台も見ることが出来ました。それぞれの良さがあって、どちらも甲乙付け難いものがありましたけれども、玉手に関しての大きな相違は、「恋の一念通さで置こうか、邪魔しやったら赦さぬぞ」で俊徳丸の腕をつかみ浅香姫を突き飛ばす狂いの場面においては、歌右衛門の玉手がまさに邪恋に身を焼く鬼女の形相であったのに対し、梅幸の玉手は表面は狂いの形を取ってもどこまでも清らかに見えたと云うことです。梅幸の玉手は、最後まで清らかな印象で一貫していました。だから後で改めて考えてみれば、あの狂いはあくまで段取りとしての狂い、玉手が冷静に父合邦に刺されに行くために仕掛けた狂いであったと云うことです。

これは役に対する段取りの相違ですから、どちらが正しいということはもちろんないのですが、モドリの目的が観客にドン返しを喰らわせて「アッ真相はそうだったのか」と驚かせるという所にあるとすれば、玉手の狂いは凄まじく本気であった方が、より効果的であろうと思います。「何と玉手の邪恋はおぞましいことか」と観客を慄(おのの)かせる方が、後のモドリとの落差がより大きく出来るからです。清らかな狂いであると、当然そこのところは弱くなります。しかし、梅幸の玉手は後のモドリを観客にすんなり納得させるものでした。玉手がモドリで云っていることはその通りなのだろうなあと素直に思えるものでした。それでいて玉手の俊徳丸の思いも素直に感得できるものでした。不思議な玉手であったと思いますねえ。晩年の梅幸が対談でこのように語っています。

『あんまり肚の薄っぺらな役はきらいですね。すぐ判っちゃうようなのは。玉手御前みたいに、非常に複雑なものは面白いですね。私の解釈としては、玉手は俊徳丸を愛していた。好きだから俊徳のために死ぬ、私はそういう解釈にしています。』(七代目尾上梅幸:土岐迪子との対談:「演劇界」昭和53年5月号)

ですから梅幸の解釈は俊徳に対する恋は真の恋ということですが、それでは玉手がモドリで云うことは建前(嘘)なのかと云うとそうではなくて、これもやっぱり真実であるのです。そこに玉手の悲劇があると思います。(この稿つづく)

(H30・10・14)



 

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