吉之助の音楽の雑談4
本稿で紹介するのは、ロシア出身の名ヴァイオリニスト、マキシム・ヴェンゲーロフのマスター・クラスの映像で、曲目はモーツアルトのヴァイオリン協奏曲第4番・ニ長調・K218の第3楽章ロンドです。時期は、多分、2008年頃であろうと思います。(映像は、4分辺りから。とても分かりやすい英語です。)生徒は、ロシア出身の音楽学生アレクサンダー君、15歳です。
これは、とても楽しくて有益なレッスンですねえ。ヴェンゲーロフが言っていることは、例えばモーツアルトのロンドは純粋音楽で、何かの情景を描写する音楽ではないわけですが、「曲を弾く時に、何か自分なりのストーリ―のイメージしてごらん、そうすると音符のひとつひとつにニュアンスが生まれて、音楽が生き生きして来るよ」ということです。舞踏会を想像してご覧。紳士淑女がお澄まししてお辞儀、ハイまたお辞儀。やがて女王様のご入場。着席した途端、女王様の衣裳やアクセサリーの趣味についてご婦人 方の口さがないおしゃべりが始まるぞ。でもご注意あれ、女王様に聞こえたら首を刎ねられちゃうぞ・・・。
音楽を弾く時の基本は、楽譜が示す音符の通りの、音程と音量を、その指定の長さ分、正確に保つことです。これがちゃんと出来る技術がなければ、始まりません。しかし、これで終わってしまえば演奏は、コンピュータが演奏したみたいな無味乾燥な音楽になってしまいます。次の段階は、音符が前の音符を受けて、次の音符に繋がっていく関連をどう付けるかということです。つまり音楽は流れてるわけですから、その流れをどう作るかということです。 そこに音楽の人間味がかかっていると言えるでしょう。残念ながら、そこのところは楽譜では記すことは出来ません。だからそこのところは演奏家に委ねられているわけです。その表現の可能性は無限にあるのです。そこのところをヴェンゲーロフは教えてくれます。
ここで気を付けなければならないことは、音楽が表現志向の方に傾いてしまえば、恐らく「楽譜がする音符の通りの、音程と音量を、その指定の長さ分、正確に保つ」というところが 崩れる方向へ行くということです。だからそれは崩すということなのだけれども、それでも「楽譜が示す音符の通りにやっている」というギリギリのところを保って、 しかも生き生きした表現を目指すというところが、大事になると思います。(ギトリスみたいに崩してしまうのならば、或る意味、楽なのです。 ああいうのは、大老ベテランだから許される境地で。)
近年の音楽コンクールでは日本の音楽家は技術的には突出したものがあっていつも上位に顔を出すのだけれど、楽譜通りに正しく弾くことには長けているのだけど、音楽が目鼻立ちは整っているけれど表情が魅力 に乏しい人造美人みたいな演奏が少しづつ増えているように思います。そういう場合にヴェンゲーロフのアドバイスは 、とても役に立ちます。このレッスン映像でもアレクサンダー君の演奏の、最初はちょっと緊張して硬かった表情が次第にほぐれて赤みが差してくるのが分かって、聴いているこちらまで楽しくなってきます。
まあ純器楽をこういう風にストーリ―付けてイメージすることは、良し悪しがあるとは思います。しかし、ばっちり音楽にはまった時には最高ですねえ。吉之助も今後しばらくは、モーツアルトのこの曲を聴いた時には、「Queen is comming・・・」から逃れられそうにありません。
ですからここで急に伝統芸能の話に飛びますけれど、ここでヴェンゲーロフが言っていることは、まさに「音遣い」 の秘密そのものなのです。舞台の台詞というのは、台本に在る言葉をその通り発声すればそれで良いというものではないのですから、音遣いということを常に意識せねばなりません。
(H30・6・6)
本稿で紹介する映像は、2016年4月4日仏プロヴァンスで行われた 演奏会でのイヴリー・ギトリスの演奏で、曲目はクライスラーの「シンコペーション」。ピアノ伴奏はカティア・ブニアティシヴィリ。ギトリスは1922年の生まれなので、この時93歳。現在も演奏活動を続ける現役最古参の ヴァイオリニストです。
ギトリスは、大胆で個性的な解釈でよく知られています。特に小品は思い切ったアコーギクで、止まるように遅くなったかと思えば急に早くなる、 震えるようなヴィヴィラート、すすり泣くような濃厚なポルタメント、そこにまったく異なる曲の様相を見せ付けてくれて、面白いと云えば確かに面白い。 ただ、これから音楽を学ぶ人にはこういう演奏はファースト・チョイスで聴いて真似して欲しくないなあ(曲を散々聞いた後ならばとても勉強になるが)と思うアクの強さがあります。もっともギトリスも若い頃(1970〜80年頃)の録音を聞くと、結構しっかりした音楽を作っていたようです。しかし、歳取るに連れてだんだん個性が強くなって来て、吉之助の好みとしては、特に小品はジプシー・ヴァイオリンのような下卑た感じがちょっと苦手で、一時的に敬遠しておりました。
しかし、ここ最近のギトリスの小品には心惹かれるものがあります。ギトリスも93歳ともなると、アクの強さもほどよく枯れて来て、もはや神の領域に入ったようです。技術的には不安定なところがあるのは 、この年齢ならば仕方がない。しかし、その不安定ささえしみじみとした味わいに変えてしまって、今はただ音楽に奉仕する歓びが湧き上がって来 るだけです。枯淡の芸と云うべきですね。
クライスラーの「シンコペーション」は、お聴きになるとお分かりの通り、作曲当時流行していたラグタイムの様式を取り入れた洒落た小品です。シンコペーションとは、強拍と弱拍を変えてリズムに変化を与える 技巧を云います。インテンポ気味にサラッと早く弾かれると曲の面白さがサッパリ出ません(そう云う演奏が少なくないようです、誰のとは言わないが)が、ギトリスの演奏を聞くと、 全体的にのっそりしたテンポに大胆な緩急、時にリズムを突っかけるなど、ラグタイムの様式 をこれほど楽しませる演奏はありませんね。孫娘のようなブニアティシヴィリがいい サポートを付けています。
(H30・4・30)
先日、プッチーニの歌劇「ラ・ボエーム」を久し振りで見たのですが、このオペラは観客を泣かせるように出来た良い世話物オペラですねえ。音楽史的には「ヴェリズモ(現実主義)」と言いますが、歌舞伎で云えば「直侍」みたいな世話物です。そう云えば「直侍」の余所事浄瑠璃も、「ラ・ボエーム」の第2幕・カフェ・モミュス前の大通りを軍楽隊が行進するようなものです。第2幕は大通りの喧騒やムゼッタの叫び声が煩いですが、 恋人たちを甘いムードに浸らせないように、プッチーニはわざとそうしているのです。「直侍」の清元はしっとりしているけれども、余所事浄瑠璃が表現するもの もそのような喧騒です。
ところで今回紹介するのは、1991年9月23日メット(メトロポリタン歌劇場)のガラ・コンサート(指揮はジェームズ・レヴァイン)での映像で、「こうもり」第2幕の舞踏会の余興で、ゲストのルチアーノ・パヴァロッティ(ロドルフォ)とプラシード・ドミンゴ(マルチェルロ)が「ラ・ボエーム」第4幕の二重唱「ああミミ、もう君は帰ってこない」を披露するという趣向です。2大テノールの共演、しかもドミンゴがバリトン・パートに回ったところがこの時の大ご馳走であったわけですが、約30年後の現在ではすっかり老ベテラン のドミンゴがバリトンを歌うのはごく当たり前のことになってしまいました。(それにしてもドミンゴは息の長い ご活躍で、ホントに驚嘆させられます。ちなみにパヴァロッティは2007年に死去。)客席には二人のロドルフォの相手役を何度も勤めて来たミレルラ・フレー二の姿が見えます。彼女が20世紀最高のミミ歌いだったと思います。
二重唱「ああミミ、もう君は帰ってこない」は、 ボヘミアンの、詩人のロドルフォと画家マルチェルロが、別れてしまったそれぞれの恋人(ミミ、ムゼッタ)のことが脳裏にちらついて仕事が手につかないと嘆く歌。(別稿「死への憧れ〜ボヘミアンの生活」を参照ください。)2大テノールの共演による2重唱は、ちょっと柄が大きい感じかも知れませんが(まあそれは仕方のないことで)、しかし、音楽的には情感が申し分なく、プッチーニの繊細なメロディー が醸し出す青春の甘い痛みがジーンと心に浸みます。音楽が入るとパッとその役に成り切るところも、当たり前と云えば当たり前ですが、さすがです。レヴァインの指揮も オペラにおける世話物のツボを心得たもので、軽やかな味わい(テンポの緩急の微妙なところ)をよく表現しています。「ひどい絵筆だ」でドミンゴがスカーフを思わず舞踏会のお客に投げつけてしまって謝る場面はご愛嬌です。
(H30・4・3)
ティト・ゴッビ(1913〜1984)はイタリアのバリトン歌手、演技派でアクの強い役を得意としました。ファルスタッフやイヤーゴなどはホント録音だけで聴いても見事な歌唱ですが、ゴッビの歌唱の良いところは声質だけではなくて、言葉・特に子音が明瞭なことで、だから歌の切れ味が抜群に良い。アクの強い性格的な役どころでは、これが効きます。マリア・カラスと共演した「トスカ」第2幕の映像が遺されていますが、カラスとの丁々発止の駆け引きは手に汗を握るほどにリアルで、これが音楽芝居(オペラ)であることさえ忘れてしまいます。しかし、その真実味は顔の表情など演技から来るものももちろんありますが、歌手なのだからそれはやっぱり歌唱から来るものなのです。
演出家ミヒャエル・ハンぺの本に出て来る話ですが、ゴッビは、歌唱の言葉を明確にするために、ワイン・コルクを口に咥えて歌を唄う、それで言葉が明瞭に聞き取れるまで徹底的に練習をしたそうです。「台詞には、観客に聞こえなくてはならない単語が二つある、これだけは必ず観客に聞き取れるようにすること」とも、ゴッビは言っています。これはまったくお芝居にも通じることですね。
本稿で紹介するのは、プッチーニの歌劇「トスカ」第1幕幕切れのデ・デウムの場面で、これは1958年多分BBCのスタジオ収録。(チャールズ・マッケラス指揮ロンドン響)時はナポレオン戦争の時代、ローマの聖アンドレア・デ・ヴァレ教会で礼拝のテ・デウムが響く中で、警視総監スカルピアが歌姫トスカへの淫らな想いを歌うという、敬虔なキリスト教信者もゾクゾクしちゃう、数あるオペラのなかでも最高にインモラルな場面のひとつです。ゴッビのスカルピアのこの場面は世評が高いせいか、この映像の他にもテ・デウムの場面だけを撮ったフィルムがいくつか存在します。
この場面を歌舞伎に例えるならば、「新薄雪物語」の清水寺境内で桜の花びらの舞い散るなかで、薄雪姫と左衛門の若いカップルが悪人秋月大膳の陰謀に巻き込まれる、あの「花見」の場面です。「こりゃ咲いたわ、桜が、咲いた、咲いた」と大笑いする大膳こそ、歌舞伎のスカルピアと云うべきですね。
(H30・3・8)
ここで紹介するのは、1988年8月25日にタングルウッドで行われた名指揮者であり作曲家でもあるレナード・バーンスタイン70歳祝賀演奏会に出演したヴィクター・ボーガ(ボーグと の表記もあるようですが、ここは引用映像の表記に準拠します)のパフォーマンスです。ボーガ(1909〜2000)はデンマーク生まれのユーモリストで、ピアノが大変に上手くて、クラシック音楽ネタのコントで大いに笑わせてくれま した。ボーガは日本ではあまり知られていないようですが、欧米では今でも根強い人気を持っている方で、Youtubeで検索してもたくさん映像がアップされています。
ボーガがこんなことを言いはじめます。ある日私はワーグナーの家にいる夢を見た。そこでワーグナーが言うには、君はタングルウッドへ行くことになる、レニーの誕生日を祝うんだ、そこで私が彼の為に曲を書いたから、その時にこれを弾いてくれたまえ。そこでボーガが弾いたワーグナーの新曲?がこれ。この面白さは聴いてみなければ分かりません。
ところで最近のテレビでよく見るお笑い芸は、笑いの質が低くてどうも好きになれません。ボーガのようにウィットに富んでクスッと笑ってしまう上品な笑いが、ほとんど見られませんねえ。この種のクラシック音楽ネタは、観客に多少でも知識がないと面白さが伝わりにくいところがあると思いますが、欧米社会ではまだまだコモンセンスとしてのクラシック音楽は健在なのでしょうかねえ。そうならばいいのですが、多分、 欧米でもクラシック音楽離れは起きており、次第に厳しい状況になって来ているだろうと思います。ボーガが「コメディアン」ではなく、「ユーモリスト」と呼ばれて今も愛されているのも、こういう背景があるからなのでしょう。日本にもその昔は歌舞伎や浄瑠璃ネタのジョークがたくさんあったはずですが、そういうものは共通の地盤を失ってしまったようです。これはちょっと残念です。
(H30・2・13)