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玉手御前の悲劇〜七代目梅幸の「合邦辻」 通し

昭和43年6月国立劇場:「摂州合邦辻」

七代目尾上梅幸(玉手御前)、八代目坂東三津五郎(合邦道心)、三代目尾上多賀之丞(合邦女房おとく)、十三代目片岡仁左衛門(高安左衛門通俊)、十四代目守田勘弥(羽曳野)、七代目中村芝翫(俊徳丸)、四代目尾上菊之助(七代目尾上菊五郎)(浅香姫)、十七代目市村羽左衛門(奴入平)、十代目岩井半四郎(次郎丸)他


1)玉手御前のサワリ

『昔の腹切りはもっともっと長かった。たとえば権太が腹を切るのは今は簡略過ぎますよ。合邦のお辻も同じこと。(三代目)梅玉(の玉手御前)なんてのは、胸を突いて息を引き取るまでが長いんですよ。そのためにストーリーが前に付いているという感じですよ。モドリになってからが長い。戯曲の構成というものはそれが眼目であったなということが分かるんです。今はストーリーを通すために満遍なく平均して筋がならされていくわけですね。だから演出が変わってくる。そうするとかえって矛盾が目立ってくるんです。』(郡司正勝インタビュー「刪定集と郡司学」:「歌舞伎・研究と批評」第11号・1993年)

郡司正勝が中国の古い演劇を調べているうちに、昔の芝居と云うものはストーリーが出来てから上演するのではなくて、上演しているうちに、部分と部分を組み合わせて、それが積み上がって出来て行くものだということ、それは歌舞伎でもまったく同じで昔の芝居はみんなそうだったということを語っています。本稿では「合邦庵室」で話を進めますが、結局、この芝居は玉手御前(お辻)のモドリと腹切りが核心であるので、そのために前の筋が付いているということなのです。

こういうことはいつものように「合邦庵室」だけを見る分にはどうでも良いことかも知れませんけれど、吉之助がこの点にこだわるのは、一般的に適用されるところの、日本伝統の本歌取りの発想法、つまり先行作の或る部分が新しい発想によって書き換えられて、意味が置き換えられたり趣向が加えられたりして、次第に筋が変容し複雑化していくという過程が、浄瑠璃「摂州合邦辻」の場合、どうもイメージしにくいからです。例えばものの本など読めば、業病にかかって親に疎まれた貴公子が放逐されて各地を彷徨うという件は、先行作として説教浄瑠璃の「しんとく丸」からの流れがあるとか、別に謡曲「弱法師」の流れがあるとか云われます。或いは義理の母親が息子に恋する邪恋という件は、古代のインドの美しい王子枸拏羅(くなら)が母妃の邪恋のために目を失って放浪するという仏教説話に発し、これが世界各地へ伝播して、日本では説教浄瑠璃「愛護の若」、西洋においてはエウリピデスのギリシア悲劇「ヒュッポリトス」あるいはラシーヌの悲劇「フェードラ」に繋がって行くということが云われます。確かに材料としては揃っているようです。しかし、これらの系譜がそのまますんなりと後年の「合邦辻」へ向けて一本の思念の流れを形成して行くようには思えないのです。この線から玉手御前が出来上がるとは、吉之助にはとても想像が付きません。まったく異なる発想法から「合邦辻」が出来上がっている ように思えるのです。これについては、折口信夫が自作「身毒丸」について語ったことがそのまま適用できそうな気がします。

『この話(「身毒丸」)は、高安長者伝説から、宗教倫理の方便的な分子をとり去って、最原始的な物語にかえして書いたものなのです。(中略)わたしどもには、歴史と伝説との間に、そう鮮やかなくぎりをつけて考えることは出来ません。殊に現今の史家の史論の可能性と表現法とを疑うて居ます。史論の効果は、当然具体的に現れて来なければならぬもので、小説か或いは更に進んで劇の形を採らねばならぬと考えます。わたしは、其れで、伝説の研究の表現形式として、小説の形を使うてみたのです。この話を読んで頂く方に願いたいのは、わたしに、ある伝説の原始様式の語り手という立脚地を認めて頂くことです。伝説童話の進展の経路は、割合に、はっきりと、わたしどもには見ることが出来ます。拡充附加も、当然伴わるべきものだけは這入って来ても、決して生々しい作為を試みることはありません。わたしどもは、伝説を素直に延して行く話し方を心得ています。』(折口信夫:「身毒丸」・大正6年)

つまり折口が意図するところは、謡曲「弱法師」や説経「しんとく丸」から系譜を引いて「身毒丸」を考えることでもなく、逆に「身毒丸」から遡って系譜を考えることでもないのです。物語を紡ぎ出すきっかけとなる、とてもピュアなものが必要です。それがぽっと生じれば、それを契機に筋がスルスルとひとりでに伸びていくことがあるものです。折口の「身毒丸」は、そのように発想されて出来ているのです。「身毒丸」の場合には、それは「あちらを見ても山ばかり。こちらを見ても山ばかり」という流浪のイメージです。(別稿「折口信夫への旅・第1部〜「身毒丸」」を参照ください。」)

恐らく浄瑠璃「合邦辻」においても同じ様な発想プロセスがあると吉之助には思えるのです。それでは「合邦辻」では、浄瑠璃作者の脳裏にぽっと浮かんだピュアなものとは何であろうかと云うことが問題になります。ここで郡司の、「玉手御前が胸を突いて長々と本心を語る、その場面のためにストーリーが前に付いている」という指摘が役に立ちます。すなわち玉手御前のサワリが、それです。

『玉手御前のサワリ、表に意気を持って、心に深き憂いを含んで語るのであるとの事。この段では、玉手のこのサワリを聞いて聴衆が、「ハハア、この玉手は口ではアンナ色気タップリの事を云っているが、何か腹のなかに深き考えがあって、決して不貞一方の女ではない。即ち悪い女ではない、善い人であろう」と聞き分けるように語る。それがむつかしいのである。』(杉山其日庵:「浄瑠璃素人講釈」)

『我々が人形芝居や舞台を見て受ける印象は、平凡だけれど力強いものを受ける。江戸時代の女は、今と違って、社会的にも宗教的にも宿命を負うているので、玉手が自分と同じように苦しんでいる女に向って、強く生きて美しく死んでいくものだ、詩人的な言い方をすると、哀れな死を遂げた屍がこれだ、と人が言うように生きなさい、と我々に言ってるのだと感じても、その受け入れ方は誤りではないと思う。凡庸な作者がそんなことを言うのでは反発する心が起こるが、玉手が・作品の上の主人公がそう言うのなら、不都合ではないと思う。』(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和29年)

*折口信夫:「玉手御前の恋」(折口信夫全集 第18巻 藝能史篇2 (中公文庫 )に収録。)

観客は「玉手は悪い女ではない・善い人だ」と思いたいのです。だから舞台の玉手がその通りの清い身体に返って死んだ時、ああ良かった、やっぱり玉手は善い女だったと 安心して、それで観客は救われるのです。そこを描きたいためだけに前の筋が付いている、「合邦辻」とはそう云う芝居なのです。(この稿つづく)

(H30・10・3)


2)梅幸の玉手御前

「合邦辻」の玉手御前を考える時によく議論になるのは、義理の息子俊徳丸に対する道ならぬ恋は、偽りの恋なのか、それとも本当の恋なのかという点です。玉手が死ぬ直前にモドリになって、これは自ら不義者と云われ悪人となることが継子を守り夫の御恩を果たすための計略であったと言っているのであるし、合邦もこれを認めて「おいやい」と言って泣くのですから、吉之助などはそこはその通り素直に聞いてやれば良いじゃないかと思うのですが、深層心理なんて概念がある現代人には、これがとても気になる問題なのです。フロイトが無意識を発見して以後の「人間」は、人間は自分がはっきり意識していない何者か(無意識)に支配されている人形のようなものだと云うイメージです。だから邪恋に翻弄される玉手を見ていると、 実は俊徳に対する恋が本当のことで、玉手がモドリで云うことはそっちが建前(嘘)なのじゃないの?ということを考えたくなるのだろうと思います。

ところで戦後昭和の名女形と云えば、六代目歌右衛門と七代目梅幸の二人が並び称されますが、歌右衛門と梅幸は何となく棲み分けがされているようなところがあって、役がかち合うという印象があまりなかったですねえ。そのなかで真っ向かち合ったのは、「娘道成寺」と「合邦辻」の玉手であったと思います。幸い吉之助はどちらの舞台も見ることが出来ました。それぞれの良さがあって、どちらも甲乙付け難いものがありましたけれども、玉手に関しての大きな相違は、「恋の一念通さで置こうか、邪魔しやったら赦さぬぞ」で俊徳丸の腕をつかみ浅香姫を突き飛ばす狂いの場面においては、歌右衛門の玉手がまさに邪恋に身を焼く鬼女の形相であったのに対し、梅幸の玉手は表面は狂いの形を取ってもどこまでも清らかに見えたと云うことです。梅幸の玉手は、最後まで清らかな印象で一貫していました。だから後で改めて考えてみれば、あの狂いはあくまで段取りとしての狂い、玉手が冷静に父合邦に刺されに行くために仕掛けた狂いであったと云うことです。

これは役に対する段取りの相違ですから、どちらが正しいということはもちろんないのですが、モドリの目的が観客にドン返しを喰らわせて「アッ真相はそうだったのか」と驚かせるという所にあるとすれば、玉手の狂いは凄まじく本気であった方が、より効果的であろうと思います。「何と玉手の邪恋はおぞましいことか」と観客を慄(おのの)かせる方が、後のモドリとの落差がより大きく出来るからです。清らかな狂いであると、当然そこのところは弱くなります。しかし、梅幸の玉手は後のモドリを観客にすんなり納得させるものでした。玉手がモドリで云っていることはその通りなのだろうなあと素直に思えるものでした。それでいて玉手の俊徳丸の思いも素直に感得できるものでした。不思議な玉手であったと思いますねえ。晩年の梅幸が対談でこのように語っています。

『あんまり肚の薄っぺらな役はきらいですね。すぐ判っちゃうようなのは。玉手御前みたいに、非常に複雑なものは面白いですね。私の解釈としては、玉手は俊徳丸を愛していた。好きだから俊徳のために死ぬ、私はそういう解釈にしています。』(七代目尾上梅幸:土岐迪子との対談:「演劇界」昭和53年5月号)

ですから梅幸の解釈は俊徳に対する恋は真の恋ということですが、それでは玉手がモドリで云うことは建前(嘘)なのかと云うとそうではなくて、これもやっぱり真実であるのです。そこに玉手の悲劇があると思います。(この稿つづく)

(H30・10・14)


3)玉手御前とタチヤーナ

ここで話題が飛びますが、いずれ話は「合邦辻」の方へ展開して行きますから、そのつもりでお読みください。1880年6月8日モスクワで初めて建てられた詩人プーシキンの記念像の除幕式において、作家ドストエフスキーが講演を行いました。当時のドストエフスキーは長編「カラマーゾフの兄弟」を執筆中で(雑誌への連載終了は同年11月)、作家としての盛名は絶頂にありました。しかし、ドストエフスキーは翌年1881年2月9日に突然亡くなってしまったので、これがドストエフスキーが公衆の面前に現れた最後の機会となったようです。この時のドストエフスキーの「プーシキン講演」に対する聴衆の反応は実に凄まじいもので、聴衆が口々に「素晴らしい」・「あなたは神だ」と叫びながら演壇に押し寄せて失神者まで出る有り様であったそうです。このドストエフスキーの「プーシキン講演」が、「合邦辻」の玉手御前の悲劇を解明する手掛かりを与えてくれます。

講演のなかでドストエフスキーは、プーシキンの小説「エウゲニ・オネーギン」のヒロイン・タチヤーナについて言及しました。まず小説の粗筋を手短かに紹介します。

華やかな社交界で放蕩三昧の生活を送るオネーギンは、若くしてあらゆる事に飽きが来ています。そんな虚無的なオネーギンに内気な文学少女タチヤーナが恋をします。タチヤーナはオネーギンに恋を告白する手紙を書きました。しかしオネーギンはこれを慇懃無礼に拒否します。その数年後、放浪の末オネーギンはペテルブルクの社交界に再び戻って来ました。ここでオネーギンは年老いた将軍と結婚し今は公爵夫人となったタチヤーナと再会します。オネーギンは気品ある態度を見せるタチヤーナに恋をしてしまい、想いを打ち明けます。タチヤーナの気持ちは昔と少しも変わらず、今もオネーギンを愛していました。しかしもうすべては遅すぎる、自分は人妻なのだと言って、タチヤーナは永遠にオネーギンから去ってしまうのでした。

講演においてドストエフスキーは、タチヤーナのことを「肯定的な美の典型、ロシア女性の神聖な像」であるとして、「このように美しい女性像はロシア文学のなかでも他にないと言っても過言ではない」とまで言っています。

『タチヤーナはオネーギンに対してきっぱりとこう言います。「ですが私は他の人の妻となりました。私はこの人に生涯、貞節を捧げるつもりです。」 彼女はロシア女性としてこう言ったのです。そこにロシア女性のもっとも神聖な像があります。(中略)こう問いかけたいのです。オネーギンに向かって「私はあなたを愛しています」と言っておきながら、彼に付いていくのを拒んだのは、彼女がロシア女性として(南国やフランスの女性ではなかったから)思い切った大胆な一歩を踏み出すことができなかったからなのか、そして鎖を断ち切る力が無く、名用や富や上流社会での地位が持つ魔力や銅と喜劇な制約を犠牲にする力を持たなかったからかと。断じて違います。ロシア女性は勇敢です。ロシア女性はおのれの信ずるところでは雄々しくそれに従いますし、そのことをこれまで証明してきました。(中略)しかし彼女が誠実を捧げるのは誰なのでしょうか。どんな義務だというのでしょうか。恐らく、この年配の将軍です。彼女がオネーギンを愛しているために愛することのできない夫、「母親が涙ながらに頼んだ」から、そしてその頃彼女の心は病み、傷つき、何の希望も、一条の光さえもなかったから、と着いたその夫に対してです。彼女はこの誠意ある人間、自分の夫となった将軍、自分を愛し総計し、誇りに思っている人に対して貞節を守ります。たとえ母親が「涙ながらに頼んだ」から結婚したとは云え、それを承諾したのは他でもない彼女自身なのです。彼女は自ら貞淑な妻であり続けることを誓ったのです。』(ドストエフスキー:プーシキン講演・1880年6月8日)

ここで「合邦辻」の玉手御前(本名・お辻)のことに触れておきます。お辻の父親である合邦道心は、もともと大名の身分でした。しかし、侫人どもの讒言によって浪々の身とな り、二十余年、世を見限って捨て坊主となり暮らしています。合邦の親は青砥左衛門藤綱(鎌倉時代の正直者として知られた実在の武士で、江戸時代の芝居や文学のなかでは公正な裁きを行い権力の不正から民衆を守る人物としてしばしば登場します)です。息子である合邦も、頑固なほどの正直さは変わりません。当然のことながら、合邦に厳格に育てられたであろう娘のお辻は、そのような清廉潔白な性格を受け継いでいると考えられます。

お辻は高安家に奥方付きの腰元として奉公しました。しかし、奥方が亡くなった後、高安公に見そめられ、「たって辞退しをったを心の正直懇望で無理やりに」後妻となったと云う経緯が、合邦によって語られています。高安公と結婚した時点で、お辻と俊徳丸との関係がどうであったかは、ここではまったく分かりません。しかし、歳が離れた高安公からの求婚をお辻は何度も辞退したけれども、最終的に受け入れたのはお辻自身です。お辻は自ら貞淑な妻であり続けることを誓ったのです。

『純粋にロシア的な魂を持った人ならば、この問題についてこう答えるでしょう。「たとえ私一人が幸福を失うのだとしても、たとえ私の不幸がこの年寄りの夫の不幸よりも計り知れないほど大きかったとしても、そして誰ひとり、この夫でさえも、私の犠牲について何も知らず、それを正当に評価してくれないとしても、私はひとりの人間を破滅に追いやっておいて自分が幸福になどなりたくありません」と。これが悲劇なのです。悲劇はすでに起こっておりもはや境界線を踏み越えることはできません。遅すぎたのです。だからタチヤーナはオネーギンを退けるのです。』(ドストエフスキー:プーシキン講演・1880年6月8日)

タチヤーナの不幸の伏線が、手紙で愛を告白したにも係わらずオネーギンに冷たくあしらわれたことに対する絶望にあることは疑いありません。母親に涙ながらに頼まれて年老いた公爵との結婚を承諾したのも、その絶望が深く関係しています。

一方、何度も辞退したけれども最終的にお辻が結婚を承諾したのは何故 なのでしょうか。お辻の不幸の伏線とは何かという点が気に掛ります。これは恐らく讒言によって浪々の身となり苦労を散々重ねて来た父・合邦の境遇が深く関係しています。そのような苦労を舐めつくしてもなお親譲りの正直さを立て通す父・合邦の気持ちが、お辻のなかで一体化しているのです。合邦は娘が高安公から求婚されたことを名誉なことだと素直に喜んだことでしょう。だから高安公からの求婚をお辻は受け入れたのです。つまりお辻(玉手)の心情を考える時に、この父親と娘との関係性を非常に重く見なければならないということです。

このことは高安館を出奔した後の玉手御前(お辻)の行動を見れば、察せられます。玉手は、父・合邦の住む庵室を目指します。玉手は彼女が育ったその場所(故郷)に再び帰って来るのです。さらに(これは後の彼女のモドリによって告白される通り)玉手の俊徳丸への邪恋の狂いは実は計略なのですが、玉手はまるで怒り狂った父親にわざと刺されに行くかのように淫らに振舞うのです。悲劇の結末を父親に付けてもらおうと望んでいるかのようです。玉手は父親の手で自分を元の清廉潔白な姿に戻してもらうことを強く願っているのです。

愛を告白するオネーギンをタチヤーナが拒否する場面の台詞を引用します。

『オネーギンさま、この華やかさ、俗っぽいうわべだけの生活、社交界での成功、豪華な邸宅や夜会、そんなものが私にとって一体何だというのでしょう。こんな仮装舞踏会のようなきらびやかさや、仇っぽいむせるような雰囲気を、私の田舎の家の本棚や荒れた屋敷や庭と交換できたら、(中略)何よりもあの私の可哀想な乳母が、木枝にやさしく見守られて眠るお墓とすっかり取り換えることができたら、どんなに嬉しいことでしょう。あの頃は、幸福が現実のすぐ近くにあったはず、手の届くほど近くにあったはずなのに。けれども私の運命はもう定まったものです。(中略)私は他の人の妻となりました。私はその人に生涯、貞節を捧げるつもりです。』(プーシキン:「エウゲニ・オネーギン」・なお原文は韻文形式であるので読みやすく直しています。)

過ぎ去ってしまった過去のなかに「真実」があり、現実はタチヤーナにとって虚ろなものに過ぎません。しかし、それはタチヤーナが自分で選択した現実で、彼女にはその現実と共に生きて行く覚悟が出来ているのです。これが悲劇なのです。

タチヤーナの悲劇とまったく同じものが、玉手のなかにも在ることがお分かりいただけると思います。玉手にとって大名の御屋敷での生活は空虚なものです。彼女にとっての真実は、四天王寺の西に位置するあの閻魔堂がある庵室に在ります。しかし、玉手には高安公の奥方として死する覚悟が出来ています。それは父・合邦の教えに殉じることでもあります。或る意味で 玉手にとって高安公は合邦の代理父みたいな存在であるかも知れません。

「あなたこなたを思ひ遣り、継子二人の命をば、わが身一つに引受けて、不義者と云はれ悪人になって身を果すが、継子大切、夫のご恩、せめて報ずる百分一」(「摂州合邦辻」)

ドストエフスキーはタチヤーナのことを「ロシア女性の神聖な像」と呼んでいますけれども(講演が熱狂的なものになったのは聴衆の愛国心が刺激されたせいもあったと思います)、何もロシアだけに限定してしまう必要はないでしょう。玉手はまったく「日本女性の神聖な像」であるとも云えるのです。

このように玉手の悲劇を父親と娘との関係性から読んでいくと、よく「合邦辻」で議論される玉手の義理の息子・俊徳丸への邪恋の問題が淡く見えて来るだろうと思います。実は玉手の恋が真実であるか否かと云うのは、玉手の悲劇を考える時にはさほど大事な問題ではないのです。この点はまあ「そのような読み方もあり得ますねえ」と云うことにしておきます。タチヤーナの場合には、彼女はオネーギンに「私はあなたを愛しています」とはっきり言っています。またそこに彼女の不幸の発端もあります。しかし、玉手の場合には、玉手の恋が真実であるか嘘であるかに係わらず、彼女が取る行動は、父親と娘との強い関係性に重きを置いて読まないと、これは説明が出来ないものです。(この稿つづく)

*「エウゲニ・オネーギン」はチャイコフスキーの歌劇としても有名です。
引用文章は、
名作オペラブックス(25)エウゲニ・オネ ーギンからの引用です。

(H30・10・18)


4)モドリの構造

江戸期の歌舞伎でも「合邦辻」は上演されました。しかし、継母の義理の息子への道ならぬ恋が不道徳とされたのがネックだったようで、そう頻繁に上演されたわけではありませんでした。しかし、本作が明治以降に俄かに人気作となって行くのも、その妖しい不道徳さ故でした。不道徳とは分かっていても理性ではどうにも抑えられない玉手の情念の恋に、引き裂かれた人間の悲劇性の興味を覚えるというのは、如何にも浪漫的な読み方ではあります。武智鉄二は当時はやりのフロイト心理学を引き合いに、玉手の深層心理のなかに俊徳丸への恋が潜んでいるとしました。だから玉手の恋は真実か嘘かということが盛んに議論されました。「合邦辻」は、長い間そのような読み方をされてきたのです。

もちろんこのような切り口も「合邦辻」から引き出されるもので、そういう読み方も当然あり得ます。吉之助も武智の教えから出発したわけなのでそこのところは理解していますが、ただし「合邦辻」に関しては(師匠武智には申し訳ないけれども)、どうも納得し難いところがあります。吉之助の考えとしては、死ぬ間際の玉手がこの恋はトリックだと言っているのだから、ここは素直に信じて聞いてやれば良いじゃないかと、ただそれだけですねえ。この疑問は、「合邦辻」のドラマの音楽的な流れを辿った時に、モドリの構造をどのように読むかという問題に帰します。音楽の古典的な感覚は、最後は協和音によって締められ、腑に落ちる形で完結するものです。同様に古典的悲劇も、「然り、これはこのようでなければならない」という感覚で終わらなければならないということです。(別稿「音楽的な歌舞伎の見方」をご参照ください。)

吉之助が思うには、浄瑠璃作者が継母の義理の息子への道ならぬ恋をドラマ展開の起爆剤に据えたことは、現代人にとって大いに興味をそそられる題材ではありますが、江戸期の観客にとってはいささか刺激が効き過ぎたかも知れません。この点は、果たして浄瑠璃作者の狙い通りであったのどうか、ちょっと判断に苦しむところです。だから江戸期には「合邦辻」はなかなか人気作にならなかったのです。玉手に過剰に感情移入することは憚られることでした。「合邦庵室」で玉手が「嫌でござんす、せっかく艶よう梳き込んだこの髪が、どう酷たらしう剃られるもの」と云う場面はまことに妖しく、「ヤア恋路の闇に迷うたわが身、道も法も聞く耳持たぬ、邪魔しやったら蹴殺す」と叫んで狂う場面は、背筋がゾクゾクするほどです。「庵室」は玉手が合邦に刺されるまでの前半の芝居はバロック的に破綻しており、このまま進めば結末が見通せない様相にあります。

これをひっくり返して一転してドラマを古典的終結の方向へ仕向けるのが、モドリの役割なのです。ドンデン返しを喰らわせて「アッ真相はそうだったか」と観客を驚かせる だけがモドリの役割だと云うのであれば、前半と後半の印象の落差が大きい方が効果的だというだけのことです。しかし、実はモドリは、芝居のなかでもうひとつ重要な役割を負っています。「何と玉手の邪恋はおぞましいことか」と観客を慄(おのの)かせておいて、今度は観客の火照った心を沈静化して、「そうだ、玉手はやっぱり心の清い女だった」と観客を安心させる、そして古典的な感覚のなかでドラマを終結させる、モドリはそのような役割を持っているのです。逆に云えば、そうしなければならないほど「庵室」前半があまりにバロック的に破綻しているのです。観客の気持ちを沈静化させるために、それなりの過程を踏まねばなりません。そのために必然的にモドリが長くなるのです。本稿冒頭で郡司が述懐したように、「玉手が胸を突いて息を引き取るまでが長い、そのためにストーリーが前に付いている」印象となって来るのです。

『その時(玉手のモドリ)になると、見物はトリックの面白さに手を打たず、むしろホッと救われた心持ちがする。ここで救われないのは、劇評家だけである。すなわち、今まで真実な恋愛だとばかり思わせて来て、ここでそれが玉手のトリックだったとなる。だからここから急にお座が冷めると云うのである。しかし私はそうは思わない。日本人の共通の感じを分解してみると、決してそうではない。もしモドリにならなかったら、どうであろう。もし玉手がそのまま俊徳の裾を握って死んでしまったなら、どうであろうか。そういう性格も面白いとは思う。実際大抵の批評家はそれを言ったのである。そして歌舞伎に捕らわれている者だけが、それは違うと批評家に反対しただけだった。しかし、今になってみると、私にはもっと理由があると思う。もしモドリにならなかったなら、見物の心は救われないのである。玉手は実に清らかな心だったんだと安心するのである。(中略)このままだったら、我々の玉手への行為が報いられずに、玉手は死んでしまうことになる。だからモドリになって死んで、初めてああよかったと言う安心を我々は感じるのである。作者の試みたトリックは、なるほどトリックとして終わっているが、玉手のトリックは真実であった。そういう解釈ができると思う。』(折口信夫:「玉手御前の恋」・昭和22年6月、文章は読みやすいように多少アレンジしました。)

玉手が邪恋に引き裂かれたまま死んで行くのは、見方を変えれば、実に十九世紀末的な魅惑的なエンディングです。現代の「合邦辻」人気は、そこから来るわけです。しかし、江戸期の民衆は、玉手は最後に元の清い姿に戻って救われなければならないと考えました。それによって観客もまた救われ るのです。こうして「庵室」は、遠いはるかな昔の説教浄瑠璃の感触に還って行きます。芝居は「然り、これはこのようでなければならない」という感覚で終わります。しかし、「でも本当にそれで良かったのだろうか」という疑問が観客の心のなかにトゲのように突き刺さってちょっぴり残 るかも知れません。観客の心のなかに残ったその疑問がやがて世の中を根底から変えて行くかも知れません。

以上の考察は、七代目梅幸が演じる玉手御前を見ると、実にスンナリ納得されると思います。梅幸本人は「玉手は俊徳丸を愛していた、好きだから俊徳のために死ぬ解釈であると確かに言っていますけれど、梅幸の玉手は表面は狂いの形を取ってもどこまでも清らかに見えました。梅幸の玉手は、最初から最後まで清らかな印象で一貫しています。前半と後半の印象の落差を大きく付けないところが、梅幸の玉手の味噌です。だから後で改めて考えてみれば、あの狂いはあくまで段取りとしての狂い、父合邦に刺されに行くために冷静に仕掛けた狂いであったのだなと納得出来る玉手でありました。そうすると逆に「玉手の恋は真実か嘘か」という議論が、どちらであっても良 いような気になって来ます。だから結果的に「庵室」のモドリの構造が素直に浮かび上がって来ることになるのです。(この稿つづく)

(H30・11・21)


5)玉手御前のトリック

玉手御前の系譜を紐解くことは手に余りますが、ちょっとだけ考えてみることにします。「合邦辻」には 、どんより重く垂れこんだ黒雲のように中世期の雰囲気が漂ってい ます。それは中世期から引きずって来た呪術宗教的な要素で、或る意味においては非合理的な要素なのですが、江戸中期の民衆の感性のなかにまだまだ根強くそういう要素が生きていたのです。

一方で、江戸期の民衆の感性は、過去の伝説や歴史的事件を江戸期のセンスで読み解き合理的に説明しようとする遊び心も備えていました。このことは例えば竹田出雲らの三大浄瑠璃の作風など見ればお分かりいただけると思います。三大浄瑠璃よりさらに時代が下る安永2年(1773)初演の「合邦辻」ならば、これは当然のことです。しかし、感触は「合邦辻」の方がより古風な印象がすると思います。これは題材が中世期の説教浄瑠璃の流れにあるからです。

玉手御前の原型が説教「愛護の若」の雲井の前から来ているのは、多分確かなことで す。雲井の前は愛護の父・二条蔵人清衡の後妻でありながら、義理の息子である愛護に恋慕してしまう女性です。雲井の前の邪恋は愛護を死に追い込み、最後には一族郎党百八人の集団自殺にまで至ってしまいます。雲井の前の妄執は異様なほどおぞましく救い ようがありません。同じ説教のなかでも、「しんとく丸」の乙姫、「小栗判官」の照手姫、「さんせう太夫」の安寿のような、苦難の途上にある男を庇護し、あらゆる困難から彼を守り、遂には復活を遂げさせると言う巫女的な女性像が、ここには決定的に欠落しています。どうして説教なのに「愛護の若」は、こんな破綻した結末になって しまったのか。これについて岩崎武夫は「さんせう太夫考」のなかで、「愛護の若」における復活の挫折が物語るものは、説教などを語り歩いた漂泊芸人の挫折とその終焉を暗示していると考察しています。祈りとか救いと云うものが、絶対的な主題になりにくい世の中に次第に成ってきたということです。やがて江戸期になると浄瑠璃は文楽(人形浄瑠璃)のような都市型定着芸能に変化していきます。

*岩崎武夫:さんせう太夫考―中世の説経語り (平凡社ライブラリー)

これは吉之助の推察ですが、菅専助・若竹笛躬ら浄瑠璃作者が、たとえ玉手御前の着想を「愛護の若」の雲井の前から得たのだとしても、彼らは江戸中期の感性において説教の世界を合理的に読み解こうとしますから、このままであるとドラマは破綻してしまって終えることが出来ません。そこで作者は、御家騒動の枠組みのなかで雲井の前 の性格を本来的な説教のヒロインである(乙姫・照手姫・安寿のような)巫女的な女性像の方へ返そうと懸命に努力しています。そこに彼らのトリックを賭けているのです。作者の思いは、説教のヒロインは巫女或いは菩薩の姿を取らねばならないと云うことです。これは作中のヒロイン玉手に対する作者の愛情と云うべきでしょうね。こうして「合邦辻」のドラマは、バロック的に破綻することなく、古典的な力強さを以て閉じることが出来ました。これによって ドラマは見事に説教的な世界に回帰することになるのです。だから折口が言う通り、「作者の試みたトリックは、なるほどトリックとして終わっているが、玉手のトリックは真実であった」と、そういうことになるのです。

後記:別稿「哀れみていたわるという声」〜説経の精神的系譜「小栗判官」とは何だろうか〜説教「をぐり」の世界もご参考にしてください。

(H30・11・22)



 

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