(TOP)       (戻る)

吉之助の音楽の雑談1


○ロッテ・レーニアの「海賊ジェニー」

「三文オペラ」(ベルトルト・ブレヒト脚本、クルト・ワイル音楽)の初演は1928年8月31日ベルリン・シッフバウアーダム劇場でのこと。前評判では一週間も持たないだろうと言われていていました。初日の幕が開いた時は観客の反応は冷ややかで・この上演は失敗だと 決め込んでいる雰囲気だったそうです。しかし、芝居が進むに連れて客席が熱くなって来て、「大砲の歌」以降は何をやっても大受けで、初演は歴史的な大成功となりました。ベルリンの高名な批評家アルフレート・ケルは初日の批評の最後の段落の小見出しを「彼女は誰?」として、次のように書きました。

『プログラムには娼婦たちと書いているが、娼婦は 4人の女優が演じている。そのうちのひとりはミュンヘンから来た女優らしい。この女優がとても素晴らしいのだ。素晴らしく歯切れが良い。ここに大書しておこう。 』 

印刷ミスでプログラムに彼女の名前が空白で抜け落ちていた為に、ケルは彼女の名前が分からなかったのです。その女優がクルト・ワイル夫人ロッテ・レーニアです。ただしミュンヘン出身ではなく、1899年ウィーンの生まれです。映画ファンはご存知 でしょうが、ジェームズ・ボンドの映画「007・ロシアより愛をこめて」(1963年)でボンドと恋に落ちるロシア・スパイの・その冷酷な女上官を演じたのがレー二アです。

ここに紹介するのはウィルヘルム・パブスト監督の映画「三文オペラ」(1930年)のなかでレー二アが歌う「海賊ジェニー」です。もしかしたらこれを拙い歌唱だなと感じる方がいるかも知れませんので言っておきますが、これはある部分は歌でもあり・ある部分は台詞でもあり、どっち付かずに歌と台詞の間をユラユラ揺れ動いているのです。ブレヒト・ソングは、歌ではありません。完全に歌ってしまっては駄目なのです。 と言って完全な台詞でもない。レーニアの「海賊ジェニー」を聴くと、そのことが感覚的に分かります。これはブレヒト・ワイルのオペラ批判(あるいはオペレッタ批判)であることは「音楽ノート」の方で触れましたので、それをご覧下さい。ブレヒトは「高められた会話が普通の会話のたかまりであったりしては決していけない」と言っています。吉之助が連想することは、黙阿弥物のいわゆる七五調のツラネ「月も朧に白魚の・・・」もそういうものだということです。「三人吉三・大川端」の面白さが様式美だと思っている限りは、決してそこにドラマは生まれません。レーニアの「海賊ジェニー」は、写実に歌う黙阿弥の七五調を考える為の良いヒントを与えてくれます。(黙阿弥の「七五調の台詞術」をご覧下さい。)

「今日に至ってもなお、ニューヨークのド・リス劇場のわたしの楽屋に、昔のベルリンっ児が訪れてきて、「まだ昨日のことのように覚えていますよ。何て時代だったんだろう!」「何て時代だったでしょうね。」と言ってわたしは うなずく。(中略)あの時の気違いじみた日々のことを考えると、あの劇場プログラムの空白のことが頭に浮かんでくる。すると時々、あの芝居に出ていたとわたしは自分で思い込んでいるだけではないのかしらと考えてしまうことがある。』(ロッテ・レーニアの回想:「何て時代だったのだろう」・1955年)

幕末(1850年頃)の封建体制崩壊寸前の江戸と・1920年代のベルリンの雰囲気のどこが似るのか、 そのことは良く考えてみる必要がありますが、長くなるので・これは別の機会に。

(H25・12・24)


○バーンスタインのリハーサル風景

今回紹介するのはレナード・バーンスタインのショスタコービッチの交響曲第5番・第3楽章のリハーサル風景です。(オケはロンドン交響楽団、1967年 、途中の解説で出てくるのはアイザック・スターン)この映像はとてもインパクトがありますねえ。バーンスタインの気迫がビンビン伝わって、ショスタコービッチの音楽が心に痛く突き刺さるようです。バーンスタインみたいに音楽と一体になってオーケストラを熱く指揮できならなあ・・などということは誰でも一度は考えると思いますが、鉛筆持って真似して 振ってみれば分かりますけれども(吉之助は家で音楽を聴く時はよくやりますが)、この振り方は吉之助ではとても息が持ちません。リハーサル中ぶっ通しでこの調子ではない と思いますが、アーッ!とかガーッ!とか・盛んにオーケストラに気合いを入れながら・この振りを続けるのだから、畏れ入ります。

感情を込めて音楽を奏でようと気を入れると、自然と音楽のリズム・旋律の起伏に合わせた呼吸になってしまい勝ちなものです。そうすると息が続か なくなって・脳が酸欠気味になることが往々にしてあります。特にタタタ・・と早いリズムが続く場面には音楽に合わせるとつい呼吸が浅くなり勝ちで、下手をするとフラフラして・引っくり返る危険さえあるので、気を付けなければなりません。(吉之助は鉛筆指揮していて一度引っ繰り返ったことがあります。)このような場合には音楽から意識を放して・息をぐっと深く取るのです。身体が取っているリズムと全然違うリズムで深く呼吸をするように意識するのです。「音楽から意識を放す」と云うと、「フリをする」というか・手抜きをするか・嘘しているように勘違いする方がいると思います。外面的には似たところがありますが・そうではなくて、これはむしろ身体を第三者的な意識でコントロールするようなもので、結果的に演奏も適切に制御できます。音楽では息継ぎはもっとも大事な要素なのです。(これは舞踊でも同じだと思います。)

バーンスタインも内面では緊張を緩めつつ・勘所で巧く息を深く取って振っているに違いないのですが、それにしてもバーンスタインはテンション高いですねえ。吉之助の鉛筆指揮ではこの振りでどこで息をどう取れば良いのか・未だに分かりません。これはバーンスタインの天才と 人並みはずれた心肺能力あってこそ出来る振り方であると思います。こういう指揮を続けていると負担が大きくて身が持たない・長生きできないと思いますが、バーンスタインは享年72歳だから・長生きした方だとも言えますかねえ。

(H24・12・15)


○マーラー・プレイズ・マーラー

発明王エジソンが蓄音機を発明したのは1877年のこと。その後1925年に電気式録音が実用化されるまで(アコーステイック録音の時代)は、録音時間が制約されましたし・その音質もとても貧しいものでしたから、ピアノ音楽の場合はピアノ・ロールでの記録の方が好まれたようです。ピアノ・ロールはロール紙にピアノのタッチを記録するオルゴールみたいなものと考えても良いですが、いろんな記録方式があって・多段階でピアノの微妙なタッチを記録するもの、ペダリングも記録するとても精巧なものがありました。電気録音以後ピアノ・ロールは急速に廃れますが、ピアノ・ロールでしか聴けない演奏家や曲目もあって、決して馬鹿には出来ません。今回紹介するのは、グスタフ・マーラーが自作の交響曲第5番の第1楽章・葬送行進曲をピアノ独奏したもの(前半部分)です。正確な演奏時期が分かりませんが、恐らく渡米した時期の1907年か・9年のものと思います。マーラーは1911年ウィーンで亡くなりましたから、ピアノ演奏でのアコーステイック録音がごくわずか存在するくらいなので、このピアノ・ロール録音はとても貴重です。

言うまでもなくマーラーは19世紀末から20世紀初頭の最も重要な作曲家のひとり・現代においては最も人気のある作曲家ですが、存命中はむしろ指揮者として評価された人であり、ウィーン・オペラをはじめ各地で優れた解釈者としての成果を挙げてきた人でした。このピアノ・ロール録音ではマーラーの自作の解釈が聴ける (しかもステレオで聴ける)ということでとても興味があります。ちょっと聴いただけで分かることは、テンポがいくぶん早目であること・拍を正確に取っていて・造型がとてもスッキリしていることです。感情ののめり込みを排し、客観的に努めている感じがします。恐らくマーラーの行き方は20世紀初頭の芸術思潮である新即物主義(ノイエ・ザッハリッヒカイト)の流れにあるものでしょう。現代で聴かれる演奏 、誰でも良いですが・例えばバーンスタインの方がずっと振幅が大きく・主情的であり・ロマンティックに傾いている感じがします。(ノイエ・ザッハリッヒカイトは「歌舞伎素人講釈」においては最重要キーワードであることはご承知の通り。)

1907年にマーラーがメトロポリタン歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」を指揮した時そのテンポは誰よりも早く、当時の批評家はその演奏を情緒に欠けるとか・ロマンティックでないと評したそうです。マーラー研究家アンリ-ルイ・ド・ラ・グランジュはこのことを例に挙げて、「マーラーは遅いテンポを決して容認しませんでした。早いテンポで演奏することがマーラー演奏の伝統です。正直に言えば、マーラーがバーンスタインの演奏を聴いたら、彼はバーンスタインにまったく賛成しなかったでしょう。彼が持っているのは別の種類の激しさなのです。」と言っています。(1986年10月来日時、「レコード芸術」誌のための諸井誠氏との座談会)まあ 作曲者の解釈だけが唯一無二のものではなく、解釈の可能性は人それぞれのことですが、ピアノ・ロールでのマーラーの演奏を聴くと、ド・ラ・グランジュの言うこともなるほどと思うところがありますね。

(H24・12・3)


○ラフマニノフの弾く「愛の喜び」

本稿で紹介するのはセルゲイ・ラフマニノフがピアノ独奏用に編曲した「愛の喜び」(編曲年代:1925年、原曲はもちろんフリッツ・クライスラーのヴァイオリン曲)を 自ら弾いたSP録音です。作曲家ラフマニノフは20世紀前半の最も重要なピアニストのひとりでもありました。この「愛の喜び」には名人芸的技巧が盛り込まれて・アンコール・ピースに打って付け。(なぜもっと弾かれないのか不思議。)と同時に、原曲に大胆なアレンジを試みていて、鐘の響きを想わせる高音のトレモロなどいかにもラフマニノフらしい特徴も出ていて 、これも面白いところです。そして「ラフマニノフは甘いムードで酔わせて・ちょっとハリウッド映画音楽的」という一般的なイメージも決して裏切らない。そのラフマニノフのイメージはちょっと違うと言いたいところですが、こういう曲ではそんなことは言うだけ野暮というものですね。(ラフマニノフには同じくクライスラーの「愛の悲しみ」編曲版・1921年もありますが、こちらは意外と控えめなアレンジです。)

ここで紹介する録音は1925年・作曲して間もなく録音されたRCAのSP録音ですが、それにしても素敵な演奏だと思いますねえ。例えば57秒〜1分40秒辺りの・いかにも物憂げな和声の揺らぎが実にラフマニノフだと思いますし、3分26秒〜4分30秒辺りの旋律の変転は名前を伏せて聞かせたら「弾いているのはフリードリヒ・グルダか?」と勘違いする人が絶対出そうな絶妙のジャズ・フィーリング。ラフマニノフはロシア革命の後に祖国を離れ、1918年にアメリカに亡命 して以後ここで活動を行なうことになるわけですが、アメリカでの音楽的な影響がここに見えるということでしょうか。録音ではラフマニノフの愉しそうな鼻歌もかすかに聞こえます。

(H24・11・11)


○栴檀は双葉より芳し

本稿で紹介する映像でピアノを弾いている可愛らしい少年は、9歳の(恐らく1967年)のイーヴォ・ポゴレリッチです。ポゴレリッチは1958年旧ユーゴスラビアの首都ベオグラードの生まれ。(現在はクロアチア国籍)7歳の時にピアノを始めたそうですから・この時は3年目のこと 。その抜きん出た才能を認められて・11歳でモスクワに留学することになります。映像はベオグラードでの放送局でのスタジオ収録だそうです。このショパンのワルツの演奏は「教えられた通りにしっかり弾いてます」という素直さのなかに・ 子供らしい感じも多少ありますが、クリスタルで粒が揃った美しい響き・しっかりした打鍵を聴けば、これは確かにポゴレリッチ。現在のポゴレリッチの響きの原点がここにあったのであるなあ、吉之助のピアノ3年目の時なども思い出して(比較するのもアホらしいですが)、ホントに「栴檀は双葉より芳し」だなあとつくづく思いますねえ。それにしてもポゴレリッチの才能も苦労なしに・そのままスクスク伸びてきたわけではありません。両親と離れてモスクワでの留学生活はもちろん有益であったわけですが、いろいろ苦労や悩みが絶えなかったようです。

ショパンのワルツ第11番変ト長調(作品70-1)は近年のポゴレリッチはレパートリーにしていないように思われますが、この映像でのイーヴォ少年の演奏ですけれど、フォルム感覚がしっかりしていることに感心させられます。3部形式の小品ですが、まず主部でのリズム感覚が抜群に良いですね。中間部の旋律は普通はちょっとテンポ遅めにして優美に感情込めて歌わせたくなるところで、そうすると両端部と乖離が生まれて・3部形式の締め付けが弱くなることが多いものです。イーヴォ少年はそこのところをキュッと引き締めています。中間部がそっけないということではなく、甘い情緒に浸るという感じがないということです。 そして再び主部にさりげなく戻る。形式感がしっかり制御できているのです。先生の指導も良いのだろうと思いますが、これはやはり持って生まれたフォルム感覚の賜物だと思います。現在のポゴレリッチを聴きますと楽譜の指定無視・テンポ緩急のデフォルメがきつくて・フォルム崩しの典型みたいに思う方が少なくないと思いますが、それも基盤にこのようにしっかりしたフォルムの制御感覚があってこその確信犯なのです。 ・・と云うか正しいフォルムを探し求めようとする強い思いが現在のポゴレリッチの演奏にはある。その原点が9歳のイーヴォ少年の演奏にあるということでしょうか。

ところで話がポゴレリッチから離れますが、ショパンのワルツ第11番変ト長調(作品70-1)中間部の響きのことですが、これは吉之助の推察ですが、オーストリア周辺の民族楽器であるチターの和音の遣い方の影響があると思っています。残念ながらいろいろ文献で調べてもそういうことを指摘しているものがないので、あくまで吉之助の個人的妄想と申し上げておきます。チターの響きを感じるのは、同じくワルツ第12番ヘ短調(作品70-2)の中間部、第13番変二長調(作品70-3)の主旋律の後半部分です。偶然だと思いますが、奇しくもすべて作品70・遺作であって、演奏会では何度も取り上げながら・ショパンが何故か生前に出版せず・手元に置いて封印していた作品群です。第12番についてショパンはこれを「プティット・ヴァルス」と呼んで愛し、手紙のなかで「どうぞ内密にしておいてください。私はこれが出版されるのを望んでいません。」と書いているくらいです。作曲年代は三曲とも異なり、順番に1835年・1843年・1829年と推定されています。ワルシャワを離れた若きショパンのウィーン滞在は1830年11月から翌年7月までの短い期間でした。(その前に1829年のウィーンへの演奏旅行あり。)ちょうどこの頃がウィーンでチターが大流行し始める時期に当たります。またヨハン・シュトラウス1世(父)やヨーゼフ・ランナーが活躍した時期でもあります。当時のショパン・リストなどもそうですが、彼らはヨーロッパ各地を演奏旅行して回りました 。当時の旅行は現在の世話しない旅行と違って・ゆっくりのんびりしたもので・しばらくその地に滞在して・土地の人々の生活や音楽その他の文化に接し、そこからいろいろ豊かなものを吸収していくだけの十分な時間 的余裕があったのです。そうした豊かな民族的要素が彼らの音楽のなかに自然に反映していったわけです。これらの作品の和音の遣い方にウィーンのチター音楽の影響が見えるというのが吉之助の 妄想です。演奏によっては分かりにくいですが(上記イーヴォ少年のでも分かりにくいですが)、吉之助の妄想を確信に近いものにしてくれるのはクラウディオ・アラウの演奏です。 特に第12番の中間部でのアラウはチターの弦を弾(はじ)く感覚までイメージしているように感じます。アラウ本人に どう思っているか聞きたかったところですが。

ショパン:ワルツ全集(クラウディオ・アラウ)

(H24・11・4)


 (TOP)         (戻る)