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六代目勘九郎の平右衛門・ 二代目七之助のお軽

平成26年12月・京都南座:「仮名手本忠臣蔵・七段目」

十五代目片岡仁左衛門(大星由良助)、六代目中村勘九郎(平右衛門)、二代目中村七之助(お軽)


1)勘九郎の平右衛門

今月(12月)京都南座での「七段目」には「十八代目勘三郎を偲んで」という角書が付されています。勘三郎というと思い出すのは勘平・つまり「六段目」であって、「七段目」ではないと思いますが、勘九郎(平右衛門)・七之助(お軽)兄弟が出演だからということでしょう。そこで勘九郎の平右衛門ですが、なかなかの熱演で一生懸命演じていて・そこに好感がもてるけれども、全体としては本年10月歌舞伎座の「寺子屋」での源蔵と同じ印象がしますね。「キチンと決めないと・・」という硬い感じが強い。もっと自然に、もっと 世話にやれば良いのです。「七段目」は時代物だから時代に演じるべしなんて思わないことです。そこを直せば、良い平右衛門になると思います。

ところで「七段目」の平右衛門は「足軽身分だが忠義の心が厚く・仇討ちへの参加を認めてもらいたいと強く願う一本気な青年」というところですが、どの平右衛門役者もそこの性根に間違いはありません。もちろん勘九郎の平右衛門もこの点はしっかり押さえています。しかし、これは平右衛門というキャラクターのいわば第1前提であるけれども、これだけだとそれ以上のキャラクターにならないのだな。これは勘九郎の平右衛門もそうで、確かに仇討ちへの参加を認めてもらいたい熱い気持ちは分かる・妹お軽への情も分かるけれどもそれ以上だとは言えません。だから平右衛門が単純人間に見えてしまいます。

それでは平右衛門というキャラクターの第2前提は何かと言えば、それは「七段目」という芝居のなかで平右衛門が唯一の「まともな人間」だということです。このことは別稿「誠から出たみんな嘘」・「七段目の虚と実」をお読みいただきたいですが、それは遊郭(一力茶屋)が虚構で成り立つ場所であるからです。遊郭に来る客は偽りで着飾っており、彼らが真実だと言うことはみんな嘘である。そのような万華鏡のようにぐるぐる回る虚構の世界のなかで「七段目」のドラマが展開されるのです。平右衛門以外の人物は、みな虚構の世界のなかで歪んでいます。由良助は仇討ちの大義を隠し・不忠を偽わる倒錯したキャラクターです。九太夫の方は裏切り者の立場を隠して、由良助の本心を探ろうと画策します。ここでは忠義 と仇討ちの大義が渦巻いて・由良助の本心は分からず、周囲の者はそれに翻弄されて建前や体面で怒ったり喜んだりしています。お軽もその渦のなかに巻き込まれています。そういうなかで平右衛門だけが唯一のまともな (普通の感覚を持った)人間なのです。

平右衛門がまともな人間だということをはっきり示す台詞は、平右衛門がお軽の顔を見てグッと哀しみがこみ上げて来て思わずもらす「髪の飾りに化粧して、その日その日は送れども、可愛や妹、わりゃ何にも知らねえな」という台詞です。三人侍に意見する時の平右衛門の台詞もそうです。遊郭という世界のなかでも平右衛門だけが正しい姿が見えている。「七段目」のなかで平右衛門が唯一のまともな人間であることは、とても大事なことです。それは平右衛門が庶民の感覚を持っているということです。そうすると平右衛門はどういう感じで演じたら良いでしょうか。もちろん世話に基調を置いて演じるべきです。

その理由のひとつは足軽である平右衛門のことを、大坂の観客は庶民・われらの代表だと思って応援して見たということです。平右衛門が仇討ちの仲間に加わって四十七名が揃うというのが「七段目」の大筋なのですから、これは大事なことです。もうひとつは、由良助との舞台上の対比です。別稿「七段目の虚と実」で「平右衛門の尻押さえ、由良助の頭抜き」という義太夫の口伝のことに触れました。由良助は和事の「やつし」の芸の応用で、ニコッと笑った由良助の笑顔の裏にギラリとした殺意を秘めた由良助の倒錯した性格を見せますから、間合いをはずして・相手にかぶるようには言いません。これはとても手の込んだ・一筋縄では行かぬ時代の感覚です。一方、平右衛門は言葉尻に息を抜いてはなりません。そこに実直な平右衛門の性格が出ます。平右衛門の台詞は、どれも彼の気持ちを真正直に表しており、そのなかに嘘や建前が入ることがありません。お軽に対して「・・・勘平は達者だ」というのも(これは歌舞伎の入れ事ですけれど)彼の気持ちが丸見えで、これも平右衛門の嘘が付けない素直な性格から出た台詞だと言えます。このような平右衛門の性格は世話で表現すべきものです。そうすることで由良助との対比を明確に出すことができます。 (この稿つづく)

(H27・1・1)


2)七之助のお軽

七之助のお軽も硬い感じがします。印象が勘九郎の平右衛門とマッチしているのでその意味で違和感をあまり感じないかも知れませんが、多分、他の役者の平右衛門との共演であると不満が出てくると思います。七之助のお軽は注文付けたいところは、特に前半(夫・勘平の死を知る以前)の雰囲気の持ち方にもう少し工夫が欲しいということです。七之助のお軽は玉三郎の指導を受けたようで・手順や声の調子など玉三郎をよく写していると思いますが、玉三郎のお軽のもっとも特徴的なところを盗めてい ません。手順も大事なことですが、もっと本質的なことを学んで欲しいのです。それは玉三郎のお軽が持つ享楽的な要素・つまりジャラジャラした浮ついた要素です。こういう風に書くと悪く聞こえるかも知れないですが、それならば女形の愛嬌・媚態と言い直してもよろしいです。七之助のお軽はそれが乏しいようです。お軽が持つ享楽的な要素というものは、廓暮らしのなかで一時的に自分を見失っているお軽の哀しさであり、それは廓という虚構の世界の虚しさであり、さらに男が女を偽る女形という存在の哀しさとも重なるものです。これは女形にとって非常な武器となるものです。

別稿「誠から出たみんな嘘」でも書きましたが、平右衛門とお軽のジャラジャラ したやり取りの華やかさというものは、まともな感覚を持つ平右衛門と廓暮らしのなかで一時的に自分を見失っているお軽との会話の行き違いから来るのです。 それで兄弟の会話がギクシャクするわけですが、これが単なるギクシャクでなくて、それが如何にも廓ごとの遊びの如く華やかに感じられねばなりません。それが廓の空間の乖離感覚が生み出すものです。勘九郎と七之助のコンビにはそのような浮ついた感覚があまり しません。これを華やかなものにするのは、どちらかと言えば、それはお軽の仕事なのです。そういうところを玉三郎から学んで欲しいと思いますね。まあこういうことは回数を重ねて分かっていくものだろうと思います。

このような廓の乖離感覚というものは、仁左衛門の由良助を見れば良く分かると思います。仁左衛門の由良助は、虚と実の配合と揺れの具合がほんとにお手本にしたいほど素晴らしいものです。和事のできる人ですから前半の由良助が良いのはまあ当然というべきでしょうが、柔らか味のなかにギラリとし た刃を感じさせる、これこそ「やつし」の芸だというところを見せてくれました。幕切れの九太夫を打ち据える由良助の長台詞「獅子身中の虫とは・・・」がリズムといい・息といい、これがまた実に見事なものです。これは吉之助がこれまで 随分見た由良助のなかでも特筆すべき出来だなあと感服しました。この傑出した由良助に相応しい平右衛門とお軽をどのように構築するか、これはなかなか遣り甲斐のある仕事だと思いますね。

(H27・1・6)



 

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