(TOP)     (戻る)

原作準拠による「天網島」〜二代目鴈治郎の「心中天網島」通し

昭和49年6月国立劇場:「心中天網島」

二代目中村鴈治郎(紙屋治兵衛)、二代目中村扇雀(四代目坂田藤十郎)(紀の国屋小春)、十三代目片岡仁左衛門(粉屋孫右衛門)、五代目片岡我童(十四代目片岡仁左衛門)(治兵衛女房おさん)

山口廣一監修


1)原作準拠上演の意義

本稿で取り上げるのは、昭和49年(1974)6月国立劇場での「心中天網島」通し上演で、これは山口廣一監修による原作準拠上演です。ふだん歌舞伎で上演される「河庄」や「時雨の炬燵」は実は近松半二らによる人形浄瑠璃改作を元にした脚本で、近松門左衛門の 原作とは違う場面が多々見られます。本上演はそこを可能な限り原作に沿った形に近づけようと云うことを目標にして、演者も 二代目鴈治郎をはじめ上方役者を揃えた意欲的な上演です。台本は、大正12年(1923)6月南座で近松巣林子二百年記念興行として初代鴈治郎が原作準拠上演を試みたことがあって、この時の台本をベースにしたものだそうです。当時はシェークスピアに匹敵する国民的劇作家が日本にもいたということで、近松再発見が大いに進んだ時期でした。学者たち(近松原作上演研究会)の強い勧めにより初代鴈治郎が原作準拠の治兵衛を演じたのです。ただし、この時の上演は下の巻は曽根崎大和屋の場までで、橋尽くしと小春と治兵衛が心中する最後の大長寺の場が出なかったようです。今回(昭和49年国立劇場)は、これを最後までやるというのが味噌になっています。

ここで考えるべき大事なことは、これまで も文楽でも歌舞伎でも、これは「心中天網島」に限ったことではなく他の作品でも、近松の原作のままでの上演はほとんどされてこなかったということです。文楽の太夫や歌舞伎役者から見ると、「近松の原作通り」というのはホントに演りにくくて仕方ないようです。ひとつは、近松の文章は口調を七五にそろえようとすると「字余り字足らず」になって語りにくいということです。例えば現行の文楽なら「年端もいかぬ娘をば」となるところを、近松は「年端もいかぬ娘を」と書く。これだけで語りの息が全然変わってしまうものなのです。

他にも理由がありそうです。 近松の時代の人形浄瑠璃は二人遣いで、現在のような三人遣いではありませんでした。だから当然人形の動きの間合いの取り方が違ってきます。だから当時の近松の浄瑠璃は二人遣いの間合いを想定して書かれたものです。(注: 当時のオリジナルの節付けの朱譜は現在ほとんど残っていないので、後世の一中節などから節付けを推測して復元するしかないようです。)
住太夫がこのようなことを言っています。

『語る大夫かて迷うてます。迷うてますけど、そう理屈どおりにいきまへん。「女殺油地獄・河内屋内」なんかは原作とはずいぶんかけ離れていて、「駄作や」と指摘されます。「原作でやれ、原作でやれ」と言われても、近松ものは原作どおりでは芝居にならないのです。だれぞが脚色しているわけです。それを学者さんや評論家の方は「原作どおりにやれ」と言われるのです。』(竹本住太夫:文楽のこころを語る・文芸春秋刊)

名作であればこそ、近松作品は改作によって時代の好みに添ったアレンジをされることで後世の人々に親しまれてきたということなのです。改作されるにはされるだけの、それなりの理由があったということです。改作を一概に悪だと決め付けるわけにも行かないのかも知れません。

そうなると近松原作上演の意義はどこにあるのか?ということになりますが、近松ものを改作で上演するのは現状仕方がないことですが、あそこの箇所は近松の原作とは若干違うのだよ、原作ではこの人物の気持ちはもう少し理の方に寄っているかも知れないねということを知っておくことは、改作で上演する時に必ず立つことだからです。住太夫も近松の原作 に立ち返ることを必ずしているのです。

近松の「心中天網島」は享保5年(1720)竹本座での初演。当時、巷での心中事件が頻発して、江戸にまで波及する勢いでした。これに業を煮やした幕府はついに享保7年に心中禁止令を出します。同時に芝居での心中物の上演も禁じられました。条文のなかで幕府は「心中」と云う言葉のなかに潜む甘美な響きを嫌って「相対死に」という言葉を用いています。これほどまでに当時の民衆を熱狂させた心中の本質とは何か、改作では幕府の規制への憚りもあってそれをオブラートに包んで意図的に隠しているのです。しかし、半二が改作してくれたおかげで、近松の作品は芝居の世界で生き残ることが出来たということ も事実です。

例えば改作「時雨の炬燵」では治兵衛が憎まれ役の太兵衛を殺してしまう破目となり「こうなるうえは是非に及ばず」ということで二人は心中に追い込まれることになります。半二らの改作には感謝をせねばなりませんが、これだと治兵衛と小春は状況に追い込まれて、いわば逃避的に心中することになるわけです。悲しい心中ではありますが、これで美しい心中になるかどうかは、ちょっと疑問が残ります。吉之助は、近松の心中は美しくなければならぬと思います。劇場で近松を改作もので見ることは仕方がないとしても、心中の行為に享保当時の民衆が見出した美しさ・甘美さということに思いを馳せないならば、近松を見たことには決してならぬわけです。こうして近松の生きていた時代の観客にとっては共有されていた、それゆえ回りくどい説明などまったく不要で、簡潔にテンポアップして書けばそれで済んだ「時代的心情」が、後世の人々には共感しにくいものになって来ます。

ひとつの便法としては、近松の原作浄瑠璃本を読んで舞台を想像すればそれで良いのかも知れません。だから長いこと、近松は「読まれる演劇」であったのです。しかし、例え実験的レベルであっても近松原作上演を試みることは、役者のためにも観客のためにも、意義があることだと思います。(この稿つづく)

(H30・3・15)


)近松の義理について

日本の「世間」の概念について多くの著作をされた西洋中世史家である阿部謹也先生は、著書「日本人の歴史意識」のなかで、近松の作品における義理はポトラッチ的であるとします。ポトラッチ関係とは、社会学者のマルセル・モースが「贈与論」で提唱した概念で、贈与とお返しの関係のことを云います。例えば或る人に助けてもらったとすると、私はその人に恩を受けたわけですが、同時にこれは何かの機会にそれに見合うものを返さねばならない責務みたいなものが生じることになる。それを返すことを私に強制するのが世間だと云うのです。このように義理と人情の相克を贈与とお返しの関係に擬する考え方は結構説得力があるようで、歌舞伎評論にはこの線で作品分析をしたものが少なくありません。

「天網島」では上の巻で(手紙の主は明らかにされませんが)おさんは小春に「夫を思い切ってくえ」との手紙を書き、小春はこれに応えて治兵衛と別れようとします。中の巻ではおさんは小春が太兵衛に身請けされると聞いて、「小春を殺しては女同士の義理立たぬ」と云って、一転して夫に小春を身請けさせようとします。阿部はこれをポトラッチ的であるとします。つまり小春は自分の言い分を聞いて夫を思い切ってくれた、今度は自分が恩を小春に返す番だとおさんは思ったというのです。

もうひとつ、阿部先生は下の巻で小春が治兵衛と一緒に死ぬにあたり、小春がおさんのことを気にして、死に場所を別々にしようと言う箇所を挙げています。小春がおさんとの約束を違えて結局治兵衛と心中することになり、おさんから義理知らずと蔑まれるであろう、そのことを思うと一緒に死ねないと云うのです。治兵衛は髪を切り、こうしてしまえば法師であるから妻もない、お前が立てる義理もないと云います。結局、二人は別々の場所で死にますが、小春は治兵衛と 二十九枚も起請文を交わしているので、治兵衛から心中を言い出されれば拒むわけにはいかなかったと云うのです。阿部先生はこの関係もポトラッチ的であるとしています。

阿部謹也:日本人の歴史意識―「世間」という視角から (岩波新書)

阿部先生は、個人対個人の義理であっても、世間がこれを見ており、最終的には世間がこれを裁くとしています。その意味において小春とおさんの義理も「世間」から強制される義理であり、「世間」の強制されるところに従って、おさんは小春の身請けを言い出し、小春は治兵衛と別の場所で死のうとするということです。これが近松の生きた時代(つまり元禄から享保にかけての世の中)の大坂町人の「世間」の感じ方であったと阿部先生は云うのです。

随分ビシッと割り切れた明解な読み方ですが、吉之助には何だか釈然としませんねえ。これは「天網島」を演劇として見れば、つまり彼らを生きた人間として見るならば、決して出て来ない結論だと思います。近松の浄瑠璃を読みながら字面として小春とおさんの言動や行動を事象として表層的に認識しただけで、そうならざるを得なかった彼女たちの心情プロセスを理解していないと吉之助には感じられます。阿部先生の読み方からは、小春とおさんに対する共感が感じられません。ところが「天網島」初演(享保5年・1720)の前後は、世間で心中がブームのようになっていた時期でした。そのような時期の観客が「天網島」を熱狂して受け入れた・登場人物に共感したということは、一体どういうことでしょうか。そこを無視して近松の「世間」を考えることは出来ないのではないでしょうか。

小春とおさんの義理は世間から強制される義理だと云う考え方が、もし社会学或いは歴史学に広くはびこる「世間」の認識であるならば、演劇学の立場からそれに対する批判がなされて然るべきだと思いますねえ。享保の時代に生きた人々の気持ちを本当に理解することは文献資料を考証学的に検証しただけでは不可能で、生きた感情としてヴィヴィッドに感じ取るしか方法はないことを教えてあげねばなりません。それが文学や演劇の役割であるはずです。

「天網島」下の巻で小春は、「義理知らず、偽り者と、世の人千人、万人よりも、おさん様一人のさげしみ、恨みねたにもさぞ・・」とはっきり言っています。言い換えればこれは、「他人様も世間も何も関係ない、これは私ひとりがおさん様に対して感じていること」と云うことです。つまり義理とは小春の心のうちに在り、小春を律するものなのです。ここで吉之助が、「強制するもの」ではなく、「律するもの」と書いたことにご注意ください。「強制するもの」ならば、小春は自分の意志に反したことを無理にさせられたということになります。「律するもの」であるならば、小春は人としての正しい道において導かれ、高められ、これを自分の意志で行うことになるのです。この違いは天と地ほどの違いです。

それでは「天網島」下の巻で小春がおさんの気持ちを思いやり、約束を違えて治兵衛と一緒に死ぬことになったら、おさんは義理知らずと蔑むであろう、そのことを思うと一緒に死ねない、別々の場所で死にたいと云う気持ちは一体どういうことでしょうか。吉之助の分析を以下に述べます。

小春はおさんと力を合わせて「治兵衛を死なせてはならぬ」ということで努力して来たが、結局、死なねばならぬ破目になってしまった。こうなってしまった以上、死ぬならば、本当はおさんを交えて、治兵衛・おさん・小春と三人一緒で死にたいというのが、小春の本心なのです。「治兵衛を愛した私」ということで、妻と愛人という立場を越えて、おさんは私・小春を対等に見てくれました。だから私も 同じ男を愛する女同士としておさんを対等に見ると小春は決めています。そうなるとこの場におさんがいないのに、治兵衛と二人だけで心中を決行することは、小春としてはおさんに申し訳が立たないことになります。この気持ちは、小春の、おさんに対する同志感から来るものだと云っても良いのです。こう考えた時、近松の義理の働きが理解できます。義理とは小春の心のうちに在り、小春を同志として正しい方向に導くものだということです。 (この稿つづく)

(H30・3・20)


3)三人心中

別稿「鬼が出るか蛇が出るか」で谷崎潤一郎の小説「卍(まんじ)」の分析を行いました。巷の「卍」文芸論は主人公園子と光子の同性愛関係についてのインモラルな興味ばかり目に付きます。多分、吉之助のように近松の「心中天網島」との関連において読解したものはあまりないと思いますが、「卍」を読むと谷崎が「天網島」を深く読み込み、登場人物三人の力学的関係を見事に自作に反映させていることは、驚くばかりです。少々長くなりますが、「卍」の末尾部分を引用します。

『そいから二、三日目エの、十月二十八日の午後一時頃「いよいよ家の様子おかしい、今日帰ったら出られんようになりそうな」いうて来なさって、逃げて掴まえられたりしたらあかんさかい、いっそいつもの部屋で死のいいなさいましてん。それで枕もとの壁にあの観音様の画像飾って、三人寄ってお線香上げて、「この観音様の手引やったら、あて死んだかて幸福や」と、私がそないいいましたら、「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』いう名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」と夫もいうて、の世い行ったらもう焼餅喧嘩せんと仲脇仏のように本尊の両側にひッついてまひょと、光子さん真ん中に入れて枕並べながら薬飲みましてん。……はあ? そら、そうですねん、何でその時、私だけ一人残されるいうこと思いましたやろ、明くる日眼エ覚ました時にも、直きに二人の跡追おう思いましてんけど、ひょっとしたら、生き残ったん偶然やないかも分れへん、死ぬまで二人に欺されてたのんやないやろかいう気イしましたら、あの手紙の預けなさったことにしたかて疑がわしいになって来て、折角死んでもの世で邪魔にしられるのんやないかと、ああ、……先生、(柿内未亡人は突然はらはらと涙を流した。)……その疑がいさいなかったら、……今日まておめおめ生きてる私やあれしませんねんけど、……そうかて死んでしもた人恨んだとこで仕方あれしませんし、今でも光子さんのこと考えたら「憎い」「口惜しい」思うより恋しいて恋しいて、……ああ、どうぞ、どうぞ、こない泣いたりしまして堪忍して下さい。……』(谷崎潤一郎:「卍」最終部分)

詳細は吉之助の論考をお読みいただくこととして、「卍」の重要な点を指摘しておくと、妻園子と光子をそれぞれ恒星として互いに引き合って不思議な回転をする二重星と見立て、夫垣内をその周囲を 転回する惑星に見立てるとすると、惑星はふたつの恒星の引力に影響されて端から見ると予測が付かないフラフラした不思議な軌道を示すのです。(光子との関係に溺れる園子の行動と、最初は無関心だったはずが俄かに二人に関与し始める夫垣内の変化がそのようなものです。)引力のバランスが失われると、惑星は飛び去ってしまうか、恒星のなかに引き込まれてしまいます。「卍」最終場面で起こる狂言のような三人心中はこうして起こるものなのです。どれだけ本気だったのか誰にも(当人でさえも)分かりません。しかし、結果として園子だけが死に損なってしまいます。

実はこれとまったく同じことが「天網島」中の巻で起っている(と云うよりも実は谷崎がそこを見事に自分のものとしているわけですが)のです。小春はおさんは「治兵衛を死なせてはならぬ」とじっと耐えています。この間は、二重星と惑星は相互のバランス関係を保っています。ところが中の巻で小春は太兵衛に請け出されることになって、ここで二重星の片方のバランスが崩れます。ここでおさんが突然「女同士の義理立たず」と云って小春の身請けを言い出します。

「そうは言っても小春を身請けする金がどこにあろうか」と思案する冶兵衛の前で、おさんは「ノウ仰山な、それで済まばいとやすし」と言ってその場に新銀四百目を投げ出して夫を驚かせます。さらに「箪笥をひらり」と開けて鳶八丈などの着物を取り出します。ここでのおさんは、夫の恥をすすぐのと、女同士の義理を果たすということで躁状態なのです。それが「箪笥をひらり」という描写に表れています。

『(小春を)請け出してその後・囲うておくか、内へ入るにしてから、そなたは何とすることぞと、言われてハッと行き当たり、アツアさうじゃ・ハテなんとせう、子供の乳母か・飯炊か、隠居なりともいたしませう、わっと叫び、打ち沈む』

治兵衛は小春を請け出せると聞いて喜ぶわけでもなく、何をどうして良いのか分からず、興奮して忙しなく動き回る妻おさんの様子をただ呆然と眺めているだけです。今起っていることはおさんと小春の問題です。治兵衛は中心にいるようですが、実は全然関係がないのです。治兵衛はまったく埒外です。しかし、冷静に考えてみれば、おさんの言うことは事態の解決に全然なっておらず、むしろ三人して自滅の方向にどんどん進んでいるとしか思えないのです。やっとこさ治兵衛がボソッと言うのは、「囲うておくか、内へ入るにしてから、そなたは何とすることぞ」ということですが、これも当事者意識に欠けていて、ずいぶんと間抜けた会話です。これは自分が置いてけぼりだという意識が治兵衛にもあるからでしょう。この場面はシリアスな場面で、何も笑う要素はないはずですが、どこかミスマッチングで滑稽に思われます。この場面を当時の大坂の観客がどう感じたでしょうか。もしかしたら治兵衛のことを「しょうもない奴、男の風上にも置けぬ奴」と云って失笑したかも知れません。生活力があり常識がある大坂町人ならばそう感じたに違いありません。「天網島」を読む場合には、このような滑稽さを感じ取ることが必要になって来ます。

このようにシリアスな場面と背中合わせに現れる滑稽こそ近松のスタイルです。(別稿「和事芸の起源」において、和事ではシリアスな要素に滑稽な要素が交錯することを論じています。)この近松のスタイルを、谷崎は「卍」のなかに見事に取り入れています。

『「この観音様の手引やったら、あて死んだかて幸福や」と、私がそないいいましたら、「僕ら死んだら、この観音様『光子観音』いう名アつけて、みんなして拝んでくれたら浮かばれるやろ」と夫もいうて・・・』

三人は心中しようとしますが、それは本気とも冗談ともつかぬ感じです。どことなく嬉々とした印象さえします。この場面の滑稽さは、「天網島」中の巻にあるおさんの躁状態とまったく同じです。つまり谷崎が「卍」を三人心中(ただし 園子だけが生き残ってしまった)で結末を付けたことは、小春もおさんも、本当は治兵衛と三人一緒で死にたいと思っていたと、谷崎が「天網島」をそのように読んだことが明らかです。「天網島」の本質は、実は三人心中みたいなものなのです。三人心中であろうとして、結果的にそうなることが出来なかったということです。

もちろんプロットが似ていても、近松と谷崎とではオチの付け方が全然違います。谷崎は心中シーンの描写をすっ飛ばして、残された園子の嘆き節でオチを付けています。急転直下、尻切れみたいなオチの付け方です。(これは 形式の破綻を孕んだ、二十世紀初頭の新古典主義的なオチの付け方と云うべきですが、ここでは指摘するに留めます。)谷崎の関心は三人の登場人物の互いに引き合う引力バランスの駆け引きの方にあって、心中行為にないことが、ここに明らかです。

一方の近松は、作品を古典的な形式感覚のなかに収めようとして、心中へ至る道のりを決して急かずじっくり描いてきます。まず「天網島」中の巻に舅五左衛門が突然現れ、おさんを無理やり連れ帰ることで、治兵衛の破滅を決定的なものにします。連れ去られるおさんの声が耳に残ります。(これによりおさんは三人心中の機会を奪われます。)しかし、下の巻においては、ドラマはもはや存在しません。心中せねばならない状況が一端決まってしまえば、事は在るべき結末(これは実説を基にしていますから観客にとって心中の結末は最初から明らかなことでした)に向かって静かに流れて行くだけです。(この稿つづく)

(H30・3・21)


4) 風に揺らるるなり瓢

今回改めて「天網島」を上・中・下巻を通して眺めてみると、歌舞伎で改作の「河庄」(上の巻)・「時雨の炬燵」(中の巻)を見取り狂言として出す場合には、それぞれの幕に完結性を持たさねばならぬわけですから、現状のような段取りにならざるを得ない理由が何となく納得できる気がします。言い換えれば近松の「天網島」の上の巻・中の巻は本来未解決な部分を残したものであって、どちらも単独では完結しないということなのです。上・中・下の三つが揃ってこそ「天網島」は完結するように出来ているのです。「天網島」は実説を基にしているのですから、心中の結末は最初から「在るべき結末」です。在るべき結末に納めるべく、筋は静かに流れて行きます。観客の心を沈静するように道行の調べが流れて行きます。そこから古典的な趣が醸し出されます。

ここでフト思うのですが、際物に対する観客の興味は、恐らく「どういう理由で彼らはそういうこと(心中)になったの?」という素朴な疑問にあると思います。そこがしっかり出来ていないと芝居に出来ぬわけですから、近松も観客のそのような下世話な興味に応えるようにはしていますが、多分、近松はそういうことにあまり興味はないのだろうと吉之助は思います。近松の興味はただひとつ、人の生の「あはれなるさま」を描くことです。そのことが「天網島」を上中下を通して吉之助が感じることです 。

例えば近松最初の世話物である「曽根崎心中」は、お初徳兵衛の二人が心中して「恋の手本となりにける」で詞章が締められて、男女の愛がそのまま普遍的な高みへ達するカタルシスがそこにあります。一方、「天網島」の小春治兵衛の心中には、このような愛の勝利と云う印象がありません。これはひとつには、治兵衛が独身の徳兵衛と違って妻帯者の子持ちであるせいです。三角関係でもおさんが悪妻ならば観客も治兵衛に多少の入れ込み ・同情が出来るかも知れませんが、おさんはまったく出来た女房です。この点でも治兵衛に対する共感は得られにくく、心中のカタルシスが弱まらざるを得ません。或いは二つの作品の時代の違い、「曽根崎」(元禄16年・1703)から「天の網島」(享保5年・1720)への世相の変化も考慮に入れるべきかも知れません。享保期にはお上は既に心中ブームに神経を尖らせていました。

しかし、「曽根崎」でもよく読めば、近松の興味はどういう理由で二人はそういうことになったかというところにはなく、やはり人の生の「あはれなるさま」を描くことにあったと思います。「曽根崎」の核心がそこにあったと云うことは、同時代の儒学者荻生徂徠が近松の「曽根崎」道行の詞章を絶賛したことで明らかです。結局、近松が腕によりをかけて書いた箇所は、「曽根崎」でも「天網島」でも、道行なのです。しかし、近松は死の瞬間を甘美に描くこととを決してしません。冷徹なリアリズムの眼差しと受け取れるかも知れませんが、その背後に近松の涙が感じられます。これこそ近松が描く「もののあはれ」なのです。

本稿で取り上げる昭和49年(1974)6月国立劇場での「心中天網島」通しも、上演の意義は、下巻を大和屋の場までで終わらせず、道行「名残の橋尽くし」に少々カットがあるにしても、兎も角も詞章通り治兵衛が大長寺境内の水門の口で縊死する場面までを描き切ったことにあります。多分、歌舞伎でここまで演じた例は、後にも先にもこの時だけだったと思います。昭和57年5月・「近松座」第1回公演で四代目坂田藤十郎(当時は二代目扇雀)が「心中天網島」通しを行った時(これも原作準拠上演を標榜した上演でありましたが)には、治兵衛は小春の死骸を見ながら脇で首括る縄を持ってたたずむところで幕としたので、治兵衛が縊死する場面まではやらなかったのです。縊死の場面を視覚化することは、役者にとってイメージ的に気が悪いことであり、これを見る観客にとっても辛いことなのですが、これを試みた二代目鴈治郎の意欲には敬意を表したいと思います。映像でこれを見た吉之助にも、大きな衝撃がありました。この場面の浄瑠璃の詞章を引きます。

頭北面西右脇臥に羽織うち被(き)せ、死骸をつくろひ。泣いてつきせぬ名残の袂(たもと)。見捨てて抱(かかへ)をたぎり寄せ。首に輪奈(わな)を引掛くる。寺の念仏も切回向。有縁無縁乃至法界。平等の声を限りに樋(ひ)の上より、一蓮托生、待む阿弥陀仏と、踏みはづし、しばし苦しむ、なり瓢(ひさご)、風に揺らるるごとくにて、次第に絶ゆる呼吸の道、息せき止むる樋の口に、この世の縁は切れ果てたり。朝出の漁夫が網の目に、見つけて、死んだ、ヤレ死んだ、出合え出合えと声々に、言い広めたる物語。直(すぐ)に成仏得脱の、誓ひのあみ島心中と、目ごとに、涙をかけにける。』

「なり瓢(ひさご)、風に揺らるるごとくにて」とは、水門の樋に首括った治兵衛の遺体が風に揺られてぶらぶらしている様を表しています。対象を突き放した何とも冷徹な言い回しです 。どこか虚無的で皮肉な味わいさえ感じさせます。もしかしたら近松はここで作品の古典的収束を破壊することを意識したかも知れません。人生の実相を直視せよと近松は言うのです。確かに治兵衛は小春の死骸を見ながら脇で首括る縄を持ってたたずんで幕になる方が、芝居の終わり方としては無難なところです。歌舞伎で役者が縊死を演じるよりは、文楽で人形が縊死を見せて脇で太夫が語る方が、情景がいくらか客観的に見えて、救われるところがあるかも知れません。役者が演じると、救いようのなさが観客に視覚的に突き刺さります。漁夫が「死んだ、ヤレ死んだ、出合え出合え」と叫ぶのも、あまり同情がない冷めた感じです。しかし、心中は当事者には何かしら意味がある行為であったとしても、他人にはその本当のところは分かりようがないのです。近松が言いたいのは、ただ「そんな人生もあったのだ」ということだけです。このような境地にまで行き着かねばならなかった近松というのはただただ凄い作家であったなあと思うばかりです。鴈治郎の挑戦のおかげで、「天網島」のそのような厳しいところが見えた気がしました。(この稿つづく)

(H30・3・28)


5) 治兵衛の性根

治兵衛はまったく優柔不断な男です。商才はないようだし、上の巻・中の巻でも状況に動かされて右へ行ったり左へ行ったりしているだけで、能動的に動くところがありません。小春やおさんから見てこんな治兵衛のどこが魅力なのか、やっぱり面が良いだけなのか、しようもないところに惚れてしまうのかと思ってしまいます。

しかし、吉之助が考えるには、女たちが治兵衛を愛するのは、多分、治兵衛が「優しい」というところにあるのだろうと思うのです。治兵衛は「もののあはれ」を感じることができる男なのです。もののあはれをあまりに強く感じてしまうので、そこで治兵衛は決断することが出来ず、ハタッと立ち止まってしまうのです。治兵衛は動かないのではなく、動けないのです。感情の量が多すぎて、動きが取れないのです。動けないところに、治兵衛の溢れ出る二人の女への愛があります。そこが女たちから見ると、たまらなく愛おしいのだろうと思います。

それにしても「天網島」詞章をドラマ的に一瞥すると、役を演じる時の取っ掛かり、ここをこう演れば役を表現できるという手掛かりになる箇所が、治兵衛の場合、少ないようです。だからと云って治兵衛がただ風情だけで見せる役だということにしてしまうと、これもまた難しいことになりそうです。

例えば小春がおさんの義理を云って「私をここで殺して、あなたは別の場所で死んでくれ」と頼む場面、治兵衛は「愚痴なことばかり。おさんは舅に取り返され、暇とやれば他人と他人、離別の女に何の義理」」と答え、脇差とって髪を切り、「これ見や、小春、この髪のあるうちは、紙屋治兵衛というおさんが夫、髪切ったれば出家の身、(中略)おさんという女房なければ、おぬしが立つる義理もなし」と言います。

治兵衛がこう云うのは、おさんへの義理のことを小春に忘れさせるため・気を楽にさせるための、治兵衛の小春への優しさである・或いは方便であろうと読む方が居るかも知れません。もしそうならば、治兵衛はおさんに対して随分と薄情です。これではおさんに対して不義理になってしまいます。ですから、そういうことは絶対にないのです。治兵衛は小春とはまったく別の場所で首を括って死んだのですから、おさんへの義理は治兵衛の心のなかに間違いなくあったのです。治兵衛の真意は、この後の文章を見れば分かります。

(原文)『浮き世を逃れし、尼法師。夫婦の義理とは、俗の昔。とてものことにさつぱりと死場も変えて、山と川。(中略)最後は同じ時ながら、捨身の品も所も変えて、おさんに立ち抜く心の道。』

(吉之助の現代語訳)『(髪を切ったうえからは)お互い、浮世をのがれた尼と法師のようなもの。夫婦の義理は、俗人であった昔のことだ。ともかくさっぱりと死に場所を、山と川に、別々にしよう。(中略)死ぬ 時は同じでも、死ぬ方法も場所も別々とする。これでおさんに対し人としての道を立て通すことになる。』

上記文章の「夫婦」は、おさん治兵衛とか小春治兵衛とか、特定の夫婦のことを指すものではありません。「夫婦」という世間一般の概念のことを云っているのです。浮世を離れた尼と法師になったからには、自分たちには世間の「夫婦」という概念はもはや存在しない。と云うことは、二十九枚も起請文を交わして「未来は夫婦」と言っていた二人の約束ももうないということなのです。後の詞章で治兵衛は起請文のことも言っています。起請文を交わしたことで殺した鳥は何羽であろうか、今は烏の鳴き声が報い報いと聞こえるぞと言っています。ここに心中して来世は小春と夫婦になろうという甘い響きはまったく聞こえません。こうして、おさん治兵衛(夫婦関係)とか小春治兵衛(愛人関係)とかいう俗世間の関係は消滅し、代わりに小春・治兵衛という別箇の人間がそれぞれ立つことになる。そしてそれぞれがおさのことを思いながら死のう。それが人としての道を貫き通すことになる。もし来世において小春と一緒になれるならば、それは死によってすべてが清算されたことを御仏が認めてくれた後でのことです。今この時点においては、そのことは考えない。ここで展開される近松の論理は、とても明快 です。(おさんは舅に実家へ戻されてここにはいないけれども、小春治兵衛の死は気分的に三人心中に近いものです。谷崎潤一郎は「天網島」の深層を読んで、このシュチュエーションを自作の「卍」のなかに取り込んでいるのです。小説の最後のひねりが、谷崎の手腕です。本論第3章をご覧ください。)

優柔不断で何も出来なくてズルズルと状況を悪くしてしまった治兵衛は、最後の最後に、見事に一人で責任を取ったのです。「もののあはれ」に裏打ちされた、内面の強さを治兵衛は最後に見せたということです。

別稿「和事芸の多面性」で触れましたが、和事の「やつし」の本質は主人公が落ちぶれた身分の落差・哀れさにあるのではなく、「現在の自分は本来自分があるべき状況を正しく生きていない、自分は仮そめの人生をやむなく生きており、本当の自分は違うところにある」という思いにあるのです。裏返せば、そのような思いのなかに、実は治兵衛の内面の強さがあるのです。ですから「天網島」を下の巻から読み直して、治兵衛の性根を組立てた方が良いのかも知れません。最後に縊死する場面で治兵衛の内面に潜む、そのような思いを抉り出すことで、そもそも治兵衛が出来た女房を置いて小春と馴れ初めたのか、その背景(そのことを近松は浄瑠璃では描いていません)を想像することが出来るのです。この稿つづく)

(H30・4・3)


6) 「天網島」原作準拠上演

今回の舞台映像(昭和49年6月国立劇場・「心中天網島」)ですが、ここまで述べた通り、現行歌舞伎ではもはや上演がされない下の巻(曽根崎大和屋〜道行「名残りの橋尽くし」〜網島大長寺)を取り上げたことは、とても意義があることでした。一方上の巻(現行歌舞伎では「河庄」に相当)、中の巻(現行歌舞伎では「時雨の炬燵」に相当)については、大筋のところ現行歌舞伎とさほど変わらない印象を受けました。せっかくの機会であったのに、これは残念なことでした。

例えば上の巻「曽根崎河内屋」では、冒頭に曽根崎の往来を行く人々を登場させて色街の喧騒の雰囲気を出しています。これは悪くないです。 もっと騒がしくてもいいくらいです。「魂抜けてどぼとぼ」で二代目鴈治郎の治兵衛が登場する場面では花道で按摩と交錯するのが面白く、治兵衛も「河庄」ほどに物思いのムードに浸りきっていないところが新しいかも知れません。そんなところでこの後に期待を持たせてくれますが、上の巻については台本が「河庄」とさして相違があるわけではありません。芝居が進んでみると、結局、従来歌舞伎の「河庄」の段取りを原作準拠の台本に合わせてちょこっと調整してみたに過ぎないことが露わになってしまいます。台本の違いから来る微妙な相違に留まっており、従来の「河庄」の、ナヨナヨと軟弱な和事の治兵衛の性根の決定的な見直しまでには至っていません。このことは監修の山口廣一が責を負うべきことですが、従来歌舞伎の手順に慣れてしまった役者にはやはり難しかったかも知れませんね。

それでも鴈治郎にはこれまでと違う治兵衛を創ろうと云う意識が少なからず見えますが、従来歌舞伎の手順に慣れてしまっているということならば、十三代目仁左衛門の孫右衛門や二代目扇雀の小春の方が、鴈治郎以上にそういう感じなのは、ちょっと困ったことだと思います。上方陣で脇を固めたはずなのに、型物的な重さが終始つきまとうのは、そのせいです。仁左衛門の孫右衛門は武士の客を騙って小春と会っているわけですが、頭巾を取って治兵衛に正体を明かすまで、重い時代の武士の性根で通しています。しかし、原作準拠ということならば、これはもう少し工夫が欲しい。本来が粉屋の商人が武士の客を騙って店に来ている、真面目な性分だから色事に慣れていないと云う、孫右衛門の居心地の悪さをもっと強く出した方が良いのではないか。それが世話物の滑稽というところに通じるはずです。

例えば治兵衛が「(小春を)思い切ったる証拠、これ見よ」と二十九枚の起請文を取り出し、「兄じゃ人、あいつが方の我らが起請、数改めて受け取って、こなたの方で火にくべてくだされ」と云われたら、孫右衛門は「何ィ、起請文が二十九枚?そりゃまったく呆れたことじゃ」くらいの驚いた反応を見せて良いのです。起請文なんぞは一枚書けば十分です。それが二十九枚もあるということは、治兵衛が「小春、お前、わてのこと好きか、そんなら起請お書き」というじゃれあいを二十九回やっていたと言われても仕方がないことで、いくら本人たちが真剣だと主張しようが、傍から見ればまともではないのです。これは滑稽なことで、ここは観客が笑うべき場面です。孫右衛門は、実直でまともな、当時の観客にとって等身大の、大坂商人であるからこそ、それが分かる。仁左衛門の孫右衛門には、そのような大坂の観客目線に立っている感じはあまりないですね。その辺の工夫がもう少しあれば、「曽根崎河内屋」の感触が随分変わると思うのですが。

従来の「河庄」の小春ならばそれなりかも知れませんが、扇雀の小春も重い。 「愛しい治兵衛と別れるならばいっそ死んでしまいたい」という気持ちはそれなりに出ていますが、その気持ちを写実の手法で出して欲しいわけです。それでないと世話物になりません。幕切れの三人が引っ張りで決まる段取りは従来の「河庄」とまったく同じ段取りで、いかにも義太夫狂言らしい型物的な印象であるのも、気に入りません。世話物の観点から見れば、こういう「決まった感覚」はまったく時代物の処理であることは歴然です。そこがクリティカル版としての原作準拠上演の勘所となるはずなのですが。

例えば初代鴈治郎には大正14年6月・中座で「河庄」の治兵衛を演じた映像が数分の断片で遺っていますが、幕切れで治兵衛は羽織を頭から被って床に突っ伏してしまうのです。これは現行の幕切れとまったく異なるものです。現行の「河庄」の型はどういう経過で今のようになったのですかねえ、それは良く分かりませんが、どうやら初代鴈治郎は毎回どこか段取りを変えて演じていたようなのです。後年、二代目鴈治郎はこの映像を見て「この型は僕にはとても出来ない」と頭を抱えたそうです。これと同じでなくても、全然別のやり方で結構ですが、幕切れの段取りについては何か工夫が必要であったと思います。絵面の感覚を破壊することで、世話の写実感覚が得られるのです。この幕切れでは原作準拠の旗印が泣くというものです。

中の巻「天満御前町紙屋内」が、上の巻の重めの感覚と比べるといくらか世話の感触がするのは、この場の原作準拠の台本が現行の「時雨の炬燵」との相違の程度が大きいことが幸いしています。五代目我童のおさんはそれに助けられてはいますが、これも演技が現行と変わらず、ちょっと控えめに過ぎます。おさんは出来過ぎた女房なのですから(恐らく治兵衛はそれが負担になったのでしょう)、もう少し能動的に利発なところを見せた方が良いです。そうしないと「それなればいとしや小春は死にやるぞや」からの転換が効いて来ません。

このように上の巻・中の巻については現行歌舞伎をベースに原作準拠の台本との段取りの差異を調整してみたに過ぎず、山口廣一の監修は名前ばかりと云うべきですが、下の巻の上演については、いくら評価してもし過ぎることはない成果を挙げたと云えます。従来の「河庄」・「時雨の炬燵」を残すことももちろん大事なことですが、例え回数は少なくとも、たまには「天網島」原作準拠上演を上演してみることは、近松を再評価するということで大変に意義があることだと思います。近松の見方が変わると思います。

(H30・4・6)



 

  (TOP)     (戻る)