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江戸歌舞伎旧跡散策・その11

隅田川・百本杭跡

*江戸歌舞伎旧跡散策・その10:鼠小僧次郎吉のお墓の続きです。


1)隅田川・百本杭跡

「百本杭」とは、現在のJR総武線鉄橋辺りの隅田川東岸の川のなかに、護岸のために打たれていた杭のことです。百本杭跡の立札は、JR両国駅西口からすぐ、両国国技館前にある、パールホテル両国(墨田区横綱1丁目)前の敷地に立てられています。この場所からであると、現在の隅田川の流れまで60mくらい離れているわけですが、そこで昔の地図を見てみると、江戸の当時は大体ここら辺が隅田川の川岸であったようです。

下の写真は墨田区の百本杭の立札(上)の拡大ですが、最後の浮世絵師とも云われる小林清親作「千ぼんぐい(百本杭)両国橋」の絵で、明治13年頃はこんな景観であったようですね。この辺りは川の流れも緩やかなので、鯉の釣り場として有名で多くの釣り人で賑わったそうです。

下の写真は、安政年間頃の古地図です。隅田川が旧安田庭園を過ぎた辺りから湾曲して、総武線鉄橋辺りまでの川岸が大きく凹んでいます。ちょうど現在の両国国技館の真ん前(国技館通り沿い)に当たります。このままであると川の流れで堤防が壊されてしまいそうなので、水勢を弱めるために木杭をたくさん打ち込んだということなのです。現在は埋め立てられて・景観もすっかり変わって、隅田川はスムーズに流れています。ここから隅田川は、約300m下流の両国橋へ向けて大きく曲がります。

下の写真は現在の百本杭(埋め立てられて現存せず)ですが、アングルとしては、多分上掲の小林清親の絵に近いと思います。手前に総武線の鉄橋があって、その向こう(約300mほど下流)に両国橋が見えます。なお江戸期の両国橋は現在よりも30mほど下流に位置しました。

2)黙阿弥の「十六夜清心」の稲瀬川百本杭

黙阿弥の「花街模様薊色縫」(さともようあざみのいろぬい・通称「十六夜清心」・初演は安政6年・1859・2月江戸市村座)の序幕に稲瀬川百本杭の場が出て来ます。便宜上場所は鎌倉を借りており、稲瀬川とはもちろん隅田川のこと、花水橋とは両国橋のことを指しています。脚本には、

本舞台三間(げん)の間中足(ちゅうあし)の二重。石垣の蹴込み。上手へ寄せて百本杭の波除(なみよけ)。舞台前一面に流れの心。二重上(かみ)の方(かた)に辻堂の後ろを見せ、下の方は柵矢来(さくやらい)、見越しの松、すべて百本杭の体(てい)。

と指定されています。ここで破戒僧の清心と遊女十六夜が道ならぬ恋ゆえに身投げをするところからドラマが始まります。

上は、「十六夜清心」稲瀬川百本杭の舞台面。

3)黙阿弥の「三人吉三」の大川端

黙阿弥の「三人吉三廓初買」(さんにんきちさくるわのはつがい・初演は万延元年・1860・1月江戸市村座)で、お嬢吉三が「月も朧に白魚の・・」の名セリフを聞かせる大川端も、百本杭とは明記されてはいませんが、ほぼこの場所です。脚本には、

本舞台四間中足の二重。石垣波の蹴込み、上の方に四尺ほどの庚申堂、賽銭箱、軒口に青面金剛と記せし額、この脇に括り猿を三つ付けし額、うしろ練塀、斜(はす)に橋の見える片遠見(かたとうみ)、すべて稲瀬川花水橋北川岸の体。

と指定されています。つまり両国橋から300mほど上流の、この場所(百本杭)ということです。「斜に橋の見える片遠見」と記されているところを見ると、初演の舞台面は現行とは若干異なる構図であったようですね。(上掲の小林清親の画に近い舞台面を想像すれば良いと思います。)なお初演本にはお嬢が杭に片足をかけると云うト書きがありませんが、現行歌舞伎でお嬢は杭に片足をかけてツラネを云います。この杭は百本杭の杭だと云う説がありますが、これはそのように考えて宜しかろうと思います。

*写真は令和4年3月11日、吉之助の撮影です。

(R4・3・20)


 

 

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