大坂歌舞伎旧跡散策・その6
野崎・慈眼寺(野崎観音)〜「新版歌祭文・野崎村」の舞台
*大坂歌舞伎旧跡散策・その5:新清水・浮瀬亭跡の続きです。
1)深野池のこと
「新版歌祭文(野崎村)」で有名な野崎の慈眼寺(野崎観音)(じげんじ、大阪府大東市2丁目7−1)へ行ってきました。芝居好きな方ならば、「野崎村」のあの幕切れの光景を思い出すと思います。野崎詣りは、屋形船で向かう川路と駕籠で向かう(または歩く)陸路とがあるはず。そう思って地図を調べてみると、現在の野崎周辺には、屋形船で行けそうな大きな川も、池もないじゃないの。あれっ?野崎詣りは屋形船で参ろ・・じゃなかったっけ?川や池はどこへ行った?
上の写真は、「新版歌祭文(野崎村)」の幕切れの舞台面。
そこで調べてみると、確かに昔は近くに川や池があって、芝居にある通り、野崎観音のすぐ傍にまで屋形船が行けたのです。縄文期には、大阪湾は現在の大阪平野の奥深くにまで入り込んでいました。それが淀川・大和川などによって土砂が運ばれて次第に縮小していき、淡水湖化して「河内湖」(かわちこ)となり、それがさらに縮小して、江戸時代には深野池(ふこのいけ・ふこうのいけ)と新開池(しんかいいけ)という、大きな二つの池になったのです。下の古地図をご覧ください。大坂から野崎までは2里ほどの距離がありましたが、川と池を経由しながら、毎日船が行き来していたそうです。しかし、現在は干拓されてしまって、深野池の名残りはほとんど残っていません。
ところで、江戸時代の野崎詣りは、別名を「悪口祭り」とも言われていました。道を行く者と船で行く者が罵り合いをするのです。例えば船から陸に向かって、「お前、船に乗る銭がないんかい。可哀そうに」と声を掛ける。陸から船へ「足が悪くて歩けへんのか、悔しかったら歩いてみんかい」と言い返すというようなものです。「どんなに激しい罵り合いになっても、決して本気で怒ってはならぬ」という不文律があったそうです。これを「ふりうりげんか(振り売り喧嘩)」と云いました。これが野崎詣りの名物でした。現在では、深野池がなくなって、屋形船もなくなってしまって、こうした風物詩もなくなってしまいました。
歌舞伎のなかで「悪口祭り」をやる場面はあまり出てきませんが、「女殺油地獄」の徳庵堤の場に、道を行く者と船で行く者が罵り合う場面がちょっとだけあります。やはりこのような場面がないと、野崎詣りという感じが出ませんね。徳庵堤は、大坂から野崎への道の、ちょうど中間地点に当たるでしょうか。しかし、地図を見ると、現在の徳庵周辺にもやはり川が見当たりません。時代が変わるにつれて、良かれ悪しかれ、景色も変わって、人の生活もすっかり変わってしまいましたねえ。
上の写真は、「女殺油地獄」の序幕・徳庵堤の幕開けの舞台面。堤を歩く参詣客が客席に背を向けて向こうの方を見ていますが、これは遠くの景色を眺めているのではなく、堤の下を流れている寝屋川を行く屋形船に乗った野崎詣りのお客を眺めているのです。
2)慈眼寺(野崎観音)を行く
大東市野崎までは、大阪市内のJR京橋駅から学研都市線で20分弱の距離です。JR野崎駅から慈眼寺(野崎観音)まで参道が真っすぐに伸びています。毎年5月1日から8日までの無縁経の御開帳に本尊十一面観音にお参りするお祭りがあるそうで、JR野崎駅から約700M続く参道に、130店以上の露店が立ち並び、十万人を超える人々が押し寄せるそうです。吉之助の行った日は平日の小雨模様で・人通りも少なく、落ち着いて見学ができました。
上の写真は、JR野崎駅前の久作橋(きゅうさくばし)です。別に「新版歌祭文(野崎村)」に係わる旧跡ではありませんが、古地図を見ると、その昔はこの辺りまで深野池が迫っていたと思われるので、百姓久作の住家があったとすれば、ひょっとするとこの近くになるかなあと思って写真を撮ったのです。
写真上は、慈眼寺(野崎観音)への参道。山の中腹にお寺が見えますね。
写真下は、慈眼寺(野崎観音)の山門です。
写真下は、慈眼寺から大阪平野を見渡す。多分その昔はここから深野池が見えたのでしょうね。
下の写真は、慈眼寺(野崎観音)の本堂です。ご本尊は十一面観世音菩薩です。
下の写真は、慈眼寺境内にある、芝居に因んだお染久松の比翼塚です。お光の碑もあって欲しいところなのだが。
せっかく野崎まで来たので、かつての深野池の名残りらしきものがないかと思って、寝屋川河畔まで歩いてみたのですが、このくらいの川を屋形船が行き来していたのでしょうかね。下の写真の右方向が寝屋川が万が一氾濫した時に備えた調整池に放流するための水門です。
かつて深野池があった一帯は干拓されましたが、土地が低いので・その後も寝屋川が氾濫して被害を受けることがあったようです。このため対策として深北緑地公園内に調整池が作られました。下の写真の池の名前は「深野池」と云いますが、かつての深野池が縮小して残ったものではなくて、人工池だそうです。いつの時代でも治水は重要な課題ですね。
*写真は、令和5年7月5日、吉之助の撮影です。
(R5・7・30)