赤穂義士の討ち入り・本所吉良上野介邸跡
江戸城内・松の廊下での刃傷事件(元禄14年・1701・3月14日)当時は、吉良上野介は江戸城にほど近い呉服橋の屋敷を拝領していました。しかし、事件の後、赤穂浪人が討ち入りするとの噂が流れて近隣の大名屋敷から不安の声が出たとか、浅野贔屓の声が世間に満ちて来ると将軍綱吉も上野介のことが次第に疎ましくなって遠ざけたとか、いろいろ説があるようですが、元禄14年9月に幕府は屋敷替えを命じ、上野介は隅田川の東の本所松坂町の屋敷を拝領して移り住みました。赤穂浪人から見れば、これで格段に討ち入りが容易になったわけです。実際に大石内蔵助以下47人の討ち入りがあったのは、元禄15年(1702)12月14日のことですから、転居して1年3ヶ月くらいしか経っていません。
旧本所松坂町、現在の墨田区両国3丁目付近(回向院傍、両国小学校の西側辺り)は往時とはすっかり景観が変わってしまいましたが、吉良邸のごく一部が東京都指定旧跡・本所松坂町公園として残されています。下に現在の地図に吉良邸の凡その位置を赤線で示しました。現地を見てみると、思っていた以上に、敷地は広大です。記録では、東西72間(約132m)、南北34間(約62m)、2550坪(約8400u)あったそうです。屋敷正門は東側、今の両国小学校に面した方にあって、裏門はその反対側になります。
歌舞伎「土屋主税」(玩辞楼十二曲の内、初代鴈治郎が選んだお家芸)でその名が知られる土屋主税は、吉良邸北側のお隣りの住人でありました。討ち入り当夜に、高張提灯(たかはりちょうちん)を掲げて・吉良邸庭を明るく照らして、赤穂浪人たちの上野介捜索を手助けしたという逸話があるそうです。
下の写真が、本所松坂町公園(吉良上野介邸跡)。残っているのは当時の86分の1に過ぎませんが、これは地元両国3丁目町会有志が土地を購入して、東京都に寄付したものだそうです。毎年12月14日の討ち入りの日には、赤穂47士と(討ち死にした)吉良20士の両家の供養を行ない「義士祭」が両国連合町会主催で行なわれています。高家の格式を示す「なまこ壁」に、往時の面影が偲ばれます。
公園内の吉良上野介義央公像と、その横に「吉良公御首級(みしるし)洗い井戸」。
左は、マンションの敷地にある「吉良屋敷裏門跡」の立札です。真山青果の「元禄忠臣蔵」連作のなかに「吉良屋敷裏門」と云う戯曲があります。討ち入りの際は、大石主税以下24名が門を叩き壊して乱入したとのことです。
下の写真は、前原伊助宅跡の立札。吉良邸南側、裏門のすぐ近くに当たります。前原伊助は、赤穂47士の一人です。金奉行を勤めたので商才に長けていました。刃傷事件後は江戸急進派として単独行動をとり、吉良屋敷裏門近くの、ここ本所相生2丁目に移り住んで、町人体で「米屋五兵衛」と名を変えて開業して、吉良家動向の探索を続けたと云うことです。なるほど討ち入りも簡単に実行できるわけではない。こう云う人たちの地道な努力の積み重ねの結果であったわけですね。
なお吉良上野介は、歌舞伎ではすっかり大悪人に仕立てられてしまいましたが、領地である三河吉良(現在の愛知県西尾市吉良町)では名君として評判が高く、領内の治水事業などで功績を収め、町の人は今でも「吉良様」と呼んで敬っているそうです。
*写真は令和4年3月11日、吉之助の撮影です。
(R4・3・18)